4話

 どうやら、菜美さんは本当に両親にはうまいこと言っておいてくれたらしい。配達の予定時間を大幅に遅れて帰ってきた僕に対しても、両親からは特に言及されることはなかった。


「……なんか外堀が着々と埋められてるようで、逆に怖いな」


 いつも通りの時間に登校して、スクールバックを机に置く。すでに登校して近くの席に座っていた久志が立ち上がって僕の傍に寄ってきたけど、持っていた携帯の画面を見せつけてくるその笑顔が怖い。


「おいおい見たか昨日の配信! いや、二分もかからず終わったんだけどさ、その二分の間にどれだけの素材があったか!」

「あー……うん、見た見た。すごかったね」


 見ていない、などと言ったら今この場でその動画が再生されそうだったので、適当にそう流した。まぁ、嘘は言ってない。この目で見たのは確かだし。


「送ってくれた動画も見たよ……なんだっけ、十分でわかる芹沢なずなってやつ。まぁ……全部十分で収まってなかったけど」


 久志が自ら編集したという、芹沢なずなの配信の切り抜き動画。それを、僕は昨日家に帰ってから全部に目を通していた。有名どころの動画投稿サイトにあったそれは、それなりの再生数を稼いでいてちょっと引いてしまったのはまた別の話で。


「編集大変なんだぞ。基本的になずなちゃんはゲームへったくそだから、普通にゲームしてても耐久配信みたいになって一回の配信が長いし、しかもだいたい面白いからどこを切り抜くか困ってな」

「……だいたい叫んでるだけだったような気がするけど」


 ゲームをやっても、何をしてても。だいたいギャーとかキャーとか叫んでいて、人によってはやかましいだけの動画でしかなかっただろう。

 僕としては、懐かしい思いを感じる、郷愁を覚えるような動画だったんだけど。


「……いや、これ絶対僕だけだな」

「は?」

「なんでもない。それより朝っぱら声がうるさいよ。話す内容も内容なんだからもうちょい絞れ」

「え、うるさかった?」


 僕だけじゃなく、クラス全体に問うような質問は「うるせぇよ」「そういうとこだぞ」「また始まったなって思ってるよ」などなど、散々な返答をされていた。からかいと本当に疎ましく思っているかの半分半分ぐらいの感情が満ちているが、今に始まったことではない。

 オタク趣味を一切隠そうとはせず、それでも持ち前の明るさや人付き合いの良さで、久志はいつだってクラスの中心的な立場にある。欠点を補って余りある人徳があるからこそ成せることだ。

 ごめんごめん、といつもの軽い調子で周囲に謝罪する久志。そうして、僕の座席の前の椅子に座り、表情を変える。


「で、何かあったの?」

「……何かって、何が?」

「こっちが聞いてるんだよ。おまえが俺の趣味について興味持つの珍しいじゃん。ハマった、って割にはいつもより雰囲気暗いし。というかなずなちゃんの切り抜き動画見てテンション上がらないのはどういう了見だ?」

「おまえ、ほんとそういうところなんだよなぁ」


 性根はびっくりするほどよくできた人間なのに、発言がいちいち残念だ。


「……色々と面倒な事態になって、ちょっと気疲れしてるだけだよ」


 これまでの認識を簡単に覆されたせいで、自分の中の日常が揺らいでいるのを自覚する。

 知りたくなかった、なんて、微塵も思ってないけれど。


「お、おはよう……」


 ため息を吐きそうになる僕の耳に、静かな挨拶の声が聞こえてきた。教室に入り、傍にいる人にそっと会釈をしながら入ってきた咲沢はそのまま顔を俯かせて自分の席に座る。いつも通りの、変わらない光景だ。

 無視をされてるわけではない。現に、挨拶をされた教室入り口近くにいたクラスメイトは咲沢の挨拶に何も気負うことなく笑顔で返事をしている。それでも、誰一人として自分から咲沢へと話しかけることはない。


