エミコとコト子 その3 「やっぱり造形部は止めにして他の部活にしよう」



***



 厨房の奥からむっとした空気が立ち込めるや否や大型の換気扇がたちまち外に押しやっていく。学食は臭いの坩堝だ。和洋中に加えてお菓子やコーヒー、挙句は運動部の汗の臭いや十代乙女の体臭まで何でもある。


「できた」


 サンドペーパーを置くと大福めいた下乳が出来ていた。出来は…………悪くない。受験勉強でしばらくブランクができたが、これなら問題なく原型師に復帰できそうだ。

 ふと視線を感じたので顔を上げるとなぜか二奈先輩が顔を赤らめていた。


「ねえ、えみちー。これってもしかしてモデルは私? もう、エッチなんだからー」

「はあ!? 違いますよ! これは『吉岡里帆』です。クラスメイトの男子から無理矢理借りた写真集を資料にしたんです。もう気持ち悪いこと言わないでくださいよ」


 それにしてもアイツらはこんなものを服の下に期待しているのか、うん百回死ね。


「でも、えへへ。えみちーとまた一緒の学校になれて嬉しいなあ。プライベートレッスン(意味深)を頑張った甲斐があったよー♪」

「―――っ!」


 耳元で元号や公式を囁く声がリフレインする。そして、両手から下乳が零れ落ちると悪夢が

高熱と寒気とともに蘇った。

 ―――受験の数日後、脱衣所で着替えをしたときに見つけた無数の手形の痕…………。あれは本当に恐ろしかった。鏡の前で本気で「ギャーッ!」と叫んだ。まだ残っているような気がしてあのとき以来まともに背中を見ることができていない。


「それで造形部の方はどうなのー? 順調?」

「ふぇっ!? まあ…………順調デスヨ。一人入ってくれそうな子も見つけましたし…………」


 嘘である。あれ以来立花寿とは多少会話が増えたものの、結局まだ勧誘できていない。あの虚像めいた美少女顔を見るとどうしても緊張してしまう。


「へー、そーなんだー。うちの高校は同好会なら三人からできるからねー。その子が勧誘できたら私も造形部に入るよー」

「やめてください。先輩を引き抜いたらアニ研の人たちに殺されてしまいます。そういえば、先輩」

「なあに?」


 パラパラと「鬼滅の刃」に集中したのを見計らってずっと気になっていたことを聞いてみた。


「バレンタインの日に先輩の家に押しかけてきた女の子いたじゃないですか」

「うん、いたねー。立花さんでしょ? あの子可愛かったよねー」

「彼女は―――」

「えみちーのいかにも好きそうなタイプだよねー。非現実めいた美少女というか、少女の理想像というか。しのちゃんとちょっとタイプ似ているかもねー」

「えっ―――いや、全然似てないですよ」


 思いもよらぬ名前が出てきたので私は呻いた。先輩はそれを見ると小悪魔のような微笑を浮かべ、たちまち会話の主導権を奪ってしまう。


「なあに? しのちゃんとまだケンカしているの?」

「してないです。ただ、連絡を半年ぐらいしてないだけですよ」


 先輩はおもくっそ大きなため息をつくとコミックスを閉じる。でも、それだけ。余計なことは言わない。基本的にこの人は人間関係にはドライな人だ。それは自分も他人も含めて。


「それはそうと、私もずっと気になっていたことがあるんだー」

「なんですか? 気持ち悪いことじゃないですよね?」

「造形部を作るのはいいんだけど、どこで活動するの? うちの高校、『技術室』ないけどー」

「…………へっ? ないんですか?」

「だって、高校のカリキュラムに『技術』はないでしょー?」


 なんてこった。夢の高校造形ライフがいきなり雲行きが怪しくなってきたぞ。


「…………明日も一日がんばるぞぃ!」



 昼休み。

 ランチバッグがあちこちで開く教室をふらふらと抜け出すと私は階段を上がっていった。

 足取りは…………重い。

 重い鉄扉を開けるとエアブラシで吹き付けたような青が飛び込んできた。柵を通り抜けた風が前髪を揺らすのを感じながら周囲を見渡す。ベンチはなく、生徒の多くは柵を背にしてコンクリートに直接座ってお昼を広げている。

 そして、目当ての人物はやはり隅っこの方でちんまりと俯くように何かを弄っていた。


「それって楽しい?」


 立花寿はビクッと身体を震わすと手から毛糸の繋がったシャトルがコロコロとコンクリートを転がっていく。私は慌ててそれを拾って渡したが、立花寿はぼーっと熱に浮かされたような表情だった。


「セリアの織り機だよね? それってそうやって作るんだ」


 フィギュアを作るときはホビーメーカーの商品ばかり使うとお金がいくらあっても足りない。そこで百均商品で代用するわけだが、四角い木枠の両端に櫛がついたようなその織り機も店頭で見たことがあった。


「しかし、本当にハンドメイドが趣味だったんだね。てっきりプラモの隠語だと思っていたよ」

「ち、違います! 私のことを何だと思っていたんですか」


 顔を少し膨らませると立花寿は口を尖らせる。

 それにしても可愛いな…………クラスメイトにもこういう顔を見せればいいのに。

 級友たちの努力の甲斐なく立花寿は結局クラスで浮いてしまっていた。どうにも人見知りが尋常ではなく、教室の中には諦めムードが漂っている。それだけならまだいいが、男子受けが良いのが災いして陰口も聞こえてくるようになっていた。


