第4話
「さっさと来やがれ、この野郎!」
「違うんです、誤解です、僕は」結局、捕まった友仁はスタッフに首根っこをつかまれてペンションに連れ帰られていた。
「言い訳してんじゃねえ、脱走者のくせによ」
ペンションのメインホールに連れてこられた。そこには泉とピースマイルのスタッフが集まっていた。一緒に逃げ出した脱走者たちも連行されて、ロープで体を縛られている。
「これで全部か?」泉が問うと、スタッフは肯定した。友仁は床に放り出される。
「かーっ! まったく、もう。なんで逃げ出すかねえ」椅子にだらしなく腰掛けた泉が不機嫌そうに言った。
「違うんです、僕はただ飲み物を買いに行っていただけで」友仁はおろおろと弁明したが「誰が喋っていいなんて言った!」と泉が友仁のもとへ行き、尖った靴の先で友仁の鳩尾を蹴飛ばした。悶える友仁に顔を近づけて「困るんだよねえ、商売の邪魔されちゃ」と脅すような口調で言った。
「あなたは何者なんですか? どうしてこんなことを?」
「俺? 俺は泉だよ。お前らみたいなアホどもから金を巻き上げてリッチに生きたいと思ってるただの男だよ」泉はうずくまる友仁を鼻で笑って、もう一度蹴りを入れた。
「泉さん、こいつらどうするんですか?」
泉を呼んだのは初日のセミナーを途中でやめて出ていってしまった二人だった。あの怒っていた男と泣いていた女である。どうしてあの二人がここにいるんだ、と友仁の頭は混乱に満ちていく。
「制裁するに決まってんだろ、それくらい理解しろよ! そんなんだからサクラ役ぐらいしかできねえんだよ、このタコ! ボサっとしてねえでさっさと脱走者どもを制裁するんだよ!」
サクラって、あの二人は演技で参加していたのか? 友仁は痛みで声も出せないまま、泉の指示によって団員たちの手で床に押さえつけられた。制裁とはなんだ、一体何をされるのか。想像しただけで友仁の目に涙が浮かんだ。
「皆川くん!」菰野が叫んだ。
「なんだ菰野、お前が連れてきたヤツなのか?」泉は菰野に顔を間近に近づけてにらみつける。菰野は無言でうなづく。
泉は「お前が蒔いた種なんだから自分で責任取らねえといけねえよな?」と言って菰野に何かを手渡した。
必死に暴れる友仁のもとに菰野がやってきた。手には注射器が握られている。
「菰野さん、何が起きてるのさ?」友仁がパニックを起こしながら訪ねる。
「ごめんね、友仁くん。でも言う通りにしないといけないの。泉社長の指示は絶対だから」と、菰野は虚ろに答えた。
「それでも、こんなの間違ってる!」
「何を言っても無駄だぜ。なにせ、菰野のやつはうちの商品の買い過ぎで、俺に借金してやがるからな。おかげですっかり俺の奴隷になったってわけだ!」泉が狂ったように笑いながら言った。
「なんて奴だ! 悩みを抱えた人につけこんで、ひどいヤツめ!」
「ヒドイだって? おいおい、そりゃねえぜ。騙されるやつが悪いんじゃねえか!」泉の声を聴いた友仁は叫びながら暴れたが、押さえつける団員たちを引き剥がせなかった。そして、注射器の針が腕に突き刺さる感覚がする。
〈こんなの嫌だ! 誰か助けて!〉
そのとき、メインホールのドアが勢いよく開かれた。
「よう! いい泣きっ面してやがるじゃねえか、友仁!」入り口のところに立って声を掛けてきたのは昴だった。
泉たちは突然現れた、妙な格好の人物に困惑している。
「誰だ、お前!」団員の一人が叫ぶ。
「藤枝昴ってもんだよ! 人に名を訪ねるときゃあ、自分から名乗りやがれ!」
「昴、お前がどうしてここに?」友仁もどうしてここに昴が現れたのかわからず戸惑う。
どよめく団員たちの中から、菰野が割って出てきた。
「一体、なんの用かしら。皆川くんを連れ戻しにきたっていうなら、そうはいかないわ。皆川くんはもうすでに私たちの仲間なの。彼は自ら望んでここにやってきた。そして、私たちは彼が自分の夢をキャッチできるような人間になるための応援をしているのよ。それを邪魔するっていうの?」
