3話

「……なんでこんなことになったんだっけ」


 無音の閉鎖空間は、予想以上に自分の声が反響する。小さく呟いただけのつもりだったけれど、思いのほか大きく耳に飛び込んできて、自分の声に自分で驚いてしまった。

 僕は今、咲沢家の二階。階段を上がった先の一番の奥の部屋のクローゼッ卜の中で、体育座りで落ち着いている。

 ……いや、心境としては、まるで落ち着いてないけれど。

 咲沢……妹の方が帰ってくる前に、二階の一番奥の部屋のクローゼットの中に隠れておいて欲しい。

 菜美さんのお願いというのは、端的に言えばそういう内容のものだった。それ以外に何もしなくていい。ただ隠れているだけでいい。という、目的がさっぱりわからないお願いだ。あまりにも不明瞭過ぎて気味が悪く、最初は僕も断ったけど。

 今、僕はその部屋の内装にすら目を向けることを許されず、暗い部屋の中の更に暗いクローゼッ卜の中にいる。


「……まさか、写真を撮られてるとは思わなかった」


 透明な液体が入ったコップに口をつける僕と、近くのテーブルの上に置かれた日本酒の一升瓶。それだけが映った写真データを、お願いを断る僕に菜美さんは笑顔で見せてきていた。

 脅し、としては正直弱いと思う。映っているものだけで判断すれば僕がお酒を飲んでいるようには見えるだろうけど、それを証拠として提出したところで、じゃあこれはどこで飲んでるのかと調べられれば、菜美さんだって無傷では済まないはずだ。諸刃の手段、としては効力はあるかもしれないけど。

 そこまでしてわざわざ僕に頼み込んでくることの方が、今の僕には気になっていた。

 ガチャリと、玄関の鍵が開き、ドアノブが回される音がする。思いのほか響くその音は、クローゼッ卜の中にいてもよく聞こえた。


「おかえり、買い物ご苦労」

「う、うん。言われた物は買ってきたけど……本当に急ぎだったの?」


 菜美さんと、咲沢の声だ。菜美さんの声は意識せずともはっきりと聞こえたけれど、咲沢の声は耳を澄まさないとよく聞き取れない。鍵を開ける音やドアノブを回す音よりも小さい響きは、昼に屋上で聞いた声と変わりない。

 ……家でも、あの調子なんだな。

 いつのまにか、声からは抑揚が失われて、いつも俯いて、顔を向けられることがなくて。 いつのまにか、目を合わすことすらなくなっていって。

 本当に、いつのまにか。僕が知っていた咲沢那奈の姿はなくなって。

 誰に対しても、何に対しても。陰りしか表に出さない、見知らぬ女の子になっていた。


「まぁ急ぎっちゃ急ぎの物だったかな。助かったよ。準備は終わってるから、すぐに始められるよ」

「うん。いつもありがとう、お姉ちゃん」

「いいって。後でお茶持っていくから」


 咲沢の返事は、頷きだったのか。会話はそこで終わり、誰かが階段を上がる足音が聞こえる。その足音は僕が隠れている部屋の前まで続き。


「……ふぅ」


 まるで自分の部屋に帰ってきた時の安堵のため息のような、そんな吐息の音だけははっきりと聞こえる。

 ……つまり、ここは、咲沢の部屋で。僕が今隠れているのは、咲沢の部屋のクローゼットの中というわけで。

 頭の中が一瞬で「いやさすがにそれはヤバくない!?」と焦りで一杯になるも、だからといってどうすることもできない。飛び出しても同級生の女の子の部屋のクローゼッ卜の中に隠れていた変態だし、隠れたままでも同級生の女の子の部屋のクローゼッ卜に隠れている変態だ。どうあがいても通報案件だし、飲酒疑惑の写真よりも決定的だ。

 どうしよう。いやどうすることもできない。もし今咲沢が制服を脱いで、着替え始めでもしたら。


「着替えは……後でいっか」


 セーフ! いや依然として状況はアウトだけど!

