2-6

 家に変えるなりさとりはキッチンに立って料理を始めた。

 普段はコンビニ弁当かカップ麺しか食べない夏生の家のキッチンから、時間が経つにつれて家庭的な匂いが漂ってくる。

 夏生としてはさとりに押しかけられたようなものだが、それでもなにもせずにただ待っているのは気が引けて手伝いを申し出たのだが、さとりには断固拒否されてしまったのでテレビを見ながら待っているのだが、自分の部屋の、自分ですら使わないキッチンを誰かが使って料理しているのはとてつもない違和感だった。

 テレビを点けてはいるが番組にまるで集中できない。なにを作っているのだろう。昼の弁当のことを考えれば料理が不味いということはないとは思うのだが。それでもやはり気になるものは気になる。

 そしてそわそわしながら待つことしばらく。

「お待たせしました、先輩」

 出来上がった料理がテーブルの上に並んだ。

 テーブルの上には男受けのしそうな料理がいくつか並び、見た目も匂いもとても美味しそうで食欲をそそられた。口の中に唾液が溜まり、小さく腹の虫も鳴く。

「どや」

「・・・・・・なんだよ」

「いえ、先輩の表情が驚いているようだったので」

「まあ、正直凄いと思う。・・・・・・美味しそうだ」

「ふっふっふ。でも見た目だけではありませんよ。味もちゃんと美味しいです」

 自慢げに言ってさとりは夏生の向かいに座った。

(というか、よく見たらうちにないはずの食器が並んでる・・・・・・。自分の分、持ってきてたのか)

 一人暮らし夏生の家には食器なんて夏生の分しかない。たまに山野辺家と食事をすることはあるが、それも夏生が隣へ行って食事をするため、この部屋に夏生以外の食器は存在しないのだ。

 バイトの時間を訊いてきたことといい、食材を買って待ち構えていたことといい、完全に計画しての行動だ。

「先輩のバイト終わりを待っていたのですっかり遅くなりましたが、食べましょう。いただきます」

「・・・・・・いただきます」

 さとりに続いて告げて箸を伸ばし、一口食べる。

「・・・・・・」

「どうですか?」

「・・・・・・美味い」

「知ってます」

 と、さとりは満面の笑みを浮かべながら答えた。

 いつ以来だろうか。

 こうやって、自分の家で誰かと笑いながら美味しい夕食を摂るのは。

 春の家で茂も含めて三人で食事をしたことは何度かある。でもそれはあくまでも、夏生が山野辺家にお呼ばれしているに過ぎない。

 自分の家ではない。自分の家族ではない。どうしてもそこには、家族と他人という壁が存在する。

 それはもちろんさとりに対しても同じ事が言えるのだが、しかしさとりはそんな壁を易々と乗り越えて、あるいは壊して内側に入って来ようとする。そして図々しく居座って、同じ場所に、隣にいようとする。

(でも・・・・・・)

 そう、でも――。

(悪い気は、しない・・・・・・)

 あれだけさとりの家族になろうという提案を蹴っておいて今更にそう思うのは、やはり寂しさや悲しさを夏生が抱えていたからだ。心の底では求めていたからだ。家族という温もりを。

(でも・・・・・・俺は・・・・・・っ)

 声が聞こえた気がした。

 夢の中で聞こえる声。それが、夏生の邪魔をする。浮上してきた奥底の気持ちを、また暗い暗い深淵の中へと押し込めていく。

「楽しいですね、先輩」

「え・・・・・・?」

「こうやって誰かとご飯するの、楽しいですね」

 そう言ってみせたさとりの笑顔は、なんだかとても幼く見えた。心の底から嬉しく思っているような、初めての遊園地にはしゃぐ子供のような、そんな雰囲気を感じる。

 そしてその笑顔に、夏生は親近感のようなものを覚えた。

 ああ、そうだ。

 だってさとりも自分と似ているのだから。

 さとりの家の事情を詳しくは知らないが、それでも家族と呼べる輪の中に彼女はいない。夏生とさとりは似たもの同士で、同じような感情を心の底に持っていて、同じような希望を、きっと抱いている。

「・・・・・・あたし、家には父親がいるんですよね」

「え、父親・・・・・・?」

 突然の告白に夏生の思考が停止する。さとりは静かに箸を置いて続けた。

「正確には義父なんですけど。あたしの実の父親は、仕事もロクにしてないくせに酒癖が悪くて、暴力的で、典型的なクソ野郎だったんですよ。あたしもお母さんも何度も殴られたり蹴られたりして、毎日痣を作って、泣いて、耐えて・・・・・・。そんな生活をしてました」

