6-1
停学とは言っても言われたとおりに自宅から一歩も出なかったわけじゃない。
崎森家の家事はさとりが仕切っている。なので当然、食事や日用品の買い出しもさとりの仕事なので、遊び歩かないだけで外出は毎日していた。
停学になって一日目は、真一郎と家族になれたことが嬉しくて真一郎に弁当を作ったり、夕食のメニューを考えたり、繕い物を見つけては直したり。とにかく今までできなかった家族らしいことに没頭して時間を過ごした。
家族として過ごすという欲求がたった一日で満たされたわけじゃない。だがそれでもある程度の満足感を得ることができるし、心に余裕も出てくる。なので停学二日目は母に会いに行くことにした。
真一郎は仕事があるので一緒に行くことはできなかったが、さとりは朝から母親の墓を参り、掃除をし、供え物をし、そして手を合わせて報告をした。
母親が死んでから昨日までのこと。良いことも悪いことも全て、時間をかけてゆっくりと包み隠さずに報告をする。
さとりの話を聞いて母親はどんなことを思っただろう。どんな顔をしただろう。想像することしかできないが、きっと喜んでくれているだろうと思った。
そして最後に墓前に向けて、
「今度は、お父さんと二人で来るね」
そう言って母の元を後にした。
それからは街の中を当てもなく歩いた。
真一郎のこと。
これからの家族のこと。
夏生のこと。
夏生の家族のこと。
色々なことを考えながら、足の向くままに歩く。
そしてふと、懐かしさを感じて足を止めた。
「・・・・・・ここ」
そこは、今にも崩れそうな古びた木造アパートの前だった。
さとりはそこをよく知っている。
ここはかつて、さとりが住んでいた場所。
さとりが母と、そして実父と暮らしていた場所。
良い思い出なんて何一つないはずなのに、どうして足がここへ向いてしまったのか。
ここを出てからは一度だって訪れたことはない。なにかきっかけがなければ思い出すことだってなかったはずなのに。
「・・・・・・ああ、そっか」
さとりはここを、ここでの記憶を忘れたいと思っていた。だから極力思い出そうとすらしなかった。
でもさとりは今、新たな家族を得てようやく幸せを手に入れた。
昔と今。それを今ここではっきりと決別したかったのだ。
これから先を生きるために。前に進んでいくために。辛く嫌な思い出を、過去を、ここに置いていくために――。
「・・・・・・」
過去をなかったことにはできない。
しかし、変わることはできるのだ。
「・・・・・・・・・・・・さよなら」
もういらない。必要ない。
ここでの生活は、あの男との記憶は、これからのさとりには不要だ。
さとりはそれら全てを振り切るように静かに言って視線をアパートから外した。そしてもう二度とここに来ることはないだろうと、そんなことを考えながら背中を向けた。
――と、そのときだった。
「――さとり?」
ふいに名前を呼ばれて振り向く。
そして、目の前にいた人物に驚愕した。
「お前、やっぱりさとりかあ?」
目の前には男が立っている。
ボロボロの服、不衛生な髭面、大きく出た腹、そしてなにより昼間だというのに見て取れる赤みの差した顔と、漂う酒気。
見間違えるはずがない。
「・・・・・・お、父さん」
「いよう、さとりぃ。元気だったかぁ?」
すでに相当酒が回っているのだろう。僅かにフラつく足取りで実父はさとりの前に立つ。漂う酒気が一層キツくなりさとりは顔をしかめた。
「なんで、ここに」
「ああ? 別に俺がどこでなにしてようが勝手だろう?」
母がこの男と離婚した後、実父もここから離れたと聞いていたのだが。
実父は身体が縦にも横にも大きく、真一郎とは正反対の体格をしている。そのため上から見下ろされると威圧感が凄まじい。
「・・・・・・っ」
振り切ったはずだ。捨てたはずだ。前に進んだはずだ。
だがしかし、いざ本物の実父を前にしたら切り捨てたはずの感情が身体の底から沸き上がってきた。
