第44話 麗華月に行く3、飛び込みプール


 ホテルの部屋で麗華と代田が、月名物となった低重力飛び込みプールに行くための準備を終えたところだ。


「お嬢さま、準備はよろしいようですな」


「私のほうは問題ないわ。代田の荷物はそれだけなの?」


「水着とカメラ、それと下着だけですから」


「それでは、行きましょう。場所はわかる?」


「確か、エレベーターで直接プールのある階に行けたはずです」


「代田、さすがね」


「お嬢さまの執事ですから」





 二人そろって、エレベーターに乗り、プール階と書いてある階で降りると、そこはプールの受付用のロビーになっていた。


 代田が手早く受付で二人分の手続きを済ませたあと、水着に着替えるために男女更衣室の前で分かれた。


 更衣室で麗華は手早くワンピースの水着に着替え、外に出ると、着替え終わった代田がすでにそこで待っていた。無駄な筋肉など1グラムもない引き締まった体だ。もうすぐ還暦を迎える代田だが顔さえ見なければ、30代でも通用しそうなツヤとしなやかさがある。もちろん腹筋は割れている。いつも執事服を着ているためか、肌の色は白いが当然のことながら不健康な白さではない。


「えーと、代田。その格好でほんとにプールに入るの?」


「はい。お嬢さま、何かこの姿に問題でも」


「いえ、代田らしいし、男らしくていいんじゃない」


「ありがとうございます」


「今どきよくそんなものを売ってたわね?」


「いえ、これは屋敷で裁縫さいほうの上手な者に言って作らせました。生地は出入りの業者に納めさせたものです」


「ふーん。それじゃあ、プールに行きましょうか」


 更衣室を出て代田と合流した麗華は先に立って、プールエリアに向かう通路に入って行った。


「あそこの黄色いラインから、少しずつ重力が地球の重力から月の重力までラインごとに書いてある数字まで軽くなるそうよ」


 1番手前の数字は9.8、一番むこうがの先が1.6と書いてある。


 そこからは二人ならんで、一歩ずつその通路を進んでいくことにした。


「ほうー。これは。お嬢さま。臍下丹田せいかたんでんの位置がづれてしまったようで、この代田、何とも落ち着きません」


「代田は来るときの旅客宇宙船の中もダメだったけれど、ここもダメなのね」


「いえ、あの時ほどではありません。これなら5分もすれば体が慣れると思います」


「代田、あなたまだ、一歩しか進んでないじゃない。その調子だと向こうに着くまでに一時間はかかりそうね」


「いえ、無理をすれば何とかこのまま歩いて行けます」


「別に無理しなくていいから、ゆっくりおいでなさい。私は先に行っておくから」


「いえいえ、無理はしません。すぐにそちらに」


「もう。プールで具合悪くならないでよ」


「大丈夫です。そのようなことになる前に、私の嘔吐中枢を麻痺させるツボを突きますから」



 そうこう二人で話しているうちに最後の1.6と書かれたラインを越えた。


 そこで、大きく深呼吸した代田が、


「はい。落ち着きました。もう大丈夫です」


「そう、ならいいわ」


「しかしこの感覚は慣れませんな。飛び上がると3メーターくらい飛び上がれそうです。いや、もっと行くかもしれません」


「代田、こんなところで試さないでよ」


「心得ております」



 


『……お客さまにお願いします。低重力に体を慣らすため、10分ほどは、軽く歩行するなどしてプールの周りでお過ごしください……』という放送がプールエリアに流れ続けている。



「あら、少し体を慣らさなければいけないようよ。軽く準備運動でもしておきましょう」



 プール脇で準備体操を始めた二人はプールエリアにいた多くの人たちの注目を集めたようだ。


 かたや白いワンピース姿で長髪の黒髪を白いキャップに包んだ麗華と、オールバックの髪をこちらは黒いキャップに包んだ代田。しかも、代田は、日本男児ここにありといわんばかりの真っ赤なフンドシ姿だったのである。鍛え抜かれた肉体と赤いフンドシ。一部のコアな女性たちの目は代田にくぎ付けになったようだ。男性は麗華の姿を、数人の男性は代田の雄姿をチラ見している。彼らは、そういった趣味の男性たちかも知れない。


