4-5
夜の街中で、さとりは制服姿で立っている。
スマホを取り出し時間を確認すると二十時になろうかという時間で、待ち合わせの時間までもう数分だった。
顔を上げて辺りを見回すと、まだ多くの人が行き交っている。中にはさとりと同世代の少年少女の姿もチラホラと見受けられるが、それでも目に映るのはスーツ姿の社会人が圧倒的だった。
その行き交う人の群れをさとりはじっと見つめる。まるで誰かを探すように視線を巡らせるが、ふと自分はなにをしているんだろうと思いその行為を中止した。
(・・・・・・いるわけないのに)
無意識に探していた人物の顔を頭の中から追い出す。
意識を変えるためにもう一度スマホを取り出して時間を確認すると、スマホのデジタル表示がちょうど二十時に切り替わる瞬間だった。と、同時に、
「――さとりちゃん?」
声をかけられて顔を上げると、目の前には見知らぬスーツ姿の男。中年太りで生え際が大分後退している男が立っていた。
「さとりちゃん、だよね?」
男は確認をとりながら上から下まで、ねっとりとした視線でさとりを観察する。そんな視線を受けながら、
「はい、そうですよ。おじさん」
言ってさとりは笑顔を浮かべた。すると中年男もそれに返すように粘着質な笑みを浮かべて頷いた。
「じゃあ、ここだとなんだから・・・・・・。あ、まずは食事にする?」
どこかそわそわとして見える中年男の言葉にさとりは首を振る。
「食事は済ませましたから。だから、行きましょ」
「そ、そうかっ。な、なら、こっち」
さとりの言葉に男は顔を赤く、鼻息を荒くして歩き出した。さとりもその後についていく。
行き先はわかっている。かつて、夏生に助けられたあのホテル街だ。
この男のことをさとりは知らない。赤の他人で、顔を合わせるのも、言葉を交わすのも初めてだ。だがこの男はさとりの待ち人だった。
そう、さとりは、あの夜のことを繰り返そうとしている。
今回も相手は誰でも良かった。この男を選んだのは午後の授業中に送ったメッセージへの返事が早かったこと。要するに前回となにも変わらない。
(・・・・・・今回は一人か・・・・・・ま、どうでもいいけど)
ふいに夏生に助けられたときの記憶が蘇る。
あのときは(実際はどうでもよかったが)騙されて数人がかりの相手をさせられそうになったが、今回はどうやらこの男一人らしい。まあ、思惑さえ叶えば相手が一人だろうが複数だろうが、そして自分の身体がどれだけ傷ついて穢れようが関係はなかった。
チラチラと後ろを振り返ってはさとりの存在を確認し、ビクビクと周囲を警戒しながら歩く男の後ろについていくと、男は一度ホテル街の入り口で立ち止まった。
「じゃ、じゃあ、さとりちゃん」
追いついたさとりの手を男が握る。その手にはやたらと力がこもっていて痛いが、それが緊張と逃がさないという意思表示のように感じられる。
(そんなことしなくても逃げないのに・・・・・・)
逃げてしまっては目的を達成することができない。
そして、なにより。
「もう、助けてくれる人なんて・・・・・・」
「え、なにか言っ――」
「――崎森!」
名前を呼ばれた。その声に、反射的に振り向く。
そこには一人の少年の姿。人混みをかき分けるようにして駆け寄ってくる。
「なっ、な、な――」
動揺しているのは男のほうだった。掴んでいたさとりの手を離し、慌てふためきながら周囲に視線を巡らせている。そしてそんなことをしている間に、彼はさとりの前に立ち優しく手を掴んだ。
「なにしてんの、崎森」
その手の温もりを感じつつ、その言葉に返すために改めて視線を向ける。
「・・・・・・・・・・・・――――高木」
名前を呼ぶと、高木勇次の視線が男へと向けられた。
普段は気弱そうな勇次だが、今の彼の視線は力強いものだ。その表情はどこか緊張しているようにも見えるが、それでもなにかしらの強い意志のようなものが感じられる。
「・・・・・・おじさん、なにしてんの?」
声も多少震えている。しかし勇次はさとりと男の間に立ち、下から見上げるように男を睨み付けた。
その二回り以上も歳の離れた少年の視線に男は後退り、
「――だ、騙したなっ」
と、さとりへ向けて暴言を放つ。
騙すつもりも騙したつもりもまったくない。とんだ言いがかりだ。だがそれだけ言うと男は背を向けて脱兎の如くホテル街を一直線に駆け抜け逃げ出した。