昔に何度も何度も身体と心にすり込まれた、恐怖という感情が。
「おいおい、どうしたぁ、さとりぃ?」
実父はさとりの隣に立って肩に手を回す。口元からはさらに濃い酒気が漏れ、正直吐き気すら催しそうだった。
今すぐにでも逃げ出したい。だがその想いに反してさとりの足は動かない。
(くそ・・・・・・。もう大丈夫なはずだったのに・・・・・・っ)
「おお、そういえばかーちゃんは元気かぁ? なんだったらよぉ、また家族三人で暮らすか。いやいや、俺も昔のことは反省してよぉ」
「――っ」
でも、実父のそんな言葉を聞いて、さとりは吹っ切れた。
直前まで感じていた恐怖や不安が吹き飛ぶ。
パンッ、と肩に回されている実父の手を払いのけた。
「・・・・・・お母さんは、もう死んだよ」
「・・・・・・なにぃ?」
実父の表情が変わる。だがその顔は決して母の死を悲しんだり悼んでいるものではなかった。
そう、この男が母に対してそんな感情を抱くわけがない。
「チッ、んだよ。当てが外れたな」
(・・・・・・やっぱり)
ここでさとりと実父が再会してしまったのは偶然だっただろう。しかし実父はさとりを見たときから思っていたはずだ。
また金づるに再会した、と。
繰り返すつもりだったのだ、この男は。
恐怖と暴力でさとりと母を支配し、酒に溺れて金を稼がせる。かつての生活を再現しようとしていたのだ。
(・・・・・・ふざけんな)
例え母が生きていたとしても、そんなことは認めない。そんなことは許さない。
二度と自分たちの生活を壊させたりしない。
「・・・・・・だったらさとり。俺と一緒に暮らすか。もう一度よぉ」
「・・・・・・黙れ」
「ああ?」
「うるさいうるさいうるさいっ! 誰がお前となんて一緒に暮らすもんか!」
そう、この男と一緒に暮らすなんて考えられない。ありえない。そんなことをするくらいなら死んだほうがマシだとすら思えた。
「あんたと離れたあと、お母さんは再婚したんだ。あんたとは違う、ちゃんとした人と結婚して、その人はあたしのお父さんになってくれたんだ! あたしにはもう、幸せな家庭があるんだ! だからお前なんていらないんだっ!」
昔だったら絶対に言えなかった反抗的な言葉を実父にぶつける。でもこれがさとりの正直な気持ちだ。そしてこの言葉を口にすることができたのは、真一郎の存在があったからこそだ。
「新しい、家族だぁ?」
「そう、だからもう二度とあたしの前に――っ」
そこまで言って、強制的に言葉を止められた。
ジン、とした熱と痛みを頬に感じて、そこでようやく殴られたのだと気づく。
「さとりよぉ、暫く見ない間に随分のクソ生意気に成長したもんだよなぁ?」
暫く感じていなかった殴られるという痛み。その痛みがかつての記憶をフラッシュバックさせる。
でもここで負けたらダメなのだ。ここで怯んだら、負けてしまったら、また言いなりの奴隷のような自分に戻ってしまう。せっかく手に入れた幸せを壊してしまう。
ここがきっと、崎森さとりの人生における分岐点。
なにがあっても、どんなことがあっても、決して下を向いてはいけない。受け入れてはいけない。屈してはいけない。
上を向け。前を見ろ。決して一人ではないのだから。
「まあ、成長したのはこっちもか」
実父はさとりのスカートの裾を僅かに持ち上げ、白い太ももに触れる。
「あいつが死んだんなら仕方ねぇ。・・・・・・お前が稼いでこい」
言葉と行動で実父の言っている意味は簡単に理解できた。要するに身体でも売って酒代を作ってこいということだ。
本当に、ふざけている。
「触らないで」
再びさとりは実父の手を払いのける。そして正面から実父のことを睨み付けた。
「気持ち悪い手で触らないで。なんであたしがあんたのお酒のためにそんなことしなくちゃいけないの? 家族? 笑わせないでよ。あたしは一度だってあんたのことを家族だなんて思ったことないんだから」
恐怖はある。手足も僅かに震えている。気を抜けば過去の記憶に押し潰されてしまいそうだ。
