14話
ちなみに、僕が家から持ってきたとっておきの日本酒は、その日のうちに空になっていた。
そのことを父親に話したら「一日でパーッと飲み干すような酒じゃないぞ」と不満たらたらだったが、菜美さんが飲んだと話すと途端に何も言わなくなった。本当にどうなってるんだうちの親と菜美さんのパワーバランス。なんの弱み握られてたらこうなるの。
「いやー、うまい。うまいなぁ。久々に食う悠里の飯はうまい。ここ最近、あたしや那奈が作る雑な料理しか食ってなかったからなぁ」
菜美さんに依頼をしてから、二週間が経っていた。その依頼の完遂や、それに付随する細々とした雑務を終えてくれた菜美さんの表情は晴々としているが、目の隈などといった疲労を表す要素は濃く出ている。
「ちゃんと自炊してただけ、今までに比べたらマシじゃないですか」
「キッチンに見慣れない道具とか色々置いてあったから気になっちゃって。とはいえ、一回使ってみたら飽きるんだけどね。あとどうやって使ったらいいかさっぱりわからないのもあった」
「僕も買うだけ買って、一回使ったらもう使ってないのもありますからね。自分なりにやりやすい方法でやれればいいと思いますよ」
「……あの」
テーブルに置かれた僕が作った料理を前にして、咲沢がおずおずと手を上げる。
「なんで、またゆうくんがうちで料理作ってるの?」
「……ダメだったか?」
「い、いや、ダメとかじゃ、ないんだけど……」
久しぶりに顔を合わせて話をするから、お互いにどこか緊張感を覚えてしまっている。事前に身構えていた分僕の方がずっとマシだろうけど、これからする話のことを考えると、どうしても僕もぎこちない気持ちになっていた。
「……まぁ、今日からまたお世話になるっていうか、お世話するっていうか、なんというか」
「近日中に配信を再開してもらうぞ。できないなら、引退だ」
食事が終わってから話そうと思っていたことを、菜美さんは容赦なく告げる。
「え……え?」
「悪いけど、これはもう決定事項だから」
咲沢の箸は完全に止まり、菜美さんの箸は動き続ける。食べながら話をするのも不作法だが、一度話し始めた言葉は止められない。
「これから私も結構でかいプロジェクトに入れてもらってるから、いつまでも芹沢なずなの活動が宙ぶらりんなのも、締まりが悪いんだよね。だから、今日中に答えは出してもらう」
「答え、って……」
「このまま芹沢なずなを続けるか、潔く消すか、だ」
茶碗の上に箸を置き、力なく落ちた両手は彼女の膝に置かれている。上がっていた顔も俯いて、垂れた前髪に隠される。
教室でしているように。誰からも構われず、でも、それすら自然のように振舞ってきた。何年も、そうやって見続けてきた。
見慣れた、咲沢の姿だ。
「今日中に決めろって、言われても……」
「……もう一度、やってみないか?」
でも、今日はその顔を上げてもらわないといけない。
「僕も、またできる限り手伝う。今まで通りの芹沢なずなのように振る舞えないとしても、きっとわかってくれる人はいると思うんだ。だから」
「……わかって、くれなくてもいいよ」
テーブルの下で見えない拳が、きつく握りしめられている気がした。
「私、ずっと勝手な気持ちで配信してたの。私が楽しければいいやって、私だけが楽しめてればいいやって、ずっと思ってた。ゲームは楽しかったし、歌を歌うのも楽しかったし、ボイスを録るのは……恥ずかしかったけど、それも、楽しいとは思ってた」
もう誰も箸を動かすことはなかった。やっぱり食事が終わった後に話すべきだったんだ。せっかく作った料理が冷めてしまうけど、僕は咲沢の言葉に耳を傾けなければならない。
「ゆうくんにも手伝ってもらうようになって、やれることが広がって。それも、ちゃんと楽しいって思ってたよ。でも、でも今は、普段の配信でも、どうやって楽しんでいたのか、全然、わからなくて。がんばれって言われるたびに、どうしたらいいのかわからなくなっちゃって」
俯いたまま、声を上げる。
「だって私、今まで、がんばってなんかいなかったのに。がんばらないと、みんなからは芹沢なずなだと思ってもらえないんだなって思うと、もう、何がなんだかわからなくて」
