エミコとコト子 その9 「雪が降って、桜が舞って」



***



 ハッとして目が覚めた。

 声が聞こえたような気がしたのだ。

 その声はいつも無駄にテンションが高くて、たまに聞いていると疲れてしまうこともあるけど、でも、とても温かくて―――。

 だから、勘違いしてしまう。自分も魔法が使えるんだと。


「…………眠い」 


 事実、眠かった。昨夜寝る前に飲んだ睡眠薬の効果が続いているのか頭がうまく働かない。水ぶくれのような頭で少女はぼんやりと考える。けれど、纏まらない。当たり前だ。深く考えないようにするための薬を飲んでいるのだから。

 最低限の矜持で寝間着を着替えていると窓のステンレスがポツポツと雨に打たれている音が聞こえた。カーテンの奥は明るかったが、時間まではわからない。朝のような気もするし、昼過ぎのような気もする。もしかしたら夕方という可能性も。

 最近ますます眠気がひどい。何かを食べているときとシャワーを浴びるとき以外は常に寝ている気がする。体重はもちろん危険域。そろそろジムぐらいは通わないと本格的にマズい。


「…………別に太ってもいいか」


 どうせ誰に見られることもないのだ。事実“彼女”たちにはとってはその方が都合がいいのだろう。本当に面倒。痩せていても太っていても煩わしい視線は消えない。そのくせそういうことに少しでも言葉で触れると逆上するのだから始末に負えない。


「…………エミコちゃんはいいなあ」


 この間も新しいエアブラシが欲しいから、と言ってお昼ご飯をまた抜いていた。別に食べなくても平気というわけではなく、顔を青くしてお茶だけがぶがぶ飲んだり、一袋100円のロールパンをマズそうに齧ったりする。本当にバカだと思う。


「……………………」


 気がつくといつもあの子のことを考えている。

 プラスチックの女の子ばかりいつも考えている、ヘンな女の子。

 自分の欲求にまっすぐで、人には想像のつかない方向にいつも駆け足で向かっている。

 大好きなものを語るときのキラキラした笑顔。


「…………ふふん♪ふーん♪ふふふーふん♪ふーふふーふふーふふーふん♪」


 一年前、雪の体育館で初めて会ったときのことを少女は思い出す。

 もっとも彼女はまるで覚えていなかったけど。



「あ、あの―――! な、何を作っているんですか………?」

「うん? ああ、フィギュアの原型。フィギュア、ていっても羽生結弦クンじゃないよ。キモいヲタクが買うような美少女フィギュア」

「はあ………」

「最高に萌え萌えきゅん♡なフィギュアを作ってバカなキモヲタ相手に金儲けよ」

「へえ、お金が儲かるんですか」

「すみません。嘘をつきました。私はむしろ金を払う側です。単純にフィギュアが好きだから、それで自分でも作ってみようかなあ、て。ただそれだけ」


 好きだから。

 それだけで彼女は雪の日に薄いワンピースを着られるのか。

 夢中で彫刻刀を握ってプラスチックの粉まみれになれるのか。

 そんなにも輝くような笑顔を浮かべられるのか。


「…………いいなあ」


 息を吐くように漏れた本音に身体がカーッと熱くなる。でも、止まらない。見ず知らずの誰かに愚痴をこぼすことに呆れつつ、少女は言の葉を紡ぐに任せた。


「…………私には何もない」

「別にそれでいいじゃん」


 ドキリとした。まるで氷を胸の中に突っ込まれたかのよう。恐る恐る少女を見つめると、話すことにもう飽きたのか再び自分のフィギユアに集中していた。


「…………そう、ですよね」


 そうだ。それでいい。

 何一つ踏み出すことができない私にはそれがお似合いだ。

 きっと風が吹いても私は箒に跨ることはできない。

 旅立ちの高揚感よりも安心できる家族とキャンプに行くことを選ぶのだ。


「そうだよ。羨ましい」

「―――えっ?」


 彫刻刀の動きに合わせてポニーテールがひょこひょこ揺れる。


「だって、あなたの地図は真っ白じゃん。絵でも歌でもフィギュアでも、何かに夢中になっている人が楽しいと思っていることをあなたは一から体験できるんだよ。それってすごくない? 私も最近よく思うよ。自分の脳みそを初期化して、初めてフィギュアを手に入れたときの感動を再体験したい、て。あー、いやだいやだ。歳取りたくねー」


