3-3

 突然に夢を見ているのかと思った。

 家族の声がするいつもの夢ではない。それはまるで異世界に迷い込んだような、普通の暮らしをしていたら到底信じられない出来事。そういう意味での、夢だった。

 なにか特別なことをしたわけじゃなかった。

 バイトが終わって、どこかに寄り道をするでもなく、またお節介で誰かを助けたわけでもなく、新婚のサラリーマンのように真っ直ぐに家に帰った。

 鍵を開け、ドアを開く。

 そこまでが、普通だった。

 ドアを開けた瞬間、なにか冷たい空気が中から漏れている気さえした。冬は終わったばかりだというのにその寒さに身震いした。

 部屋は怖いくらいに静まりかえっていて、自分の部屋なのに重い空気のせいで一歩を踏み出すことすら躊躇われた。

 それでも夏生は前に進んだ。

 リビングとキッチンを隔てるドアの向こう。明かりの点いているその部屋。そのドアを開けてはいけないと、本能が警鐘を鳴らす。しかし足は、手は、止まらなかった。

 ギィ、と普段はしない重苦しい音を鳴らしてドアが開く。

 そこには、さとりがいた。

「・・・・・・」

 そして、もう一人。

「・・・・・・」

 そこにいるはずのない人間が、もう一人。

「やあ、おかえり。夏生」

 いつもと変わらない穏やかな、しかし長い付き合いだからこそわかる言葉の底に押し込め隠された重圧を感じさせる声。

「春・・・・・・。なんで、ここに?」

 絞り出した声は掠れている。声量はとことん抑えられ、相手に聞こえているのかも疑問だった。

 しかしそんな夏生の言葉に、春はさらに笑顔を向けて言った。

「こちらの彼女・・・・・・。崎森さとりさん、といったね。彼女が夏生の部屋の鍵を開けて中に入ろうとしているところを見てしまってね。ほら、そんな場面を見てしまったら、止めないわけにはいかないだろう? 理由を聞かないわけにはいかないだろう?」

 ねぇ? と春は言って笑った。

 この表情を夏生は知っている。ほとんど怒ることがない春が本気で怒っているときの顔だ。心底怒っているはずなのに、笑顔を微塵も崩さないところがまた恐怖感を倍増させる。

 まさに蛇に睨まれた蛙だ。夏生の身体は萎縮し、嫌な汗が流れ、喉が渇いて、声が口から出てこない。

「だから、何度も言ったじゃないですか。あたしと先輩は家族になるんです。結婚する予定です。だから鍵を持ってても、家に居てもおかしくないです」

 普段なら即座に否定しているところだ。しかし身体も口も麻痺したように動かない。笑顔でこちらを見つめる春が怖い。

「さっきからね、ずっとこの調子なんだ。何度、本当のことを訊いても答えてくれなくてね。私も困っているところだ」

「だからー、嘘なんて言ってませんって。先輩からも言ってやってください。そもそもあたしばっかり責められてますけど、あなたこそどこの誰なんですか?」

 当然二人に面識はない。どこまで話をしているのかはわからないが、この様子じゃほとんど互いの事情を知らないのだろう。春はともかく、さとりは好んで自分の事情などは話さないだろうし、ずっと結婚だのなんだのと言っていれば、さすがの春も苛立ちが募って事情を知ろうなんて考えには至らないかもしれない。

「そういえば簡単な自己紹介くらいしかお互いしていなかったね。夏生も帰ってきたことだし、さあ、夏生。私のことを彼女に、彼女のことを私に紹介してくれないかな」

「・・・・・・え、俺、が?」

「当然だろう? 彼女の言っていることを私が全て鵜呑みにすると、まさか本気で思ってはいないよね? 言ってしまえば彼女の口からの言葉は全てとは言わないが信用できない部分が多い。そして彼女もそれは同じだろう。なら私のことを知り、彼女のことも知っている夏生が説明して証明するしかないじゃないか」

「なるほど、確かにそうですね。じゃあ先輩。あたしのこと、ちゃんと紹介してくださいねぇ? 結婚を前提に付き合ってるって」

 さとりの言葉に部屋の気温が下がった気がした。さとりの煽りが確実に春の神経を逆なでしている。もう名前とはまるで反対の雰囲気を彼女は纏っている。

 正直言って逃げ出したい。この春の前にこれ以上いたくない。

 だがここで二人を残して行くわけにはいかないし、そもそもこれは夏生自身が首を突っ込んで撒いた種だ。考えが甘かったことも含め、夏生には春への説明責任がある。

「・・・・・・あー、春。彼女はうちの学校の一年で、崎森さとり。ちょっとトラブっていたところを助けたことがあって。それで崎森はちょっと家庭で問題があって、あまり家に帰りたがらないんだ。だから助けた縁というか、それで・・・・・・」

