エミコとコト子 その5 「虹の重さは何グラム?」
***
駅の連絡通路は午前の白い光に包まれていた。乗り換えを急ぐ人の流れは開店前のテナントに目を向けることもなく淡々と動いていく。24時間前は私もその中に一人であり、駅にどんな店があるかなんて思考の一片たりとも向けたことはなかったろう。
立花寿は改札から少し離れた、出張販売ブースの側に立っていた。ケーキ店の名前の入った収納ボックスの横で少し不安そうに髪先を弄っていたが、私に気づくと向日葵のように顔を輝かせた。
「おはよう! エミコちゃん!」
肩はまだ痛いのか、リュックは肩掛けのトートバッグに変わっている。
「お、おはよう。立花さん」
クラスメイトと通学したことがないので何だかすごく気恥ずかしい。中学時代に二奈先輩とはよく通学したが、あの人は色々アレなのでノーカンだろう。しかし、私が声をかけたにも関わらず立花寿はあからさまに顔を顰めた。
「…………ねえ、エミコちゃん。ずっと気になってことがあるんですけと、いいですか?」
「ななな、何かな?」
なんだ? 何かミスったか? 顔は朝洗ったし、昨夜はお風呂に入った。制服を両手でチェックしてみたが、開いていちゃまずい箇所はしっかり閉まっている。
「…………呼び方…………しいです」
「へっ?」
「私の呼び方変えてほしいです! 私は『エミコちゃん』と呼んでいるのに。名字で呼ばれるとエミコちゃんがなんだかすごく遠いです!」
バブル時代のドラマみたいな台詞ダナー、と思ったが、さすがに口にしない。
「じゃあ、ブキ子―――」
「エミコちゃん?」
般若もかくやと思わせる微笑を見せたので震え上がる。威圧感だけなら二奈先輩にも劣らないだろう。というか、自分の名前嫌いなんだろう!? あー、JKメンドクセー!
「こと、ぶき―――」母音にブレスが入るごとに体温0・1度上がっていく。
「はい……!はい……!」
「ううん、なんか違う。私のキャラじゃない。うん、『コト子』にしよう」
私がそう言うと立花寿改めてコト子は一瞬がっかりした顔を見せたが、口中で一度「コト子」と呟くとみるみる顔を桜色に染めていった。
「『コト子』、て響きがすごく可愛いですね」
そして、にっぱーっと笑うのだ。その野辺の花のような可憐さに息が苦しくなる。
「そ、そう? 普通だと思うけど…………」
「えへへ、ありがとう。エミコちゃん」
やめてくれー。もう酸欠寸前。というかむしろ吐きそう。どうやら美少女は笑うと謎の粒子を放出するらしい。それは明らかに人体に有害で心をピンク色に染め上げるのだ。
でもね、この美少女粒子が更に高濃度・高圧縮になっていくことはこのときの私は知らなかったのですよ。
しんどい受験を経たのだから最初ぐらいのんびりしたいところだったが、高校一年の春はなかなかに忙しい。身体測定・体力測定、委員会決めにもう三年後に向けたオリエンテーション、それが終わったと思ったら今度は陸上競技会に生徒会選挙、体育祭の準備ときたものだ。
私にゆとりを、タイムイナフフォーラブ。
「昨日ブックオフでフィグマのめぐみん買ったけど、マントの接続ピン折れてた」
「マジかよ、メーカーに連絡した方がいいんじゃね?」
昼休み、人の少なくなった教室でいつものようにあみあみの予約開始アナウンスを読んでいると高橋ABの会話に耳に入ってきた。ともにヲタ男子のテンプレみたいな奴らだが、上級男子のように下の名前で呼び合う様が滑稽である。
「「松戸ー」」
案の定、私に声をかけてきた。
「中古でメーカー保証があるわけないだろ、自分で直せ。ちなみに私だったらマントと本体にネオジムを仕込むね。ネオジムは8ミリのやつで磁力はN52を……」
「うげー、なんで買ったものにそこまでしないといけないんだよー」
「はあー(クソため息)、ガンプラクオリティが当たり前だと思っているキッズはこれだから困る。昔のプラモはパテで成形しないとまともに組むことすらできなかったんだぞ」
それから可動フィギュアのレジェンド、浅井真紀氏について語ろうとしたときだった。
「エミコちゃん」
横を見ると立花寿もといコト子が立っていた。今日はまだ屋上に行ってないらしい。
