エミコとコト子 その7 「    、    、    」


 


 映画が終わったのは14時だったのですっかりお腹が空いてしまった。普段昼食を食べない私もカロリー消費高めの映画を見たせいか何かを口にしたい気分だ。


「ここでご飯を食べますか?」

「赤レンガで食べるよりもこっちのほうがまだ安いかもね」


 エスカレーターで一階に降りるとハワイを模したエリアが目の前に広がっていた。甘いアイスとロコモコの香ばしい匂いがペコペコリーヌなお腹をこれ以上ないほど刺激する。


「ふー、お腹いっぱい。やっぱりちゃんとした昼ご飯はヤバイですね☆」

「これに懲りたらちゃんとお昼を食べる習慣を作ってください。エミコちゃんがお昼を持ってこないものだから、教室のみんなが捨て猫にご飯をあげているみたいな雰囲気ですよ」


 もっとも一番餌をくれるのは目の前のあなただけどねー。いつも感謝していますヨー。

 太目のストローでズズッとタピオカをすすると今だけの心の贅肉を味わいつくす。コト子の方は虹色に輝くかき氷をスプーンで掬っては頭痛で顔を顰めていた。


「この後は『人形の家』でいいですよね?」

「いいよー」


 「人形の家」というのは横浜にある人形専門の博物館のことだ。ここから歩いて行ける距離にある。国内外の人形を展示している博物館だとは知ってはいたが、行ったことがないのでとても楽しみだ。プラモ専門のコト子はフィギュアもドールも似たような世界だと思って提案してくれたのだろう。実際立体化の対象が被ることが少なくない。


「でも、ドールはドールですごくディープな世界だからねー」

「そうなんですか?」

「そりゃそうよ。歴史がダンチだもん。それこそ人類発祥の頃からあるのだし」


 それから私は人間と偶像の歴史についてくどくどと話し始めた。溢れ出る言葉の一方で既視感を覚える。しかし、なんてことはない。私は以前にも同じことを話したことがあるからだ。

 ―――ああ、やはり私は「立花寿」という少女の上に「音谷しの」の幻影を勝手に重ねているのだろうか?


「さて、腹も落ち着いたし、そろそろ行きますか」

「はい」


 トレイの上をゴミが滑り落ちていく。カシャと小気味のいい音がしてトレイが重なると外のガラス扉を無意識に確認していた。外は眩耀しいばかりの光に溢れ、太陽に焼かれたアスファルトの幻臭が鼻をくすぐる。


「えっ―――」


 絶句。それしか表現しようのない一言が私の横から聞こえた。周囲は雑音だらけのはずなのにその声はまるで静寂を破る銃声のように聞こえた。


「…………なんで?」


 コト子の顔が真っ青になっていた。全身の筋肉が引き攣ったようにこわばり硬直していたが、やがてガタガタと震え出す。


「コト子?」


 今にも倒れそうな肩を支えたとき、冷たい汗が触れたのでギョッとする。

 コト子の見開いたままの瞳孔は一点をただ見つめ続けていた。視線の先を追うと私たちと同じぐらいの女の子がテーブルに座って談笑している。三人組で特に派手というわけでもないし、地味というわけでもない。知り合いでもなければ数秒後には思い出せなくなりそうな、そんな感じの三人だった。


「―――なんで笑えるの?」


 感情のない声が漏れるとギリギリと歯を食いしばる。


「(おかしいよ)」


 身体の震えと連動するように息が乱れに乱れていた。そして、あっという間もなくコト子は一歩を踏み出していた。掴み損ねた私の手を中空に残して。


「罪の意識はないの?」


 投げかけられた声を認識できない三人が訝しげな視線を投げかける。


「…………」

「…………」

「誰、この人?」


 そして、不審者を避けるようにテーブルからそそくさと立ち上がる。二人は嫌そうに視線を合わせないようにしていたが、一人がちらりとコト子を見た。


「あ、立花だよ、こいつ」

「立花? 誰だっけ?」


 その一言にコト子の身体がぴくりと跳ねた。


「人殺し!」


 フードコートが文字通り凍り付いた。スピーカーから流れるハワイアンミュージックがひどく遠く、ひどく歪んで聞こえた。


「人を一人自殺を追い込んでよくこんなところに呑気に笑ってられるね!」

「殺してねーし!」

「バカじゃねーの!」


 三人のうちの二人は食って掛かるように反論したが、一人は迷惑そうにそっぽを向く。一見するとコト子が孤立無援のように見えたが、そうではなかった。周囲からは好奇の目が、その中でも一瞬で状況を理解した者からは身勝手な義憤と嘲りが送られる。