 さとりの表情から笑みが消える。

 どういうつもりでさとりが昔のことを語り出したのかはわからないが、この話は決してさとりにとって思い出したいようなことではないはずだ。

 だからこそ、この話はちゃんと聞かなくてはいけないと、そう思った。

「お母さんはあまり強い人じゃなかったから、逆らうことも逃げることもできなくて。まあ、それは昔のあたしも同じだったんですけねぇ。で、日に日に身体の痣は増えて、隠しきれなくなって、学校でバレて、ついには警察沙汰にまでなって、それが幸いしてあたしとお母さんはあの男からようやく離れることができたんです」

 昔のこととはいえ思い出すだけでかつての恐怖に身体が震えるのだろう。さとりは自分の身体を抱くようにして話す。

「ようやく離婚することができて、お母さんはあたしに言いました。これからは強くなるから、って。そしてその言葉通り、他人から見れば小さいかもしれないですけど、お母さんは変わって、新しい恋もすることができたんです」

「・・・・・・その相手が、今の?」

「はい。お母さんと義父が付き合い初めて、あたしも義父と何回も会いました。優しくて素敵な人だって、あの男とはまるで違う人だって思って、あたしも懐いていたと思います。だから二人の結婚が決まったとき、本当に嬉しかったんです。やっと普通の家族になることができるって。でも・・・・・・」

 さとりの表情が引きつる。顔色も病人のように青白くなっていた。

「結婚してすぐ、お母さんは倒れました。そのことは前にも言いましたよね?」

 急病だったと、そう聞いたことを思い出す。

 急に倒れて、そのまま亡くなったのだと。

「突然のことにあたしも義父も思考が追いつきませんでした。現実を信じられませんでした。だってこれからやっとやり直すことができるって、そう思っていたんですよ?」

 なのに、と口にしたさとりはとても悲しそうで、辛そうで、悔しそうだった。

 目の前にあるはずだった当たり前の幸せが突然消える。その苦しみは夏生もよく知っている。知っているからこそ、胸が痛んだ。自分のことのように苦しかった。

「お母さんの死はとても辛かったです。あたし一人だったら、絶対耐えられなかった。でもあの人が、義父がいてくれると思ったから、まだ少しは我慢できたんです。でも、お母さんの死をきっかけに、義父は変わってしまったんですよ」

 もう夏生にはなんと声をかけていいのかわからない。声をかけてしまっただけで、さとりの心の堤防が決壊してしまうような気がしていた。

 いや、それ以前に夏生には今のさとりにかけられる言葉がない。

「義父も、お母さんの死が辛く悲しかったんだと思います。あたしのことを見るとお母さんのことを思い出して辛いのかもしれません。義父は、徹底的にあたしを遠ざけるようになったんです。隣に座っても、声をかけても、あたしのことを見てすらくれない。一言返事があれば良いほう、そんな日常でした」

 血の繋がりもなく、目も合わせず、返事すらロクにない。そんなものを果たして家族と呼べるのだろうか。シェアハウスとなにが違うのだろうか。

 でもさとりにとって、その義父は唯一の家族だった。母が愛し、自分が父親と認めた唯一の相手だったに違いない。

 その人に、さとりは拒絶されたのだ。

「お母さんが死んだショックなんだと、当時のあたしは思いました。仕方がないんだって。だって悲しい気持ちは痛いほど理解できましたから。だから時間が経つにつれて義父も元に戻るだろう、なんて考えていました。だから頑張ったんですよ、あたし。いつ義父が元に戻っても良いように。少しでもお母さんが生きていた頃の、家族としての生活に近づけるように、家事も炊事も勉強して、あたしがお母さんの代わりになろうって思ったんです」

 でも、とさとりは言った。

 そのたった一言は、今までの言葉のどれよりも重く、苦しく聞こえた。

「一年経っても、あたしと義父の関係は変わりませんでした。そのとき、あたしは思っちゃったですよねぇ。『ああ、きっともうダメなんだろうな』って。『家族にはなれないんだろうな、あたしは一人なんだな』って」

 ・・・・・・たぶん、そのときに壊れたのだ。

 さとりの中で張り詰めていた糸が切れ、色々なものが制御できなくなった。

 家族を求めるさとりの気持ちだけが彼女を突き動かす理由になった。その想いだけが彼女の原動力になった。

 求め続けることが、崎森さとりの生きる意味になった――。

(だから、こいつは・・・・・・)

 今ならさとりの言葉の意味が理解できる。気持ちを僅かでも理解することができる。

 自分のことを求め、必要とし、裏切らず、離れず、いつも隣にいる家族という存在。それをさとりは自分の子供という形で求めた。

 たった一人、その存在だけがいればいいと考えてしまった。

「ああ・・・・・・。ちゃんとやっていけてたら、こんな風になることもなかったのに」

 その言葉は、たぶんさとり自身も口にしたことに気づいてなかったかもしれない。風船から漏れる空気のように、極々自然に、聞こえてきた。

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