エミコとコト子 その2 「窓側最後列は物語の始まり」



***



 少し開けた窓の隙間から風が通り抜けると前髪を少し揺らした。風は穏やかで温かく、仄かに春の匂いがするような気がした。窓の外を見れば満開の花を咲かせた桜の枝。額に入れて飾りたくなるような風景であり、今、この瞬間にしか見られないもの。


「―――人が変わっても、花は変わらないのね」


 思わず独りごちると前の席の名前も知らない男子が「なに言ってんだ、コイツ」と言わんばかりに訝し気な視線を寄越してきた。

 まるで文学少女にでもなったように柄にもないことを考えるのはこの席、つまりは窓側の一番後ろというアニメの主人公が座るような席に今現在座っているからだ。新学期の初めにこんな良席に座れるのは生まれて初めてだ。これで目の前に美少女が座っていようものなら物語の一つでも始まりそうだが、生憎目の前は毬栗頭である。

 まあとにかく私は浮かれに浮かれ切っていた。

 それはとにもかくにも今こうして入学式を迎えられることが奇跡だったからだ。

あの雪の日の百合プラモ少女との邂逅は私にとてつもない代償を強いた。

 雪が降りしきる氷点下の夜に一時間近くも熱がようやく引いたばかりの身を晒したのは言うまでもなく愚行愚劣アホであり、再び上がった高熱は試験当日まで一分たりとも下がることはなかった。幸いにして試験は別室で受けることが許されたものの、そのときの記憶は未だに思い出せない。夢うつつのなかで頼朝やピタゴラスと格闘していたような気がする。

 合格は万に一つだったと思う。もしかしたらソシャゲで最高レアを当てるよりも低かったかもしれない。しかし、ふふん。私は受かってしまったんだなあ、これが。


「―――じゃあ、席順に自己紹介をお願いしますねえ」


 担任の渡辺ミチル先生のアニメ声が教室に響くと最前列の渡辺君が戸惑ったように自己紹介を始めた。さて、どうしたものかと思っているとすぐに私の順番が来た。

 こほんと軽く咳払いをして立ち上がる。

 真新しいセーラーブレザーはまだ借り物のようでパリッとしたブラウスが肌にこそばゆい。

 ―――これから始まる私の新しい造形フィギユアライフ。

 ―――高校でも造形部を作ってワンフェスに出展するんだ!


「はじめまして、松戸エミコといいます」


 はい、ここで百合ゲーのヒロインばりのスマイル。


「趣味はフィギュアを眺めることと作ることです。ちなみにフィギュアというのは羽生結弦クンの方じゃなくてヲタクの棚に飾っていそうなヤツです。ヲタクの記号的なアレです」


 案の定、女子生徒に限らずクラスの眉根という眉根に谷が刻まれていたが、教室のどこかで「松戸エミコ、て月見野中の松戸じゃね?」という声が聞こえると「あー」と妙に納得した返しともに「あの“将棋チョコ”のヤツか」「あー、私動画みたよ」と続いて反響していく。

 おいやめろ。そして、そっとハンカチで目頭を押さえるヤツ、特にやめろ。私の恥のパラメータが振り切れてしまうだろ。


「あ、ありがとう、松戸さん。ユニークな趣味を持っているんですねえ」


 クラスが妙な空気になった理由をイマイチ掴めていないミチル先生はほんわか言った。


「うーん、でもー、フィギュアを作るということはアニメ研究会や漫画研究会とはちょっと違うのかなあ。そうだ、もしよかったら美術部とか―――」


 チクショー。高校に入って心機一転のはずがここでも過去の汚名に苦しめられるのか。ああ、やっぱりバレンタインなんてクソイベントだ! 去年は“アレ”だったし、今年も危うく高校受験を失敗させかけられた。どうにも私はあのカカオ菓子と相性が悪いらしい。