「エミコちゃんはお昼ご飯食べないんですか?」
「うん、いつも昼は食べないから」
本当は食費を削りたいだけだが、こういうとき女だと説明が楽で助かる。人体には飢餓への防御反応という便利な機能があるのだから利用しない手はない。
しかし、コト子はきれいな眉を八の字にするともじもじと私を見つめた。
「…………そう、なんですか。そっか、そうなんだ」
「?」
「ま、いっか。あのですね、私、肩を、しかも利き手の方を昨日怪我したじゃないですか」
「うん、申し訳ない」
「それでですね…………腕が使えないからエミコちゃんに食べさせてもらいたいなあって。も、もちろん悪いと思ったんで、エミコちゃんの分も作ってきましたよ!」
嬉しそうにはにかむとディーンアンドデルーカのランチバッグを掲げた。美少女の衝撃の告白に私は開いた口が塞がらなかった。高橋AB以下話を偶然聞いていたクラスメイトも同様だったらしく箸やパンが中空で静止していた。
「…………えっと、フィグマの修理だったっけ?」
私が視線を彷徨わせると高橋はかぶりを振った。
「松戸、まさかお前が女の子とランチをする日が来るとはな」
「そうだ! 俺たちのことはいいから、早くいけ!」
そして、気がつけばクラス中の男子も女子もヲタ非ヲタ関わらず皆沸いていた。拍手の輪と残酷なテーゼが私たちを取り囲む。
「おめでとう!」「松戸さん、おめでとう!」
「コングラチュレーション」「おめでとう、幸せにね!」
「おめでとう…………!」「女子デビュー、おめでとう!」
このクラス、馬鹿しかいねえな。それと女子デビュー、てなんだ!? 私は今まで女子ですらなかったのか………。
「えへへ。放課後ですよ、エミコちゃん」
ぴょこん。擬音がつきそうな形でコト子は私の机の横に立った。首と上半身は右斜め横30度に傾げ、手首は90度曲げて指はまっすぐ。
パシャ。
「ど、どうしていきなり写真を撮るんですか!?」
「いや、つい。可愛かったので」
私は撮影したばかりの写真を「寿」フォルダに入れると改めて向き直った。ちなみに昼食も大豊作だった。本人が黒歴史認定する前にバックアップを取っておこう。
「…………もう。ええと、放課後になりましたけど、どうしますか? 部活に行きますか? それともどこかに寄ってから帰りますか?」
「うーん。今日は整形外科かな?」
「いやです」
あれ? 私にしてはまともなことを言ったはずなのだが、軽くスルーされたぞ。
「じゃあ、駅前のプラモ屋で」
「絶対いやです!」
朝から続くワガママモードにどうしたものかと首を捻るとふと教室の扉が視界に入る。映っていたのは今まさに帰ろうとする女子二人。昼休みのバカ騒ぎにはいなかった人たちだ。
彼女たちの視線に滲んでいたのは―――好奇心と嘲りと安堵。
…………クラス一、あるいは学校でも屈指の美少女が勝手に脱落したのだから、脳内で恋愛
ふん。これが二奈先輩だったらと我ながら情けないことを思いかけたとき、コト子が唇だけ笑って私の袖をぎゅっと掴んだ。
「…………部活行こっか?」
うん、とコト子は頷いた。今度はちゃんと笑って。
「…………エミコちゃんはすごいですね」
コト子がしみじみと、それこそ魂を吐き出すかのように呟いた。
「絵のことだったらやめてよ。本当に泣きたくなるから」
二奈先輩のお下がりの液タブを真上から改めて眺める。絵を描くようになって一年半だが、相変わらずひどい。プロレベルの先輩とは比べるのも失礼なレベルだ。
今日の放課後はコト子が病院に行くとばかり思っていたから
「そうじゃなくって…………」
コト子は「ハンズオンヒップス」のポーズのまま苦笑いして言う。たまに確認のために無理のない範囲でモデルをしてもらっているので一応部活らしくはある。
テーブルには電源ケーブルが繋がったままのアイフォン。私と同じゲームがやりたいということでさっきまでひたすらそのゲームのリセマラをやっていた。目当てのキャラが初回のガチャで出るまでひたすらチュートリアルを繰り返すのだが、おそらく終わらないだろう。