 逃げることはできない。夏生は恐る恐る、微妙に春から視線を外しながら話し始めるが、さすがに昨晩のことをそのまま伝えるのは問題がある。なんとか濁しておけないかと考えていると、

「昨日は泊めてもらいました」

 そんな夏生の思惑を軽く吹き飛ばすようにさとりは爆弾を投げ込んだ。

 その言葉にさすがの春も表情が崩れる。雰囲気はさらに重くなり、じっとりとした嫌な汗が身体に滲む。

「へぇ?」

「あ、いや、泊めたことは泊めたけど、別にやましいことはなにも。な、崎森?」

 春の圧に押されてつい弱腰になってさとりに同意を求めるが、そんな圧など気にする素振りも見せないさとりは、これを好機とみたのか煽るように言い放つ。

「昨日は先輩のベッドで眠ったんですよ。家の鍵は今朝、先輩がくれました」

 色々な過程を省いたうえ、誤解を招く言い方をあえてする。そもそも鍵は一時的に預けただけであげてなどいない。

「へぇ・・・・・・」

「待て、春! 崎森、変な言い方をすんなっ!」

 このままでは余計な誤解を招きかねない。もう春に怯んでいる余裕もなく、夏生は勢いに任せて状況を説明することにした。もちろん付き合ってもいないし、そういった関係でもないことをしっかりと話しておくが、それに対してさとりは不満げな顔を向けてくる。

 夏生の言葉に一応の納得をしたのか、春はそれ以上の追求はしてこなかった。依然、笑顔のままで重苦しい圧があることに変わりはないが。

「――で、崎森。こっちは山野辺春。同じ学校の二年で、同じクラスで、この隣に住んでる。言うなればまあ、幼馴染みのような――」

「家族だよ」

 夏生の言葉を遮るように、いや、実際に遮って春はピシリと言った。

「家族? おかしいですねぇ、先輩のご家族は三年前にみんな亡くなられてるって、先輩本人からあたしは聞いてますよ?」

「えっと、俺の父親と春の父親が親友で――」

 と、互いの家庭事情とこれまでのいきさつを話す。事故のことも、その後に山野辺家が、春と茂が夏生の支えになってくれたことも。

 それをさとりは黙って聞いていたが、夏生の話が終わると、

「それってつまり、家族って言ってるのは山野辺先輩だけってことですよねぇ?」

「書類上はまだ、というだけだよ。私も父も彼のことは家族だと思っているよ」

 バチバチと二人の視線の間で火花が散る。どちらも譲らず、どちらも引かない。雰囲気はさらに重苦しくなっていた。

 このままでは埒が明かないし、なにより二人に争って欲しくはない。

「な、なぁ。とりあえず二人とも落ち着けって。春にはこの後もう一度ちゃんと説明するから。崎森は今日のところはもう帰ったほうがいい」

「えー、明日も休日なので今日も泊まるつもりだったんですけど」

 やはりか、と思う。まあ、夕食を用意すると言った次点で、半ば察していたので大して驚きはしなかったが。

 さとりの言葉を受けて春の視線がまた厳しくなった気がするが、そちらにはあえて意識は向けずに答える。

「二日続けてはダメだ。それにさすがに二日も娘が帰ってこなかったらお父さんも心配するはずだ」

 実際のところ、さとりと義父の関係を彼女の話でしか知らない夏生には、どれだけ仲が良くなくてもさすがに心配するだろう、という一般的な考えがまだある。それが当然だと、そう考えてしまう。だからこその言葉だったのだが、