でもここで膝を折ることはできない。
拳を握り、歯を噛みしめ、しっかりと前を見る。
「あたしとお母さんを苦しめて、虐げて、なにが家族だ。よくも恥ずかしげもなくそんなこと言えたもんだ。もうあたしはあんたとは関係ない。だからもう、二度とあたしの前に現われないでっ!」
言ってやった。言ってやったんだ。
長年溜まっていた感情が爆発する。
きっと少し前までのさとりならこんなことは言えなかった。実父を目の前にするだけで身体が竦んで言いなりになっていたに違いない。
でももうさとりは臆さない。こんな男の言いなりになって、今ある大切なものを無くしたりは絶対にしない。
自分の意思を視線に込め、真っ直ぐに実父を睨み付ける。
さとりの頑なな意思は間違いなく実父にも伝わった。まさかさとりがここまで反抗するなんて考えてもいなかっただろう。でもだからこそ実父は驚き、そしてそれが彼の逆鱗に触れた。
生来の性格に加え、酒も入っているせいでその頭には普段よりも遙かに血が上りやすくなっていた。一瞬で沸点に達した実父の手がさとりの頬を捉えた。
「――っ」
それは大人の男が少女に向ける力加減では決してない。酔っているとはいえ、大人の男の本気の力で頬を張られればさとりなど簡単に吹っ飛ばされてしまう。
その勢いにさとりは体勢を崩し地面に横たわる。
「――」
でも、それでもだ。
決してさとりは屈しない。睨み付ける視線を実父に向け続ける。
「・・・・・・」
――が、それも実父の神経を逆撫でした。
もう実父も歯止めが効かないのだろう。実父は横たわるさとりの下腹部を渾身の力で蹴り上げる。
「――っ」
その衝撃にさとりは身体をくの字に折り曲げる。今までに感じたことがない痛みと嘔吐感が込み上げ、意思に反して涙が流れた。
「ずいぶんと生意気言うようになったなぁ。さとりよぉ!」
実父の苛立ちは頂点に達していた。その怒りを少しでも発散するように、何度も何度もそのつま先をさとりの下腹部にめり込ませる。
「ぐ――っ、あ――っ!」
蹴られる度に息が漏れ、その痛みに意識が朦朧とする。起き上がろうと身体を起こしても上から踏みつけられ、また蹴られ、だんだん痛覚すらも麻痺していく。
(・・・・・・痛い。痛い痛い痛い)
肉体が受ける痛みとしては、間違いなく人生で一番の痛みだった。
でも、それでも。
(心が痛いよりは、ずっと――)
「――おいっ、なにしてるんだ、お前!」
ふいに知らない声が耳に入る。その声に目を向けると、やはり知らない男が実父に詰め寄るところだった。実父はそれに舌打ちをして走り出す。割って入った男も実父を追おうとするが、すぐに横たわるさとりの下へ駆け寄った。
「大丈夫か、キミ!」
起き上がろうとするが自力で立つ力がさとりにはなかった。それを見た男がさとりの身体を抱き起こす。
すると騒ぎを聞きつけたのか、近所から人が集まりだした。
野次馬の中で割って入った男がどこかへと電話をかけている。おそらく警察に、そして救急にも連絡してくれているのだろう。
「待っていろ、すぐに」
「あ、りがとう・・・・・・ござ――っ」
絶え絶えでもお礼を言おうと口を開いた。
しかしその瞬間、蹴られた痛みとは違う、身体の内側からくる激しい痛みがさとりを襲った。
「あ・・・・・・」
言いようのない、経験したことがない痛み。
殴られ、蹴られる痛みは我慢できた。でもこの痛みは違う。本能が危険だと訴えていた。その訴えに不安が募り、冷や汗が止まらない。
「・・・・・・――な、に、これ・・・・・・」
そして、それに気づく。
赤い一筋のなにかが、流れていた。
最初はどこか肌が擦りむけたのかと思ったが、それは違う。その赤い赤い血は、さとりの白い太ももを汚している。
スカートの奥、そこから流れているものだった。
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