 一通り、準備体操を終え、


「こんなものかしら」


「私も体がここの重力に慣れたようです」


「さっそく、飛び込みよね」


「さようでございますね。お嬢さまはやはり10メートルですか?」


「それはそうでしょう」


「それでは、私も10メートルに挑戦させていただきます」



 10メートルの飛び込み台の前で、飛び込みの順番を待ちながら、


「うちにもそのうちプールでも造ろうかしら」


「それはようございますね。プールサイドでバーベキューなど催せば格別でしょう」


「そうね。帰ったら真面目に検討してましょう。……順番だわ。それじゃあ、お先に私が飛び込むわね」



 麗華は飛び込み台の上に上がるエレベーターに乗り込んで上に昇り、飛び込み台の先端までまでいって下をのぞく。10メートルの高さでも下がけっこう小さく見えるがそれだけだ。足を揃えて、軽くジャンプし頂点で180度回転してまっすぐ指先からつま先まで体を伸ばして水面に落下していった。ひねりなど入った飛び込みではなかったが思わず見とれるほどの美しいフォームでの飛び込みだった。それが、スローモーション気味に水面に飛び込んだ。


 シュポッ!!


 ほとんど水しぶきの上がらないきれいな着水だった。


 次は代田の番だ。いったん深く沈んだ麗華が水面に浮かび上がり、すぐにきれいな貫き手でプールサイドに泳ぎ着いて、そのまま水から上がり代田の飛び込みを眺める。


 飛び込み台の先端までやって来た代田が、一度、下をのぞき込み、やおら、後ろ向きになった。それから、膝を曲げて、一気に飛び上がったのだが、どこまでも上がっていく。5メートルほど飛び上がって頂点に達したらしくそこからゆっくり落下が始まった。落下に合わせて体を折りたたみ、そのまま、くるくると伸膝(しんしつ)の前方回転をしながら、水面間際まで落下し、ぎりぎりのところで体を開いて、指先から、つま先まで着水した。もちろんしぶきもほとんど上がらない完ぺきな着水だった。プールエリアのそこかしこから「ほー」「すごい」「きれい」そんな声が上がっていた。


 すぐに水からあがった代田に、


「あなた、飛び込みの経験でもあったの?」


「いえ、一度も有りませんが、以前一度テレビで見たものを思い出したものが、自分でもできそそうな気がしましたので試してみました」


「その歳で、さすが代田よね」


「恐縮です」


 麗華は、低重力下でかなり長い時間空中で浮遊感を味わえる高飛び込みが気に入ったようで、それから、5度ほど飛び込みを行った。代田もそれに全て付き合い、そのたびに異なるフォームで飛び込むものだから、まさに、プールエリアの覇者といった風情で、皆の注目を一身に集めたようだ。




「お嬢さま、せっかくカメラを持ってきましたので、もう一度飛び込みをしていただけませんか、うちの者たちもそうですが、正胤まさたねさまもお喜びになると思いますので」


「そう、それじゃあ、せっかくだから、もう一度だけ飛び込んでみるわ、しっかり撮ってね」


「もちろんでございます」



 最後の一本ということで、麗華は、最初代田が見せた、後ろ向きからの伸膝(しんしつ)の前方3回転+2回ひねりを見せて、水面に小さなしぶきをたてた。


 これにも、多くの人の注目を集めたようで、思わずプールサイドから拍手が起こってしまった。


 いったん水中深く沈んだ麗華はこのことには気づかなった。


 プールから上がり、麗華は代田に渡されたプール脇に常備されたバスタオルで体を拭き、


「それじゃあ、そろそろ帰りましょうか。それにしても、代田のファンが一気に増えたようよ」


「そんなことはありません」


「代田、何照れてるのよ。あなた、かなり意識して飛び込んでたでしょう?」


「お嬢さまにはかないませんな」


「まあ、代田も楽しんだのならいいわよ」



 プールエリアを後にした二人だったが、それなりの時間低重力の場所にいたため、更衣室までの通路で少しずつ体が重くなり、最後にはずっしりと重みを感じることになる。


「結構くるわね」


「そうですね。しかしある意味いい鍛錬になりそうです」


 更衣室で着替えをすませた二人はそのまま部屋に戻った。



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