 クラスの全員が子どもの頃からの顔見知りばかりだ。彼らにとって、咲沢那奈とは「物静かな女の子」という印象しかない。人付き合いが苦手で、避けるように生きているようだからそっとしておいてあげようと。その付き合い方が、息をするようにできるようになっているだけのこと。

 その現状を、咲沢自身も決して嫌がっていたわけではないから、出来上がった関係性だ。仲間外れにしようだなんて悪意は、どこを切り取っても見つからない。

 本当は、元気で、よく笑って、大声を上げて感情を曝け出せる女の子だということを、僕以外には知らない。幼い頃に遊び、その頃の咲沢を知っている僕しか、憶えていない。

 その頃のように、今では電子の世界で注目を浴びていることを。芹沢なずなとして笑顔を振りまいていることを、みんなは知らないんだ。


「そっか。まぁ、なんかあったら相談乗るよ」


 そう言って席を立ち、去っていく芹沢なずなガチ勢である久志に真実を伝えたらどうなるか。馬鹿げた妄想をする前に、僕は一度大きくため息を吐いて気持ちを切り替える。

 教室の前方。比較的教壇に近い座席に座り、肩を丸めて少しでも目立たないようにしている咲沢の後ろ姿が見えた。

 彼女こそが芹沢なずななのだとこの教室中に言いふらしたところで、誰も信じてはくれないだろう。たとえ咲沢本人に実際に配信時の明るい声を出してもらったところで、「モノマネ上手だね」と褒められて終わる気がする。それぐらい、周囲の認識との差異が大きい。

 でも僕は、知っているから。この目で見たし、彼女の中に、芹沢なずなとして振る舞えるだけの骨子があるのを知っているから。

 それを知っている僕に何ができるかなんて正直わからないし、今でも荷が勝ち過ぎていると思うけど。

 それを知っている僕にしか、できないこともあるんじゃないかって、浅ましくも思っている部分もあって。


「……よし」


 小声で呟き、覚悟を決める。席を立ち、咲沢の席近くを経由して教室の外に出た。


 咲沢の机の上に、一枚のメモ用紙を置いて行ったことは、たぶん誰にも見られていないと思う。





 僕の通う学校には学食はあるけれど、残念ながら評判はあまりよくない。安い、早い、うまくはない。といった身も蓋もない評価をされていて、利用する人間は多くはなかった。

 ただ、週に一度だけその評価が覆る日が存在する。丼物フェアと呼ばれる全メニューが丼物に固定される催しがあり、その分内容が豪華というか、バリエーションに富んだものになる。その目新しさや「もしかしたらおいしいかもしれない」という期待を込めて生徒は食堂に赴き、期待を打ち砕かれたり砕かれなかったりするのだ。

 普段なら僕も久志や別の友人と共に、食堂にその期待を込めて行くのだけれど、今日だけは別行動だ。

 丼物フェアを忘れ、昼飯を買って来てしまったと嘘を吐き、僕は友人たちとは別れて屋上に向かう。相も変わらず、寒風吹き荒ぶこの季節に好き好んで屋上で昼食を取ろうとする人はいない。もしいたら、場所を変えなければいけなかった。

 僕が屋上に着き、日当たりが良いベンチに座り昼食の菓子パンの袋を開けていると、屋上の扉がそっと開かれた。

 冷たい風が彼女の、咲沢の前髪を揺らしてその不安げな表情を露わにする。分厚い眼鏡のレンズの向こうにある黒い瞳が、僕の姿を捉えた。


「……よう。突然ごめんな」

「ううん……大丈夫、だよ。むしろ、その……こっちこそ昨日はごめんね」


 僕と同じように、菓子パンの袋の手に提げた咲沢は相変わらず視線をあっちこっちと揺らし、僕と目を合わせようとはしない。


「それで、その……話って、何?」

「とりあえず……座れば?」


 ベンチに座っている僕の前で立ち止まり、話を促されても困る。その状態で話すのはさすがに落ち着かないし、話しづらい。僕の言葉に咲沢は小声で、辛うじて日本語になっていない何かを口にして、おずおずと僕と同じようにベンチに座る。距離は……限りなく遠い。まぁ、必要以上に詰められても反応に困るからいいんだけど。

