エミコとコト子 その4 「君の渾名は...。」
LEDの冷たい光が照らす滑らかなリノリウムの上にキャスター付きのテーブルが整然と並べられていた。第二美術部は教室というより真新しいオフィスに入ったような印象だ。室内の臭いも絵具や埃というよりもそういう臭いがする。
「じゃあ、私たちは“第一”の方にいるから終わったら声かけてね」
美術部部長はそう言うと私たちに鍵を渡した。颯爽と廊下を歩いて去っていく姿は宝塚音楽学校の生徒のようで見ていると私でも何かに目覚めてしまいそうだ。
「…………エミコちゃん、始めないんですか?」
部長の残り香にウットリしていると袖をくいくいと引っ張られた。見れば、立花寿がちょっと眉をひそめている。相変わらず人見知りだなあ。
「あー、うん。じゃあ、新生造形部を始動しますか!」
といっても名義的には美術部所属だが。
萌黄高校の美術部は近年アニメと漫画を除いた様々な芸術活動を行う生徒の寄り集まりで、写真や服飾、はたまた着想が壮大すぎて完成するまで何を作るのかわからない人などが自由に活動していると聞いている。ちなみに先ほどの部長は自作の絵本を書いているらしい。
部としての縛りは週一度のミーティングのみ。そして、そのミーティングでさえも副部長の作ったお菓子をつまみながらののんびりした会なのだとか。
「―――それで、何から始めるんですか?」
首をちょっと傾げると鼈甲色の瞳が私を見つめる。それにちょっと気後れしつつ、私はこほんと咳払いをした。これから美少女と毎日地下室で二人っきりなのだ。早く慣れないと。
「うーん、順番的には原型作りの練習に丸っこいマスコットなんかをまずは作るんだけど、でも道具もろくすっぽ持ってきていないしね。記念すべき造形部の第一日目ということで今日は懇親会ということで!」
そう言って私はパンパンに膨らんだスクールバッグの中身をがさこそと掻き出す。
「てけてけー、『フレームアームズガールズ マテリア姉妹』~」
テーブルの上には高さ6センチの外箱が二つ。、A4サイズぐらいのパケ絵には肌面積がやや多めのショートカットの女の子が描かれ、それぞれ髪色とアーマーの色が異なっている。
「ああ、この女の子のプラモデル、見たことあります。最近、よく売れていますよね」
「まー、アニメにもなったしねー。今日はこの子たちを作りましょ。せっかく部活に入ってもらったんだし、今日ぐらいは立花さんの土俵に立ってみたいなあ、て。へへ」
本当はアニメを見てキャラ萌えした挙句に衝動買いしたもの、結局今の今までアマゾンのダンボールの中に埋もれていたことは内緒だ。
「そ、そんな別に。私なんかを気にしなくてよかったのに…………」
「いやいやいや、別にいいから! それにカラバリ違いのキットを一人で二つ作るより、二人で一個ずつ作ったほうがモチベ的にいいしね!」
ただでさえ
「もしかして、もう作ったことがあったりする?」
立花寿は犬の尻尾のように首をぶんぶん振った。
「えっと…………私が作るのはあんまり売れていないものばかりなので…………」
「へえー。リサイクルショップで中古を一期一会で買うタイプなのかなあ。それはそれで面白そうだね!」
「…………まあ、そんな感じかもです」
ぱちりぱちりぱちり。
スマホの小さなスピーカーから流れるradiko。聞き覚えのある邦楽に混じってプラスチックを切る音が混ざる。壁の向こうから発電機か水道のごおーっとした音が遠く響き、環境音の素材めいた音の中で私たちは会話も少なめに手を動かし続ける。
静かで心地いい時間が流れていく―――貴重な青春の使い道としてはやや疑問だけど。
「立花さんはプラモデルをいつぐらいから作っているの?」
何気なくそんなことを聞くと、立花寿はちょっと困ったような顔をした。
「家族のを手伝ったのが最初だったから覚えていないですけど、自分で作るようになったのはほんの二年程度です…………はい」
「ふーん、一番楽しい時期かもね。いいねえ」
