第50話 麗華月に行く9、無想琴音4


 ホテルのコンシェルジュに相談すれば、スーツケースに繋いだ手錠程度は鎖を切るなりして何とでもなったのだろうが、琴音はそういったことを全く思いつくことができなかった。


 そのために、二泊三日の月旅行を、結局スーツケースと一緒に過ごしてしまった。本人にとってはその程度のトラブルはそこまで深刻な事態ではない。ホテル内からうっかり出ないように気を配りつつスーツケースと一緒にホテル内でショッピングをしたりしてそれなりに楽しむことができた。一人旅の大冒険はかなりの覚悟で臨んだのだが、琴音的にはたいしたトラブルもなく十分満足しているようだ。


 今回の旅行中の問題は着替えだったのだが、下着類ももちろんスーツケースの中に入っているため取り出せない。何とかホテル内で下着を扱っているお店を見つけたので、そこで購入できた。スーツケースが繋がったままではどうあがこうと上の服が脱げないことは最初にホテルの部屋に入って上着を脱ごうとしたときに身をもって確認していたので、下着は下しか買っていない。


 着替えたパンツを持って帰らなくてはいけないが、汚れ物のパンツをポケットに入れておくとそれこそ不審者になってしまうし、パンツだけのために小物入れを買ったうえにどこかに置き忘れてしまうのも嫌だったので、やむなくゴミ箱に捨てることにした。


 最終日の三日目の朝、昨日同様スーツケースと一緒にホテルのレストランで朝食をとり、帰り支度でもしようと思ったが、そもそもスーツケースを一度も開けていないし上着も脱いでいないので、帰り支度の必要はなかった。上着は着たまま横になっていたのでかなりシワシワになっているが、人に見とがめられるほどシワになっているわけではないと自分に言い聞かせている。


 実家にお土産を買って帰りたかったのだが、ホテルの前の通りに面したような大きな土産物屋にうかつに入ってしまうと、宇宙旅客船の搭乗時間までに空港にたどり着けない可能性もある。ということなので、そこは断念して、ホテル内で見つけた小さな小物屋で、月の石を使ったネクタイピンとカフスボタンのセットを父用と兄用に、母用にはこれも月の石を使ったブローチを買うことができた。


 いずれも、土産物用の袋に入れてしまうとどこかに忘れそうなので、上着の左右のポケットに入れたため、ポケットは大きく膨らんでしまった。


 その店で、なぜか目に付いた『月の空気・・』の缶詰が気になり、自分用に買ってしまった。買った後で気付いたが、月には空気はないか、おそらく真空に近いほど稀薄だろう。ということは、地球で缶詰を開けると、地球の空気が缶の中に入って、月の空気と混ざってしまうのではないか? 買ってしまったものは仕方がない。記念品ではあるので、机の上にでも飾っておけばいい。


 琴音の感覚でも妙なものを買い込んでしまったのだが、缶詰の缶自体は結構しっかりとした作りの物で、大きさもそうだが重さもかなりあった。これも上着のポケットに突っ込んだのだが、上着の生地が伸びるほどポケットが膨らんでしまったので、仕方なく財布などを入れている左の内ポケットでは邪魔なので、最後に残った右の内ポケットにしまうことにした。琴音の胸は自己主張するほどのものではなかったが、右側の胸だけが変な形に自己主張を始めてしまった。もちろん琴音はその程度のことは気にならない。


 帰りの便へは昼過ぎに搭乗予定なのだが、ホテルから100メートル離れている空港玄関口までの道順が心配だったため搭乗開始の3時間前の9時には部屋を出て、ホテルをチャックアウトしてしまった。


 スーツケースを今回一度も開けなかった関係で、忘れ物を気にする必要がない。よく考えると、これはたいそう便利だ。いつも忘れ物をしたんじゃないかと心配することの多い琴音にとってはありがたいことだった。


 本末転倒なのだが琴音はそのことでなんだか気分が良くなった。まさに、『ルンルン』気分である。



 さすがに、今回は真正面に空港の正面玄関が見えたため、100メートルの距離では迷うこともなく、空港内に入ることができ、さらに運よく目の前にあったチャックインカウンターを見付けることができた。


 今日の運の良さは本物だ! ひとり気をよくしてルンルン気分でチェックインカウンターにスーツケースと一緒に進んでいく琴音。


『あれ? そういえば、チェックインカウンターでスーツケースを預けなければならなかった。しかし、手錠につながれたスーツケースを預けてしまうと、自分も荷物用ベルトの上に乗ってどこかに運ばれてしまう。マズイ!』


 そういったことはホテルのコンシェルジュ同様、チェックインカウンターで係りの人に相談すれば何とかなったのだろうが、そういった相談を他人とする勇気もスキルも琴音は持っていないのだ。


 10分ほどああでもないこうでもないと思案に暮れていたところ、目の前を、自分の知った人物が通りかかった。


 琴音は、地獄に仏とはこのことだと思い、手を振りながら大きな声で、


「麗華ちゃーん!」


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