 衣擦れの音はせず、何かが軋む音がする。椅子に座った音だろうか。そして、キーボードを押す打鍵音に、マウスをクリックするカチカチという音。

 静か過ぎる音の中。僕は身動きすらできず、ただ黙ってその音を聞いていて。


「――よし」


 小さく、けれど、芯の通ったような声が響き、


「みんなー! こんばんはー!」


 聞き覚えのない元気な声が、耳慣れた響きで紡がれる。


「……え?」

「みんなごめんね、予定してた時間に遅刻しちゃって。お姉ちゃんに買い物頼まれてたんだけど、それが探しても中々見つからなくって……」


 思わず漏れた声は、クローゼッ卜の扉の向こうにいる人物には届いていない。僕の小さな呟きなんて簡単に掻き消してしまうほどの、元気な声。


「というかね! こんな田舎の町で画材なんてそう簡単に探しても見つからないんだよね~。もっと大きな町なら専門のお店もあるかもしれないけど」


 懐かしい。もう聞くことはないと思っていた。ずっと失われたものだと思っていた。もう二度と、耳にすることはないと思っていたのに。

 思わず、僕はクローゼッ卜の扉を開く。立てる音すら気にしないまま、ただこの部屋の中に響くものに惹かれるように。

 この響く音が、声が、本物なのか確かめたくて。


「今日も難しいあのゲームを……いや、ほんと死にゲーだよね、あれ。前は四時間ぐらいぶっ続けでやったのにステージ一つもクリアできなかったし。平日のこんな時間から始めちゃうけど、どうせいつもの如く長々と時間かかっちゃうから、あんまり気にしなくていいよね」


 視界に映る、すっかり見慣れてしまった後ろ姿。でも、頭につけられた大きめのへッドホンや、普段からは想像もできないほど陽気に揺れる肩が、どうしたって僕の中で齟齬を生む。

 教室ではいつも曲がった背中は、今はまっすぐと伸び、顔はきっと正面のディスプレイをまっすぐ見つめているのだろう。

 いつも俯いて、伸びた前髪で分厚いレンズの眼鏡ごと隠された瞳は、もしかしたら、あの頃のように輝いているのだろうか。

 あの子は、誰だ。知っている。知っているはずなのに。あまりにも懐かしくて。


「……那奈」


 思わず、声が漏れる。ずっと呼ぶことのなかった名前を、思わず呼んでしまう。


「前回の続きからなんだけど、こっそりレベル上げぐらいしておけばよかっ……って、え?」


 調整すらできていない僕の声は、陽気に言葉を発していた彼女にも届いてしまう。振り向き、目が合う。

 教室で一切目を合わしたことがない、咲沢那奈の瞳が、前髪に隠されることのない彼女の黒い瞳が、僕をしっかりと見つめている。


 ……クローゼットの中に座る、僕と。


「おえええええええええええええ!?」





「いやー。すごいぞ那奈。『芹沢なずな、突然嘔吐して配信中断か?』みたいな話題になって大騒ぎ。もしかしたらトレンド乗るかもな」


 ケラケラと笑いながら、菜美さんは並々と日本酒が注がれたグラスを口に運ぶ。僕と咲沢は、その楽しそうな雰囲気を全身から放つ菜美さんを信じられない気持ちで眺めていた。


「えっと、それって、大丈夫なんですか。その、色々と」

「あー、大丈夫大丈夫。さっき芹沢なずなのアカウントで呟いておいたから。『突然出てきたゴキブリに驚いて機材を壊してしまったので、今日の配信は中断します』って」


 正式にはゴキブリじゃなくて、僕なんだけど。そこ以外は間違っているわけではない情報がすでにネッ卜には出回っているらしく、すぐに騒ぎは落ち着くだろうと、菜美さんは涼しげな顔で言ってのけた。

