十話
翌日は、朝から全てが輝いて見えた。制服も鞄も家の中も教室も。理由はもちろん柚希の笑顔からだ。たった十五分ほどおしゃべりしただけなのに、まさかここまで効果があるとは。にんまりしていると、エミが声をかけてきた。
「ずいぶんと楽しそうだね。いいことでもあった?」
「ううん。何でもないよ」
エミは柚希に惚れていないしバラしてもよかったが、秘密にするのもそれはそれでいい。あのひとときは、ずっと二人だけのものにしたい。遠くにいるとわからないが、柚希はタレ目で子犬のような瞳だ。柚希をかっこいいではなく可愛いという子もいるが、たぶんあのキュンキュンする瞳がそう感じるのだろう。
「はあ~。まじ柚希くんってかっこいいよ……」
「そういえば今日、英語のテストあるけど、平気なの?」
タライが上から落ちてきた。幸せでいっぱいな時に言わなくてもいいじゃないか。ううっと俯いて、汗が額に浮かんだ。
「頑張る……」
掠れた声で呟くと、エミは頭を撫でてくれた。
不安だったがとりあえずテストは終わり、昼休みになった。エミは教師に呼ばれて職員室に行ったので、弁当は一人で食べようと決めた。高篠と初めて会話をした空き教室に入り蓋をとる。大好物のから揚げを口に放り込んだ。
「おいしーい。お母さんのから揚げ、最っ高!」
独り言を漏らすと、くすくすと笑い声がした。
「そんなにおいしいの?」
声がした方を向くと、柚希がこちらを見て座っていた。恥ずかしくて全身から火が出そうだった。
「お母さん、料理上手なんだね」
「ふ、普通。特に料理上手ってわけじゃ」
「だけど最高なんだろう?」
どきどきして無意識に視線を逸らす。きょとんとした顔で柚希が覗き込んできた。
「日菜咲さん。どうしたの?」
「あ、あの。あたし、男の子と話すの慣れてなくて」
「男の子と話すの慣れてない子は、大声で怒鳴ったりできないよ」
そういえば、あの男に叫んだのを聞かれてしまった。本当にあいつと関わるとろくな目に遭わない。
「今日、ずっと日菜咲さんを探してたんだ」
柚希は微笑み、すずめに手を伸ばしてきた。柔らかく暖かな指が頬に触れる。
「ようやく見つかったよ。制服の日菜咲さんもいいね」
ぽわんぽわんと頬が火照る。柚希の言葉一つ一つに体がとろけそうになる。
「ゆ、柚希くんも制服似合ってるよ。やっぱり女の子にモテモテなだけあるね」
「そうかな? 嬉しいよ。ありがとう」
ずっと憧れだった柚希が、自分を見つめている。誰にも邪魔をされずに、二人きりになれる。なんて幸せ。なんて素晴らしい……。
「あっ。俺、用があったんだ。ごめん。もう行かなくちゃ」
「え? そうだったの?」
「うん。先生に頼まれちゃってさ。いつも雑用があると俺に押し付けるんだ」
つまり頼られているという意味だ。優等生という証だ。ドアを開け、手を振ってから柚希は廊下を走って行った。その姿が消えると、むふふ……と微笑みガッツポーズをする。
「あたしを探してたって! ということは、これって友だちになったってことだよね! 王子様と仲良くなれるなんて……」
そして、いつしか親友になって恋人同士になって結婚する。勝手な想像だが、そういう未来が待っているかもしれない。ふわふわと妄想が溢れて止まらない。
その後、柚希に会えるチャンスは残念ながらなかったが、帰り道はスキップして歩いた。周りは真っ暗なのに、真昼のように明るく感じた。
「また明日もお昼におしゃべりできないかなあ。次はお弁当も食べて」
「おい、鳥女」
背中から声が聞こえた。足を止め振り向くと、高篠が立っていた。
「気持ち悪いな。にこにこして」
「うるさい。あんたには一切関係のないことだから。また喧嘩したの?」
「してねえよ。怪我してないだろ」
「ふうん……。まあいいけど。もう喧嘩するのやめたら?」
「やめたくても絡まれるから仕方なく付き合ってやってるってだけだ」
「仕方なくか……」
はあ、と息を吐くと、高篠もため息を吐いて答えた。
「お前、あの真壁柚希って奴が好きなんだな」