 咲沢にだけ伝わるように置いたメモ用紙には、「昼屋上」と簡潔に書いていた。そんな不躾な内容にも関わらず、こうして咲沢は僕の隣に座ってくれている。

 ……まったく信頼されていない、ってことはないと思っていいのだろうか。


「まぁ、そんなかしこまった話をするわけでもないから、食べながらでもいいよ」

「う、うん」


 同じベンチで座っている以上、首を曲げるか体を動かすかしなければ、向かい合うことはない。横目でチラリと咲沢を見ると、彼女はおずおずと菓子パンの袋を開けて、中身に食いついていた。小さい口を小さく開けて、もぐもぐと咀嚼する様は人間というよりは小動物を思わせる。視線が一定せずにうろちょろする辺りも、その印象をより濃くしていた。

 しばらく、お互いに無言のままパンを食べる時間が続く。食べながら話そうなんて言ったけれど、僕はともかく彼女の食べるスピードではテンポ良く会話のキャッチボールができるほど口の中にスペースはなさそうだった。僕が二つ目の菓子パンを食べ終わる頃、彼女はようやく一つ目のパンの最後の一切れを口に入れた。

 僕の手元を見て、すでに昼食を終えているのを察したのか、慌てて咲沢は口に入れたパンを飲み込んだ。


「……そんな慌てて食べなくてもいいのに」

「い、いいよ。私、食べるの遅いから待たせちゃうし……それに、ちょっと緊張して、食欲ない」


 震えた声で、引きつった笑みを浮かべて、ぎこちなく言う。


「……そっか」


 何を緊張する要素があるんだ。そう、思わず言いそうになったけど、僕だって少なからず緊張はしていたからその気持ちはわかっていた。同じ緊張であっても、その質は異なるかもしれないけれど。

 こうして腰を据えて話をするのは、いつぶりのことだろうか。昨日も同じテーブルについて話をしていたとはいえ、菜美さんという第三者の存在があった。二人きりで、おそらく誰の邪魔も入りそうにない冬の屋上で話し込むのとはわけが違う。

 その緊張がバレないよう、浅く呼吸を吐く。


「どうして、Vtuberをやろうと思ったんだ?」


 単刀直入の質問に、咲沢は少しだけ目を見開いた。驚かせるつもりはなかったけど、なんだか面接みたいな質問になってしまっていて、一つ目から間違えたなと内心で後悔してしまう。


「いや、ほら。始めようと思っても、準備とか、そういうの色々と必要だろうし。僕も詳しくないからなんとも言えないけど、肉親がイラストレーターだからって普通、そう簡単に始められるものじゃないだろ?」

「うん……色々、必要なことはあるらしいね。私も、やっておいてなんだけど、詳しくは知らないんだ。必要な機材とかも、全部お姉ちゃんが用意してくれて……知り合いにそういうのが得意な人がいるって言ってて、その人と協力しながら話を進めてたみたい」


 視線は相変わらず合わないけれど、少しだけ慣れてきたのか、口調に淀みが少なくなってきている。


「元々は私じゃなくて、別の人を起用するって話だったらしいけど、興味があるならやってみるか?って、言ってくれて……そしたら、その……結構、うまくいったみたいで」

「……じゃあ、最初から、あのテンションでできたってこと?」


 昔みたいな。活発で、溌剌とした。元気な女の子のように。


「最初はうまくいかなかったよ。けど、その……自分でもよくわからないんだけど。なずなとしてなら、ああやって振る舞えるの。えっと、なんて言うのかな……自分じゃないっていうか、あんなかわいい見た目をした女の子なんだから、きっと元気にやってみても、許されるんじゃないかって思うと、自然と……ああなったの」