その見事なまでの逃げっぷりにさとりはもちろん、勇次すら呆気にとられ、つい男の姿が見えなくなるまで棒立ちしてしまう。
「・・・・・・はぁ」
勇次が息を吐き出し、その音でさとりも我に返る。
目の前のホテル街。逃げ出した男。それを見て、思う。
(・・・・・・また、失敗したなぁ)
「だ、大丈夫、崎森?」
振り向いてそう訊く勇次に、さとりは適当に頷いておく。そしてなにやら言葉をかけてくる勇次を意識の外へと追いやって、もしかしたら自分は相当、運に恵まれていないのではないか、などと考えた。
「――と、とにかくここから離れよう、崎森。家まで送ってくから」
言うと勇次はさとりの手を引いて走り出した。
正直、家になど帰りたくはなかった。帰ったところで出迎えてくれる人すらいないのだから。
(でも今日はなんだか風向きが悪そうだなぁ)
お昼にはあんなことがあったし、見つけた相手には逃げられるし、今日は本当に悪い事ばかりだ。
(でも、まあいいか)
焦ることはないと思った。
現役の女子高生が声をかければ、相手の思惑は別にして相手を見つけることはきっと容易い。そして相手の思惑など関係ないさとりからしてみれば、風向きが悪い今日よりも、邪魔が入らないよう準備をして日を改めた方が良さそうに思えた。
ずっと我慢してきた。
実父のときも、真一郎のときも。
ずっとずっと我慢して、光を求めて足掻いてきた。その結果としてさとりは歪みを抱えてしまったけれど、その長く辛かった日々に比べれば、もう数日待つことくらいなんでもない。
「・・・・・・ついたよ、崎森」
考え事をしながら手を引かれていたらいつの間にか家の前だった。
顔を上げれば明かりの点いていない家が目に映る。どちらからともなく手を離し、さとりは勇次に背を向けた。
「さ、崎森!」
カバンから鍵を取り出して家に入ろうとすると呼び止められる。ドアを半分だけ開けたままの状態で振り返る。
「あ、あのさ・・・・・・中学時代、ぼく達って仲良かったよね」
「・・・・・・?」
ホテル街でのことを咎められるのかと思ったが、予想もしていなかった言葉にさとりは少々毒気を抜かれた。
勇次の言葉の意図がわからず、とりあえず頷いておく。
「ぼくにとってあの頃、一番仲の良かった女の子って崎森だったんだ。崎森は、どうだった?」
「・・・・・・」
やはり質問の意図がわからない。勇次はなにが言いたいのか。
中学時代、まだ自分が歪みを抱えてしまう前の話。
あの頃は実父から解放され、新しい家族への期待に満ちていたときだ。思い出としては楽しかったものしかない。そしてその頃、誰よりも仲が良かった異性は誰であろう、この高木勇次だ。
「・・・・・・そう、だね。あたしも、高木と一番仲良かったと思う」
そう告げると勇次の表情から緊張した色が僅かに抜け明るくなる。なぜだろうか、ホッと胸を撫で下ろしているようにも感じた。
「じゃ、じゃあさ、訊くんだけど・・・・・・。崎森が、その・・・・・・あんなことをぼくにしたのは、ぼくと一番仲が良かったから?」
勇次の口から出た『あんなこと』とは、考えるまでもなくさとりが彼を押し倒したときのことだろう。
あのとき、さとりはなにを考えていたのか。正直なことを言えば記憶は曖昧で、それだけ精神的に追い詰められていたからだと思う。
確かに勇次とは仲が良かった。男女の壁を超えた友情のようなものがあったかもしれない。
でもそれはあくまでも友情で、恋愛感情ではなかった。
いつも近くにいた異性。言ってしまえば、一番手近な男だった。
仲が良かったから恋愛感情を抱いてあの行為に及んだわけではないが、仲が良くて近くにいたから相手に選んだというのも間違いではない。
(・・・・・・今思えば、相当にクズだなぁ、あたし)
相手の気持ちも確認せず、理由があったとはいえ強引に人前で押し倒して行為を強要しようとした。許されることではないし、周りの、勇次の自分を見る目が変わってしまうのは仕方のないことだ。
「――ぼ、ぼくはっ」
さとりが黙り込み沈黙が訪れた。そしてそれを打ち破ったのは勇次だ。
「ぼくはあのとき、ビックリして崎森のことを拒絶した。それにあのときぼくは崎森のことを友達だって思ってて、それ以上の感情は、なくて・・・・・・だから、ごめん!」
「・・・・・・謝ることじゃないよ。悪いのはあたし。おかしいのは、あたしだから」
勇次の行動は当然だ。