「心配なんて、しませんよ」

 消え入りそうなその言葉に夏生も、そして春さえも戸惑う。

 僅かに雰囲気は緩むが、誰しも軽い口をきくような雰囲気ではない。

「・・・・・・でもま、あたしも先輩を困らせたいわけじゃありません。これで先輩との関係が拗れるのは嫌ですし、今日は大人しく帰りますかねぇ」

 言うとさとりはさっさと荷物を纏め始めた。呆気にとられているうちに準備は整い、さとりは部屋を出て行こうとする。

「あ、待て。送ってく」

 慌てて夏生は立ち上がり、さとりの後を追う。家の鍵すら持って出なかったが、春がいれば大丈夫だ。

「ありがとうございます、先輩」

 さとりのその言葉を合図に二人で夜の道を歩いた。

 吹き抜ける風が頬を撫で、木々を揺らす葉が音を鳴らす。直前にあんなことがなければとても穏やかな気分で歩けたかもしれない。

 送っていくとは言ったものの、さとりの家の場所はわからない。さとりの隣を歩きつつ彼女の足についていくが、さとりはなぜか家を出てから一言も喋らず、なんだか気まずい空気が流れている。

 横顔を覗き込んで様子を窺うが、その表情から彼女がなにを考えているのかは読み取れない。俯き加減になっているせいで前髪が目元を隠していて余計にわからない。

 なにかを話さなければいけないような気がするが、なにを話せばいいのかわからなかった。春のことを謝るべきか、家のことを心配するべきか、しかしなにを言っても今のさとりはなにも答えてくれないような気がした。

「あの、先輩」

 そうして夏生が聞きあぐねていると、暖かい風に乗ってさとりの言葉が届く。

 視線を向けて答えるが、彼女の視線はこちらには向いていない。

「先輩は、山野辺先輩と家族になるんですか?」

「え、あ・・・・・・いや、養子にって、話はもらってるけど・・・・・・」

「山野辺先輩は、あとは書類上のことだけって言ってましたよね。それって、先輩の気持ち一つでそうなるってことですよね」

 確かにそうだ。

 山野辺家は夏生のことを受け入れてくれている。夏生が一言いえばすぐにでも書類を提出しに行くだろう。

 だが夏生と山野辺家は未だそういった関係になっていない。

「先輩は、山野辺先輩と家族にはなりたくない――ってことですか?」

「――っ! そ、れは・・・・・・っ」

 即座に否定しようと思った。しかし、言葉は出なかった。

 決して山野辺家のことを疎ましく思っているわけじゃない。感謝しているし、養子の誘いだって本当に有り難い。自分にはもったいないくらいだと、そう思っている。だから春と茂が家族になってくれれば良いと、心の中では思っているのは間違いない。

(でも、俺は・・・・・・)

 しかし自分の奥底にある感情が、それを邪魔する。

 聞こえもしない声が、聞こえるのだ。

「違うなら、どうして・・・・・・断り続けているんですか?」

 ピタリとさとりが足を止めた。

 半歩遅れて夏生も立ち止まり顔を上げると、そこは『崎森』と表札のかかった家の前だ。

「先輩。この前、あたしと家族になってくれませんかって言いましたよね。山野辺先輩の話を断り続けているのなら、本当にあたしと家族になってくれませんか?」

「・・・・・・っ」

 さとりの目は、言葉は真剣だ。

 いや、いつもは飄々として見えるが、ことこの事についてさとりはいつも本気だったに違いない。

 そしてそれと同じくらい、さとりは追い詰められている。

「俺、は・・・・・・」

 わかっている。春のことも、さとりのことも、このまま流されるままに有耶無耶にしていいことじゃない。でも、それでも、答えることはできなかった。

 声が、聞こえる気がするのだ――。

「先輩。山野辺先輩じゃなくて、あたしのことを選んでほしいです。あたしを選んでくれるならなんだってします。全てを、先輩に捧げます」

 ゆっくりと目の前に手が差し伸べられる。

 この手を取るということは、即ちさとりの言葉を受け入れるということだ。

 言葉にする必要はない。ほんの少しだけ手を動かすだけでいい。簡単なことだ。

「・・・・・・っ」

 簡単な、ことのはずなのに――。

 わからない。どうしたらいいのか、わからない。

 自分でも情けなく思う。ヘタレだと思う。

 でも声や、恐怖や、春とさとりの顔が交互に浮かんで、頭の中も心の中もぐちゃぐちゃになって、なにをどうしていいのかわからない。

「・・・・・・・・・・・・。答え、近いうちに聞かせてください、先輩」

 言葉と同時にさとりの手は寂しそうに下がり、そしてそのまま振り返ることなくさとりは家の中へ入っていった。

 さとりが家に中に消えてからも、夏生はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 本当に、どうしたらいいのだろう。

 春の言葉を受け入れれば良いのか。

 さとりの手を取れば良かったのか。

 それとも、今のまま、ずっと――。

 考えても考えても、やっぱり答えなんて出なかった。

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