「エミコちゃんって…………なんというか自分をしっかり持っているじゃないですか? それも飛び抜けているというか。私もアニメとかマンガの知識はあると思う方だと思うけど、エミコちゃんの言っていることの半分もわかっていないと思います」
「ア、ハイ。デスヨネー」
ハイパーヲタエリートの二奈先輩といつも話しているのでそういう視点がいつも欠けてしまう。知識の偏りもハンパない。特に動画やボカロ系はサッパリだ。立体物がいっぱいあるからミクさんは好きなんだけどねー。
「でも…………、エミコちゃんはそれが許されちゃうのがすごいな、て。あっ、いや! 別にクラスで浮いているとかそういう意味で言っているんじゃないですよ!」
あたふたするコト子に私は苦笑いで首を振った。女子二人の姿がリフレインする。確かにそれはむしろ自分でも不思議だと思うことだ。
「まー、私は根っからの『みそっかす』人間だからねえ」
「みそっかす?」
そう。そうなのだ。どうにも私は小学校の頃からそういう傾向がある。変人としてクラスの中で浮いてはいるのだが、露骨に嫌われることはない。それは女子に比較的顕著だ。彼女たちは私が男子の好奇の視線に晒されるとむしろ守ってくれる。
そして、エミコちゃんはエミコちゃんのままでいいんだよ―――と優しく諭されるのだ。
「基本的に自分の好きな世界に引き籠っているからね。人間関係的には無害なんじゃね?」
なんとなくだが、昆虫博士だとか鉄道マニアとかと同じ種類の人種なのではないかと思う。彼らは自分の中に広大かつ濃密な世界観を持っている。自分の好きなものに夢中だからつまらない人間関係に興味はないし、関わることもない。そして、そういう人間は大人たちの世界とのパスが繋がっているので何かあっても案外強かったりする。
「…………無害、か」
コト子は椅子に座りなおすとスマホの画面に目を落とした。小さな液晶にはもう何十回と繰り返された
「要は楽しんだ人間が勝ちなんじゃない?」
「えっ―――?」
「世界は一つだけしかない。リセットもできない。早いもの勝ちだから。だから、コト子も世界を自分のやりたいようにやればいいんじゃないかな? なーんてね」
それは誰かさんに言われたいつかの言葉 (のちょっとアレンジ)。
その女は自分の世界をハリウッドの超大作レベルで持っていた。だから、これっぽちもつまらないものには興味がなくて、腹がたつぐらいマイペースで。そのくせその世界は魔法みたいにキラキラしているのだ。見ているこっちが見惚れしまうぐらいに。
「そう、ですね。そうですよね」
「そうだよ。楽しいことやらないと人生損だよ! その点、ヲタクは楽しむことに関してはエキスパートだからね。アニメにゲーム、小説、マンガ。楽しいことがありすぎて時間がいくらあっても足りない。脇道に逸れればあっという間に泥沼。知らない世界があっという間にまたあなたの時間を奪ってしまう!」
夕暮れに泣いていた幼子のような顔がたちまち明るくなっていく。
「じゃあ、今まさに私はまさにフィギュアの世界に侵略されているわけですね!」
「そうだよー。この世界は泥沼だよー。道具に材料、拘ればあっという間に時間もお金も吸い尽くされる世界だからね。おまけにスチール良くしたいなら写真、3DモデルでやってみたいならCGと他の沼と連結しているから余計タチが悪い」
「えー、お金がかかるのは嫌かもです。やっぱりハンドメイドに戻ろうかな?」
「コト子さん、それだけは勘弁してください!」
「ふふ、どうしようかな♪」
分厚い天井越しに雨音が降る音が響いている。きっと外は土砂降りなのだろう。けれど、白い照明で照らされたここはこんなにも明るく、温かい。たとえそれが人工的なのだとしても。
私はヲタクだ。それも人に誇れることなど何もないド底辺の。
誰かの悩みに答えられるだけの度量も人生経験もない。
だから、私に唯一できるのは―――世界がこんなにも面白い―――と伝えることだけ。
「―――でも、エミコちゃんはそれだけじゃないんですけどね」
はてな、と思ってコト子を見るとにっこりと笑い返された。
「わからないならいいんです。エミコちゃんはエミコちゃんのままでいいんですから」
なんじゃそりゃ。コト子よ、お前もか。
「あ、なんか当たったみたいです」
スマホを覗き込むと煌めく虹の光で満ちていた。