付き合ってもいない、ただ仲が良いだけのクラスメイトに迫られたら誰だって抵抗するし拒絶する。逆の立場だったのなら、当然さとりも同じ行動をとっただろう。
「あのときは驚いて、崎森の気持ちとか状況とかちゃんと知らなくて・・・・・・。なんでだろうって思った。それであの後、噂とかで崎森のことをもっと知って、なんとかしてあげたいって、思ったんだ」
「なんとか・・・・・・って、どうして?」
勇次の言っている意味がさとりにはよくわからなかった。
だって自分はあんなことをしたのだ。
人前で押し倒して、セックスをしようとして、勇次の気持ちなんてまるで無視して子供まで作ろうとした。
嫌われるのも、拒絶されるのも当然だ。
なんとかしたいなんて、普通ならそんな考えは出てこないはずだ。
なのに、何故――。
「そ、れは――・・・・・・っ」
勇次が俯く。
その顔色は月明かりの下ではよく見えず、勇次が今、どんな感情を抱いているのか表情からは判断ができない。
それから数度、勇次は顔を上げてはさとりと目が合って俯くという行動を繰り返し、何度目かのそれの後、それまでとは違う、覚悟を決めたような瞳をさとりに向けて言った。
「好き、なんだ」
「・・・・・・ぇ」
「ぼくは、崎森のことが好きなんだ!」
思ってもいなかったその言葉にさとりの頭は混乱する。
直前に自分で思ったはずだ。嫌われるのも拒絶されるのも当然だと。
だから当然、勇次はさとりのことを少なくとも好意的には見ていないだろうと確信していた。だが当の勇次から出た言葉はそれとは真逆の言葉で、あまりにも理解しがたい言葉で――。
「あの後から崎森のことがずっと気になってた。なんであんなことをしたんだろうって考えて、目で追って、気づいたら好きに・・・・・・。いや、たぶん違うんだ。ぼくはきっとその前から崎森のことが気になってた。でもその気持ちに気づいてなくて、ただの友情だろうって思ってて、だからぼくらの関係があの後に変わって、それでようやく気づいたんだ」
真っ直ぐに、勇次の瞳がさとりを射貫く。
勇次が冗談や嫌がらせでこんなことを言う男でないことはさとりも知っている。そしてこのさとりに向けられる視線は、決して嘘ではないことも。
だからこそ余計に戸惑う。
「あれからずっと崎森のことを見てた。崎森の家の事情もなんとなく知って、助けてあげたいって、なんとかしてあげたいって、そう思った。泣いてるところを見ていたくなかったんだ」
「・・・・・・泣いてた? あたしが?」
母が死んでからは涙を流した記憶はなかったのだが。
「ぼくには、崎森が泣いてるように見えたよ」
「あはは、なるほど。顔に出てたってわけ?」
そんなつもりはまったくなかったが、そういう風に見ていた人がいたとは思わなかった。
「崎森は笑っているほうがいいから」
まさかそんなことを言われる日が来るとは思ってもいなかった。さとりに笑顔を望む人が母親以外にいたことに驚いた。助けたいなんて言ってくれる人がいるなんてとても以外だった。
そして。
「ぼくじゃ、だめかな。ぼくじゃ崎森の家族になれないかな」
「え?」
「今すぐは無理でも、高校を卒業して、ちゃんと就職して、崎森を養っていけるようになるから。そしてちゃんと、崎森の家族になれるように頑張るから。だから!」
ずっとずっと望んでいた。
一緒にいてくれる家族の存在を。
焦がれていたのだ。どこにでもある普通の家庭というものに。
さとり自身ももうわかっている。きっと自分は、そんな普通の家庭を築くことは難しい。でも普通でなくてもいい。少し他と変っていてもいい。それでもいいから、家族が欲しかった。
だから手段なんて選ばなかった。
子供のことも、夏生のことも。
でも今、そんなさとりの願いを叶えてくれる人が、目の前に現われた。
簡単なことだ。頷いてしまえばいい。そうすれば、全ての願いが叶う――。
「・・・・・・あたし――」
「――そ、そういうことだからっ!」
さとりの言葉を遮るように勇次が叫ぶ。そしてやけに早口でまくし立てた。
「とにかく気持ちは本当だから考えてみて答えはまた聞かせてくれればいいからそれじゃあ!」
と、さとりがなにかを言う前に勇次は夜の闇の中へと走り去っていった。
その消えゆく背中を見ながら、さとりの頭には勇次の言葉が何度も何度も繰り返されていった。
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