「そうだよ。中学一年生の時に一目惚れしたの。それからずっと好きなの。だってイケメンだし優しいし頭もいいしお金持ちだしっ」
「へえ……。恋人同士になりてえんだな」
ぽんっと照れて、首を横に振った。
「恋人になんかなれるわけないじゃん。柚希くんがどんなにモテてファンがいるか。あたしは、ただ遠くから眺めていられればいい。ただの憧れでいいの」
「……もったいねえな」
固い口調で高篠が呟いた。驚いて目を丸くした。
「もったいない?」
「憧れでいい? 眺めていられたらいい? なんて時間の無駄遣いなんだか。すげえもったいねえことしてるぞ」
むっとして、すずめも言い返す。
「あんたには関係ないじゃん。あたしがいいって考えてるんだから。いちいち突っかからないでくれる?」
「別に、もったいねえからそう話しただけだ。じゃあ俺は帰る」
すたすたと高篠は横を通り過ぎ、すぐに姿は消えた。
「……全く、あたしの言うことやること全てに文句言ってくるんだから。あの歪んだ性格、治せばいいのに」
その点、柚希は思いやりもあって気遣いもしてくれて本当に人間ができている。同じイケメンでも、あいつと柚希は正反対だ。
「時間の無駄じゃないもん……」
少し高篠の言葉も心に引っかかったが、すずめも家に帰った。
それにしても、なぜ高篠が柚希を知っていたのか。また、すずめが惚れているのを知っていたのか。図書館で二人で会話しているところを見られたのかもしれない。もちろん、あの男についていろいろと調べる気にはならず、柚希ともっと仲良くなるのを願うだけにした。
翌日も空き教室に移動したが、柚希は来なかった。放課後になっても会う機会はなく、とぼとぼと帰り道を歩いた。毎日、柚希とおしゃべりできるというわけではなく、こういう日があっても仕方がない。何と言っても相手は王子様なのだ。すずめなど、平々凡々な村人だ。あーあ、と息を吐くと、あいつの声がした。
「昨日とはうって変わって、暗い顔してんな」
「ほっといてよ」
「鳥もそうやって落ち込むことがあるんだな」
「だから、あたしは鳥じゃなくて人間だって」
「お前の親もネーミングセンスねえな。おかげで鳥女にさせられたわけだし」
「あんただけよ。鳥女なんて呼んでくるの」
「でも、俺は間違えてねえぞ」
すずめが鳥なのは当然だ。だからといって、すずめを鳥女と呼ぶのは失礼だ。びしっと高篠の顔に指を差し睨みつけた。
「いい加減、あたしに文句言うのやめて。あんたのせいで、柚希くんと会うチャンス逃してるんだから」
「は? 俺のせい?」
「そうだよ。わかんないの? あんたがあたしの幸運を食い潰してるの」
「俺になすり付けるんじゃねえ。お前が、憧れでいいとか眺めていられればいいとか決めてるからだろ」
冷たい槍が胸に刺さった。確かにすずめは柚希とは恋人にならず、かなり逃げ腰だった。本当は柚希と愛し愛されるまでの仲になりたいのに、積極的になれない。図星だったため言い返せず、力なく項垂れた。
「……とにかく、あたしにつきまとうのはやめてよ」
呟き、すずめは大股で歩いて家に帰った。
「すずめ? 顔色悪いよ?」
知世が心配そうに聞いてきた。首を横に振って即答した。
「な、なんか疲れちゃって」
「しっかり睡眠とりなさいね。ストレス溜めないのよ。悩みがあるならお母さんに相談しなさい」
娘想いの母の柔らかな言葉で、先ほど胸に刺さった槍は溶けていった。「わかった」と頷き、言われた通りその夜は早めにベッドに入った。クッションを抱き枕にし、無意識に独り言が漏れる。
「時間の無駄じゃないもん。確かに好きなら恋人同士にはなりたいけど。柚希くんはファンがいっぱいいて近づくことさえできないんだもん。しょうがないじゃん……」
イケメンで性格もよくて王子様な柚希。周りにいる女の子も大人っぽくておしゃれで可愛くてお姫様みたい。村人のすずめには、とても手が届きそうにない。
「いいや。全部忘れて寝よう……」
もう一度呟いて、ぎゅっと目をつぶった。
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