「今はああいう子がいじめとかやっちゃうんだ」

「同じ目に遭えばいいのに」


 匿名の無責任な声がたちまち加害者と被害者の境界を曖昧にする。なおも一人は怒りを露わにしていたが、一人に撮影されていることを教えられるとたちまち逃げるようにテーブルを立ち去っていた。

 スピーカーの音楽が元に戻ると私はようやく我に返り、置き捨てられたトレイを見つめ続けるコト子の腕を取る。


「…………ごめんなさい」


 汗をかいたドリンクをレンズに投げつけてやりたかった。

 

 

 ショッピングモールを出た後のことはよく覚えていない。

 ここから離れなければ―――、ただそれだけしか考えていなかったと思う。握りしめたコト子の掌がいつまでも冷たく、まるで幽霊の手を取っているかのように感じたのだけは覚えている。

 気がつけばカマボコの形をしたビルを通り過ぎていた。「人形の家」とはまるで逆の方向に歩いていたのだが、そんなことに気にする余裕はもちろんない。もう少し歩くとコンサートホールの裏に出た。そこはちょっとした公園になっていて180度見渡す限り港が広がっていた。気持ちがいい眺望で心を落ち着かせるにはこれ以上ない。階段状になった水際線に座り込むとようやく私は一息ついた。


「…………ごめんなさい」


 渡したサーモスにほんの少しだけ口をつけるとコト子は呟いた。顔は漂白されたようでカタカタと震え続ける手だけが持ち主の感情を伝えている。私は何を言ったらいいかわからず、ただ細かく震える背中をさすり続けた。


「ごめんなさい、ごめんなさい。楽しい一日になるはずだったのに…………」

「大丈夫だよ。私はコト子と横浜に来られて楽しいよ」


 コト子の顔がくしゃりと歪んだ。けれど、涙よりも先に出てきたのは喉の奥から漏れる引き攣った音だった。唇は苦しそうに開き、ぜえぜえと喘ぐ。初めて目にする過呼吸に私の頭は真っ白に塗りつぶされる。どうすればいい? 119番? 迷った末に母親のアドレスをタップしようとする私をコト子が制した。


「…………だいじょうぶ、です、から」

「大丈夫なんかじゃないよ!」


 怒鳴る私にコト子は泣き笑いを浮かべると自分のリュックを取り出した。私の頭に浮かんだのは喘息で使う吸入薬だった。確かにああいうのがあれば問題は解決する。無力に見守る私を尻目にコト子は震える手が映画館で買ったプラモを取り出す。どうやら目当てのものはリュックの底にあるらしい―――、そう思った。 

 しかし、コト子がとった行動に私の目は驚愕で見開かれた。


「なに…………しているの?」


 コト子はあろうことかプラモの箱を開いていた。まるで親に買ってもらった子供が家まで待ちきれないかのように。そして、ビニールを開くと手にした爪切りでランナーを切断した。


「…………ふさげているの?」


 かぶりを振る。乾いた音ともに歪に切られたパーツが落ちていく。


「…………ひどいことが、あったんです」


 震える指でパーツ同士を接着するとコト子は言う。あれほど激しかった過呼吸は少しずつ落ち着き始めている。そして、一度大きく深呼吸するとコト子は話し始めた。


「とてもひどいことが」


 その出来事が起こったのはコト子が中学二年の秋だった。

 どこにでも起こるような“いじめ”だった。

 原因や発端など考えるだけで馬鹿らしい。事実は三人の女子生徒を中心にクラスの大半が一人の女子生徒にありとあらゆる嫌がらせをした。ただそれだけに過ぎない。

 立花寿は加害者に加わることもなかったし、傍観者に徹することもできなかった。彼女は元来持つ優しさと意外と強い正義心に従って、自分も被害者になるという恐怖と戦いながらその女子生徒子を助け続けた。立花寿に非難されるべきものは何一つない。彼女は間違いなく正しい行いをした。しかし、結果として一番傷ついたのは他の誰でもない彼女だった。


「許せなかったんです。いじめていたのはあの子たちだけじゃない。他にもいっぱいいた。見て見ぬふりをした人はもっといました。大人だってそう。私はちゃんと伝えた! それなのに無視した。私の思い込みだと言いました。

 いじめられた子の親が探偵と弁護士を雇って学校と教育委員会を告発したことでいじめはようやく終わりました。でも、罰を受けたのは三人だけ。その罰だって半年間学校に来ることを止めさせただけ。どうして? どうしてなんですか? 命を失っていないからと言いました。でも、それは彼女の心がたまたま強かっただけじゃないですか? それは彼女のおかげであって、あの子たちの罰を軽くする理由には絶対にならない!

