01章 2022年
01-001 2022年 - ダンジョンに落ちた
2022年10月3日
「うぁ! うあ゛ぁぁぁぁっ!」
さくらは地面の揺れを感じた後、すぐに足元の土の感覚がなくなり、浮遊感を感じ、自分がなぜか落下していることに気づき、目を閉じて悲鳴をあげた。
夫と子どもたちと朝ごはんを食べ、家から送り出した。一息ついて、近所に借りている家庭菜園で収穫をしていたところだった。
さくらはダンジョン発生によって現れた穴に飲み込まれ、深い穴に落ちていった。
ダンジョンは
ともあれ、さくらは奈落の底に落ちていくかのように、落下していた。高校時代のジャージに麦わら、滑り止めのついた軍手をした手には草刈り鎌だ。反対の手には枝豆を握っている。ポケットに携帯端末が入っている。
驚きのあまりか、体に力が入り、両手は握りしめたままだ。ジェットコースターに乗ったときのように手を開いて万歳をしたりはしていない。
落ち始めてしばらく時間が経った。一体どのくらいだったのだろう、一分か、一〇分か、さくらには時間の感覚がなくなっていてさっぱりわからないが、自分の周りの空気が変わった、と感じた。
温度や湿度ではなく、なんとなく自分の感覚器官が違和感を覚えた。
外界とダンジョンの空間が明確に切り離されたのだ。ダンジョンの内と外は別の世界と考えられている。ダンジョンのそばで穴をほっても、ダンジョンにはたどりつかない。ダンジョンの内外で電波は通らない。どうやらダンジョン発生時には一時的に外と中の空間がつながっているようだが、それが、いま、途切れた。
ギュッと目を閉じて自分が地面に激突する恐怖に怯えていたさくらだが、いつまでも終わらない落下と、その感覚に、勇気を出してそっと目を開けてみた。
さくらは視線の先にスライムを見た。高校の頃にダンジョン実習で見て以来だ。スライムは暗いところでも少しだけ光って見えるのだ。スライムは落下に伴い、少しずつ大きくなっている。薄暗いダンジョンのため距離感がわからないが、ものすごい大きいスライムなんじゃないかという気がしてきた。
そして、それは実際にそうだった。
「お、おぉぉぉぉぉ!!!!」
この速度でなにかにぶつかったら、自分など生きていられないだろう。落ちる先にスライムの巨大さに、また、自分の命運がもうすぐ尽きようとしていることに気がつき、叫びを上げた。できたのは叫ぶことだけだ。
一方で巨大スライムは落下してくるなにかに気づいたようだ。さくらに向かって、触腕を伸ばしてくる。敵と見たのか、餌と見たのかはわからない。
ともあれ、巨大スライムはさくらに向かって触腕を勢いよく伸ばした。それを見たさくらはとっさにはなにもできず、ただ叫びをあげ続けただけだった。
「ああぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
しかし、その触腕はさくらの落下速度に追いつけず、触腕でつかむことはできなかった。しかし、わずかにかすることはできた。高速で落ちるさくらはそのせいで、落下姿勢を乱され、くるくると回転してしまう。触腕がかすった足は折れたが、さくらはそれどころではなかった。意識も朦朧としている。
天井から落ちてきたなにかに、巨大スライムにできたことは、それだけだった。触腕の伸びる速度はそれの落下速度に対して遅すぎた。かすった巨大スライムを褒めてあげたい。
奇跡が起きた。
さくらは回転したままスライムに激突した。巨大スライムの触腕がかすって回転したことで、強く握りしめたままだった草刈り鎌は巨大スライムに落下速度にさらに回転力を増して強力に突き刺さった。弾力があり、物理攻撃を弾く性質のあるスライムの身体は、生半可な攻撃は吸収してしまう、しかし、落下と回転、草刈り鎌による刺突は巨大スライムの表皮を突き破った。
草刈り鎌はそのままスライムの体表に穴を開け、その勢いでさくらは巨大スライムの体内を突き抜けていく。そして、スライムの核を草刈り鎌が捉え、打ち砕いた。およそありえないことだが、起きてしまった。
衝突の勢いでさくらは全身ボロボロだったが、巨大スライムの体内で衝撃が吸収されたのか、死ぬことはなかった。さくらは九死に一生を得たのだ。
巨大スライムは、表皮を突き破られて、本能が自己再生能力を高めた。
本体である核が、自分の身体に、再生の指示を出した。スライムには高い再生能力がある。ちなみに、スライムは、攻撃する際には自己の粘液を溶解液として射出することがあるが、スライムの身体が溶解液の塊となっているわけではない。射出するときや取り込んだ食べ物を消化する際に変化させている。
スライムはダンジョンの掃除人とも呼ばれ、ハンター協会はなるべくスライムを討伐しないように要請している。
巨大スライムは核を砕かれた。さくらは巨大スライムと激突したショックで気を失っていた。
さくらの身体は、スライムの核を打ち砕いたところでとどまり、核の破片を抱き込むような姿勢で、巨大スライムの体内を浮遊している。
何度目かわからない奇跡が起きた。巨大スライムはその生命を完全に失うまでに、核からの再生の指示を継続していた。核を中心に、外皮を再生するように体全体に再生能力を行き渡らせようとしたのだ。
