ねこじゃらし(2/8)
「前川さんはね、いつもプンプン怒ってるから『プン』ってあだ名なの。最近は随分おとなしくなったけどね。ま、細かい話はあとで……時間だから行かなくちゃ」
黙ってついてきなさいという背中で颯爽と階段を降りる彩香を、五十嵐と陽子がそれぞれ一段ずつ空けて追いかけていく。
目的地のコンサートホールは大通りから信号を渡った場所だ。レストランと結婚式場も併設した建物前の広場にはビアガーデンのパラソルが咲き、たくさんの人が賑やかに動いている。
ロックミュージシャンのライブにスーツはおかしいと、ロビーで彩香にちゃかされた五十嵐は、顔を赤らめて「オフィスで仕事をしてきたから」と弁解した。
「だって、別に営業してたわけじゃないでしょ?プンに会うため一張羅のスーツを着てきたんじゃないの?」
「いや……別に一張羅じゃないけど……クラシックのコンサートだったらちょうど良かったんだけどなぁ」
しどろもどろに言葉を返す五十嵐が自分より四つ年上と知りながら、陽子は年の差を感じない親しみを覚えた。
コンサートのチケットをきっかけにした出会いの演出ーー付き合いの長い親友の紹介だけあって、好みの顔だったし、何より物腰の柔らかさがいい。笑ったときのえくぼが潤一に似ていて、初めて会った気がしない。相手のスーツに合わせて、自分も薄手のジャケットくらい着てくれば良かったと開演前のステージを見て思う。
ライブの後、三人は駅前の中華屋でささやかに盃を交わした。
二軒隣りの洒落た洋食屋を黙殺して、彩香が独断で店を選んだ。サラリーマンが長居しそうな空間には、タレントのサイン色紙とビールジョッキを掲げた水着モデルのポスターが貼られている。
「プンさんって……洗剤のコマーシャルに出てる女優に似てますよね」
グラスを傾けて、五十嵐が唐突に切り出した。
「誰?誰?……ねぇ、プンはやけにおとなしいじゃないの。なんか表情も硬いし……プライベートでそれなりの男に会って緊張してる?」
器に残った五目チャーハンをれんげで掬って、彩香が捲し立てる。
「……なんて女優だったかなぁ?」
陽子をチラリと見て、五十嵐が続けた。
「もぉ、女優なんてどうでもいいわよ!私は美人な『プンさん』と違って、そんなこと言われたことないもん。イガちゃん、じょゆうじゃなくて、そこのしょうゆ取ってよ」
「ミナミちゃんだって、『あの人』に似てるよ!」
「ちょっとぉ、いつもそれを言うけど……お笑いタレントでしょ。失礼じゃない?もう仕事出さないわよ」
「それは困る!でも、ミナミちゃんは、見た目は関係ないだろ?」
「失敬ね……あんたなんかにわたしの大切なプンを紹介しなきゃ良かったわ」
小皿に取り分けたエビチリに箸を伸ばして、陽子は二人の会話のラリーを見守った。
「プンはいいわよねぇ。独身でスタイルもよくて。正直な話、わたしは太る一方……うちは夫婦でデブデブよ」
ビールを一気飲みした彩香の前で、五十嵐は自分のひととおりの発言に後悔したふうに頭を掻く。
やがて、ラストオーダーのタイミングで、陽子が席を立った。急ピッチな飲酒のせいで、こめかみが痛い。プレート表示の[化粧室]ではなく[便所]というべき狭いスペースで、陽子は角の錆びた鏡に向き合った。
女優?ーー五十嵐の目に自分はどう映っているんだろう?
手を丁寧に洗ってから、鏡の中の自分に作り笑いして、親指と人さし指で口角を上げてみた。鈍痛が薄まり、体に染み入る酔いと小窓から吹きつける夜風が気持ちいい。
時計の短針が10と11のちょうど真ん中に動いた頃、三人は駅の改札を並んで抜けて、彩香と陽子がスーツの背中を見送った。
親友の二人は新宿方面のホームに立って、構内のアナウンスが途切れたタイミングで、彩香がライブのパンフレットで陽子の脇腹をつつく。
「なかなかイイでしょ。プンにぴったりよ。ケータイ教えるからまた会いなよ」
曖昧な返事で、陽子は入線してくるヘッドランプに目を細めた。あえて避けてきたこの駅の、このプラットホームにいる自分を不思議に思うと、今夜は忘れていた潤一が電車の扉から出てくる気がして少しだけ後ずさった。
(3/8へ続く)
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