短篇小説「ねこじゃらし」
トオルKOTAK
ねこじゃらし(1/8)
「最悪なのは、捨てた男と夢の中で再会すること。フラれた記憶よりフッた記憶の方がタチが悪いのよ」
いくつものマンションが車窓の中で動き去る景色を眺めながら、陽子は女子会での誰かの言葉を思い出す。
男をあっけなく捨てたわたしはネコだと言われた。
「陽子は気まぐれなネコだよ」
ホームの階段を降りて自動改札に切符を通すと、潤一と待ち合わせた懐かしい場所に出くわして、断片的な過去が繋ぎ合わさっていく。
券売機近くの宝くじ売場と高架下に並ぶタクシーはあの日と変わらない。まるで、実家の駅に戻ったような懐かしさ。
そう、わたしはよくここにいたーー
とっくの昔に別れたのに、何かにつけて、潤一のことが陽子に甦ってきた。この一ヵ月に二度も夢を見て、まるで、三十になる手前で恋愛の総決算を促すみたいに記憶の波が押し寄せてくる。
もし、わたしの心変わりがなく、あのまま結婚していたら……過去完了の文章を現在進行に置き換えてみても答えはない。贔屓のブランドもヘアスタイルも変えて、それなりにつき合った男もいたのに、「決算」はひとりの男にこだわり続けている。
潤一を捨てて、別の男ともあっけなく別れて、二十代のわたしは何を繰り返していたんだろう――
アーケードの商店街に続く信号で、陽子はロータリーに発着するバスをぼんやり見つめた。
雲間から斜めに降りる陽射しにはまだ夏の勢いがあり、ジーンズに黒のミュールを履いたラフな格好を季節外れにしていない。
日曜日のため、飲食店と洋品店とドラッグストアの並ぶ商店街はたくさんの家族連れで賑わっていた。
「陽子はネコだよ。ネコは気まぐれな生き物だから」
潤一の声と言葉が、アンティークショップの置物さながらに留まっている。洋盤のレコードを壁いっぱいに飾った吉祥寺のカフェで3時間も話し合った後、潤一が最後に口にした言葉だ。
わたしはそんなんじゃないと心の中で声を上げた。でも、ネコだと思って納得してくれるなら、別れてくれるなら、それで構わなかった。
「ネコはわがままで勝手なんだよ」
教師が生徒を諭す口調で、潤一は陽子の目を見て続けた。
声のボリュームを増せば、カウンターのコーヒーサイフォンが動きを止めてしまうような空間。誰も入り込むことのできない時間。
いっそ、なじられた方が楽だったかもしれない。冷静な潤一をもどかしく思いながら、結局、物別れのかたちで無言でレジに向かい、それぞれで会計した。
「じゃ、さよなら」
JRの改札口での素っ気ない挨拶で長い恋愛は終わった。
たしかに、あのときのわたしは、気まぐれで勝手な生き物だった。「あのときのわたし」……あのときといま……この五年間で何か変わったかなーー
空席を残したマクドナルドの二階で、陽子は別の男の誕生日を思い出そうとする。腹筋が自慢で、指の関節が妙に太い男で……一緒に観た映画は覚えているのに何月生まれだったかさえ憶えていない。同い年の潤一と違い、年下のその男は体の相性も悪かった。
化粧室でメイクを直していると、彩香から「15分遅れる」の連絡が入り、さらに5分の遅刻で息を切らせてやってきた。階段を駆け上がってきたのか、乱れた息の後ろでグレーのスーツが電信柱みたいに立っている。
「はじめまして。五十嵐です」
彩香から紹介される前に、男は臆することなくポケットから名刺を出して、立ち上がった陽子に頭を下げた。
ゴシック体の[五十嵐聡]という文字がカタカナの社名にはあまり合っていない。ごわごわした紙に、メールアドレスが見慣れない書体で申し訳程度に刷られている。
「原宿のパブリシティ会社に勤める独身者」というプロフィールは、12星座占いでは相性が良いことと一緒に彩香からあらかじめ聞いていた。
「こちら、前川陽子さん。プンって呼んであげて。赤坂界隈じゃ、ちょっと名の知れたイベントプランナー。仕事とお酒は男に負けない」
茶目っ気ある笑みを陽子に向けながら彩香が言う。
「プン?」
ダストボックスの横に立ったまま、とおりのいい声で五十嵐が聞き返す。
背の低い彩香とは二十センチほどの身長差があり、スマートなシルエットが彩香のふっくらした体型とは対照的だ。
(2/8へ続く)
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