「話は全部聞かせてもらったぜ。変な薬で洗脳することを〈応援〉っていうのか? それは初耳だな」昴は鼻で笑いながら続ける。
「菰野、お前は知らねえだろうが、友仁はお前さんに惚れてたんだぜ。そんなやつを騙してると知って、何とも思わねえのか?」
「知ってるわよ、そんなことぐらい。でも私には関係ないし、何とも思わないわ。皆川くんが勝手に私に惚れただけでしょ。もし、付き合うにしても、こんな童貞くさい男、ゴメンだわ!」
〈童貞くさいやつ!〉
友仁は激しいショックで気を失いそうになる。
「だとよ、友仁。聞いたか」
と、昴が言ったのを、友仁は音としては受けとっていたが、意味が頭の中で正しく理解できていなかった。
「残念だが、俺は友仁の野郎を助けに来たわけじゃねえ。用事があるのは菰野、テメエだ」
「私に何の用があるっていうのよ」
「俺が誰だか忘れたのか、菰野利紗、いや、
「その名前で私を呼ぶな! そんな人間はもういない!」
「そうだな、俺の親友だった奴はもうここにはいない。ただの哀れな小娘が喚いてるだけだ」
昴がタバコを取り出し、しかめっ面で火をつけた。
「恩人だって? 昴、お前、菰野さんとどういう関係なんだ?」
「友仁よぉ、以前、俺に尋ねたよな、どうして大学に入ったんだってな。それはコイツに会うためだ」
顔の傷をさすりながら昴はつづける。
「なんでかは知らねえが、高校のとき俺はクラスの連中にこっぴどくやられてね。モノを壊されたり、妙な噂を流されたり、挙句の果てには暴力まで振るわれた。異端者を見つけたら、害がなくても排除したがるってのは人間の悪いところだ。だが同じクラスに一人だけ妙なやつがいてな、こんな俺にずっとかまってくるんだ。高岡利紗って奴だ。巻き込まれるから俺に関わるなって言っても、聞きやしねえ」
罵声が響いていたメインホールはいつしか静まり返っていた。
「いつしか、俺は高岡利紗とつるむようになった。他愛もないことばかりしてたが、俺はそれで幸せだった。地獄のような日々から救われたような気分だった。優しくて良い奴だったんだ。でも、そいつは自分の内気でウジウジした性格と、太ってる体形をすごく気にしてた。ある日突然に、そいつは俺の前から姿を消した。家庭の事情だったらしいとは後から聞いた。何度も連絡したが、随分と長い間、連絡もつかないままだった。ある日、若蘭大学にそいつがいるという噂を聞きつけた俺はもう一度会えるかもしれないと、一縷の望みを託して入学した。金がねえからそうせざるを得なかったんだが、特待生になるためにバカみてえに勉強までしたんだぜ」
昴が特待生! 友仁は意外な昴の賢さを知りあっけにとられるばかりであった。
「だが、久しぶりに会ったそいつは俺の知ってる人間じゃなくなってた。苗字や見てくれだけじゃねえ、人を危険に誘い込むような奴に変わっちまってたんだ」
昴は悲しげな顔で菰野を見ていた。
「どうして……どうして! どうしてそこまでして私に会おうとしたのよ! バカじゃないの?」菰野が叫んだ。
「ああ、とんでもねえバカさ。俺はただ見て欲しかったんだよ。いつかお前がくれた本の主人公みたいに強く生きる俺の姿を」
「ジャック・ジョーンズ?」
友仁は不意に言葉にしていた。昴がバイブルとまで呼ぶ本。昴が異常なほどにこだわりを見せる理由を友仁は悟った。
「何それ? ジャック・ジョーンズ? くくっ、あんたって本当にバカなのね、藤枝さん。イタズラで古品回収のゴミから拝借してきた本を後生大事にして、ヘンテコな格好までして私に会いに来るなんて!」
昴がピクリと反応する。菰野は続けて言った。
「知ってた? 悪い噂を流したり、濡れ衣を被せたりして、あんたがいじめられるように仕向けてたのは私よ。最高だったわ、散々ボロボロにされてから、お情けをかけるフリして一緒にいてあげたときのアンタのバカみたいな顔!」
「……どうしてそんなことを?」昴が菰野に問う。