「じゃあ、ちゃんと病院に行きなよ!」
コト子は改札口の向こうで笑って手を振ると帰宅する人たちの群れに呑まれていった。
さてと、帰りますか。
踵を返そうとしたとき、スマホが揺れた。何かと思えば、コト子からのLINEだった。まったく…………律儀な美少女だぜ。
「―――嬉しそうだねー、えみちー。ふー」
「ギャー!」
いきなり肩の上に女の顔が現れたので公衆の面前だというのに叫んでしまった。明らかに「駅員さん、この人です!」なのだが、世の中は無情なもので華も恥じらう可憐なJKを助けてくれるような人は案外いない。これが傍観者効果というやつか。
「すごい偶然だねー、えみちー♪」
「いや、絶対ストーキングしてたでしょ、あなた」
「えー」
それに変質者が黒髪ロングの、いかにも読モでもやってそうな外見の女子高生だと世間はどうにも甘いらしい…………本当に何かやらかしていないだろうな、この変態は。
「造形部を一緒に作った人って立花寿さんだったんだねー」
二奈先輩は改札の奥を見つめると言った。ほら、やっぱり後をつけてきたんじゃないか。
「名義的には美術部ですけどね」
「うん、知ってるよー。あそこの副部長はクラスメイトだしー。それに美術部は可愛い人多いよねー、部長さんとか!」
まずい、ちょっと気まずい。別に今まで取り立てて隠していたわけではないが、コト子と二奈先輩は過去に何かあったのは間違いない。それも恋愛的な意味で。
正直そんなことに興味はないし、たとえコト子の本心が私を通じて二奈先輩に再アタックすることだとしても造形部に入ってくれた事実は変わらない。変わらないのだけど。
「ねえ、あそこで座って休まない? 実は徹夜続きで今にも倒れそうなのです」
そう言って二奈先輩は改札前の広場にあるベンチに倒れ込むように座り込んだ。アニ研の新歓は一週間前に終わっているはずだが、クオリティアップの作業をまだ続けているらしい。
「高校の部活はどう?」
「楽しくなりそうですよ。美術部の人たちは個性的だけど優しそうな人ばかりだし、パートナーがとんでもない美少女ですからね。そりゃテンションも上がりますわ」
「そっかー。えみちーもようやくボッチ卒業だねー」
「週末はその子と映画に行くんです。初デートですよ、初デート!」
「うん、それはいいことだ。私は部室でひたすら作画修正だけどねー」
コンコースの上を乗り換え客が右に左に流れていく。行きつけだったプラモ屋の娘が同じ部活になったようにあの中にもいつか私と世界が重なる人がいるのだろうか。
「…………『浮気したー』とか言わないんですね? 先輩のことだからてっきり」
コーヒーの缶に口をつけた先輩は目顔でちょっと困った表情をした。
「なーに? 妬いてほしかったのー? もうカワイイな、えみちーは」
「気持ち悪いのはその存在だけにしてください」
「…………」
長い睫毛が排気口から出された淀んだ風に揺れていた。下に隈ができた瞳が私をジッと見つめている。私の魂の奥底を見通すかのように。
「覚悟はできている?」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。いや、やっぱりわからない。
「『立花寿』という女の子はすごく重いよ」
「えっ……」
「えみちー、生きている人間はプラスチックなんかよりもずっとずっと重いんだよ。中身だってはち切れるぐらいパンパンに詰まっているんだよ。その中でも『立花寿』という女の子は特別重い。自分でも支えきれないほどに。その重さをえみちーは受け止めれる? ううん、あなたは受け止めなければならない」
先輩の語る言葉から仄かにブラックコーヒーの匂いがした。
「だって、それができるのは今、世界でえみちー一人だけだから」
困惑する私を尻目に先輩は、ふふっと笑う。
「おめでとう、えみちー。あなたは選ばれたんだよ。せいぜい青春を苦しみなさい」
そして、私の額に口づけをするとこう結んだ。
「―――だって、ガールミーツガールはいつだって重いんだから!」
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