 彼女もあの子たちも学校からいなくなった後、何事もなかったように中学三年が始まろうとしていました。くだらない悪意で人が一人世界から消えかけたというのに、みんなの心には高校受験のことしかなかった。

 『もう私には無理だ』―――そう思っちゃったんです」

 

 そして、立花寿の十五歳は始まりもせずに終わった―――。


「私、バカですよね? 勝手に騒いで、勝手に絶望して。私の十五歳は消えてしまったけど、別にいいんです。遅かれ早かれ私にはそういう時期が来たんだって。それは大学受験のときかもしれないし、大学かもしれない。新卒とか新婚のときかもしれない。心に欠陥があったからいつか一度修理が必要だったんですよ」


 その手に持った模型はひどく歪だった。捩じ切られたゲートはささくれだち、あるいは深い疵を残している。強引に嵌められたパーツは互いにめりこみ、説明書をろくに読まずに接続をやり直したものに至っては傷だらけだった。


「…………ごめんね、私なんかに買われて」


 ぽつりと漏らした声はとても悲しかった。


「私、プラモデルが大嫌いです」


 コト子は瞳に透明な色を湛えて私をじっと見た。


「リハビリで何かを作ってみてはどうかと言われました。最初は元々好きだった手芸とかハンドメイドをしてみたんですが、ちょっと無理でした。作っているときに嫌なことが浮かんできて…………このままじゃ自分の好きだったものまで嫌いになってしまうと思ったんです」

「…………それでプラモ?」 


 こくりと頷くとコト子は完成したものを箱の中にしまった。息はすっかり元のリズムを取り戻し、顔色も嘘みたいに良くなっている。


「プラモデルはアルバイトだと思えば、嫌なことでも納得できたので。都合がいいことに店のお得意さんたちが作りきれなかったものを私に頼んでくれたんです。今思うと私の事情を知っていたんだと思いますが。何もしたくなかったからむやみやたらに作りました。

 そうこうするうちに依頼されていた分も作ってしまうと今度は自分のお金を出して店のプラモを作りました。作ったものは一円でもいいからネットオークションに出して、また新しいものを作って、その繰り返しです」


 どうりで作るのがうまいわけだ。いや、うまくならない方がおかしい。立花寿はたった一年で模型好きの五年十年に匹敵する時間を過ごしてきたのだから。


「プラモデルを作っているとだんだん何も考えないで済むようになりました。エミコちゃんならわかると思いますけど、プラモデルはしっかり作ろうとするとあれで意外と頭を使うものですから。そうこうするうちに私の心はすっかり健康になっていたのです」

「でも、そうじゃないんでしょ?」


 コト子は寂しそうに笑うと指でプラモの箱をなぞる。


「…………はい。気づいたころにはプラモデルを作っていると心が落ち着く代わりにプラモを作っていないと落ち着かなくなっていました。ううん、ちょっと違いますね。嫌なこととかストレスが強くなるとプラモデルを作らないと心のバランスが回復しないというか」


 雪の夜の最初の出会いと学校の中庭での光景を思い出す。確かにコト子はプラモを作っていた。そして、ストレッサーはそれぞれ存在していた。


「がっかりしたでしょう? 私は素敵な世界を汚物を入れるゴミ箱みたいに利用していたんです。だから、これは罰です。私はこれからずっと気持ち悪い人間として生きるしかないんです」


 太陽がビルの後ろに隠れると足元からひたひたと闇の気配が漂い始めていた。空の上はまだ青かったが、うっすらと広がる羊雲の足はわずかに黄金色に染まり始めている。


「…………ごめんね、エミコちゃんがせっかく誘ってくれたのに」

「謝らなくていいってば」


 謝罪の言葉なんて聞きたくない。それじゃまるで―――。


「エミコちゃんといれば。エミコちゃんの見ている世界を私も側で見られると思ったんですけど。やっぱりダメですね。キラキラした世界に私なんかの居場所なんてないです。いちゃいけないんです」


 コト子が立ち上がると一度だけ観覧車を眩しそうに見上げた。照明こそまだ灯っていないが、ゴンドラに乗る人々のカラフルな想いがそこから零れているかのように。

 違う。そうじゃない。そうじゃないんだよ。

 引き止めなきゃいけないと思うのに身体が痺れたように動かない。

 

 ―――『立花寿』という女の子はすごく重いよ


 もうわかっていたはずなのに。コト子はずっと前からサインを出していたはずなのに。私はそれをちゃんと理解しなかった。理解しようとしなかった。自分の好きなものだけを見て、それ以外を見ようとしなかったのだ。


「ありがとうございました」


 にっこりと笑う顔は―――毒の林檎の魔法から醒めたみたいで。


「エミコちゃんと出会って過ごせたことは私の一生の宝物です」

 

「さようなら、エミコちゃん」 


 お姫様は白い雪のように私の前から消えていく。

 毒の林檎を大事そうに抱えていきながら。


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