コラボ企画なんて出るんじゃなかった、と。初めて、その後悔を口にする。
「……私みたいな人間は、ずっと一人でやるべきだったんだよ。人と話すのなんてうまくないし、普段のコメントだって、自分に都合の良いものばかり拾って反応してるだけだもん。人のことなんて考えないから、慌てたりしないで身勝手に振る舞えてた。そうやって、自分のことだけを考えてないと、芹沢なずなをやっていられなかったの」
自分勝手だったと、咲沢はそう何度も自虐している。今にも泣きそうな声で、震えながら、何度も。
「辞めるよ。もう、みんなが望むような、芹沢なずなでいれる気がしないもん」
「……そうか」
菜美さんは静かにそう返して、一度頷いた。それ以上何も言わず、食事を再開する。慰めも、責めるような言葉も吐かない実の姉の姿を、咲沢は一度だけ目を向けて、また俯く。
「……今度、正式に告知するよ。ごめんね、ゆうくん。せっかくご飯作ってくれたのに……食欲はないから、また、明日食ベるよ。今日はもう寝るね」
頭を下げ、僕の返事も待たないまま。咲沢は席を立って、居間を出ていく。階段を上がる足音が静かに耳に届く。
扉が閉められる音と、僕たちが箸を持ち直すタイミングは一緒だった。
「……さて。それじゃあ、配信は予定とおりに」
「はい」
僕と菜美さんはお互いに頷き合い、手早く食事を済ませる。咲沢の残した分はそのままラップをかけて冷蔵庫にしまう。もしかしたら今日中に食べることになるかもしれないから、そのままでもよかったかもしれない。
「……本当にいいんだな?」
「やりますよ。何度も聞かれると心が折れそうになるからやめてください」
苦笑交じりにそう返すけど、心の底からの言葉だ。僕が浮かべた笑顔とは対照的に、菜美さんは心の底から楽しそうな笑顔を浮かべているのがもう一周回っていっそ清々しい。
菜美さんは自分の部屋へ。そして僕は家から持ってきた、家具などを天井と固定するための防災用の衝立棒を手にして、咲沢の部屋へと向かう。
「よう、起きてるか? 起きてるなら、まぁ、そのまま聞いててくれ」
不躾なノックに、反応はない。それならそれで構わないと僕は腰を下ろし、部屋のドアに背中を預けた。
「前にさ、昔のおまえについて話したことがあったろ? 僕が憶えていた姿は、勘違いだったってやつ」
「……うん。あったね」
思いのほか、近い位置から声が返ってきた。もしかしたら咲沢も同じように、向こう側でドアを背に座っているのかもしれない。
「おまえは勘違いだって言ってたけどさ。あれ、何度考えても、全部が全部勘違いだったって、思えないんだよな」
長い間そう思っていたから、それが正しいことのかのように頭にこびりついている。それだけなのかもしれない。
それでも。やっぱり違うんだと思い出が叫んでいる。
全てが正しかった自信はないけど、全てが間違っていたなんて思えない。
「……でも、いつも遊びに行く時は決まって、ゆうくんが手を引いてくれてたんだよね」
「うん。そうなのかもしれないな」
何度も思い返した記憶だったから、咲沢に手を引かれた時の思い出が色濃いだけなのかもしれない。思い出せないだけで、僕が咲沢の手を引いた時も、何度かあったのだろう。
「昔からゆうくんは、一人でなんでもできたから。それなのに、私なんかの手を引いて、色々なところに遊びに連れて行ってくれて、一緒に色々な遊びを教えてくれたよね」
「まぁ、自分でも器用な方だとは思うよ」
やってみれば、大抵のことがうまくやれた。子どものやることだから、今にしてみれば大したことのない、なんの実益にもならないことばかりだったけど。ザリガニ釣りだとか、草船作りだとか、他にもその程度のちゃちなことだ。それでも、子どもながらに「自分が何かを成せる」ことが、誇らしいことだと思ったのだろう。
だから、せっかくなので当時一番仲の良かった女の子に、それを見せつけたかっただけの、今思えばなんとも身勝手でいじらしい話だ。
「ほら、やっぱり。ゆうくんが、私の手を引いてくれてたんだよ」
諦めるような、安堵のような。そのどっちともとれるような声色。