パーツを全て切り落としたランナーを脇に寄せる。「マテリア姉妹」は武器がないのでパーツが少ない。組み立てるだけなら一時間半もあれば十分だ。
「…………ごめんなさい! エミコちゃんに一つ謝らないといけないことがあるんです」
ポツリと呟くと立花寿は俯き、ニッパーをぎゅっと握りしめた。
「えっ!? ななな何よ!? というか、もう謝っているし」
「…………本当はプラモデル好きじゃないんです。ただ…………その、習慣というか義務みたいなものがあるからやっていただけで…………」
反応に困った。プラモが習慣? 義務? なんじゃそりゃ。しかし、確かに言われてみれば立花寿がプラモを作っている姿にどこか違和感を覚えないでもない。うまく言えないが、必死というかあるいは悲愴…………。
「…………ごめんなさい…………せっかく誘ってくれたのに…………」
掠れていく声は弱々しく、聞いているだけで胸が切なくなってくる。
「でも、入ってくれた」
「えっ―――?」
「本音を言えばびっくりしたけど、でも、少なくとも立花さんは一歩踏み出しくれたよ。これから立花さんの好きなものが一つでも増えたら私はすごく嬉しい。誰かと出会うことでその誰かの好きなもの、大切なものに触れることで世界が変わることがあると思うんだよね」
―――私の世界に来て。私の見ているものをあなたも見て
私は彼女にとっての“誰か”になることができるだろうか?
「…………ありがとう。エミコちゃんは優しいね」
柄にもないことを言ったので体温が急上昇していく。立花寿の視線を感じるの気のせいではないだろう。仄かに甘い吐息が首筋に触れると身体の奥のほうにひどく熱いものを感じた。
視線から逃れるように、きっと真っ赤になっているであろう顔を隠すために私は作業に集中する―――あとは上半身と下半身を接続すれば完成だ。
「…………アレ?」
しかし、どういうわけか接続ピンが入らない。いや、というより入ってもグラグラして安定しないのだ。立花寿の方を見れば、そっちの「白マテリア」は問題なく接続され、テーブルの上に女の子座りをしている。相変わらず出来がきれいだ。
「エミコちゃん、大丈夫ですか?」
「いやいや、大丈夫…………ふんにゅう~!」
ホビーの世界に一つの格言がある。
曰く、パーツがうまく嵌まらなくても決して強引に嵌めてはいけない。
「あ」
「あー」
作用力に耐え切れなくなった接続ピンは分解し、あっと言う間もなくピンの頭(3ミリ程度の球体)は放物線を描きながら美術室の隅に飛んでいった。
「ぎゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃああああっっっっっ!!!!」
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい、すごくやばい!
私は合体を果たせなかった「黒マテリア」を置くと舐めるような勢いでリノリウムの海に視線を走らせていく。こういうのはすぐ見つけないと後からでは絶対に見つからない。
「あった!」
アルミ棚の間隙、照明がわずかに差し込む影の境界にパーツは落ちていた。
「あ、あともうちょっとで…………って、ああ!」
人差し指が届くや否や爪に当たって小さなパーツが更に奥に転がっていく。鼻血が出そうなストレスフルな状況につい身体に力が籠ってしまう。そのときだった。
「危ない!」
突然、全身を覆うように柔らかくて温かいものが私の身体を包む。えっ、と思って振り返ると立花寿の顔が目の前になった。息と息がかかるほどの距離で見つめ合ったのはほんの数秒だったが、心配そうに見つめる顔はたちまち網膜に焼き付いて離れない。
「―――っ!」
照明やらダンボールやらがぶつかる衝撃が立花寿の身体を通じて伝わっていく。その度に立花寿は苦痛に顔を歪ませ続けた。
「たたた立花さんっ!? だだだ、大丈夫!?」
棚の上のものがすべて零れ落ちると立花寿は弱々しくもにっこり笑いかけた。
