12話

 部屋のドアをノックすると、いつぞや聞いたみたいな短い悲鳴と、ボゴンと何か物が落ちてカーぺットの上を跳ねるような音がした。たぶん、今回落としたのはマグカップだな。中身が入っていたら、たぶんもう一度悲鳴が上がってたと思う。


「最近、ようやくノックで驚かなくなったような気がするんだけどね」

「……だって、今日は、手伝いはいいって言ったのに」

「どうせ家帰っても同じように配信聞くんだから、こっちで聞いたって変わらないだろ。邪魔なら、帰るよ」

「……邪魔だなんて、言わないよ」


 本気で嫌そうな顔されたら心が保てないので踵を返して帰るつもりだったけど、そうでもないようだ。一安心して、すっかり定位置になった自分の椅子へと座る。

 今夜の配信は、また新しく始めたアクションゲームの続きをやる予定となっていた。こないだクリアしたゲームよりはずっと難易度が低くて爽快感重視となっているおかげか、これまでよりずっとあまり騒がず、のんびりとプレイできていた。だから、咲沢も手伝いはいらないと言っていたのだろう。


「……大丈夫、なのか?」


 質問してから、主語のない質問をしてしまったと後悔する。僕自身、余裕がないのがありありとわかる。けれど咲沢はその意図を理解して、ゆっくりと首を縦に振った。


「うん……平気だよ。だって、ただゲームするだけだし」

「そう、だよな」


 本当に、いつだって基本的に芹沢なずなの配信はそうだ。雑談でもゲームでも歌唱枠でも、いつだって芹沢なずなが一人で遊ぶだけだ。最近は、僕もUちゃんとして彼女とゲームをするようになったけれど、会話なんて当然ない。

 芹沢なずなが勝手に遊んでいるだけの場所に、毎回毎回、たくさんの人が集まって来てくれている。

 時間となり、今日は咲沢が自らパソコンを操作して、配信を開始する。画面には見慣れた芹沢なずなの顔が映り、咲沢の表情に連動する。


「はいはーい、こんばんはー、芹沢なずなです! みんな今日も来てくれてありがとう! 最近ようやく暖かくなってきてくれたよね。なずな、寒いのほんと苦手だからありがたいよ。まぁ……暑いのは暑いので苦手なんだけどさ。あっ、そうだ。みんなは夏と冬どっちが――っ、好き、かな?」


 一瞬だけ、まるで通信が途切れたかのように咲沢の声が途切れる。視線を動かし、流れていくコメン卜を見る。


 「寒い方が苦手ー」「この時期が一番風邪が怖い」「夏は虫がきつい」「こんばんはー」


 そんな、雑談の軽い感覚で発せられたコメントの中に、


 がんばれー。


 そう、ただの励ましの言葉があった。

 珍しいことじゃない。今までだってあった。あったはずだ。応援の言葉なんて何一つだって珍しくないし、ありがたいことだ。でも、咲沢が言葉を詰まった原因は、間違いなく、このコメントだ。

 なんでもない、ただのオープニングトークに。今まで難なくこなしてきたただの挨拶の、何をがんばれというのか。

 考え過ぎだ。邪推が過ぎる。こんなの、無駄に裏を読んで勝手に余計なものを読み取ってしまっているだけだ。

 でも。その意味を読み取ったからこそ、咲沢は一瞬でも言葉を詰まらしたんじゃないのか?


「それじゃ、早速今日もゲームやっていくね。さすがに明日は学校あるから適度なところでやめるつもりなんだけど……どうかなぁ。ちゃんとキリのいいところでやめられるかな私……あっ、今日はUちゃんはいないからね……ちょっと、なんでそんな一斉に残念そうにコメントするのさ。いいじゃん私一人でも!」


 明るい声が。いつもの調子が、どうしてかいつものように聞こえない。不貞腐れたような声が、怒ったようにみせる声が、どこか空々しく聞こえた。

 僕の心境のそうさせているのか、咲沢がそう感情を乗せて発しているのか、判断すらできない。

 咲沢自身が、芹沢なずなは創り上げたキャラクターだと言った。それは事実だ。申し訳なさそうに、それでも「それが事実だから」と言わんばかりの強さで、僕に言ったんだ。それはそう簡単に覆らない事実で、僕の心境に働きかけるのは十分だ。

 そして、咲沢の声を聴いているのは僕だけじゃない。視聴者の、決して少なくない数の人間が今もなお彼女の声を聴いている。

 どうかこの声に、空虚さを感じてしまうのは僕だけでであってくれ。そう心から願う。でも、ダメだ。また流れていくコメントの中に見つけてしまう。


「……うん。応援、ありがとね」


 がんばれなんて、どうして今言ったんだよ。今咲沢が何か挫けそうになっていたか? 爽快に敵を倒したばかりじゃないか。そのがんばれは、何に向けたんだよ。

 おまえらだってこれまで芹沢なずながどういう人間か知らなかったし気づいてもいなかっただろ。今まで通りでいいじゃないか。そもそも咲沢は、芹沢なずなをがんばって演じているんじゃない。それが、咲沢にとって配信中の自然体なんだ。