「どうしてって? 気に食わなかったのよ、傷面のくせにスカした態度とってるアンタが! 周りの人たちに顔の傷をバカにされても、アナタは表情ひとつ変えなかったじゃない! なんで自分のコンプレックスを気にせずに生きていけるのよ! 私はいつも親に体形のことをからかわれてたから、自分を好きになるなんてできなかったのに……」
「もうやめろ、利紗。こんなことしてて何になる!」
「うるさい、指図するな! 私を下に見てるからそんなこと言うんでしょ! 何様のつもり? アンタなんか大嫌いよ!」
「じゃあ、なんで腕のミサンガを外さないんだ!」昴が一喝した。
「昔、俺と一緒に作ったやつだろ、覚えてるさ。そんなヨレヨレになるまでつけてる理由はなんだ? 俺が嫌いならとっとと捨てちまえばいいのによ」昴は腕にはめたミサンガを菰野に見せつける。
菰野は黙り込んでうつむくと、肩を小さく震わせ始めた。頬から流れた雫がいくつも床に落ちる。
「……わかってるわ、こんなことしても何にもならないって。でも、こうしてないとちっぽけさで自分が壊れそうなのよ。それにもう手遅れよ。沢山の人を巻き込んできたもの」友仁にとってはなんでもそつなくこなす完璧人間に思えた菰野が、子どものように泣きじゃくりながら話している。その姿を見て、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「おい、クソガキィ! 黙って聞いてりゃ好き放題しやがって!」泉が怒鳴り、菰野をはたき飛ばした。菰野は短い悲鳴をあげて床に転がる。
「利紗!」
昴は菰野のもとに駆け寄ろうとしたが、泉が立ちふさがる。
「話はあとだな。まずはこのオッサンを黙らせねえと」
「なんだと、もういっぺん言ってみろ、この野郎!」泉が怒り狂って拳を振り上げる。
「おっと。俺を殴るとコイツをバラまくぞ!」
昴はそう叫んで、泉と団員たちを牽制した。泉は拳をピタリ、と止めた。
高く掲げられた手には白いビニール袋が下げられていた。どうやら、中に何かが入っているようだ。
「何するつもりだ、お前!」と、団員の一人が叫んだ。
「この袋の中身はヤバいものが入ってる。開けたが最後、ここにいる奴らはタダではすまねえぜ」昴は悪い笑みを浮かべながら言った。
「やれるもんならやってみろ!」
「バカ、待て!」泉の制止も聞かずに団員たちが襲いかかる。
「やってやろうじゃねえか!」
昴は持っていた袋を激しくシェイクしてから放り投げた。中から大量の、小石くらいの物体が飛び出して散らばる。それらはなぜか床の上でモゾモゾと蠢いている。正体は大量のカメムシだった。空調を効かせていたために部屋が密閉状態だったのが災いして、部屋中に悪臭が充満した。逃げようとして転ぶ者、悲鳴をあげる者、中には嘔吐する者まで現れて、会場内はパニックに陥った。取り押さえていた者たちがパニックになって離れたおかげで友仁は自由になった。
「臭っさ!」友仁は鼻を抑える。
「今のうちだ! お前も行くぞ!」昴が友仁と菰野の手を掴んで、部屋の外へ連れ出す。
「どこへ!?」
「話はあとだ! 外に車が止めてある、ここから逃げるぞ!」
「待ちやがれ、このクソガキ!」
泉は鬼のような形相を浮かべて昴をつかむと、頬を殴り飛ばした。さらに、床に倒れた昴の胸ぐらを掴んで、無理やり立ち上がらせる。
「昴!」と、友仁は叫んで、昴を助け出そうとしたが、再び取り抑えられて地面に這いつくばった。
「てめえのせいで商売あがったりだ!」
泉が泡を飛ばしながら怒鳴った。昴は口の周りに血を滲ませている。それでも、不敵な笑みを浮かべるのをやめない。
「ここに来る前に色々調べさせてもらったが、とんだビジネスをやってやがんだな。表向きは自己啓発や健康食品の販売、しかし裏では洗脳セミナー、それに違法薬物の販売。犯罪の見本市かよテメーは……ガッ!」泉が再び、昴を殴りつける。
「ガキが調子こきやがって! 俺は仕事の邪魔されんのが大嫌いなんだよ!」
「……菰野と友仁を放し……やがれ!」昴はよろけながらも泉をにらみ続ける。
