エミコとコト子 その8 「頼むから死んでくれ」



***



 大型連休が終わってもコト子は学校に来なかった。

 心配したクラスメイトたちが私に聞きにきたが、その度に私は曖昧な返事を返すしかなかった。そして、五里霧中なのはなにも私や級友たちに限った話ではない。


「―――そうですか。そんなことが…………」


 担任の渡辺ミチルはずっと思案顔で私の話を聞いていた。言葉を吐くたびに美術準備室の絵具とシンナーの入り混じった空気が肺に入っていくのがひどく気持ちが悪い。

 プライベートの話をそのまま話すことに迷いがなかったわけではないが、事は本人の体に関わる話だ。自分の偏狭な胸の内に収めていい話ではないだろう。


「コト子の“事情”を先生は知っていたんですよね?」

「はい、知っていました」


 予想通り渡辺ミチルはあっさりと認めた。


「立花さんが通院されていたソーシャルワーカーさんからお話は伺ってました。立花さんのストレス解消法のことも…………ね」

「だから、フィギュアヲタクの私とくっつけようとしたんですか。確かに私といたらプラモを作っていても自然ですもんね」


 コト子を造形部に勧誘するように言っただけではない。今思えば、コト子が教室から出ていったときも最初から私に行かせるつもりだったのではないか。

 抗議を込めて嫌みっぽく言うと担任は苦笑いを浮かべるだけで否定も肯定もしなかった。三半規管がぐらぐらと揺れるような感覚を覚えていると担任はふっと笑った。


「部活は楽しいですかあ?」


 なぜに今、その質問をする? 意図がわからなかったが、考える気力もない。だから、思うままに答えた。


「楽しかったですよ」


 口に出した途端、じりじりと焼けつくような後悔が胸を焦がす。

 当たり前だ。楽しかったに決まっている。美少女だとかプラモ屋の娘だとかちょっと変なところがあるとか、そんなことはまるで関係ない。

 同じ時間を一緒に過ごして、隣で笑いあう。

 それだけで世界はなんて輝いていたのだろう。

 たとえ相手の考えていることなんてわからなくても、

 たとえそれが勘違いだらけかもしれなくても、


「…………楽しかった」

「うん、そうですね」


 目の前に座る大人は助言めいたことを何一つ言わない。ほんの少しだけ私の目を春の陽のような眼差しで見つめるとすっと視線を逸らした。


「雨が降りそうですねえ」


 窓の外は鉛色に染まっていた。僅かに開いたサッシの間から湿気を含んだ風が通り抜けていく。


「また、梅雨が来るんですねえ」


 夏はモデラーにとっては受難の季節だ。湿気で塗装が乾きにくいどころか白化現象が起きてしまうのでそもそもやるべきではない。でも、第二美術室の換気設備だったら大丈夫かもしれないな、そんなことをなぜか思っていた。

 コト子はもう戻ってこないかもしれないというのに。

 それ以上は何も言うべきこともなく美術準備室を辞した。

 靴箱から靴を出すと外は白い糸のような雨が音もなく降っていた。期待することなくスマホを開いてみるが、当たり前のように着信通知はない。


「…………ヨドバシにでも寄るかな」


 アスファルトの凹みに足を踏み出す度に跳ねた水飛沫がローファーを濡らす。ぴしゃり、ぴしゃり、ぴしゃり…………。私はその回数を数えるかのように自分の靴を飽きることなく眺めていた。不思議と誰ともぶつかることもなかったし、音すら何も聞こえなかった。まるで世界にたった一人残されたようだな、そんな阿呆なことを考える。



「――――――――――――」

「…………そうですか。学校で待っていると伝えてもらえますか?」


 ノイズとともにインターフォンのチャンネルが閉じられる。濡れた黒い箱から目を離すと門扉の隙間から庭が見えた。鮮やかな緑のあちらこちらに紫陽花の蕾が膨らんでいた。ものによっては色づきはじめているのもある。

 自動扉を潜ると空調の効いた室内の空気が濡れたシャツを更にひんやりとさせた。乾いた紙とプラスチックの匂いが鼻をくすぐる。タオルで身体を拭きながら店内を見るともなく見ると中学生らしき数人がTCGトレーディングカードゲームの袋のコピーを真剣な表情で手に取っている。まさに運命の分かれ目といったところか。やめとけやめてけ、当たっても外れてもロクなことにならんぞ。そんなことを思いながら彼らの横を通り過ぎた。

 カウンターに座っていたのは初老の店主だった。店内への注意はそこそこに少し古めのDELLで何かを打ち込んでいる。ぼんやりと立つ私が孫娘と同じ制服を着ていることにも気がついていない。コト子のことを聞こうか迷ったが、結局声をかけられなかった。

 …………きっとインターフォンで聞いた内容と大して変わらないだろう。

 自分にそんな言い訳をしつつ、かといって店を出るわけでもなく。頭の芯が妙に冷静なのを感じながら棚から棚へ彷徨い歩く。行き着いた先は2メートル程の高さのガラスケースだった。常連客のものらしい塗装済のプラモデルが名前と作品名付きで展示されている。なかには模型紙のコンテスト名が書かれているものもある。