 楽しいから楽しそうにしている姿に、がんばれなんて見当違いな言葉を投げつけるな。


「……ねぇ」


 画面の中のキャラクターを操作しながら、咲沢がそっと呟く。ボタンを一つ押すだけでキャラクターは大きな剣を振り、一度の攻撃で十人以上の敵を吹っ飛ばしていた。


「私って、無理してるように見えるかな」


 唐突な質問は、彼女の配信を見ている視聴者全員に混乱を生んだ。何の話かわからない人。話はわかっているけれど、その話題を持ち出されると思わなかった人。理解し、肯定する人。否定する人。多種多様の反応を見せ、多種多様のコメントが返ってくる。


「本当の私って、なんなのかな」


 答えを求めていない、ただの独り言のような調子だった。そう呟きながら押したボタンで、画面の中のキャラクターは敵を倒して先へと進んでいく。


「がんばっていたつもりなんて、ないんだけどな」


 もう誰も、ゲームの話をしていなかった。どれだけステージの先を進んでも、咲沢の言葉を聞いて、混乱し、心配し、突然の不穏な雰囲気に浮足立っている。

 それっきり、咲沢は何も言うことがないままゲームを終えた。画面を見る咲沢の横顔は、特におかしなところは見当たらない。声をかけようにもかけられない。僕は雑用紙に言葉を書こうとして、結局なんて書けばいいかわからずにペン先は動かせずにいた。


「ごめんね。急におかしなこと言っちゃって」


 その言葉は、僕に向けられているようにも思えた。

 声色が、配信をしてる時の咲沢じゃないから。芹沢なずなじゃない。普段の、教室の中で俯いている時の彼女のような、表情と声色で。


「最近、勉強の方も忙しくてちょっと疲れちゃってたみたい。期末のテストも近いし。なずな、これでもちゃんとした学生だからさ、勉学にも励まないといけないの。だから、ちょっと配信の頻度下がっちゃうかも。みんな、ごめんね」


 テンションが低い。その一言だけで片づけられると思えないほど、咲沢の声色が沈んでいた。まるで僕や菜美さんに話しかけるような、いつもの調子。

 芹沢なずなの口が動き、咲沢那奈の声が配信されている。


「詳しいことはまた連絡するから、今日は配信は終わるね。お疲れ様でした」


 そう言って、咲沢の手はマウスを動かし、配信を終えるための操作を行う。混乱しきったコメント欄を一瞥すらしないまま、芹沢なずなの配信は終了した。


「ごめんね、ゆうくん」


 謝られても、僕にはなんて返せばいいかわからなかった。カメラに認識しやすくするために前髪は上げられて、彼女が浮かべている苦笑がよく見える。普段は分厚いレンズの向こうに見えるはずの、今にも泣き出しそうに潤んだ瞳ですら。


「今まで何度も配信事故染みたことはしてきたけど……こんなガチのやつは初めてかも。あー……やっちゃったなぁ」


 何かのミスではなく、自らの意思で起こしてしまった。後ろ向きな話題になるかもしれない、《ルビを入力…》取り返しのつかないことだ。一度ネッ卜の海に流れていった情報は、回収することなどできやしない。

 そんなことは、きっと、僕よりも咲沢の方がずっとわかっていて。


「……なんかね、芹沢なずなってどうやってやればいいのか、わからなくなっちゃった」


 無理矢理笑うような、不格好な笑みを浮かべていた咲沢に。僕は、何を言えばいいのかわからなかった。





 いつだって、ゆうくんは私の前を歩いていたと思う。

 家が近いから、お互いの両親の仲が良かったから。そんな、偶然の理由で私たちは幼い頃から一緒に過ごし、遊ぶことが多かった。自分の性格や、好み、優劣の差なんて気にするよりもずっと前から。お互いを友達として認識して、一緒にいた。

 今思い出しても楽しかったし、幸せな日々だったと思う。


「二木くんは本当に優秀だね」


 必死に、頑張って。絞り出すように。私とゆうくんの関係がどうして続かなくなったのか。その理由を思い出そうとすると、この言葉が出てくる。小学校の、いつだったのかも思い出せない。何学年の担任の言葉だったのかすらあやふやで思い出すこともできないけど。その言葉だけが、ずっと残っている。

 ゆうくんはその言葉のとおり、本当に優秀だった。器用で、大抵のことを上手にこなすことができた。勉強も、スポーツも、いつだってそれなりの成績を収めてきた。だから、先生のその言葉を、誰も否定することなんてなかった。


 ――じゃあ、私は?


