2日目

インターホンが鳴る。

既に10分以上も前から登校の準備を済ませてその音を今かと待ち構えていた僕は、音が鳴った方向へと歩みを進める。

扉を開けると視線の先にはいつもと変わらない先輩の姿があった。


「鏡よ鏡よ鏡さん。この世でいちばん美しいのはどなたでしょう?」

「先輩と答える以外の選択肢は僕にはありませんよ」


そして今日もまたいつもと変わらない朝が始まる。



「そういえば。鏡さんは何を根拠として私が一番美しいと仰るのでしょうか?」

「……どういうことです?」

「だって森の中で人知れず育った女性の情報すらも把握できるGAFAも真っ青な魔法の鏡ならいざ知らず。貴方は一介の人間に過ぎないでしょう?でしたら何かしらの理屈があって、その上で私が一番美しいと述べているはずですわ。是非ともそれを教えて頂きたくって」

「理屈って……」

イタズラっぽい笑顔で僕を見つめる先輩の顔をまじまじと見つめ返す。大きく黒い瞳、ハッキリとした目鼻立ち、頬はほのかに朱がともり、弾力がありそうな唇を横に広く伸ばしている。

控えめに言っても美人だと思うし、一般的感性を備えた人間ならば誰が見ても僕と同じ感想を抱くだろう。少なくとも僕は先輩よりも容姿の整った人間を未だかつて見たことがないし、今後も出会うことはないのではないかという確信がある。

けれども今の問いかけに必要とされているのはそんな不確定要素の強い印象論でなくって。もっと理論と遊び心に溢れた答えが望まれているのではないか。だとすればそれに応えたいと思うくらいには、僕も良い格好がしたいお年頃ではあるわけで。


「……シカゴのピアノ調律師の話って知ってます?」

「うん?フェルミ推定の話ですの?」

「あーそれです。そんな感じの横文字でした。とある地域における調律師の人数を尋ねられた時に、その地域における人口を初期値で入れてしまえば、あとは世帯数がどれくらいかとか、ピアノがある世帯は幾つかとか、そういう複数の想定をもってして、最終的に導きたい答えの概算を得るってヤツですね」

「まあその程度の知識ならば私も知ってますけど……それがどうかしましたの?」

「つまり先輩がこの世で一番美しいか否かというのもある種のフェルミ推定なんですよ。先輩という初期値を入れた上で『世界で最も美しい人間』という捉えどころがなく、かつまともに比較をすれば計算量も膨大になるような問いかけに対して、複数の想定をもってして、概算の、しかし限りなく正しい値を返す。そういった非常に複雑かつ高度な計算が僕の脳内では毎日のように行われているわけですね」

「はあ……。の割にはいつも脳死で同じ返答をしているような気がしますわね?」

「それは導くプロセスがブラックボックスであるが故の誤解というものです。すなわち大量のマーケットデータをディープラーニングしたAIの売買シグナルよりも、歌舞伎町あたりをうろついている少し羽振りが良さげなオッサンの儲け話に重きを置いてしまう人間の悲しき性に先輩も囚われているわけですね」


「……でしたら。ちなみに今日はどのようにして私が最も美しいという答えを導いたのでしょう?」

「……え?」

「……?どうしてお困りになられるのでしょう?本当にAIが弾き出したならいざ知らず、実際にその答えを導いたのは他ならぬ貴方ではありませんか。でしたらそのプロセスだってしっかりと貴方のシナプスには焼き付いているはずですわ。違いまして?」

「……違いませんね」

「そもそも。フェルミ推定はその導き出す過程が最も重要なのです。つまりプロセスに用いた想定が蓋然性の高いものであると提示できない場合、結論の信頼性も地に落ちてしまう訳ですから、その想定を人に伝えることも出来ないなどということは言語道断と言わざるを得ないですわ!」


「…………。『言語道断と言わざるを得ない』ってオクシモロンみたいで面白いっすね」

「は?」

怖い。先ほどまでの笑顔が嘘のようにキッと目を吊り上げ、重低音の唸り声を上げる先輩に対してなんとか納得させる言葉を見つけようとする僕がそこには居た。



「…………まず。僕と面識がある女性を挙げるわけです」

「……続けて下さる?」

「その総数はだいたい10名……多く見積もっても15名?くらいな訳ですが……」

「……?貴方のクラスメイトの半数は女性なのですから、少なくとも20名は居ないとおかしいのではなくって?」

「……ここで言う『面識がある』とは即ち顔と名前が一致している方を指します。言葉の定義に厳密性を欠いていましたね。申し訳ないです」

「……………。定義を厳密にしたせいで貴方がクラスメイトの25%の女性の名前と顔が一致していないという何とも言えない事実をつまびらかにしてしまって私こそ申し訳ない気分ですわね……」