「小さい頃は二人で遊んでいたけど。学校に入って、関わる人が増えて、そしたら、ゆうくんはすごいから、すぐにみんなの人気者になって」
「それは……たぶん違うよ。僕というより、久志の人気がすごかったんじゃないかな」
今でこそ残念な立ち位置にいる久志だけど、今も昔も人付き合いが上手で、クラスでも人気者だった。今でも、間違いなくクラスのムードメーカーはあいつだ。
「ううん。ゆうくんもすごかったんだよ。だから、私なんかじゃ、全然近づけなくなって。 気づいたら私も、こんな人間になってて」
自分を卑下するような乾いた笑いが、ドアの向こうから聞こえる。
「でもおまえは、一人であんなにもすごいVtuberとしてやってきたじゃないか」
そんな笑い声を聞きたくなくて、僕はそう言い切った。
「たしかに、おまえは昔からそんな感じだったかもしれない。常に一歩引いてて、僕が手を引かないと何もできない奴だったかもしれない。けど、その後はいっつも、立場が逆転してたんだ。おまえは、楽しいことに夢中になれる人間だったから」
手を引いて、連れて行って。その先で、立場はいつも変わっていた。
「いつだって、それが楽しいことなんだって教えてくれるのは、おまえの方だったんだよ」
手を引いて連れて行ったその先で、彼女が笑ってくれるから、それが楽しいことなんだって思えた。できるからやってみた。そんな薄い動機の末の行為を、明るい感動で埋め尽くしてくれたのは、いつだって。
「最初に手を引いたのは僕でも。その後、その先に連れて行ってくれるのは、いつだって……那奈、おまえの方だったんだよ」
咲沢が――那奈が身じろぎする振動が、ドアの向こうから響いてくる。
「昔も、今も。おまえはそうやって誰かの手を引いて、それが楽しいことなんだって見せつけてくれていたんだ。だから芹沢なずなをあんなにたくさんの人が見てくれていたんだよ。おまえが楽しいって思ってることを、あんなに楽しそうに見せてくれるから。みんな、おまえの姿を見たいって思ってくれるようになったんだ」
「……でも、そんなの」
「配信を見てきた人たち全員に聞いて回ったわけじゃないけど、それぐらいわかる。おまえよりもずっとゲームやトークが上手い人なんていくらでもいる。声が良いのも、歌が上手い人だっていっぱいいる。芹沢なずなの見た目だって、もっとかわいくて綺麗な絵を描いてもらってる人もいるさ」
今の部分、菜美さんにも聞こえているだろうか。後で怒られるかもしれない。というか、この話全部聞かれてるんだろうな。
もういい。知ったことか。どうせ僕はこれから今よりももっと恥ずかしいことをするんだ。
たった一人の人間に言葉を、想いを伝えようとする程度で、怖気づいてどうする。
「それでも。それでも、みんなおまえの配信を見てきたんだよ。何かを、別の何かができる時間を使って、おまえを見てきたんだよ。おまえが楽しいって思ってるものを一緒に楽しめている誰かが、絶対にいたんだ」
「……でも、仮にそんな人がいたとして、私はもう、その人たちが望むようには」
「僕たちが望むような姿なんて、そんなの少しだって考えなくてもいいんだ」
ドアから背を離し、立ち上がって、向かい合う。ドアに手を置き、少しでも届くように。
この扉の先にいる女の子に向けて、少しでも届くように声を上げる。
「おまえのやりたいように、おまえがやりたいことをやってくれればいいんだ。昔みたいに、おまえはただ楽しんでいればいいんだ。僕たちは、少なくとも僕は、勝手にそこまで行くから。だからっ――」
昔の僕がおまえの手を引いたと言うのなら、またその手を引いてみせるから。
「咲沢那奈を好きになった、最初のファンの言葉ぐらい、素直に信じてくれよ」
僕の言葉を最後に、家中から音は消えて、ただ静かな無音の空間が広がる。
……言いたいことは言い切ったし、勢いで言わなくてもいいことまで言った気がする。僕は立ち上がってドアから背を離し、持ってきた衝立棒を伸ばす。
「……え、え、ゆ、ゆうくん、今、なんて?」
「いいから。そこ気にしなくていいから。とりあえずあと……そうだな、一時間ぐらい出てこないで」
「いや、え、だって……え? なんでドア開かないの?」
「そりゃ僕が防災用の衝立棒を使って開かないようにしてるからだよ」
