1-1
悲鳴と轟音が響いていた。
父親の勤める会社が主催する長期連休を利用した社員旅行。社員の家族も参加可能なその旅行を、瀧夏生は子供心に楽しみにしていていた。
夏生は来年には中学三年生になり受験が始まる。三年になれば今までのように遊び回ることも、自由に羽を伸ばすことも難しくなる。だからこの父親の社員旅行は勉強漬けになる前の、最後かもしれない楽しい一大イベント――に、なるはずだった。
眠ればいつも夢を見る。
直前まで高揚していた気分が一気に冷め、移動に使用していた大型バスの中は阿鼻叫喚の地獄絵図。
いつも夢で思い出すのは凄惨たる光景と、呻き、苦しむいくつもの声と、そして今までの人生で一度たりとも感じたことがない、とても濃厚な血の臭い。
父親は首がおかしな方向に曲がっていた。
母親の動脈は割れたガラス片が切断していた。
二つ年上の姉の胸にはバスの部品らしき金属が貫通していた。
夏生の家族は誰一人、夏生の呼びかけに答えない。誰がどう見ても状況は瞬時に理解できた。
この日、瀧夏生の家族は死んだのだ。
まだ幼い、夏生を一人だけ残して。
「――――――――っ」
夢の中で絶叫する。
父を、母を、姉の名前を呼んで叫ぶ。狂いそうな光景の中、夏生は自分の喉が潰れるくらい叫び、そして、いつも目が覚める。
「はあ、はあ・・・・・・」
穏やかで過ごしやすい春の夜とは思えないほどにシャツは汗で湿っていた。
時計を確認すると深夜二時。あのときの、三年前の事故を夢に見て跳ね起きるなんて夏生にとってはいつものことだ。
夏生はベッドから起き上がりシャツを脱ぎ、それを洗濯機に放り込むと不快な汗をタオルで拭ってから着替える。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、カラカラに乾いた喉を潤すとベッドに戻った。
正直なことを言えば眠る気分ではないし、眠りたくはない。またあの夢を見る。
でも眠らないと身体はもたないし、明日も(すでに日付的には今日なのだが)学校がある。無理矢理にでも身体を休めるためにベッドの中で目を閉じた。
事故の衝撃が消えない。
血の臭いが残っている。
家族の無惨な惨状が、忘れられない。
(――ああ)
あの、三年前の夢を見たときはいつも思う。
瞼の裏に焼き付いた死んだ家族の姿を思い返して思う。
(どうして、俺は生き残ったんだ。どうして、俺だけが生き残ったんだ――)
少しずつ、少しずつ。悪夢の中に落ちていく。
そうして睡眠と夢と覚醒を幾度か繰り返し、朝を迎えた。
身体の疲れはもちろんとれていない。それでも時間は流れ、夏生はベッドからのそのそと起き上がると登校の準備を始める。顔を洗い、歯を磨き、制服に着替えて通学カバンを持つ。最後に時計を確認して家を出た。
戸締まりを確認して歩き出そうとすると、ちょうど隣から一人の少女が出てきた。
「やあ、おはよう、夏生」
「・・・・・・おう、春」
少女――山野辺春の挨拶に夏生もいつものように返す。
春はいわゆるお隣さん。高校入学を機に始めた一人暮らしで住むことにしたマンションの隣に住んでいる、同い年で同じ高校に通う少女だ。
「・・・・・・今日も中々に酷い顔をしているね」
「朝一から人の顔の造形に文句つけるとは何事だ」
もちろん春の言葉がそんなことを指しているのではないことはわかっている。しかしこれもお約束だ。
「今日もあまり眠れていなさそうだ」
だから春も夏生の軽口をいつものようにスルーして続ける。
近づき、そっと頬に触れられた手からはほどよい温もりが感じられる。
「朝食は? 食べたかな?」
「・・・・・・起きたのがギリギリだったんだ」
これもそう。いつもの言い訳だ。
「何度も言っているけど、うちで食べてもいいんだよ? 毎朝起こしに行ってあげるから」
これもいつもの返し。しかしこの春の言葉は冗談などでは決してない。春は本心からこんなことを口にしている。
「私たちはもう、家族のようなものだろう?」
「・・・・・・」
これに返せないのもいつものことだ。
家族。
それを意識すると嫌でも思い出すのだ。あの事故を、あの光景を、あの痛みと悲しみを。そして声が聞こえる。死んだはずの家族の声だ。
夏生のことを、呪う声が――。
「・・・・・・まあいいさ。さあ、学校に行こう。このままでは遅刻だ」
肩にかかるかかからないかの短い黒髪を揺らしながら春は夏生の隣をすり抜ける。夏生もそれに無言で続き、二人で高校へと向かう。
これも、ここまでが、よくある夏生と春の朝の風景だ。
「そうだ、夏生」
マンションの階段を降りた辺りで思いついたように春が言う。視線だけで続きを促すと、
「今日の夕食は一緒にどうだろう? 父さんも夏生と食事をしたがっていたよ」
「夜はバイトなんだ」
家族の残してくれた貯金や保険金などがあるとはいえ、未成年の夏生はそれを自由に使うことができない。必要最低限の学費や家賃、生活費くらいしか支給されないため、他のことにお金を使おうと思うとどうしてアルバイトをするしかない。
去年、高校進学の際に始めたバイトはこの四月でちょうど二年目だ。
「なにも深夜まで働いているわけじゃないだろう? 少しくらい待っているさ」
「春は良くても、茂さんを待たせておくわけにはいかないだろ」
「なに、構わないさ。父さんなどいくらでも待たせておけ」
実の父親に対して何気に酷いことを言い春は笑顔を見せた。まあこんなことを軽く口にできる辺り、山野辺家の親子関係はとても良好なのだろう。
「だいたい、夏生は放っておくとインスタント食品ばかりで栄養が偏るし、いつも同じものばかり食べているじゃないか」
「ラクなんだよ。特にこれが食べたいってものが思いつかないから」
「良くない。良くないなー」
山野辺家の家事を一手に担っている春から見ると、夏生の食生活は看過できないものなのだろう。よくこうして食事に誘ってくれるのだが、いつもバイトや他の用事を理由に夏生は断っている。
普段ならこの辺りで春もとりあえずは諦めて「じゃあ、今度またな」と言うのがお決まりのパターンなのだが、稀にここからさらに食い下がってくるときがある。
「だめだ、夏生。たまには栄養のあるものを食べないと。バイトをしているのなら身体は資本だろう。健康を崩しては意味がないぞ」
そう、こんな風に。
もちろんこれは春なりに夏生の身体を気遣ってのことだ。それは夏生もよくわかっているし、春はもちろん山野辺家にはとてもお世話になっている。春たちがいなければ満足に一人暮らしなどできていなかっただろう。
だから毎度のように食事をご馳走になるのは気が引けるが、せっかくの好意をこうして何度も何度も断り続けるのも悪い。それに春がここまで食い下がってくるということは、今日の夏生の顔色はまた一段と良くないのだろう。
「・・・・・・わかったよ。じゃあ、今夜な」
「ああ。絶対だぞ?」
笑顔で念押しする春と改めて約束を交わし、二人は桜咲く道程を歩いて学校へと向かった。
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