 とはいえ、ネット上の騒ぎよりも、今はこっちの騒ぎの鎮静化の方がずっと困難のように思う。


「しっかし那奈。おまえもいくら驚いたからって『おええええ』はないだろう。一応うら若き乙女がそんな汚い声……まぁ、芹沢なずなのキャラとしては十分アリなんだが」

「い、一応……じゃない、よ。それよりも、その……」


 小さい、か細い声で反論し、咲沢はチラリと僕を見る。その視線が合うよりも早く、咲沢は顔を俯かせたから、どんな目で僕を見ていたのかはわからない。

 ……完全に、いつもの咲沢那奈だ。

 とてもじゃないが、ついさっきまで陽気にへッドフォンをつけ、マイクに向けて楽し気に話していた女の子と同一人物だとは思えない。


「ど、どうして、ゆうくん……じゃ、なくて、二木くんが、私の部屋にいたの……?」


 頑なに僕とは視線を合わせようとはせず、咲沢は自分の姉に向けて聞いている。その質問の声は不満げではあるけれど、声が小さいせいで迫力は全然ない。

 実の妹のそんな感情を本当にちゃんと受け止めているのか、菜美さんの表情は依然として変わらず、あろうことか再度グラスに酒を注いでいた。何杯目だ、あれ。


「いやね、どうせなら実物見せた方が色々と手っ取り早いかなって思って。で、どうだったよ、びっくりした?」

「……そりゃ、びっくりしましたよ」


 何度ももしかしたら、と考えて、そんなまさか、と思い直した。学校が終わって家へと帰る途中、気になって調べてしまった芹沢なずなのプロフィールをざっと思い返しても、ずっと視線を下げたまま俯いている目の前の女の子と結びつくことはない。


 芹沢なずな。普通の人間と優秀なサキュバスの混血である、半分人間半分悪魔の女の子。中身はポンコツで抜けているが、優秀なサキュバスを目指して日々人間界で奮闘中。自身の根気のなさを直すべく、難易度の高いゲームや企画に挑戦している。だとかなんとか。

 それが、芹沢なずなの設定だ。

 ファン夕ジー要素を多分に含んだ設定の割には、普段やってることはゲーム実況などといった現実味の強いことばかりなのだから、おかしな話だとは思う。その辺りはこれといってVtuber界隈では特異なものではないらしいけれど。


「し、知ってたの?」


 依然として僕に視線を向けないまま、咲沢は俯いたまま訪ねてくる。その不作法さに今更腹を立てることもない。僕も同じように目を逸らしながら話しているし。


「知ってた……っていうか。もしかしたら程度だよ。今日の昼、久志が熱烈に芹沢なずな……おまえのことを教えてくるから。だから、芹沢なずなのことを知ったのだって、今日の話だ」


 咲沢は泣く一歩手前のようなうめき声を上げて、テーブルに突っ伏した。


「というか、久志がおまえのファンだってことは知ってたのか」

「……だって、あの人……なずなの画像を待ち受けにしてたし……そういうの、無意識でも目に入っちゃうから」


 僕が気づかなかっただけで、別の友人にも自分の推しについてどこかで語っていてもおかしくはない。

 話す内容が内容だから仕方ないとはいえ、この沈んだ小さい声色で話す、目の前でテーブルに突っ伏している少女がネット上で人気急上昇中の明るいVtuberだとは到底思えない。

 思えない、が。


「……この目で見ちゃったからなぁ」


 教室の中で背中を丸めて、外敵から身を守ろうとするかのように縮こまる姿こそが、僕にとっての咲沢那奈という女の子だった。長年見てきたその姿が彼女の姿なのだとクラスの誰もが思っているだろう。毎日のようにその当人の声を聴いているはずの久志ですら、その二つの人物像を繋げることはなかった。

 無理もない。実物を見て、聞いた僕ですら、今でも半信半疑だ。

 でも、僕は知っている。咲沢那奈という女の子が持っている、いや、持っていた要素を思い出しつつある僕には、それが真実だってわかっている。


「……それで、菜美さん。あなたの目的はなんなんですか」


 それを、今更僕に見せつけて、それでどうしろと言うんだ。

 僕の菜美さんへの質問に同調するかのように、咲沢は突っ伏していた顔を上げ、まるで迫力のない潤んだ瞳で菜美さんを睨みつける。


「……っ、くぅ~」

「いや構わず飲み続けてないで答えろ」


 気持ちの良い飲みっぷりでグラスを空にしている菜美さんに、敬語も忘れて言う。菜美さんは僕の不躾な物言いに気分を害した様子もなく、グラスどころか瓶すら空にして次の瓶の酒蓋を外していた。