「…………よかった。エミコちゃんが怪我したらせっかくの部活が台無しになっちゃう」
タイツを挟み込む形で立花寿の思ったよりも肉厚でたぶん指で押したら沈み込むような太腿の感触が伝わってくる。布一枚を通しているというのに、それはひどく熱くて溶けてしまいそうで―――。
「たぶん打撲ですねえ」
細い肩の上にくっきり描かれた大きな青痣を見るとミチル先生はため息をついた。濃い紫のそれは暮色蒼然とした保健室の雰囲気も手伝ってひどく不吉さが際立っていた。
立花寿は肩を動かすと僅かに呻いたが、どうやら骨や筋肉に異常はないようだった。
「もし夜になっても痛みと腫れが引かなかったら明日すぐに病院に行くこと。いいですね?」
「…………はい」
「それと松戸さん。言われなくてもわかっていると思うけど、工具を使う以上大怪我する可能性を常に考えてくださいね」
「……すみません、以後気をつけます」
部活の初日でいきなりの怪我。幸先の悪さに暗澹たる気持ちで私たちは校門に向かって歩いていたが、ふと立花寿が足を止めた。
「じゃ、じゃあ、私はこっちなので。ありがとうございました。今日は楽しかったです」
「えっ? 立花さんは電車通学じゃなかったの!?」
少し足を運ぶと自転車置き場にルノーの黄色いクロスバイクが留めてあった。
確かにこれなら長距離も可能かもしれないが、肩をアイシングしている状況では乗ることはおろか押して帰るのも難しいだろう。
「いえ、痛みはもうすぐ引くと思うので大丈夫です」
そう言って氷嚢を持っていない手でグリップを握るが、たちまち車体がふらつく。
「いやいや、無理だよ! 腕と手が明らかに足りてないよ!」
再び「大丈夫」と言う前にグリップの逆側を奪ってしまう。ふらついていた自転車はバランスを取り戻すとコントロールは私の手に落ちる。
「家まで自転車は私が押すよ。その怪我は私のせいなんだし」
「…………エッ?」
呻き声のような声を残すとたちまち立花寿の顔から血の気が引いていく。
「エミコちゃん、私の家に来る、んですか?」
「うん。リュックも貸して。それも私が持つから」
「だだだだだダメです! 絶対ダメッッ!!」
これまで聞いたことのない大声。あまつさえ氷嚢を持った右手で自転車のハンドルを強引に奪い取ろうとしたので私は驚くというよりも面食らってしまう。
「自転車、返してください!」
しかし、ハッと我に返るとハンドルをひょいと反らす。バランスを崩した立花寿を支えたとき意外と豊かな胸に触れてしまったが、当の本人はそれに気づく余裕はない。
「新入部員の面倒は最後までみろ、とミチルちゃんに言われているの!」
「…………そんなあ…………ひどい…………です」
大義名分をつきつけられた立花寿は今にも泣きそうな顔になったが、そこはそれ。部員の管理も部長の務め、心を鬼にしなければならない。
「エ、エミコちゃんも疲れたんじゃないですか、ハンドル持ちますよ?」
「ダメ」
「あ、そうだ! 帰りが遅くなっちゃうし、最寄り駅までで大丈夫ですよ」
「ダメ!」
「コ、コンビニ寄りませんか? わ、私、トイレ行きたい、なあ、て…………」
「逃げると困るから一緒に入るけど、それでもよければ」
「そんな…………ひどい」
結局、最後までぐずぐずと抵抗し続けたので距離以上に時間がかかってしまった。空はインクを落としたように暗くなり、ちかちか星が瞬き始めている。
「もう本当に家の近くなんで! 本当にここで大丈夫ですっ!」
「ホントに~? ここで私を撒きたいんじゃないの~?」
しかし、私が疑うのも無理はなかった。一時間以上歩いて着いたのは駅前の商店街だった。しかも、驚くべきことに私の最寄り駅の一つである。周囲は帰宅したリーマンやOLで溢れ、まだまだ活気に溢れている。
「本当なんですぅ…………お願いしますから信じてくださいよぉ…………」