 視界が真っ白になった。

 でも、それは全然不快でも何でもなくて。

 それは例えるなら、雪の夜が明けた日の朝。カーテンを開いたときに目に飛び込む真っ新な雪。朝日を反射して宝石をまぶしたかのような白さ。


「―――そのフィギュア、完成したら私に売ってくれませんか?」

「二百……ヘ、ヘ、ヘクチュ! あー、なんかゾクゾクしてきた。風邪引いたかも。ダ、ダメだ。今度は頭がガンガンしてきた。ぎぼちわるぃ…………」


 それからはバタバタ。上着をかけたり、ティッシュをあげたりしていると連絡をもらった彼女の先輩がすっ飛んできた。それが小学校時代のクラスメイトだったからまた驚いた。向こうは少女の“事情”を知っていたようだが、おくびにも出さず、二言三言の会話の末にお互いのアドレスを交換した。ちなみにクラスのアイドルだった元同級生が自分からは決してそういうことはしないことを知るのはそれから随分先のことになる。

 それからはあっという間の一年間だった。

 フリースクールと家とたまに病院を往復する毎日。

 失った一年間を取り戻すだけでなく、どうしても入りたい高校があった。

 “病気”のほうは結局治らなかったけど、それでも平日の昼限定なら図書館の自習室や駅前のコーヒーショップぐらいなら大丈夫になっていた。

 慣れない好意に舞い上がった末にとんでもない勘違いしたこともあったけど、まあそれはそれ。今となっては15歳最後の素敵な思い出だ。

 まったく虚無に終わると思っていたあの頃を思えば、隔世の感を覚える。

 

 全ては―――あの女の子との出会いから始まったんだ。

 


「…………でも、終わっちゃった」


 少女は気づけば回想の出口に立っていた。

 歌は終わり、目に焼き付くばかりに見慣れた壁が目の前にある。


「              」


 圧倒的に足りない酸素を求めて喘ぐたびにどうしようもない感情が吐き出ていく。

 目の前に彼女はいたのだ。

 キラキラと輝く時間はたしかに自分にもあった。

 でも、自分はせっかく差し出された手を振り払ったのだ。

 彼女も―――、世界も―――、そして、自分さえも―――信じきれなかったがために。

 今度こそ魔法は消えた。

 魔法はいつだって信じることができる人間にだけ現れるのだから。



 奈落へと続くような暗い階段を降りていると階下に少女の祖父が立っていた。

 少女のかけた伊達眼鏡を気にすることもなく、店番をさも当たり前のように頼む。


「…………うん、わかった」


 顔を洗ってからキッチンで菓子パンを半切れコーヒーで胃に流し込むとエプロンをつけて店の中へ。スイッチを入れると小気味いいモーター音とともに自動扉が開いた。外は雨が止み、灰色の谷間の奥にオレンジをうっすら混ぜた空が覗いている。

 それから忘れないように「スタッフ休憩中」と書かれたプレートをひっくり返す。これを忘れたのは一度や二度ではない。売り上げ度外視の道楽でやっているような店なので怒られることはないが、まあ呑気なものだ。

 FMヨコハマが流れる店内をぐるりと見渡して考える。

 さて、どうしたものか。カウンターで模型紙を読むような気分でもないし、見たところ掃除をする必要もなさそうだ。なんとなく棚に置いてある商品を見栄えがいいように並べ直したが、すぐにそれも終わってしまう。

 諦めてカウンターの奥に戻りかけたとき、ガラスケースが目についた。


「そうだ…………ケースの整理でもするか」


 高さ180センチ、幅と奥行きが30センチのスペースは“少女自身”だった。

 常連客たちのような技術も情熱もなく、ただただ組み上げただけのモノが並べられたそれはまさしく少女そのもの。一つ一つに苦い記憶が刻まれた呪いといっていい。


「…………もう、いいよね?」


 売れ筋のもの以外はもう捨ててしまおう。

 今はメルカリに出す気力もないし、それらを見るのが何よりしんどい。

 机の中から鍵を取り出すとなるべく目にしないようにガラスに手をかける。


 輝く“虹”を見た。 

 