「―――ありがとう。臭いものは身体にいいですよねえ。じゃあ、次の方お願いしますねえ」


 ふと教室がざわつく音が聞こえて我に返る。はてな、と思ったが、クラスメイトの顔を見ると理由はすぐにわかった。彼ら彼女らはみな私の右隣を見ていた。

 自分と同じ真新しいセーラーブレザー。

 前髪が隠れるぐらい俯いているので顔はよくわからない。緊張しているのだろう、両掌をぎゅっと握り、細かく震えていた。


「がんばらなきゃ―――せっかく会えたんだから」


 囁くような声が右耳に届いたかと思うと、椅子がガガッと引かれる。


「は、はじめまして」


 教室中が息を呑む声を聞いた。

 しかし、何よりも大きかったのは自分の唾を飲み込む音だった。


「…………た、たち」


 何かを言おうと口をぱくぱくさせるがすぐに真一文字に結ばれてしまった。緊張と恥ずかしさで小さな顔がたちまち真っ赤に染まる。


「ヤベえ…………」


 前の席から呻くような声が漏れた。

 絹のような前髪が春風に揺れるとぎゅっと瞑った瞼を隠す。色素が薄いのだろう、陽に触れた髪はアッサムティーのように透き通っていて僅かに花の匂いがした。そして、あの幽霊のような―――塗料の調色を間違えたような―――白い肌。


「た、立花寿ことぶきといいます! へ、変な名前なのであんまり好きじゃありません!」


 ―――目の前にあの百合プラモ美少女が立っていた。


「趣味は…………ラジオを聴きながらハンドメイドを作ることです」


 教室のあちらこちらで「可愛い」「美少女の趣味だ」とかの声が漏れ伝わってくる。あの蝋細工のような指が作るのがジオン水泳部だとはまさか誰も思うまい。

 しかし、まさか同級生だったとは―――。湧き上がる疑問に思考が向きかけたとき、ふと美少女の顔がクラスメイトから背けるように私の方を向いた。うるうると潤いに満ちた大きな瞳が私を正面から射貫く。細かく瞬く睫毛は長く、鱗粉が零れてきそう。


「…………また、会えた、ね…………」


 おそらく私にしか聞こえないであろう囁きが温い風にかき消される。

 それから数秒間、私たちは見つめ合っていた。が、立花寿は林檎飴のように顔を真っ赤にするとしなしなと席に座り直した。


「へ―――っ?」


 私の間抜けな声が教室中に響く。

 それから立花寿は俯いたまま話すことはおろか目が合うことすら無かった。

 


「ねえねえ、立花さんは何中出身なの?」

「……………………双葉中、です」

「双葉中、それってどこだっけ? 知っている?」


 佐々木さんが尋ねるが、もう一人の佐々木さんは首を横に振った。ちなみにこのクラスは高橋が三人、佐藤と佐々木が二人ずついたりする。変なクラスだ。


「へえー、立花さん結構遠いところから通っているんだー」

「…………そんなことは」


 佐藤さんがグーグルマップを見せるとそれを覗き込んだW佐々木は「本当だ、結構遠いね」「すっごーい!」と呼応する。


「ねえ、私も電車通学だから今日一緒に帰ろうよ?」

「…………」


 立花寿が俯くのを見て“さ行ズ”たちは顔を見合わせた。こうなるとろくすっぽコミュニケーションが難しくなる。小声で「アンタが変なこと聞くから」「ええっ、それ!?」と肘をつつきあう。嫌な予感がしてラフ絵を書くことに集中しようとしたが間に合わなかった。


「松戸さん、フィギュアが好きなんだっけ?」

「えー、自分で作るの!?」

「すっごーい!」


 …………もう一週間以上ずっとこの調子である。

 立花寿はあの自己紹介が終わるや否やクラスの女子に囲まれ、「友だち追加」の中心となった。多くのスマホが「ふるふる」と振るわれ、ちょっとしたルイーダの酒場状態である。