 そう考えた時。私の足は、いつのまにかゆうくんの後を追うことをやめていた。いつだって不安で、情けなくて、すぐ泣きだして、投げ出してしまう私は、いつのまにか、ゆうくんの傍にはいられなくなっていた。彼の隣に、立つこともできなくなっていた。

 ゆうくんも、後ろにいる私を振り返ることもなくなって。一人になって。クラスの中でも冴えない、いつも俯いているだけの私が、当然のようにできあがった。

 なんでもできるゆうくんに引っ張ってもらって、ようやく笑えていた私が彼の傍にいられなくなったら、そうなるのも当たり前の話だ。

 そんな自分が嫌いで、情けなくて。でも、だからといってまた彼の隣に立つことも怖くて、できなくて。ずっと、教室の隅で俯いて日々を過ごす私に。お姉ちゃんが声をかけてくれた。


 そして――芹沢なずなを、教えてくれた。


 口下手で、楽しい話題なんて全然喋れないってわかってるのに。お姉ちゃんは、作ってみたからどうだ? なんていつもの調子で聞いてきて。パソコンの前に立って、カメラのレンズが向けられて。

 口を開いてみれば、画面の中で、私とは似ても似つかない可愛い女の子が、私と同じように、口を開いた。

 私じゃない女の子が、私の口で、私の目で、私の表情を読み取って――そこで、笑っていた。

 おっかなびっくり始めた初めての配信を、最後まで見届けた人は一人だっていなかった。当たり前だ。外面だけいくら愛らしく、可愛い女の子でも、中身がこんな冴えない人間では、誰だって見続けようとはしない。

 言葉に詰まってばかりで、視線も右往左往して、誰に語りかけているでもない不明瞭な言葉は、誰にだって届かない。

 それは、本当に。本当に久しぶりの、悔しいという感情だった。

 こんなにも可愛い女の子の声は、もっとハキハキと、元気よくあるべきだ。こんなにも可愛い女の子は、まっすぐ前を見て、もっと快活に笑うべきだ。もっと楽しく、明るく、元気に。

 自分の中にはない、自分にあったらよかったなと思う、自分が一番欲しいものを、全部映し出して。

 そうやって生まれたのが、芹沢なずなという、架空の女の子だ。

 誰の目にも触れることはなかった初配信は、ネット上から消し去って。また、新しく。今度はしっかりと前を見て、初配信をやり直した。

 自分でも全然わからないけど、いつのまにか、そうやって作り上げた架空の女の子を、たくさんの人が見てくれるようになった。楽しいよ、可愛いよって言ってもらえるたびに。

 ……「自分」が、認められていくような感じがした。似ても似つかないはずの、自分の中にはどこを探したって見つからない部分で構成された女子を、これが正しいんだって思った自分を、肯定された気がした。

 お姉ちゃんが芹沢なずなの新しい衣装を用意してくれるたびに、嬉しくって、自分でもびっくりするほどの元気な声でお披露目することができた。一人じゃ絶対できっこない、すぐ諦めてしまう難しいゲームだって、何時間だって挑戦することができた。自信のなかった歌だって、上手だよって言ってくれるのが嬉しくて、楽しくお腹の底から声を張り上げた。本当に恥ずかしかったけど、私の拙い演技で口にした台詞で、喜んでくれる人の存在が嬉しかった。

 そうして、もう絶対にありえないと思っていたのに。あのゆうくんが、隣で配信を手伝ってくれるようになって。楽しくって楽しくって仕方がなくて。

 だから、自分はもっと、楽しいことができるって、錯覚した。

 私以上に、私なんかが無理して絞り出したものじゃない。持ち合わせていた明るさと器用さでVtuberとして活動してきた人たちと並んだとき。

 あっさりと、そのメッキは剥がれ落ちた。

 自分が思ったことを、感じたことを一人で話し続けることでしか、芹沢なずなは保てなかったのだから。一方的で勝手な振る舞いでしか、芹沢なずなを表現したことなんてなかったから。

 だからあっさりと、わからなくなったんだ。


「コラボなんて、するんじゃなかった」


 事故、と言っても差し支えのない配信を終えて、ゆうくんも帰った後。一人になった部屋の中で呟く。

 今まで私が芹沢なずなとして配信をしてこれたのは、ただ単純に、自分勝手な振る舞いが許されていたからだ。好きなように話して、好きなようにコメントを拾って、好きなように笑った。他の人が、ゆうくんのように黙ってくれているわけでもない人が一緒にいる場で、そんな振る舞いは許されない。

 許されない環境に置かれて、どうすればいいか、全然わからなくて。芹沢なずなとして振舞うことができなくなって。


「これじゃ、がんばれって言われても、仕方ないよね」


 でも、がんばれなんて言われても。今まで、がんばってきたわけでもないのに。

 どうやってがんばればいいのか。何を、がんばればいいのか。

 もう、何もわからなくなっていたんだ。

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