5-1
夜、夏生が部屋で一人、夕食のカップ麺を食べ終えた頃、来客を告げるチャイムが鳴った。手にしていた空の容器をゴミ箱に捨てながら玄関へと向かう。チェーンと鍵を開けてドアを開くと、そこには私服姿のさとりが立っていた。
「こんばんわ、先輩」
指導室でのことで多少気まずい思いがあるのか、さとりは僅かに照れ、視線を外し気味に言う。
夏生は夏生で、まさかさとりが訪ねてくるなんて思ってもいなかったので面食らい、「お、おう」なんて気の抜けた返事をした。
「・・・・・・どうかしたのか、こんな時間に」
夜とはいえすでに十九時を回っている。女子が一人で出歩くには危険を伴う時間帯だが、昨日までのさとりのことを思うと大したことがないようにも思えるが・・・・・・。
「・・・・・・お礼を、と思いまして。先輩にはたくさんの迷惑をかけましたし、それ以上に感謝もしているので」
そう言ったさとりの表情は今までに見たことがないくらいに明るいものだった。
年相応の少女の笑顔。それを見ただけで、すると言っていた父親との話し合いが上手くいったのだと直感する。
「良かったな、崎森」
夏生の言葉にさとりは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに表情を戻して、
「はい。ありがとうございます、先輩」
それからさとりは話してくれた。
真一郎との会話のこと、名前を呼ばれたこと、夕食を作ったこと、食べてもらって美味しいと言ってもらったこと。そして直ぐにでもお礼に行きたいと言ったら車を出してくれたこと。
「そっか。じゃあお父さんも?」
ドアから顔を出して恐る恐る周囲を見渡す。
なにせ感情が昂ぶっていたとはいえ、親子ほども歳の離れた他人に怒鳴り散らして説教をしてしまったのだ。指導室ではなんでもなかったが、家に帰って一人で冷静になってみると我ながら凄いことをしたものだと気まずい思いだった。
「お父さんも先輩には感謝していましたし、そんなビクつく必要ないですけど」
「いやでも、なぁ?」
「なぁ、と言われましても。変なところでヘタレですねぇ、先輩」
あれだけのことを面と向かって言ったのだ。本当に今更だ。
「お父さんは車にいます。ついてきてお礼を言うとか言ってましたけど、今は先輩と二人で話をしたかったので居残りしてもらったんですよねぇ」
「そっか。・・・・・・まあ、気にすんな。あんなことくらいで崎森がちゃんと家族と暮らせるようになるのなら、お節介を焼いた甲斐もあったってもんさ」
これでさとりはもう夜な夜な見知らぬ男を誘ったりはしないだろう。急いで子供を、家族を作ろうともしないだろう。
やっと、普通の幸せに近づいたことだろう。
それはとても良いことだ。
でも少しだけ、本当に少しだけ、寂しい気持ちもあった。
自分と同じ場所に立っていた女の子。きっと心のどこかで自分と同類がいることに安心感を覚えていたのかもしれない。
不幸なのは自分だけじゃないと、家族を失ったのは自分だけじゃないと、そう思っていたのかもしれない。
でもさとりは歩き出した。
父親と和解し、普通の家族として進み出した。
だからもう、同じ場所にはいない。手を伸ばしても届かない。
「・・・・・・」
「はい。本当に、ありがとうございます、先輩。・・・・・・だから、先輩」
「ん?」
「今度はあたしが、先輩に少しお節介を焼きたいと思ってます」
「・・・・・・俺に?」
そう言われても見当がつかなかった。
さとりが夏生と家族になりたがったのは自分に家族がいなくて、同じように夏生にも家族がいなかったからだ。
でももうさとりは違う。
ちゃんと自分が一番求めていた人と家族になることができたのだ。
「――次は、先輩の番ですよ」
「え?」
「怖がらないでください、先輩。あたしはお父さんとのことを勝手に諦めて、だからこんなことになって、もう少しで取り返しのつかないことになるところでした。後悔だってしたかもしれません。でも先輩が背中を押してくれたから、前に進むことができたんです」
「・・・・・・俺は、別に怖がってなんて・・・・・・」
「嘘ですね」
きっぱりと、さとりは言い放つ。
その瞳は真っ直ぐに夏生に向けられていた。
「先輩だって寂しいと思ってるはずです。でも怖がってるから、恐怖心があるから、それが前に進むことを躊躇わせてるんですよ」
夏生がさとりと過ごし彼女の気持ちを知ったように、さとりもまた夏生が口にしていない想いを感じ取っていた。
夏生が家族を作らない理由の一つ。
かつての事故のトラウマからくる恐怖心。再び失うことへの恐怖心。それを抱えていることをさとりは見抜いていたのだ。
「家族を失う怖さはあたしも知ってます。でもそれに負けて足踏みしていたら、新しく家族を作る喜びを知ることはできません」
その言葉は新しく家族を作り、その喜びを知ったさとりが口にしたからこそ説得力があった。