 しかし、当の本人は話をするのがどうにも苦手で質問に答える度にどんどん口数が少なくなっていく。その中でも出身中学と容姿についての話題は特にダメ。それらについて振られると途端口を噤んでしまうか凍結フリーズしてしまう。

 そして、立花寿との会話がこれ以上続けるのが難しいとわかると彼女たちの前意識に浮上するのが横で呑気に座る、同じくレアキャラのフィギュア女、つまりは私であった。

 ハブられるよりはマシといえばマシだが、同じことを何度も話すのは―――しかもさして興味を持ってない相手に―――さすがにウンザリする。

 おかけで奇跡的な再会ができたというのに、しかも隣の席にいるにも関わらず立花寿とはプラモの話はおろかろくすっぽ話せていない。

 ああ! せっかく新生造形部にこれ以上ない人材がすぐそこにいるというのに―――!


「ああ、今思い出した! そういえば体験入部のときに双葉中出身の子いたよ」

「へえー、立花さん知って―――」


 佐々木Aが口をつぐむ。何かと思えば、立花寿の顔が真っ青になっていた。


「…………すみません!」


 そして、周囲が何かを言うよりも先に椅子から立ち上がると教室を飛び出していった。

 HRホームルームが始まっても立花寿は教室に戻ってくることはなかった。囁く声とちらちらと向けられる視線が無人の机に集まる。担任の渡辺ミチルはその状況に気づくとアニメ声で言った。


「誰か様子を見に行ってくれませんかあ? ああ、ちなみに女子限定ですよお」


 下心丸出しの手が慌てて下がっていくのを見て、教室から失笑が漏れる。一方で女子はといえば互いに顔を見合わせ、目顔で牽制しあう。そして、私はその隙を見逃さなかった。


「せんせー、私がちょっと様子を見てきます!」

「じゃあ、松戸さんお願いしますねえ」


 クラス中のやっかみに満ちた視線を感じつつ、私は立ち上がる。ふふん、いい気分だ。いち早く手に入れた限定フィギュアをまだ列に並んでいる連中に見せつけるような気分である。

 早速個室を覗いてみたもののやはり誰もいない。それにしてもさすが私立というべきか金がかかっている。フローリングとガラスタイル貼りの室内はトイレというより化粧室と呼ぶ方が相応しい。もっとも私は奨学生だから学費払っていないんだけどね。各種心理学を考慮して設計されたであろう空間は明るく、陰湿さとは程遠い。しかし―――。


「はー、これだから生モノは面倒くせーな」


 無人の廊下に出ると窓の外は雲一つない快晴で遠くにみなとみらいのビル群が蜃気楼のように見える。そして、階下に目を向けると私は吹けない口笛を吹いた。


「ひゅー、ラッキーガールDAZEI☆」


 中庭は新校舎に四方を囲まれたテラスになっていた。足元はウッドデッキが敷き詰められ、デッキがないところではガーデニング部が丹精こめて育てたであろう四季折々の花がモミジやアジサイとともに咲き誇っている。

 ―――そして、ウッドベンチの一番端、ケヤキの葉の隙間から注ぐ陽光が日溜まりになったいかにも気持ちが良さそうな場所に立花寿は座っていた。


「…………」


 一心不乱に手元を小刻みに動かす美少女。傍目にはネイルファイリングをしているようにしか見えない。しかし、残念! 彼女がやすりがけしているのは「海洋堂 35ガチャーネン 横山宏ワールド マシーネンクリーガー」なんだな。

 カプセルトイのプラモだが、ハッキリ言ってシブい。今日日高校生、それも女子がなかなか手を出せるものではない。相変わらずいい趣味をしてやがる。

 立花寿はやはり間違いなくホンモノだ。彼女は必ずや我が造形部(予定)の戦力になる。


「授業サボってボッチプラモっすか」


 立花寿は顔を上げると眩しいのか目を細めた。


「…………えっ? あ、あああっ!?」


 まったくこのプラモ少女はボキャブラリーというものを持ち合わせていないのか。


「こ、こここれはちち違うんです! 私はその、あの…………」

「いいよいいよ。続けちゃいなよ、YOU。中途半端に終わらせたら逆にパーツを紛失しそうで怖い。というか私だったら絶対無理。デッキの隙間がブラックホールに見えてくるわ」