「見てもらった方が手っ取り早いと思ったんだよ。事前に話したら那奈はどうせ反対するだろうし、なし崩し的に状況を作った方があたしとしても楽だったんだ」

「……え、お姉ちゃん、もしかして、こないだの話……本気なの?」


 姉妹だけが通じる話に、姉の方がグラスを呷りがてら頷く。


「本気も本気さ。いい加減、あたしも手が回らなくなってきたからね。そもそもあたしは絵を描きたいだけで、Vtuberの運営には興味ないんだから」

「い、いやっ、えっと、だからって……!」


 声の抑揚が少しだけ上がり、咲沢は焦ったように口を開く。その妹の様子を、菜美さんは平然と見ていた。


「まぁ、もちろんあたしだけの一存で決められないけどね。そもそも、悠里の意見を聞かないで話を進めても仕方ない」

「……だいぶ今更な配慮じゃないですか、それ」


 僕のぼやきにも菜美さんは変わらず、涼しげな表情を浮かべて笑っていた。


「さっきのを見ての通り、那奈は今、芹沢なずなというVtuberとして活動してる。といっても、本当にこいつはパソコンの前でくっちゃべってるだけで、配信準備や機材の用意その他諸々は全部あたしがやってるわけ。こいつ、ひどい機械音痴でさ」


 菜美さんの言葉を否定できないのか、また俯いたまま小さく呻くだけで、反論はなかった。


「その上、配信を始めるとコントローラーを握って騒ぐことしかできないから、配信画面や音量の調整とかそういうのもうまくできなくて、しかもリアクションが派手だから暴れてマイクを倒したりするし、基本的にあたしがついていないといけないから、いい加減本職の方にも支障が出てきてさ」

「本職、というと……」

「こっちだよ」


 そう言って、菜美さんはさっき見せてくれたスケッチブックを手に持ってヒラヒラと振る。


「ありがたいことに、こっちの方も忙しくなってきてさ。それなのに、なずなの方もそれなりに人気が出てきちゃって、こりゃそろそろ適当な企業の傘下にでも入って運営を任せようかとしてたんだけど、当の本人がこれだから」

「……まぁ、無理でしょうね」


 交流が途絶えていた期間の方が長いとはいえ、付き合いはそれなりに長い僕にすら、目を合わせてくれない。そんな人間が、利権が絡んだ人間を相手にうまく立ち回れるとも思えなかった。


「どうしよっかな~、って思ってた時に、ほら、悠里が来たから」

「……え、そんな思い付きで?」

「だっておまえら仲良かったじゃん。今はどうだか知らないけど、別に嫌い合ってるわけでもないでしょ?」


 軽く、なんでもないことのように言われて、どうにか継ごうとしていた二の句が出てこなかった。


「別に、嫌い合ってるわけじゃないですけど……」


 幼馴染、なんて一言で片づけられるような間柄ではない、はずだ。僕が言葉に窮しているように、咲沢もただでさえ開きづらい口が尚のことうまく動いていない。


「家の手伝いもありますし、そもそも僕だってそこまでパソコンに詳しいわけでは」

「親父さんにはあたしの方から話をしておいてやるよ。技術的な面の話だって別にそこまで難しいことを要求しないさ。それに、家の手伝いよりは、稼げると思うよ?」

「……え、給料出るんですか?」

「詳しい額は言えないけど、一学生が月に稼ぐには過ぎる額は稼いでるからね。それぐらいはいいさ」


 マジか、と頬を引きつらせながら咲沢を見る。当の本人は依然変わりなく目が合うことはなく、真偽の程はわからなかったけど、ネット上で調べた限りの知名度ならば、あながち嘘を言っているとも思えない。

 バイト禁止の学校の中で、家業を手伝って小金稼ぎができる、というのは僕の中でも結構なアドバンテージだった。それを優に越してくる存在が咲沢だったという事実に情けなくも落ち込みそうだけど、それはさておき。


「……咲沢は、それでいいのか?」


 縁が切れた。そう言い切ってもいいだろう。そんな人間、しかも男が、自分の部屋に入り込んで、自分がこれまで隠してきた一面を見せるようになっても。


「えっ、と……ふ、二木くんが、いいなら」


 主体性のない返事は、これまで通りの咲沢那奈らしい返事だった。意見を聞いたのに、まるで当人の意志が混じってない答えが返ってきて、思わず僕は苦笑を浮かべてしまう。


「……少し、考えさせてください」


 即決するほどの勇気はなくて、僕はそう返す。

 突然降って湧いた展開に頭が回らない。それももちろんあったけど。

 僕の知っていた咲沢那奈が、まだちゃんとこの世界に存在していたことに、どうしたって驚いてしまっていた。


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