「…………それで何か私に用ですか?」


 昼休みに用事など一つしかないのにその発想が浮かばない。これはなかなかボッチ指数が高いとボッチ歴15年の私は見た。コンビニの袋一つ持たない私も多分に悪いのだが。


「うーん、立花さん、今日の放課後暇、だったりする?」

「…………えっ?」


 息を吸い込む。爽やかな空気が肺に染みわたる。


「というか、私と一緒に造形部を作らない?」

「…………ええっ!?」


 話は少し戻る。

 高校に技術室がないと知って、急転直下コキュートスの底までテンションが落ちた私を見て、さすがの二奈先輩も慌てたのか代替案を提案してくれた。

 二奈先輩が言うにはうちの高校には「第二美術室」なるものがあるのだと。そこは地下だから日光が入らないし、有機溶剤が使える換気室まである。そういえば受験する前に入学資料で見ていたことを思い出した。入るのに夢中ですっかり記憶がこんがらがっていたようだ。

 問題は普通科の学生に過ぎない私がそれを自由に使えるかどうか。しかし、考えても仕方がない。早速私は職員室に直談判をしにいった。

「いいんですけどお、条件が一つありますぅ」

 担任および現美術部顧問の渡辺ミチルちゃんはあらあらまあまあな声で答えた。

 そらきた。マイナー部活系日常モノの序盤にありがちな展開である。大抵は部員を〇日までに×人揃えてこい、とか無茶振りをされるものだ。さすが高校、何でもどんときやがれ。


「―――立花さんを誘ってくれませんか?」

「えっ…………?」


 担任ははたして立花寿がプラモを作ることを知っていて言っているのだろうか。しかし、入学以来初めて見る担任のシリアスな顔を見る限りどうやら冗談の類ではなさそうだ。


「ええと別に深い理由はないんですよお。松戸さんとは席がお隣同士ですしぃ、他の子たちよりは話しやすそうだなあと」


 私の視線に気づいたのか、ミチル先生は慌てて元のアニメ声に戻る。

 …………深い理由ねえ。


「わかりました。一応声はかけておきます。でも、立花さんは電車通学だから部活は無理みたいなことを言ってましたよ。だから難しいんじゃないですかねえ」


 私がそう言うとミチル先生はにっこりと笑うだけだった。似たような表情を二奈先輩、それともう一人にされたことがある。その女は笑った後決まってこう言うのだ。

 ―――エミコはバカだねー、と。


 私が第二美術室について無駄に熱く語っているとき立花寿はぼんやりとしたまま表情一つ変えなかった。その顔を見て私は「ダメだな」と思った。仮にプラモが好きだとしても塗装して作り込みたいわけではない。素組みには素組みの良さがあるのだ。


「わ、わかりました。私、入ります」

「うん、そうだよねー。わざわざ安くもないお金を出してシンナー臭にまみれるなんて嫌だよね。今の時代、完成度の高いのが欲しかったらメタルビルドとか買えばいいんだし」

「ええと、何か準備は必要ですか? ジャージとかに着替えた方がいいんでしょうか?」

「というか、わざわざ金と時間かけて自分で作るなんてそもそもアホだし。プロの原型師とメーカーが作った商品を買った方が出来いいし…………って、うん?」

「…………はい?」


 美少女が目前でキョトンとした顔で私を見つめていた。


「えっと…………本当に入るの?」


 細くて白い首がこくりと頷く。


「デジマ!?」

「はい」

「なにっっっ! 考えているのっっっ!?」


 私は怒っていた。このプラモ美少女は全くもってわかっていない!


「いい!? フィギュアを粘土からわざわざ作るんだよ!? ひたすらデザインナイフとやすりで削って削って削りまくって、それがやっと終わったら今度はシンナー地獄。調色面倒だよ、湿気との闘いだよ? コミケと違って客層はオッサンばっかだし、画像掲示板はアンチとアンチで常に荒れ放題、不良を仕様で押し通すメーカーにクソみたいな売り方のイベ限定品。ホントっっにどうしようもないクソみたいな世界なんだよっっっ‼」

「えっと…………自分の好きなモノをよくそこまで貶められますね…………」

「一生にたった一回しかないJKライフなんだよ、後悔しても遅いんだよ! そうだ! 何かを作りたいなら演劇部が良いんじゃない!? 大道具とか衣装制作とか楽しそうだよ!」


 そうだ…………今からでも遅くはないんだ。脳内でユー〇ォニアムとかランウ〇イな日々を妄想していると立花寿がくすくすと笑っていた―――初めて見る花が咲き誇るような、笑顔。


「ご、ごめんなさい。お、おかしくて…………。私はエミコちゃんとならどこへ行ったっていいですよ。どんな部活に入ってもエミコちゃんとならきっと楽しい、と思うから」

「へ―――っ?」

「でも…………まずはフィギュア部、ですね。あなたがそんなにも夢中になって話すことができるフィギュアというものを見たいです。見せてください」


 にっこりと笑うその顔を見たとき口の中に甘いものが広がるような気がした。

 あの雪の日に渡された―――白くて甘いスノーボールの味。

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