「えっ? あっ、ま、松戸さん…………?」


 ベンチに落ちていた1000番のスポンジやすりを手に持たせてあげると立花寿はおずおずと作業に戻った。デッキを通り抜けた東風が長い前髪をふんわり揺らす。


「塗装はしないの?」


 スカートとスカートの間にちょこんと立つまん丸ヒト型兵器をお互いに見つめると私は何と無しに言ってみた。カプセルプラモなので単色である。まあこれはこれで洒落ているが。

 立花寿を首を傾げるとしばらく考えこんでいたが、やがてかぶりを振った。


「…………したことない、ですね」

「部分塗装も? トップコートは?」

「そういうのならしたことあります。でも、難しいです。ムラができちゃうから」

「ああ、それすっごくわかる。スプレー缶だと調整難しいよねえ」


 ぱちりぱちり―――頭の中で心地のいい何かがハマっていく音を聞いた。

 ああ、話がわかる人間と話すのはやっぱり楽しいな。

 そして、私は水底からプカプカと浮かんでくる一つのアイデアを改めて意識した。それはかつて誰かさんに言おうとして結局言えなかったこと。

 …………もしかしたら、あの雪の夜からもう既に頭の隅にあったのかもしれない。


「立花さんは入る部活はもう決めている?」


 口の中が異様に乾く。心臓は早鐘を打ち、まるで火事場のようだ。


「私、家が遠いんです。だから、部活はやらないと思ってました」

「へ、へえー、そうなんだー」

「…………」


 私はなぜかホッとしていた。いや、アホか私。なんでホッとしているんだ。昨夜ラブライブの序盤を見て勉強しただろ。部員の勧誘はとにかく熱意と夢の押し売りなんだよ!


 ―――やりなよ、エミコ

 ―――絶対に面白いよ


 うるさい、黙れ。私は。


「エミコちゃんは部活をするんですか?」

「えっ、私?」


 気づけば硝子玉のような瞳が私をジッと見つめていた。気のせいか眉間に皺が寄っているような。視力が悪いのだろうか。


「フィギュア、作るんですよね―――?」

「う、うん…………そのつもりだけど。原型だけなら家でもできなくはないけど、レジンの複製や塗装をするときは換気がしっかりできる広いスペースがないとね。それにうちはアパートだし。一度部屋でエアブラシを使ったら母親に殺されそうになった」

「独りでですか?」


 瞳が息がかかるほど近くにあった。ブレザー越しの温もりがお腹を掠っていく。


「立花さん、私と一緒に造形部を作らない?」


 その言葉が、どうしても出てこない。

 一緒にワンフェスにディーラーで出よう。ガンダム系がいいならC3の方でもいいかもしれない。放課後、毎日何かを作って、アニメやマンガのどうでもいい設定について話そう。休みの日はヨドバシのホビーコーナーや世界堂で消耗品を補充しに行こう。

 きっと、きっと―――それはすごく楽しいに違いないのに。


「―――エミコちゃん?」

「えっ―――?」


 間の抜けた声とともに熱いものが頬をはらりと伝わっていく。頬を拭うと一人の少女の影が陽炎のように揺れて消えていった。

 …………アイツ、今頃何しているんだろう?


「だ、大丈夫ですか? 保健室、行きますか?」


 立花寿はいかにも心配そうに尋ねた。やれやれ、これでは立場がまるで逆だ。


「うん、大丈夫…………」

「そう、ですか」


 立花寿はしばらく何か思うところがあったらしいが、結局何も言わなかった。滑らかな感触が離れていくともに彼女が私の手を握っていたことに気づいた。

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