「いやだからなんで!?」
「今言ったことへの言及を避けるのと、これからやることを止めらないようにするためかな。ああそうだ。事後承諾だろうけど、芹沢なずなのアカウント、借りたから」
ガチャガチャとやかましく動かされていたドアノブが静かになる。数秒後、部屋の中から甲高い叫びが聞こえてきた。
「こっ、これ! 何!? このサムネイル、どうして、って、これから配信するって、え!?」
「まぁ、なんだ。よければ、見ていて欲しい。おまえに見られるのが一番恥ずかしいから、おまえに見られてるって思えば、他のことは我慢できそうだ」
どう冷静に考えても、この手段はおかしいし、正気じゃない。でも準備はもう済んでいて、あとは僕の覚悟次第なら、今更手遅れだ。
「相当気持ちの悪いことをするから、引かないで欲しいとは思うけど。でも、まぁ、やろうとしてることは、おまえが憶えている昔の僕と変わらないはずだ」
できるから。やれるから――だから、その場所まで手を引いて連れて行く。
その先に、きっと楽しいことが待ってるんだって、おまえが何度も教えてくれたから。
「今は手を引いてやれないけど。先に行って、待ってるから」
「ゆうくんっ! ゆうくんってば! ねぇ!」
僕を必死に呼び止める声は、どこか芹沢なずなを思わせるような余裕のなさを感じて。
「……ほら、ちゃんとそこにいた」
本当だとか嘘だとか、偽物だとか本物だとか。そんなもの、どうだっていい。
咲沢の部屋の前から離れ、別の部屋に。今まで何度もノックはしてきたけど、入ったことは一度もない、菜美さんの部屋へと入る。
「聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなやり取り、廊下でしないでくれない?」
「……それについては、本当にすみません」
楽しかったからいいけどさ、などと笑顔で言う菜美さんは今まで自分が座っていた椅子からどいて、僕を座るように促した。
「咲沢のことなんですけど、マジで監禁みたいなことしちゃってるんで、配信始まったら棒、外してあげてください」
「あら、別にさっきみたいに那奈って呼んでもいいのに」
そういうのいいから、と思いつつ睨みつけてもケロッとした様子は変わらない。
「あの子なら大丈夫でしょ。限界だって思ったら適当に蹴り開けでもするさ。そんなことより、もう全部準備は終わってる。配信の仕方やカメラの認識の具合は、もう今更言われなくてもわかってるでしょ?」
機材も、全部。何度も扱ったことのあるものだ。問題は、精神面以外には何もない。
そこが一番の問題だとは思うけど、もう今更引っ込められるような気持ちでもなかった。
「たぶん、なんとかなると思います。すみません、何から何まで準備してもらって」
「もらうもんはもらってるしね。それに、妹のために一世一代の啖呵を切ってやろうって男を、蔑ろにはできないよ」
「……やろうとしてることは、それはそれは存分に気持ち悪いことですけどね」
「何言ってんのさ」
椅子に座った僕の肩を、菜美さんは後ろからバシンと両手で叩く。
「男が好きな女のためにやることなんて、傍から見たら大抵キモいもんだよ」
「……身も蓋もねぇ」
首を下げてため息を吐きたいけど、勇気は注入された気がする。
俯いていては、これからやろうとすることはいつまで経ってもできやしない。
たとえそれが虚構を映したものであろうとも、向ける視線や放つ言葉の中には、いつだって本物が混じっているのだから。
「それじゃあ、やってみます」
「あいよ。ああ……言われなくてもわかってると思うけど――楽しんで」
菜美さんが部屋を出て、僕一人が残される。
目の前の机には那奈の持つパソコンよりもずっと性能の良さそうなパソコンに、ここ二か月ですっかり見慣れた機材が並んでいて。
「……楽しむような内容の配信じゃないけどね」
パソコンを操作し、芹沢なずなの広報用アカウントにログインする。一番直近の投稿は、これから始める配信のお知らせだ。
これまでと、これからの話をします。