「うるせえ! あの女も、あの男のガキも返してやらねえよ! 俺の大事な大事な金ヅルちゃんだからなあ!」
一言話すたびに、泉は昴を殴りつけた。顔が血にまみれていく。執拗に昴を殴りつける泉に、友仁は命の危険を感じた。
「もうやめて! 私がここに残りますから! だから二人を放して!」
菰野が泣きながら叫ぶ。
何とかして昴と菰野さんを助けなければ。そう思ったが、やはり身動きはとれない。
万事休す、かと思った矢先、指先に固い感触があった。昴のポケットから転げ落ちたライターだった。ポケットに入れていたのが転がり落ちたのだ。
これしかない、と友仁は必死でライターに手を伸ばす。この瞬間にも昴は殴られていて、床には血しぶきがどんどん増えていく。
〈バッターボックスに立たなきゃホームランは打てないんだよ!〉
友仁の頭に言葉がよぎる。
〈例え、千回空振りしても、千一回目はもしかしたら打てるかもしれない。だから、今まで自分が頑張ってきたことを無駄にしちゃダメ!〉
届かない、手がちぎれそうなほどに伸ばす。それでもまだ届かない。まるで空の月をつかもうと手を伸ばしているようだった。
〈私、信じてるから! 皆川くんなら絶対にできるよ!〉
伸ばした手が確かにライターをつかんだ。そして、何度も指を滑らせながらも、押さえつけている団員の服に火をつける。
「熱っ! ってうわあああ!」
友仁を押さえつけていた団員たちを振りほどいた友仁は、うおおおおお、と叫び声をあげながら泉にめがけてタックルを仕掛ける。泉は姿勢をくずして昴を離した。
「菰野さん、君がいるべきはここじゃない! きっと他にも方法がある。君が教えてくれたんだろ、あきらめるなって!
「ナイスだ友仁!」
「させるか!」泉が立ち上がって殴りかかろうとする。
「おっさん、よくもやってくれたな。こいつは俺からのお返しだぜ!」
昴は右手をゆっくり前に出す。それから、フランクフルトのごとく逞しい太い指を極限までたわませて泉の鼻に強烈なデコピン、いや〈鼻ピン〉を食らわせた。ベチイ! と鈍い音が響く。
「はがが! はがのほげが!」泉は床を転げ回りながら喚いていた。骨が折れたのか、鼻からは大量の血が垂れている。
「ツリはいらねえよ、とっときな」「カッコよくキメてる場合か、逃げるぞ!」「ち、ちょっと!」
友仁と昴、そして菰野はメインホールを脱出する。
ペンションの外に出た三人は、ペンションの駐車場までやってきた。
「俺の車はあそこだ。まあ、俺の車っていってもレンタカーだが……」
昴が指差した先には四角いバンが止まっていた。
「なんでもいいよ! とりあえず、ここから離れよう!」
背後から団員たちが追いかけて来ていた。
「しつこい奴らだな!」
三人は車に飛び乗ると、すぐに鍵を閉めた。運転席の昴はエンジンをかけようとするが、かからない。
「くそ、こんな時に限って!」昴はイラつきながら、エンジンをかけようとする。
クソ! と昴はハンドルを拳で叩きつける。
まるで、映画のワンシーンみたいだ。友仁は余計なことを考えてる場合じゃないとは重々承知していながらも、ついつい考えてしまった。そして、パニックになっても僕の下らない想像は止まらないものなのか、と呆れた。
団員たちは車を囲んで、出てこい!逃げるな! などと喚きながら窓ガラスを叩いて、車を揺らす。まるで、ゾンビの群れだった。
「バカ野郎ども! コイツは借りもんなんだぞ、乱暴に扱うな!」昴が窓の外に向かって叫ぶ。
「まだエンジンかからないの?」菰野は昴に催促するように問うた。
「今やってるよ!」
が、昴は何度かキーを回してから、急にエンジンをかけるのをやめて、こともあろうにタバコを吸いはじめた。煙を吸って噎せる。車内の空気が曇っていく。
「こんなときに何やってんだ! どうしたんだよ!」
「やめたやめた、ここまでだ。俺たちにはもうなす術はねえ」
「ウソでしょ!? 何やってんのよ!」
