2-2
「――っ!?」
嫌な夢に意識が覚醒する。
跳ね起きた身体はじっとりと汗で湿っていて、喉は痛いくらいに渇いていた。
時計を見るといつも起きる時間よりもかなり早い。寝直そうにも耳元には夢の中の言葉がねっとりと絡みついていて、とても二度寝をする気分にはなれなかった。
ベッドから這い出て風呂場へ向かう。嫌な汗と一緒にこの気分も洗い流してしまいたかった。まあ、結論から言えばそんな簡単に水に流せるようなものではないのだが。
シャワーから上がると適当なものを胃に詰め込んで着替える。学校へ行く準備もすでに万端で、それでも時間はいつも登校する時間よりも一時間は早かった。
(・・・・・・行くか)
部屋にいてもしょうがない。こんな気分のときに時間を潰す方法なんて夏生は知らない。なら少しでも外の空気を吸って気分転換をしたほうが良いと思えた。
いつもよりも早い時間、夏生はマンションの部屋から出る。無意識に溜息を漏らしながら鍵をかけ、重い頭と足を引きずるようにして歩き出した。
「おや、夏生」
と、背中に声をかけられる。振り向くと春の父親である山野辺茂がスーツ姿で立っていた。
「もう登校するのか? 今日は早いね」
「え、ええ。まあ。なんか、早くに目が覚めちゃって」
茂は当然、夏生の事情をよく知っている。夏生が夜あまり眠れていないことも、家族の夢にうなされていることも。だから夏生のその一言でだいたいのところを察し、心配そうに、しかし優しげに微笑んだ。
「すぐそこまでだが、一緒に行こう」
隣に並んだ茂と歩調を合わせてマンションの廊下を歩く。
春のこともそうだが、茂のことはもっと子供の頃から知っている。父親の親友で、同僚で、昔から家族ぐるみの付き合いをすることが多かった。
物腰の落ち着いた口調と、優しく包むような静かな笑顔、その表情を彩る銀色のフレームの眼鏡が、子供心に茂を知的な大人だと思わせていた。そしてそれは今でもほとんど変わらず、髪にいくらかの白髪が混ざり始めてはいるものの、かつての雰囲気はそのままだ。
「そういえば用事はもう済んだのかな?」
「用事?」
「ああ。昨日、うちで夕食をという話だっただろう? でも春からは、夏生に大事な用事ができてしまったからと聞かされてね。夏生との食事は久しぶりだったから残念に思ったんだ」
今朝の夢のことですっかり忘れていたが、そういえば春には用事ができたと言って約束を断ったのだった。
(まあ、用事があったのは本当なんだけど)
しかしさとりのこと、彼女との一連のやりとりを簡単に話すことはできなくて、誤魔化すように視線を逸らして言う。
「ええ、まあ。まだ全部片付いたわけじゃないんですけど、とりあえずは。・・・・・・それよりも、すみません。せっかく誘ってもらって約束もしてたのに」
「ああ、いや、いいんだ。僕も少し意地悪な言い方をしたね。すまない」
そう言って茂は穏やかに笑う。
その笑顔は昔も今も変わらない。
家族を失い、親戚からも厄介者扱いをされ、行くところがなく一人で生きていくことを決めたとき、真っ先に手を差し伸べてくれたのが茂で、そのときの笑顔も、隣で暮らすようになったときに戸惑っていた自分に向けてくれた笑顔も、今、隣で浮かべているものと変わらない。
その表情を見れば分かる。茂が本当に昨晩のことを残念に思っていることも、夏生の身を案じてくれていることも。
だからこそ申し訳ないのだ。約束を断り、その期待を裏切ってしまったことが。
「今度また、近いうちに一緒に食事をしよう。春も喜ぶ」
「・・・・・・はい。ありがとう、ございます」
申し訳ない気持ちから、やっとという風に言葉を絞り出す。
夏生や春の通う学校と茂の職場はマンションを出て逆方向だ。背中を向けて会社へ向かう茂の背中を、気持ちが引きずってしまって見送ることができない。
視線を逸らしたまま夏生は振り返り、歩き出した。
「夏生」
と、一歩を踏み出したところで茂に声をかけられ、振り向く。
「夏生は確かにアイツの息子だけれど、それでも僕は今の夏生を実の息子だと思っているよ。だからいつでもいい、うちに来て一緒に食事をしよう。なんなら、一緒に暮らしたっていいんだ」
「・・・・・・。でも、それは・・・・・・」
「いつか言ったね。僕の養子にならないか、って。もちろん僕は本気だし、春だって賛成している。夏生さえよければ、夏生の気持ちの整理さえつけば、今すぐにでも僕らは歓迎する。そうすれば、わざわざ約束なんてせずに一緒に食事ができるだろう?」
「――・・・・・・っ」
このマンションに引っ越してきて直ぐの頃、茂に養子縁組の話を持ちかけられた。
驚きはしたが、当然悪い話ではなかった。
いくら家族の遺したお金があっても、成人すらしていない子供が一人で生きていくにはこの世界は厳しい。特に家族を失ったばかりの夏生にとっては、新しい家族と呼べる存在が必要だった。
だがしかし、夏生はその誘いを保留し、今も返事ができないでいる。
夢が、チラつくのだ。
声が、聞こえるような気がするのだ。
「・・・・・・夏生。僕らは待っているから。いつでもいい、その気になったら声をかけてくれよ」
「・・・・・・はい。ありがとうございます」
そして夏生の気持ちを茂も、春も、理解している。だから決して無理強いはしない。夏生の気持ちが整理されるまで待ってくれている。
(本当に、俺にはもったいない人たちだ・・・・・・)
「うん。それじゃあ行こうか。いってらっしゃい、夏生」
「はい、行ってきます。茂さんも、気をつけて」
夏生の言葉に茂は優しく微笑んで歩き出した。
夏生はその背中が曲がり角で見えなくなるまで見送って、それから自分も学校へと歩き出した。
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