「―――あ」


 ガラスケースのちょうど半分側に“それら”はあった。

 箱に入ったランナーを説明書通りに組み立てられたプラモデルの群れ。

 塗装はおろか墨入れ(立体感を強調するために筆やペンをモールドに入れる)やつや消しスプレー(プラスチックの光沢が消えてリアル感が増す)すら施されていない。 

 平凡極まりないいかにも「サンプル」といった趣き。

 でも、

 でも、そうじゃないんだ。


「…………何がプラモデルは嫌いだ、だ」


 あの、大ウソつき美少女め。


「…………嫌いなものをどうしてここまでできるんだよ……」


 ガラスケースの中に立つそのどれもが優しさに溢れていた。

 バラの剪定をするようにパーツが切り取られていた。宝石を磨くようにヤスリがかけられていた。表面には傷はおろか汚れ一つなく、高級車のようにぴかぴか光っていた。古切手を扱うようにピンセットで挟んだであろうシールは寸分のズレもなく貼られていた。

 ハイゴック―――があった。

 マシーネンクリーガー―――があった。

 そして、ほんの一週間ほど前に爪切りで無理矢理切り貼りした、あのプラモデルもあった。

あんなにもギザギザだったゲート跡はすっかり処理が施され、傷という傷も全て塞がっている。

 それらは紛れもなく『作品』だった。

 “最高の初心者”が作った、優しい『作品』たち。

 私は何一つ間違ってなんていなかった。

 やはり立花寿は「造形部」に入るべきして入ったんだ。

 だから、もう私は―――。


「―――なあ、もうやめとけよ」


 ハッとして振り返ると先ほどの中坊たちが何やら揉めていた。悲愴な面持ちでカウンターに向かおうとする一人を二人が腕を掴んで止めている。


「でも、もしかしたら“奇跡”が起こるかもしれないじゃないか」

「いや、絶対ないって!」


 どうやら外れを引きすぎて引っ込みがつかなくなったらしい。おそらくお小遣いの残り最後であろう硬貨をトレイに置くと店主に向き直った。

 少年がこくりと頷くとお釣りもそこそこにカードのパックを受け取った。そして、震える手で借りた鋏をビニールに入れていく。横でそれを覗く友達二人は今にも泣きそうだ。


「…………やった」


 少年の顔に戸惑いの混じった笑顔が浮かぶと瞬く間に他の二人も、あるいはそれ以上の喜色で輝きだす。ハイタッチする三人に店主は呆れたような苦笑いを浮かべた。


「…………“奇跡”、ね」


 そっと店の外に出ると雨はまだ降っていた。

 灰色の空に浮かぶ日本家屋を仰ぐ。

 やっぱり無理に決まっている。立花寿の過去は私には重すぎる。妙な思いつきで行動したところで私に責任なんてとれるわけがない。専門の大人に任せるべきだ。本当の奇跡はカードの袋を鋏で切るだけで現れるようなものではないのだ。


 ―――エミコはどうしたい?


 まただ。

 また、あの女の亡霊が私にろくでもない囁きを吹きかけている。


「…………いい加減にしろよ」


 心の中で舌打ちする。いや、間違いなく実際にしていた。

 それはいつぐらいだったか。

 立花寿のことを考えると常に音谷しのを反射的に思い浮かべるようになっていた。

 私は“あの日”の“音谷しの”になりたかった。

 立花寿にとっての“音谷しの”になりたかったのだ。

 でも、それは違う。

 私は私。

 満足に一つとして原型を完成させたことがないへっぽこフィギュアヲタクだ。


 ―――だから、自分で考える前に音谷しのを殺す。ぶっ殺す。


 私は思いきり自分の頬を張り倒すとおもむろにスマホを取り出した。コール音がずっと流れている間、はたしてアイツの今いる時間は何時だろうかとチラッと思ったが構わず続けた。やがて、五分以上経つとノイズとともに無愛想そのものの声が聞こえた。


『なに?』

「百回死ね!」


 ブチっと回線を切ると今度は向こうからかかってきた。


『だから、なに?』

「千回死ね!」


 それから何度も切っては受けての繰り返し。会話など成立しようがない。


『…………Zzzz』

「寝るな!」


 終いにはこの調子である。マイペースなのはいつだって変わらない。一年半前に私の価値観をコンクリートミキサーにかけてぶちまけた張本人。この女に出会わなければ私は消費型ヲタクのままメーカーの提供する商品を集めるだけの平穏な毎日を過ごせていたはずなのに。


「…………あんた、今は忙しいんじゃないの?」


 たしか、超有名な美術館で展示をするとヤフーニュースで読んだような。


『……まあ、多少眠いかな』

「…………悪かったわね。変な電話して」


 ホームページやインスタを見る限りは相変わらず訳のわからない『現代芸術』を作ってばかりのようだ。天才現代芸術家「音谷しの」が最高のフィギュア造形師であることは世界の誰一人として知る者はいない。


『エミコは?』

「私? 私は……エロ本の自販機の前に立っているよ」

『なにそれ』


 話したいことがいっぱいあった。高校でも造形部(美術部所属)を作ったこと。次のワンフェスを目標に活動していること、そして、面白い仲間ができたこと―――。

 しかし、代わりに出てきたのは自分でも思いがけない言葉だった。


「ねえ、“奇跡”ってあると思う?」

『あるよ』


 一瞬の間もなく、その女は言い切った。

 一万キロを通り越して光の速さでその意思はつながる。


「でも、行動しなければゼロはゼロのままだ」


 電話が切れる。その直前、微かに微笑む声が聞こえたような気がした。

 これで音谷しの(の亡霊)は死んだ。

 もう一度自分の頬を張り倒す。今度は二回。


「さあ、私はどうしたい?」


 雨にけぶる商店街に自分でも驚くほど大きな声が響く。けれど、構うもんか。あのいかにも女の子らしい部屋の中で今も引き篭もっているであろう天照アマテラスに向き直る。


「ヲタクは世界で一番強欲な生き物なんだ。あんなんで満足すると思うなよー!」


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