自分の人生はこんなところで終わってしまうのか、このあと連れ去られて見るも無残に――友仁は恐怖のあまり、パニックを起こしていた。
そのとき、遠くのほうでサイレンのような音が聞こえた。パニックからくる耳鳴りかそれとも幻聴か。友仁は自分がおかしくなってしまったのだ、と絶望した。音はどんどん大きくなる。
「俺たちにできることはもうない」
昴は二人に目も合わせないまま、つぶやいた。
「でも、俺たち以外にはやれることが山ほどある」
甲高いサイレンとともに、遠くからやってきたのは大量のパトカーだった。
「遅えじゃねえか」
昴はタバコを燻らせながら、不敵な笑みを浮かべる。
バンを囲んでいた団員たちは、警官たちに引っ張られていく。
友仁と昴、そして菰野は保護され、パトカーの後部座席に並んで座っていたが、菰野だけはピースマイル側の人間として、事情聴取のため警官に連れていかれた。
「なあ、どうして僕たちを助けに来てくれたんだ?」
友仁がそう尋ねると、昴は目も合わせずに答えた。
「お前を助けに来たんじゃねえよ。俺は俺の用を片付けに来ただけだ」
「なんだよそれ」
「お子様にゃわからねえよ」
すっかり疲れ果てていた友仁には、おかげでたかだか一歳年上の人間にお子様呼ばわりされたくない、と反論する元気もなかった。
「火、貸してくれたからな」
と、昴が突然に呟いた。
何だって? と友仁が聞き返す。
「初めて会ったとき、わざわざ自分から申し出て、俺に火を貸してくれたよな。その借りを返しただけだ」
「そんな些細なことのお礼のために? 」
「ああ。だが、簡単なことじゃねえ。そうだろ? お人好しさんよ」
「どっちがお人好しなんだか」
「無事か! 友仁! 昴ちゃん!」勢いよく開かれた車のドアの外には血相を変えた忍の姿があった。
「おじさん! 何でここに?」
「なんでって、俺は叔父さんだからここにいるんだ」
「説明になってないよ!」
「じゃあこれならどうだ? 俺の仕事だからだ!」
「ITの仕事と僕がこうなってるのと、どういう関係があるのさ」
「ああ、話せば長くなるんだが……」
どこから話したもんか、と忍は頭を抱えて、話をはじめた。
「まず、俺の仕事について教えてやる」
忍がそう言うと、「聞かなくても知ってるよ。 ITの仕事でしょ」友仁が素早く答えた。
「そう。確かに ITの仕事だ。ここでお前に質問だ。 ITって何だと思う?」
「 ITって何と言われても。なんか、パソコンとかいじってるイメージがあるけど」
「そう、それも ITの仕事だな。だが、俺がやっている仕事はそうじゃない」
「じゃあ、なんなの?」
「危険を求めて、夜の街を駆け巡る……」
「そんなのはいいから!」
「わかったよ、急かすなって……探偵だよ。秘密なのが大事な職業だったからな。今まで言えなくてすまんかった」
「ええ! おじさんが探偵? 何言ってんの、冗談でしょ?」
「いや、ほんとの話だ。信じられんかもしれんがな」
「じゃあ、おじさんは僕にウソをついてたんだ。〈俺はお前に嘘をついたことはない〉って言ってたのに。もう、誰を信じたらいいんだ。人間不信になるよ」
「待て、俺はウソを言ってたわけじゃない」
「これがウソじゃないなら、なんなのさ!」
「たしかに、俺がただの探偵なら、ウソになる。でも、俺はただの探偵じゃなくて〈いい探偵〉だからな」
「いい探偵だから何だって言うのさ」
「いい探偵だからITの仕事なんじゃねえか。いい探偵、 Ii Tanteiの頭文字をとって、〈IT〉だ!」
この期に及んで、と、友仁はなんだか腹が立ってきた。
「おじさん、一つ言わせてもらうよ」
「どうした?」
「わかりにくいし、面白くない」
皆川友仁、十八歳。叔父に対する、初の反抗だった。
「こらぁ! このクサレ探偵、お前は何やっとんじゃ!」
忍を呼ぶのは、刑事と思しき壮年の男だった。グレーの着古されたコートを着ていて、髪には白髪が目立つ。顔には深い皺が寄っていて梅干やら干し柿を思わせる。
「おお!