 咲沢が語る言葉の中に、どうしたって、違和感を覚えてしまう。

 許すとか、許されるとか、いったい何に対しての話なのか。


「えっと……その、引いた、よね」

「……何が」


 質問の意図が、意味が、本当にわからなくて。思わず低い声で問い返してしまう。


「だ、だって。私みたいなのが、本当はなずなの中身で、普段、こんななのに。配信では、あんな、騒がしくしちゃってて……はは、おかしい、よね」

「……おかしくなんてないだろ」


 だって、それは、元々おまえの中にあったものじゃないか。

 よく笑って、よく喋って。僕が何も言わなくても、いつだって手を引いて走って。

 もう失われたものなんだから、忘れてしまえと。記憶に蓋をしていたのに。

 もう消えてしまったと思っていた咲沢那奈という、僕の知っている女の子は。芹沢なずなという女の子で、今もなお存在していた。


「僕は、元々おまえがそういう人間だって知っていたし。驚きは……したけれど、それは、意外だって思ったわけじゃなくて」


 素直に、そのまま言葉を続けるのが恥ずかしくて、僕は口を噤んだ。咲沢がどんな表情をしているのか見ることもできず、視線を下げたまま上げることもできない。


「まぁ、そんなことはいいんだよ。それより……手伝いがいるって話だけど、そんなに何もできないものなのか? 配信者ってこう、一人でやっているイメージがあるけど」

「え、っと……」


 気を取り直して顔を上げると、僕と同じように俯いたまま、空いた手の指先で頬を掻く咲沢の姿が見えた。前髪が長いせいで、少しでも俯かれるとその表情が見えない。


「ゲームならゲーム、歌なら歌に夢中になっちゃうっていうか……咄嗟に色々できないの。普段もコメントを読んでるだけでいっぱいいっぱいだし。だから、誰か傍にいてくれたら安心できる、っていうか」

「……普段交流のない男が傍にいて、安心できるものか?」


 少しだけ悩んで様子で。でも、特に淀みも緊張もないような声で。


「……えっと、ゆうくんなら大丈夫かな」


 いったいどんな表情をして言ってのけてるのか。頭を抱えそうになるのをぐっと堪える。


「あっ、ごめん……ゆうくんって呼ばれるの、嫌だよね」

「そっちじゃないんだけどな……」


 呟いた僕の声が届かなかったのか、微かに首を傾げている。慌てているのは僕だけ、という事実がなんだか妙に悔しく思えたので、僕は努めて表情には出さないまま、口を開く。


「別に、今更そんなこと気にしなくていいだろ。だいたい、これまでだって呼ぶ時はゆうくんって呼ぶじゃないか」

「でも、ゆうくんは私のこと、咲沢って呼ぶし」

「……まぁ、それも別にいいだろ」


 いつの頃からか、口に出しても出さなくても、名字で呼ぶようになった。転機はいつなのか、そもそも転機なんてあったのか。それすらも定かじゃないし、たぶん、世の中の男女の幼馴染なんてそういうものだろう。

 芹沢なずなの活動を手伝う。それに、どういった利点があるのか。冷静に考えれば……そんなにないと思う。家業を手伝っている方が気楽だろうし、新しいことをわざわざ覚える必要はない。未知数にも程があるし、それなりに知名度があるVtuberの隣に座っているだけで心労もすごそうだ。

 ……でも。


「僕でよければ、手伝うよ」


 そう言うと、咲沢は勢いよく顔を上げた。しっかり向けられた瞳が、分厚い眼鏡のレンズの向こうで見開かれている。


「いや、正直自信なんて全然ないんだけどさ。普段からVtuberってどうやって配信してるんだろうとか、そういうの興味あったし、お金ももらえるって言うんなら、まぁ、悪くはないかなって。久志にバレたら何言われるかわからないけど」

「う、うん……そこは、本気で隠してもらいたいけど……えっと、いいの」


 不安げな瞳が向けられている。長いこと向けられることのなかった瞳だ。自身がなさそうで、いつも、逸らされていた。もう見慣れてしまった、咲沢那奈の瞳だ。

 でも、本当はこの瞳が嬉しそうに輝くことを知っている。瞳も、口元も、清々しい笑顔を浮かべ、声を上げて笑うことができる女の子だと知っている。

 不安げに問いかける咲沢に、僕は首を縦に振る。

 もう一度、その笑顔を傍で見られるのならば。きっと、悪くはない話だと思うから。


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