さくらはその再生力を横取りした。さくらの身体はみるみるうちに骨折を治し、打撲を治し、傷を治した。再生力はそのままさくらの身体に及び、肩こりや冷え性、腰痛、気づかずに潜伏していた死病までも治癒した。
さくらは知らないが、巨大スライムは、発生したばかりの巨大六〇層ダンジョンの最下層ボス、エンペラースライムであった。
奇跡はまだ続く。
エンペラースライムの身体の傷から体液が流れ出していく。再生の力はさくらが奪い取り続けている。
数分で体液は全て流れ出し、さくらはスライムの外皮に包まれるようにしてダンジョンの床に横たわった。
エンペラースライムの核はまだ力を失っていなかった。スライムの生命力は魔物の中でも上位に位置する。核は砕かれ、再生のために魔力を放出し続け、力を失いつつある。
さくらの身体はエンペラースライムの再生力を受け続け、エンペラースライムの魔力に染まっていた。核は、さくらを自分の身体の一部と間違えた。さくらは再生の力を受け、生命力に満ちている。周囲に体液が流れてしまった核の小さな破片は、本能的に、生き延びることを考えた。死ななければ、何十年、何百年かすれば元に戻れるかもしれない。小さな体からやり直そう。
核は砕かれて機能を停止しかかっている。破片は魔力の塊となってさくらの身体に染み込んでいった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ただいま」
佐倉悠人は高校から帰ってきて、家のドアを開ける。家の空気が冷たい。家族は全員でかけているようだ。自室に入り、制服から着替える。
二〇年ほど前の渋谷スタンピード以降、東京の地価は下がっている。人口が多い都市ほどダンジョンの発生率が高いのだ。人口の少ない地方にIターンしたものは多い。
とはいえ、国の首都としての機能はそのままだし、ダンジョンに関係した仕事をしている者もいる。ダンジョンはうまくつきあえば資源をもたらす鉱山のようでもある。そのため、出ていく人がいる一方で、入ってくる人もいる。東京は意外と広い。渋谷近辺に限定すれば人口は八割減。二割しか残っていない。東京の各地に密集を避けながら、居住地をなるべく散らし、集中しないようにしている。
佐倉家は父の孝利がダンジョン研究をしているため、ダンジョンと大学に近い東京で暮らしている。元は高校教師をしていたのだが、さくらとの結婚を機に、恩師のつてを頼り大学のダンジョン研究室に入り、研究員となったのだ。
孝利は運と才能に恵まれ、ダンジョン研究家としても、ハンターとしても成功し、大学に近く、ダンジョンに近すぎず遠すぎずのマンションを手に入れた。
ちなみに、ダンジョンに近いマンションは、比較的安めだ。
悠人はキッチンへ行き、冷蔵庫からお茶を取り出す。水は煮沸するか浄水器を通さないと飲めない。
携帯端末で動画アプリを開く。新着通知を開くと、『日本の動画配信者のみなさまへ:本日発生のダンジョンについて』というメッセージが届いていた。
この案内はそこまで珍しくない。新しくダンジョンができると、動画配信目的のハンターが群がる。どんな魔物が出るのか、ダンジョンのランクはどのくらいだろうか、そんなことを情報発信するのだ。
ダンジョンは世界規模で見ればそれなりに発生している。だが、このメッセージは日本居住者向けだ。日本だけで見ればそこまで多くない。
久しぶりにダンジョンできたんだ、どこだろう、と悠人は考えるが、面白半分に行く人がいるので、メッセージに発生場所が書かれていることはない。SNSならわかるかもしれない、と思い、SNSを見てみると、やはりだ、すぐに情報が出てきた。東京で、しかも練馬区らしい。悠人が住んでいるエリアだ。ダンジョンの入り口付近の写真を見てみたが、悠人にはどこだかわからない。
もっと場所の詳細を書いている人がいないかと、SNSを検索していると、ドアを開く音が聞こえた。
「ただいま」「ただっ!」
「おかっ!」
どうやら父と姉のようだ、悠人が返事をすると、リビングに2人が入ってきた。
「ママは?」
「知らね、買い物かなんかじゃない?」
父親がこんな時間に帰ってくるときは、大体急な調査で出かける準備をするときだ。
「父さんさぁ、急にダンジョン行かないといけなくなった。知ってる? 近所にダンジョンできたんだよ」
「あー、今、そのニュース見てた、どこなの? 検索してたんだけど全然出てこなくてさぁ」
「うちから10分くらいのレンタル農園だとさ。協会の事前調査で、けっこう深いかもしれない、ってわかったから、上級ハンターと一緒に、研究者兼A級のおれが指名を受けてんだよ、……」
パリン
そのとき、キッチンでグラスの割れる音がした。見ると、杏奈が血の気の引いた顔で孝利に問いかける。
「ねぇ、それ、『練馬区公営レンタル農園』じゃない?」
「ん? ああ、やっぱり近くだし、お姉ちゃんは知ってたか」
孝利が割れたグラスを拾いながら返事をすると、
「ねぇ、ママ、そこに農園借りてる……」
杏奈はかすれた声で、そう言った。
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