「――――――えっ?」 


 最初はついに現実の認識さえおかしくなったのかと思った。

 でも、そうじゃない。

 それは確かに世界に“在った”。

 女の子が所有するにはあまりに無骨なデザインが立ち並ぶその中に、


 ―――一人の少女が立っていた。


 縦吹きのピアニカを手にし、強い眼差しでどこか遠くを見ている。

 春の強い風にポニーテールとワンピースははためき、演奏に呼応するかのように無数の鳩が羽ばたいている。

 雲間から漏れる天使の階段を見る。そこにはないはずなのに。

 それはまるで宗教画のように荘厳な光景だった。

 感動する一方で少女の短くはないモデラーとしての知識がフィギユアに対する冷静な分析を始めていた。そして、再び驚愕する。

 強い印象の正体は塗装だ。一般的にプラモデルもフィギュアも塗装はエアブラシか筆で行われる。しかし、このフィギユアは明らかにそうではないようだ。


「…………何だろう?」


 考え込む少女だったが、答えはあっさりと見つかった。


「…………色鉛筆?」


 ネタバレとばかりに少女のフィギユアの横に置かれた銀色のケース。

 以前インターネットで読んだ記事をうろ覚えながら思い出す。どこからどう見てもイラストにしか見えないガンプラの記事。それが確か色鉛筆を使っていたはずだ。

 通常の場合、プラスチックの表面に色鉛筆の色は乗らない。そのため色を乗せるための下地処理を施す必要がある。小学生あたりなら誰でも考えつきそうなアイデアだが、見た目よりもずっと手間がかかる方法なのだ。そして、理想のためなら手間暇を絶対に惜しまない人間を少女は一人だけ知っている。


「…………エミコちゃん」


 その名を再び口にしたとき、心の奥底にとても温かいものが満ちるのを感じた。

 見間違えるはずがない。

 あの雪の体育館で自分の人生を変えたあのフィギユアだ。

 それが完成してあまつさえ目の前に立っている。

 有耶無耶になっていた約束を彼女は律儀にも今こうして果たしてくれたのだ。


「やっぱりすごいな、エミコちゃんは」


 以前彼女が難しいと話していた“繊細な色彩”が「色鉛筆」という手段を採ることで見事に表現できている。尊敬と愛おしさを込めて「STAEDLER」と書かれた銀色のケースを手に取る。ふと手に懐かしさを覚えた。そりゃそうだろう。自分も三カ月前にこの二十四色入りの色鉛筆をプレゼント用に―――


「ウソ」


 ガツンと頭を殴られたかのような衝撃。

 自然と漏れるうめき声とともに瞼の裏に雪がちらつくのが見えた。

 遊具が雪で埋まった夜の公園。街灯に照らされた雪は淡い青い光を放っていて、ひどく幻想的な風景だった。けれど、じっとしていると命まで削られるように寒くて思い出すだけで身体が震えてくる。

 防寒具とマスクで全身着ぶくれ状態で声のトーンでかろうじて女の子とわかる―――その子は失恋のストレスでプラモを作る自分をいかにも面白そうに眺めていた。そして、勝手に感動し、わけのわからない称賛を浴びせると嵐のように去っていったのだ。


「嘘、嘘、嘘―――?」


 考えればすぐにわかることだった。神野二奈の家に仲のいい後輩の松戸エミコがいたとして全く不思議はない。それどころか入学以後の彼女の自分に対する態度やアプローチを考えればすぐにわかりそうなことなのに! それを自分は図々しくも運命の再会と称して当たり前のことだと思っていたのだ。


「あああああああああぁぁぁぁっっっっっっっ!!!」


 恥ずかしさで頭が沸騰する。少女の叫びを聞きつけて仕事から帰ってきたばかりの母親が血相を変えて飛び込んできた。


「―――お母さん、私、馬鹿だよ」


 少女の母は否定すべきなのか肯定すべきなのかわからず、黙って娘を見つめる。顔を覆った両手から涙がとめどなく溢れていた。だから、気がつけなかった。


「私、本当に馬鹿だね」


 ―――掌に隠れた小さな唇がくつくつと笑っていたことに。


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