そんな彼女の表情を見ていれば分かる。
喜びと、嬉しさと、暖かさと。
昨日までのさとりとは明らかに違う。別人のような感情だ。
「先輩が今感じているその怖さは、きっと新しい家族ができたときの感情が覆い隠してくれます。怖さなんて気にならないくらいの幸せが、きっと踏み出した先にはあると思います」
そう、なのだろうか。
恐怖に耐えて歩んだ先に、この恐怖を乗り越えることが、気にならなくなるだけの幸福が待っているのだろうか。
(もしも本当にそうなら、俺は・・・・・・)
「指導室であれだけのことを言ったんです。そのおかげであたしとお父さんは勇気をもらいました。その勇気のおかげで、あたしたちはちゃんと家族になることができたんです。だからその勇気を、今度は先輩自身が発揮してください」
前に進んだ先に、足を踏み出した先にさとりと同じ幸せが待っているのなら夏生だって前に進みたい。
でも長い間身体に染みついた恐怖はそう簡単には拭えない。
まるで毒蛇のようにそれは夏生の身体に絡みつき、逃すまいと締め付けるのだ。
だから夏生は前に進むことができない。一歩を踏み出すことができない。
「・・・・・・先輩。家族は、増えるものですよ」
「え?」
そっと、さとりが夏生の手を握った。
柔らかく暖かな熱が伝わってくる。
「家族はいなくなるだけの存在じゃありませんから。寂しいのならあたしが側にいてあげます。足が前に出ないのならあたしが手を引いて隣を歩いてあげます。怖いのならあたしが抱きしめてあげます。だから、一人で無理ならまずはあたしと一緒に、あたしの隣で勇気を出してみませんか?」
「崎森・・・・・・? それは、どういう・・・・・・?」
「鈍いですね、先輩。これは告白なんですけど」
「こ、告白?」
さとりは左手で夏生の手を握ったまま、今度は小さく右手を前に出し、
「あたしと、家族になりませんか? そうすれば家族が増えます。お父さんとだって家族になれます。あたしとの間に子供ができればまた家族が増えます。そうやって家族は増えていきますから、寂しくなんてないと思います。怖くなんて、ないと思います。ああ、もちろん今すぐとか、そんなことじゃないですよ? 将来的に、って意味です」
家族になろうというさとりの言葉を聞くのは二度目だ。
でも一度目と今とでは、その意味も重さも、込められている気持ちも、全てが違う。そしてそれは、それだけさとりが前を向いて歩んでいるという証拠だ。
「・・・・・・最初、先輩に会ったとき、体よく利用してやろうって思ってました。家族になりませんか、って口にしても好きだなんて気持ちはまったくありませんでした。でも指導室での先輩を見て、あたしのことをわかってくれてて、先輩があたしの全てを変えてくれて。だから今度はあたしが先輩を助けたいと思ったんです。先輩の寂しさも、恐怖も、全部あたしがなんとかしてあげたいって思ったんです。ずっと側で、一緒にいたいって思ったんです」
握られている左手に僅かに力が込められた。
真っ直ぐにさとりの瞳は夏生を捉えて離さない。
「――好きです、夏生先輩。これは今までのような投げやりな気持ちじゃありません。あの瞬間、あたしのことを理解してくれていたことがわかったあの瞬間、あたしのために本気でお父さんを怒ってくれたあの瞬間、嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなくて、その溢れる涙と同じようにこの気持ちを溢れてきたんです」
だから、とさとりは前置きし、差し出していた右手を伸ばして夏生の襟元を掴むと自分のほうへと引き寄せる。
そして――。
「――っ!」
そっと、頬に柔らかい感触が伝わった。
「・・・・・・っ」
頬に触れたそれがさとりの唇だと理解すると、急に全身の血が沸騰したように熱くなる。
「今のはお礼と、あたしの気持ちの証明です」
唇を離し、さとりは言った。その頬は夏生と同様にひどく赤みが差している。
「先輩。怖くてもあたしがいます。先輩は決して一人じゃありませんから、だからまずは一歩を踏み出してみてください。そうすればきっと、あたしの他にも先輩のことを受け入れて支えてくれる人がいますから」
と、そう言ってさとりは夏生の部屋の隣へと視線を向けた。
そしてゆっくりと、手を離す。
「・・・・・・返事はまた、聞かせてください。先輩の気持ちと家族に決着がついたときに」
言うとさとりは夏生から離れ、返事を聞かずに早足で去って行った。
頬の感触と熱に浮かされながらさとりのことを見送り、そして彼女の言葉を何度も頭の中で繰り返した。
未だ感触の残る頬に手で触れる。
そこに宿る熱に触れていると、確かに勇気が貰えそうな気がした。
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