それだけの簡素なタイトルに、見慣れないシルエットの画像が載せられたサムネイル。活動を休止していたアカウントによる突然の配信予告は、これまでにない数字で拡散されていた。元から引くつもりもないけれど、もう、後には引けない。
これまで芹沢なずなの配信を見てくれたいた人たちも、その他にも、たくさんの人たちが物珍しさに配信を見に来るだろう。
いいさ。何人来ようが、関係ない。
僕は、僕の言いたいことを言うだけだ。
始めます。と、それだけの短いコメントと配信用のURLを貼り付け、投稿する。
まだ始まってもいない配信にすでに何人もの視聴者がすでに待機していて、コメントを残している。そのコメントの大半は、見慣れないシルエットがいったい誰か、といったもので。
「これからどのぐらいの付き合いになるかわからないけど、よろしく頼むよ」
この一週間で何度も目にした、自分の分身となる女の子を見て。
僕は、配信を始める。
画面の中のかわいい女の子が、口を開く。それは、僕が口を開いたタイミングと一緒で。
「みなさん、初めまして」
可能な限り女の子の声に近づけるよう、意識して高く発音する。どれぐらいの高さで話せばより自然になるか、この二週間で嫌になるほど練習した。菜美さんに大いに笑われようと、二木悠里を滲ませないように必死に練習してきた。
「えー……みなさん、こんばんは。初めまして」
コンプレックスになりかけていた高い地声も、大抵のことはそれなりにやれる器用貧乏なところも、全てを活用して準備してきた。
「突然の配信となってしまって、すみません。こうやって話すのは初めてなもので……緊張してますが、まぁ、温かい目で見てもらえれば、嬉しいです」
物腰を柔らかく、お淑やかに。それでいて、どこか儚げに。創り上げたキャラクターに二木悠里という男の存在は欠片も映し出さない。
芹沢なずなとは違う。徹頭徹尾、虚構だけで作られた架空のキャラクターに形を与えようとしている。心臓の鼓動がマイクに乗ってしまいそうなほど、ドクンドクンとうるさい。
「って、ああ。すみません。自己紹介すらしてなかったですね」
話す内容は文章にして画面に表示していたのに、早速名乗ることすら忘れていた。文章を読もうとすると、これまでにない勢いで流れてくる怒涛のコメン卜の勢いに、どうしても目が滑ってしまう。
一度、大きく息を吐く。虚構の存在でも、この緊張は嘘じゃないんだ。少しぐらいの沈黙は許してくれ。
「誰!?」「声かわいい」「なずなちゃんじゃない!」「絵師さん一緒じゃね?」「かわいい」
そんなコメントがいくつも流れていく。まるで真っ黒な濁流が遡るような、流れに逆らう怒涛の大滝のようで、一つ一つのコメントを読んでなどいられない。
「コ、コメント、すごいですね。今までも横から見てましたけど、これが自分に向けられているって思うと、なんか、すごいな。すみません、さっきからうまく言葉になってなくて」
通う高校の全校生徒数はとっくに超えていた。この時点で、体育館の壇上に立つよりも心臓が竦み上がる。下手すると、町内放送よりも多くの人が聞いているかもしれない。もうわからない。このまま際限なく増えていきそうな数字は、もういっそ見ない方がよさそうだ。
「えっと……もう、私が誰なのかって、みなさんおわかりですよね。あ、でも。一応、ちゃんと名乗らせてください」
僕が目を瞑れば、画面の中の女の子も目を瞑った。僕が口を開けば、口を開く。連動し、僕の代わりに、形を伴って伝えていく。
「芹沢なずなの傍でお手伝いをさせてもらっていた、Uちゃんこと、
芹沢なずなとは対照的な黒く長い髪。黒い瞳を少しだけ隠すほど伸ばされた前髪は、僕が動けばその分柔らかく揺れる。画面上には上半身しか映していないけど、なずなが通っている学校と同じ制服を着た、なずなに比べて少しだけ大人っぽい女の子。
新鋭のイラストレーター「咲菜」が描き上げた、渾身の二人目のVtuber――双本結が、僕の言葉を語り紡ぐ。
「これから少しの間。私、双本結と芹沢なずなのこれまでの話。そして、私たちのこれからの話をさせていただきます。もしよろしければ最後まで、お付き合いください」
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