「あ、『面識ある女性』には家族とあと学外の人間も含んでるんで、クラスメイトで顔と名前が一致してるのは3名……いや5名はワンチャンある、くらいですね」

「いや顔と名前を一致させることにチャンスタイムは本来必要ないはずですわ!どうしてその程度のことにギャンブル性がありますの!?」

「人の名前を覚えるのって苦手なもので……」

「……。もしかして私の事をいつも先輩で統一してるのも……?」

「…………。まあその15名のうちで僕が最も美人と思うのが先輩な訳です」

「ちょっと?名前。私の事を名前で呼んでくださいまし?」

「つまり僕という認識世界において最も美しい女性は先輩な訳ですね」

「数か月同じ教室で授業を受けているクラスメイトの存在すら無と化している貴方の認識世界で最も美しいとかランク付けされても全く嬉しくないですわね。あと名前。私の名前は?」


「次にこの僕が認識している世界と現実の世界にどれほどの差異があるのか、ということを考えてみましょうか。もしその二つが完全にイコールであれば、先輩が最も美しいという僕の世界における結論が、現実の世界でも同値として導き出せる訳ですからね」

「もし完全にイコールだった場合、女性のネームドが15名程度しか存在しない悪夢のような世界になってしまうのですが?」

「もちろん僕は『僕の見えている世界が全てだ』なんて世間知らずな蛙のようなことを言うつもりは毛頭ありません。だって世界が広いなんてことは、ちょっとスマホを操作して、インターネットという情報の波に攫われて……さらされることで……まあ……そうやって世界は広いってすぐに分かることですし」

「…………。『井の中の蛙大海を知らず』って言葉とネットサーフィン辺りの語句を組み合わせようと見切り発車して、実際大して上手く言えなかった感じですわね?」

「……………………。とにかく!世界は広いんですよ!」

「で?その広い世界において私が美しいと言える根拠は?」


「誰だって今よりもっと広くて正しい世界があることなんて分かり切ってる訳ですよ。自分の上位互換なんてこの世に腐るほど溢れていて。そしてそんな自分に似た自分よりちょっと優れた人々が、自分と似た自分より洗練された感性で、自分より多くの情報を、自分よりちょっとだけ上手く処理して、自分より多くの世界へと足を運ぶんです」

「…………?要領を得ませんわね?」

「この時代って真っ当に生きれば、それは誰かの後追いになることを避けられなくって。誰かと同じことを考え、誰かと同じようなレールを走り、誰かと同じような幸せと不幸の中を泳ぐのは、もうしょうがないじゃないですか?」

「…………。」

「けれども!それでも自分を信じたいじゃないですか。自分が一番だと思っているものはきっと世界でも一番だって。世界が見知らぬ場所まで広がってしまった後でも、自分が信じたそれ1点に関しては不変な価値観を持ち続けることができる人間であると!信じたいじゃないですか!」

「…………。えっと?その?つまり?」


少し困惑気味の様子で僕が吐く熱を帯びた言葉の行く先を見守る先輩。そんな先輩の表情視界に捉えた僕は先輩を安心させるため、そして自分自身を落ち着かせるために少し長めの息継ぎをする。そして。次に予定していた言葉を紡ぐ。


「……………………。着地点どこだったっけ‥‥?」

「は?」


先輩が怖い。いやだけどね?続きなんてものはないんだ。着地点なんかあるわけない。だって適当に喋ってるだけだもん。なんか言葉を長々と続けてれば答えが見えてくるかなとか思ったけれども見通しが甘かった。大反省である。


「あーっと。……まあ?今ので分かったかもしれませんが、僕の思考回路はこんな感じでグチャグチャ、滅茶苦茶、ハチャメチャで、自分自身ですらも捉えどころがなくあやふやな訳です。そんなブラックボックスによって導き出された唯一解によって僕は『先輩が世界で一番美しい』と述べてるって訳で……。あ、だからそれを他人に説明するのは無理ってことです!僕の思考プロセスは僕自身にとってもブラックボックス!けれどもAI開発者が『学習手法が正しいのだから、出力結果も正しくなるはずだ』と考えるのと同様に、正しい人生を歩んできた僕は自身の出力結果が正しいと確信を持っている!よし、繋がった!」

「見切り発車で飛び出したレールの先に予期せぬ降車場所があったからってはしゃぐのやめて下さる?あと貴方が正しい人生を歩んでいる人間であれば、異性の顔と名前を15名程度しか一致しないはずがないですわね」


そう言って呆れたように溜息を吐く先輩の横顔も相変わらず美人であったから、やはり僕の導き出した答えに間違いはないはずだ。



ふと気付けばもうそこは校門前。いつもは先輩から発せられる別れの挨拶を、けれども今日だけは少し勇気を出して僕が先に行う。

「じゃあまた明日も会いましょう!先輩!」

そう言って右手を上げる。そう僕だって何も覚えていなかった訳じゃない。

ただ面と向かって覚えていると主張するのがなんだか気恥ずかしかっただけで。

先輩は少し驚いたように目を見開くと、ニコリと笑顔になって僕に言葉を返した。



「わたくしの名前は廿樂つづらですけど?」



「三択までは絞ってたんだけどなぁ……。ワンチャンなかったか」

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「鏡よ鏡よ鏡さん この世で一番美しいのは誰?」「先輩だと思いますがボクの名前は加賀美です」 らんたんるーじゅ @ranging4th

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