5-3

 こんなにもインターホンを鳴らす指が震えたことはなかった。

 相手は幼馴染みだ。何度も顔を合わせ、何度も話をし、何度も一緒に食事をしてきた仲だ。今更、遠慮なんて必要ない。

「よしっ」

 震える指とは逆の手で頬に触る。そうすることで昨晩の感触と熱を思い出し、それが踏み出すための勇気となる。

 ぐっとインターホンを押し込むと、マンションで共通のチャイムが部屋の中から小さく聞こえた。それからすぐに「はーい」と声がし、ゆっくりとドアが開く。

「・・・・・・っ。・・・・・・夏生」

「・・・・・・よう、春」

 春とはあれ以来まともに話をしていない。いや、それどころか顔すらほとんど合わせていなかった。

 互いに気まずく言葉を失い、視線を逸らす。

(――っと、これじゃダメだ)

 緊張しあうために訪ねたのではない。

 夏生は顔を上げ真っ直ぐに春の顔を見て、

「春。話したいことがあるんだ。茂さんはいる?」

「え? う、うん。いるよ。呼ぼうか?」

「いや、春にも聞いてほしい。中に入ってもいいか?」

 突然の申し出に春は多少、面食らってはいたが、それでも夏生のお願いを断ることはなく部屋の中へと通してくれた。

「ん、夏生? どうした?」

 どうやら夕食中だったらしく、テーブルには二人分の食事が並べられ、茂はテレビを見ながら箸を動かしていた。

「・・・・・・すみません、食事中に。・・・・・・あの、終わったら、また」

 話をすることだけを考えていたので時間を細かく気にしてはいなかった。さすがに失礼だと思い出直そうとすると、

「いや、構わないよ。どうかしたのか?」

「・・・・・・夏生、話があるんだって。お父さん」

「話? ・・・・・・まあ座りなさい」

 夏生の表情を見て、なにやら真剣な話であることを悟った茂に促され、山野辺家で夕食を食べるときにいつも夏生が座っている定位置に腰を下ろした。

「それで夏生。話って?」

 春の言葉に改めて決意を固める。

 大きく深呼吸をして心を落ち着け、夏生は話し出した。

 あの事故から今まで、自分が感じ、考え、思っていたこと全て。それは春や茂が理解していた部分もあれば、当然、知らなかった部分もある。だが夏生はその全てを二人に話した。

 寂しさも、悲しさも、辛さも。

 トラウマも、罪悪感も、恐怖も。

 そして気を遣わせた挙げ句、傷つけてしまった春のことも。

「――・・・・・・あのときは、本当にごめん、春」

「・・・・・・いや、いいんだ。あれは私も出しゃばりすぎたと自分でも思っている。だから夏生が謝ることなんて」

「いや、違うんだ。それでも原因は俺にあった。だから謝りたい。それにそうしないとここから先に進めない」

「ここから、先?」

 さて、本番はここからだ。夏生は自分の膝の上で拳を握り、二人の顔を見回してから口を開く。

「春と茂さんが家族になろうと言ってくれたとき、受け入れられなかったのは怖かったからだ。その手を取るのが怖かったんだ。俺が弱くて、勇気がなかったから。でもその手を取ることは怖くないと教えてくれた人がいた。勇気をくれた人がいた」

 もう逃げないと決めた。

 ここではっきりと、自分の気持ちを二人に伝える。そう決めて、ここへ来た。

 喉が渇く。

 汗が滲む。

 手が震える。

 でも、幻覚も幻聴も、もう聞こえない。

 夏生の進む道を阻むものは、なにもない。

「だからもし、家族になろうって言ってくれたその言葉が、まだ遅くはないのなら、俺と・・・・・・俺のことを、二人の家族に・・・・・・して、くれません、か・・・・・・」

 長年心の奥底に押し込めていた想い。それを夏生はやっと言葉にすることができた。何度も何度も諦めて、ぐるぐるぐるぐると遠回りして、背中を押されて勇気を貰って、それでようやく、告げることができた。

 山野辺家のリビングは静まりかえっていた。その沈黙がなにを意味しているのかはわからない。どのくらいの時間が経過しているのかもわからない。もしかしたら「今更」と断られるかもしれない。

 でもこれが夏生の素直な気持ちだ。

 勇気を貰って踏み出した証、第一歩だ。

 だから言ったことに後悔はない。

 例え、二人に断られてしまうとしても――。

「・・・・・・いいの?」

「・・・・・・春?」

「私は、夏生のことを苦しめていたんじゃないの?」

「――ち、違うっ!」

 あの日、あの屋上で別れた春の顔を思い出した。

 そうか。春は春で、夏生と同じように苦しんでいたのだ。

「俺が苦しいと思っていたのは、俺が自分の過去から逃げていたからだ。春と茂さんのことで苦しんでいたわけじゃない。むしろ俺は救われていたくらいだ。いつもお前が近くにいてくれたんだから」

 春の言葉は、春の伸ばしてくれていた手は、決して夏生を苦しめるためのものじゃない。夏生のことを考え、想い、そして伸ばしてくれていたものだ。夏生を救うためのものだ。

「ありがとう、春。春がいつも手を伸ばしてくれていたから、俺は今きっとこうしていられる。春と茂さんの家族になりたいって、ちゃんと言えたんだと思う」

 きっかけと勇気をくれたのはさとりだった。

 でもそれ以前から春たちが支えてくれていなければ、きっとさとりの言葉も夏生には届いてはいなかったに違いない。

 だから――。

「今度こそ、その手を取るから。だから・・・・・・もしも許してくれるのなら・・・・・・」

「――夏生」

 そっと、目の前に手が差し伸べられた。

 白く小さな、春の手だ。

 そしてそれの意味するところを、いくらなんでも間違えたりしない。それが春からの答えなのだ。

「・・・・・・っ」

 差し伸べられた春の手に自分の手を伸ばす。

 自分の手のはずなのにとてもぎこちなく動かしづらい。

 でも少しずつ少しずつ手を伸ばし、夏生はその手を取った。

「うん。ありがとう、夏生。私の手を取ってくれて」

「春・・・・・・」

「これでやっと、夏生もうちの家族の一員だ」

「茂さん・・・・・・」

 二人が夏生に笑いかける。

 そんな二人に、夏生も笑い返した。

「よし。じゃあ、家族三人でご飯にしようじゃないか!」

 手を離した春がキッチンに消え、夏生用の食器をテーブルに並べる。

 そして事故以降初めて、夏生は家族での夕食を堪能した。

 その夕食はここ数年で一番美味しい夕食だった。

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