ねこじゃらし(4/8)
「実はね、マンション買って引越したのよ。プン、次の日曜日、うちに来ない?」
いつも以上に高いテンションで、彩香が唐突に切り出した。「マンションも引越しの話も初耳」という陽子の反応に一呼吸置いてから、声の調子を穏やかにする。
「黙っててごめんね。うちのダンナが、引越しが終わるまで誰にも話すなって言うから……三十五年よ、三十五年ローン!これからたいへんだけど……ま、とにかく遊びに来てよ。イガちゃんも来るから」
彩香の新居を訪れる日の明け方、陽子は潤一の夢を見た。
踏み切りの向こう側に潤一がいるのに、手を振っても気づかれず、声も届かない。遮断機の前でなすすべなく、目の前を快速電車が通り過ぎていく。潤一の姿が再び現れる前に目が覚めた。
外はまだ仄暗いが、遮光カーテンの後ろで鳥がさえずっている。喉が乾き、ペットボトルの烏龍茶を口に含んでもうひと眠りしようとしたものの、不急の考え事が頭に浮かんでは消え、その繰り返しで眠気が遠のいた。しかたなく、横になったまま、リモコンでテレビを起こしてみる。
ジェット機が夜の滑走路を離陸する映像。画像が揺れ、ピントが定まっていない。素人がビデオカメラで撮影したものらしく、画面の右下に日付と時間が記されている。早朝の番組には不似合いなシーンだ。
チャンネルを替えると、直立姿勢で原稿を読み上げる男が画面に出た。強ばった表情で、紙を持つ手を微かに震わせ、スタッフルームからの中継らしく、複数のモニターの前で局員が忙しげに動くのが見える。
夜間に事件か事故が起こったのだろう。ザッピングを続けた。
今度も飛行機の映像だ。尾翼のロゴマークが大きく映し出され、スタジオでは週末の番組で見かけるキャスターがゲストと対話している。
カメラがデスク上の「航空評論家」というプレートをフォーカスしたのと同時に、陽子は音声のボリュームを上げた。
「いや……現時点ではあくまでも推測ですけど」
いかつい顔とはアンバランスな高い声で、「評論家」が飛行機の模型を掲げて語り始めると、画面の右端にテロップが出た。
太平洋上で、ジャンボジェット機行方不明ーー
陽子はとっさにリモコンボタンの「1」を選択する。
そこでは、政見放送で見る青色の壁を背に、ダークグレーのネクタイを着けたアナウンサーが情報を読み上げている。他の局とは違う、冷静で神妙な様子だ。
「たったいま入った情報によると、乗客名簿での日本人は四十八名です」
暗いモニターに、白い文字でカタカナ書きの名前と年齢が表れた。
イノウエミツオさん、イノウエヨシエさん、カンダコウイチロウさん、コウダリョウセイさん、コウダエリカさん…… 滑舌のいい声でひとりずつの名前が読み上げられ、五人目が終わったところで、まばたきするように次の画面に切り替わった。
サクラバレイカさん、サトウカズヒコさん、サトウカナコさん、タノクライッセイさん、テヅカキンヤさん……夫婦か親子か、親類関係を示す同姓が並ぶ。名前と年齢だけが明かされるだけで、他に情報はない。
陽子は何かの当選発表を耳にする感覚で、文字の連なりを見ているうちに眠りに落ちた。
アイボリーの壁面を力のない日差しが黄色く染めている。通りに面したベランダに人の気配はなく、真新しい外観は街の雰囲気にまだなじんでいない感じだ。
幾重もの厚い雲が西の空を覆い、北から吹く風は冬の気配だった。
マンションは最新式のオートロックを完備し、奥行きのあるエントランスにはホテルのロビーを思わせる噴水がある。
「プン、遅いよー!もう始まってるから上がってきてー」
インターホンごしの陽子の挨拶に、彩香が興奮口調で応えた。
(5/8へ続く)
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