立花寿は一歩一歩重い足を動かす度に私に恨みがましい視線を送ったが、一方で周囲を警戒するような仕草も見せた。どうやら家が近いというのは本当らしい。
「あっ!」
目抜き通りをちょっと奥に入ったところに模型屋があったのでついつい目がいってしまう。
「あれ、でも、ここ復活してたんだ。確か、店長のじいさんが引退して去年の春に閉店していたんじゃなかったっけ?」
その店は私が小学生の頃からあった店でかつてはこじんまりした如何にも昔ながらのおもちゃ屋さんであった。値引き率や品揃えは家電量販店にこそ及ばないが、温かみのある雰囲気が私は好きだった。そうか、この店復活していたのか…………。
「そうそう! このエロ本の自販機! この昭和臭がいいんだよね!」
本来の目的をすっかり忘れてしまった私の肩を誰かがトントンと叩く。振り返ると当然立花寿なわけだが、その顔色は蒼白を通り越して土気色になっていた。目に決壊寸前の涙を湛えると震える指で上の方を指さした。
「なになに、どうした? ええと…………」
『おもちゃのことぶき』
「…………マジっすか?」
「…………マジっすです」
立花寿の実家はプラモ屋の裏手に隠れるように佇む古民家だった。店と同じような高度成長期の匂いを残す家で道路側から見えないように作られた中庭には観葉植物やプランターで溢れている。
「ただでさえ実家が模型屋なのが嫌なのに生まれた年がちょうど店の30周年と重なったからおじいちゃんが名前まで一緒にしちゃって。だから、いっつも男子にからかわれて。おまけにあの自販機。私のあだ名、わかりますか? 『エロ本のことぶき』、ですよ…………」
「わかった! もういい! あなたはがんばったよ!」
マグカップの底の底をどんよりとした目で見つめる立花寿の肩を抱くと私は心の中で泣いた。わかるよ、小学生男子ってホント馬鹿だもんな!
「…………でも、あの自販機、売り上げはすごいんですよ。今じゃ珍しいらしいので。みんなあの自販機と一緒に写真撮るんですよ。うちの実家、インスタ映えですよ、ははは」
「あ、そういうの、すごくわかる。わかるよ…………」
去年のバレンタインの悪夢を思い出しかけたので慌てて話題を変える。何かないかと部屋を見渡してみると机や棚のあちらこちらに手製のぬいぐるみや羊毛フェルトキットが並べられていた。部屋全体もアースカラーで統一され、なんというかすごく女の子の部屋っぽい。
「やっぱりプラモはない、か」
「えっ? ああ、はい。そうですね。プラモデルは元々メーカーが店に送ってきたサンプルをアルバイトで作ってたんです。おじいちゃんはずっと前から老眼で小さいものが見えなかったし、私も、小さい頃から手先が器用だった、ので」
「うわー、いいなあー。プラモの新作作ってお金もらえるとか何それ、天国?」
私がしみじみとそう言うと立花寿は目を丸くした。
「そんなこと言われたの、小学校のときに男の子に言われたとき以来です…………」
「いや、実際羨ましいよ。うちの母親なんか悩み相談が仕事だからなんも役得ないし。それどころか、あの女『思春期のモヤモヤがあったらいつでも相談しなー』、てニヤニヤしながら言うんだぜ。誰が親にそんなことを相談するっかってーの!」
立花寿は私が母親の悪口を言うのをくすくす笑って聞いていた。笑うと肩が痛いのか、しまいには「エミコちゃん、もうやめてー」と私の肩を叩いた。
「あー、おかしかった…………エミコちゃんと話すと本当に楽しいな」
「何言ってるの! 楽しくなるのはこれからだよ!」
そして、ワンフェスのディーラー出展について話そうとしたが、立花寿が表情をいきなり消したので唾とともに呑み込んでしまう。
「―――エミコちゃん。私の面倒を最後まで見る、て言ったよね?」
リップをつけた唇が蛍光灯の光を受けて艶めく。何かを言いたそうに蠢く度に真っ白な歯とピンクの歯茎が覗くのを私は固まったように見つめていた。
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