ねこじゃらし(3/8)

仲介役を無難にこなして小さく伸びする彩香の横で、陽子はつり革につかまり、ふうっと息を吐いた。


季節の前線が空気を秋に変えた翌週火曜日、仕事から帰った陽子を固定電話の留守番メッセージが待っていた。薄手のコートを脱ぎながら再生すると、「よろしければ、ケータイにご連絡ください」というメッセージが流れる。

五十嵐からだった。

落ち着いた声で携帯電話の数字が繰り返され、思い出した口調で「この電話番号は彩香さんから聞きました」と言い添えた。

携帯電話ではなく、自宅の電話番号を教えたのは彩香の気遣いだ。仕事中に着信することはないし、SNSで繋がることもない。

わずかなためらいの後、陽子は通勤バックから携帯電話を出して五十嵐のコールに応えた。着信番号が相手に表示される設定のまま。

そうして、とりあえず、彩香に伝えることなく、週末に五十嵐と二人きりで会った。

[アフタヌーンティー]という名前のカフェでスコーンを一緒に食べてから渋谷パルコの劇場で芝居を観た。チケットは五十嵐があらかじめ用意したもので、関係者に融通してもらったのか、ステージ近くの席だった。陽子はブランドもののジャケットに唐紅のスカーフをあしらい、前日に百貨店の化粧品売場で選んだ新色のルージュをさした。芝居の幕間に、五十嵐は趣味のカヌーの話をしながら大きなくしゃみを二度続け、三回目が出かかったところで不自然な呼吸音をたてて、陽子の笑いを誘った。

次の土曜日はスペイン料理店でのランチ。天井で巨大なファンを回した老舗店は、壁のところどころに本場のフラメンコの写真を飾り、複数のカップルがテーブルを占拠していた。

五十嵐はありがちなジョークで笑いを取って、年下の陽子を「プンさん」と呼び、映画館のシートで彼女の左手の甲に右の掌を重ねた。「本年度ナンバーワンの感動作」と謳った物語の結末よりも、陽子は隣席の様子が気になり、男性用の香水を久しぶりに感じ取りながら、この二度のデートを彩香にどう伝えようかを思案してスクリーンの字幕を追った。

いつも、五十嵐はジャケット姿で待ち合わせ時間ちょうどに現れた。物腰は柔らかだが、太い眉毛とくっきりした二重目蓋に自分の流儀を譲らない頑固さが表れている。陽子は、五十嵐の態度を頼もしく感じ、与えられた切符を自動改札に通すみたいにセックスした。台風が都心に近づいた夜だった。その場しのぎの雨宿りさながら、英文字の看板に吸い込まれるようにそれぞれの傘を閉じ、かろうじて空いていたラブホテルの一室に滑り込んだ。

建物を叩く雨音を有線のポップスで薄め、電気を消した部屋の中で陽子は息を潜めた。

三十の誕生日までに、これで何かが変わるだろうか――そう考えると、五十嵐に会った日から現在までの時間が「人生ゲーム」の一コマに思えた。サイコロの目に従い、たまたま止まった偶然の一コマ。

五十嵐の体は、モツァレラチーズの舌触りを思い出させた。柔らかくて、冷たくて、もったりした感覚。潤一とは全然違った。お互いの息づかいも、受け入れた感覚も。

突然の睡魔と漠然とした後悔を振り払いながら、五十嵐の左肩に付いた何かの傷痕に触れたとき、枕元で「時間」を告げるアラームが鳴った。ソファに置いた下着に手を伸ばして肌を隠すと、陽子はホテルを出てからの五十嵐との時間よりも明日の仕事のことが気になった。


それから、デートはまるまる二週間途絶えた。

ラインで会話しているものの、互い違いに土日に仕事が入り、時計を合わせられないでいる。

会わない時間が長引くにつれ、陽子の中で昂っていた気持ちが少しずつ鎮まっていき、もう恋愛に色めき立つ年齢ではないのだと冷笑して、スマートフォンに映る五十嵐の誘いを確認した。

カヌーに挑戦してみませんか?

フラメンコショーに行きませんか?


月曜日。週末からの仕事が一息ついた夜、陽子はコンビニで買ったカクテルドリンクと定時スタートのニュース番組をパートナーにした。すると、CMのタイミングを見計らったかのように彩香から電話がかかってきた。


(4/8へ続く)

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