2-1

「夏生」

 懐かしい声がした。

 それは、今ではもう歳を追い越してしまった姉の声。

「夏生」

 暗闇の中で声がする。自分のことを呼ぶ声が。

「夏生」

「夏生」

「夏生」

 姉の声。

 そして、それに続くように父と、母の声もする。

 夏生の家族。もう誰も生きていないはずの家族の声。

「姉さん・・・・・・。父さん、母さん・・・・・・」

 わかっている。これは夢だ。

 家族は全員、三年前に死んだ。だから声がするわけがない。どこを探してもいるはずがない。

 こうやって声を聞けるのは、夢の中だからだ。

 毎日のように見る、家族の夢。唯一、家族と再会できる、夢の中。

「夏生・・・・・・どうして・・・・・・」

 でもそれは、決して幸せな夢ではない。

 慈しむように名前を呼んでいた家族の声は、夏生の名前を呼ぶたびにその色を変えていく。痛みと苦しみが滲みでる。

「夏生」

「どうして」

「あなただけ」

「――っ」

 視界が一切ない闇の中から腕が伸びる。なにかを求めるように蠢くその腕が、夏生の手に、身体に、顔に触れる。冷たく、まるで血の通っていない人形のような腕。自らの死を強調するように、夏生の身体を拘束する。

「夏生」

「どうして」

「あなただけ」

 腕の伸びる暗闇の向こうからは、変わらずに家族の声がする。

 腕を振り払うことはできただろう。

 でもその声が耳から、そして脳を、やがては身体中へ流れ、支配し、指一本動かすことができない。

 もう、自分を呼ぶ声に優しさなんて欠片もない。

 声は痛みと、悲しみと、そして憎しみすら籠もった怨嗟の声へと変わっている。

 そして声は言うのだ。

「夏生」

「どうして」

「あなただけ」

「「「夏生だけが、生き残っているの?」」」

「――――っ」

 わかっている。これは夢だ。夏生の罪悪感が見せる幻だ。

 夏生はよく知っているはずなのだ。夏生の家族は決してこんなことを口にしない。思ったりもしない。それがわかっているのに、どうしてもこの怨嗟の声はなくなってくれない。

 だって、自分だけが生き残ってしまったから。

 家族の中で自分だけが生き残ってしまったから。

 辛い。

 悲しい。

 苦しい。

 一人でいるのは、耐えがたい。

 そう、一人でいるのは、耐えがたい――。


「――あたしと、家族になってみませんか?――」


「――ぇ」

 家族しかいないはずの暗闇の中に、明らかに聞き馴染みのない声が響いた。

 でもその言葉には覚えがあった。

「・・・・・・崎森?」

 学校の後輩で、異常なまでに家族を求めていた少女。彼女が別れ際に発したあの言葉が聞こえる。「考えておいてください」と最後に言ったさとりの顔を思い出す。

 ・・・・・・そうだ。一人でいるのが辛く悲しく苦しいのなら、家族を作ればいい。そうすれば一人ではなくなるのではないだろうか。このさとりからの提案はまさに渡りに船なのではないだろうか。

 この耐えがたい現実から脱却できるのなら、それも良いのではないだろうか――。

「夏生」

 声がする。

 夏生のことを呼ぶ、亡霊の声が。

「どうして」

「私たちは死んだのに」

「どうして夏生だけ――」

 声がする。

 一人だけ生き残った夏生を責める声が。

 そして、夏生の死を望む声が続くはずだった。


「――新しい家族を作るの?」


「え・・・・・・?」

 今までとは明らかに違う言葉が聞こえた。

「夏生。あなたは、新しい家族を作るの?」

「私たちは死んだのに」

「お前だけ、新しい家族を作ろうというのか?」

「――っ!」

 それは今までの夏生の死を願う言葉ではなかった。

 夏生の死ではなく、夏生の未来を否定するための言葉だった。

 まるで夏生の幸せを望まないかのように。許さないかのように。

「新しい家族を作るの?」

「――ち、違う・・・・・・っ。俺は、俺は――っ」

「新しい家族を作るの?」

「だ、だからっ、違う――っ」

「新しい家族を作るの?」

「俺の家族は・・・・・・。俺の、家族は――」

「「「私たちのことを忘れて、新しい家族を作るの?」」」

「――――っ」

 そんなつもりはない。そんなつもりはないのだ。忘れるなんて、そんなことは絶対にない。

 でも声が聞こえる。

 夏生を責める声が。

 暗闇の中に縛り付けておく言葉が。

「忘れるなんて、許さない――」

 瞬間、暗闇が晴れた。

 明瞭になった視界に映ったのは、思い出したくもない三年前のあの光景。

 バスの中、息絶えた家族の姿がそこにはある。

「夏生」

 声がする。

「夏生」

 死体の腕が、動いた。

「夏生」

 その声が、腕が、夏生の身体に絡みつく。

 蛇が這うかのように、動かないはずの死体が夏生の身体に纏わり付く。

 そして顔を寄せ、耳元で囁いた。

「夏生」

「どうしてお前だけが生き残った」

「どうして一人だけ生き残ったの?」

「「「夏生の家族は、もう全員死んだだろう?」」」

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