「バッカもん! お前に呼ばれてやって来とるんだろうが!」
「まあまあ、落ち着いて……。それはさておき、今回は本当に助かった。本当にありがとうな。おかげで、甥っ子たちもこの通り無事だったよ」忍は橋本と呼ばれた、刑事らしき人物に頭を下げた。
「フン。そりゃあ良かったな。――全く、お前は昔からいらん事ばかりしてワシに手を焼かせとったが、その甥っ子にまで迷惑かけられるとは思いもせなんだわ」
「失礼します! 警部補どの、事情聴取の準備ができました!」警官が橋本に報告にやって来た。
「わかった、じゃあ後であんたらにも事情聴取するから、それまでおとなしくしとくんだぞ」
そう言い残して、橋本は友仁たちのもとを離れた。
友仁は何がなんだかさっぱりな状況になっていた。聞きたいことが山ほどありすぎて何から聞いていいものか頭を悩ませていた。
「おじさんが探偵なのはわかったけど」
「違うぞ、俺は〈いい〉探偵だ! 大事なところを省くんじゃない!」と、忍が妙なこだわりを見せる。
友仁はわかったよ、とおじさんをなだめてから、ため息をつく。
「おじさんが〈いい〉探偵なのはわかったけど、ここに来たのはどうしてさ」
「昴ちゃんが〈いい探偵〉である俺に依頼を申し込んできたんだよ。友仁が合宿に参加する前の晩のことだ。俺たちは一緒に飲みに行ってたんだが、そこで依頼を受けた。最初聞いたときはびっくりしたぜ、本職の俺より探偵みたいな格好したやつから依頼を受けるなんてな。もっとも、本当の探偵は〈探偵みたい〉な格好はしないが……それはさておき、依頼内容も〈俺の友人たちを助けてくれ。やべえ奴らに捕まった〉なんて言っててよ。そのうえ、仲間ってのが友仁だと知ったときには腰を抜かしかけたぜ。俺はテレビドラマの世界の中に自分が入っちまったのかと思ったよ」
叔父さんはあきれた様子で笑っている。
「昴。なんで、直に警察に頼まなかったんだよ」
「そのときはまだ事件が起こってなかったからな。それで、探偵に頼んだってわけだ」
「なるほど。でも、おじさん。よくこの場所がわかったね」
「そりゃ探偵だからな。しかし一人でやったわけじゃない。手伝ってもらったんだ」
「誰に」
「誰って? そりゃもちろん百人の友達だよ。みんなから情報をかき集めてこの場所を突き止めた」
叔父さんは探偵業をやっているかなり豊富な人脈を持っていたらしい。そして、その人たちに協力してもらっていたわけだ。その人たちを「友達」と呼んでいたらしい。
「あれ、本当の話だったんだ」
「だから言っただろ? 俺が嘘をついたことがあるかってな。肝心なことを言わないだけだ」
友仁の頭はますます混乱してきた。自分の叔父が探偵で、自分を助けようとした昴が仕事を依頼した探偵が忍で、百人の友達を使って自分を探してくれて……。
「で、友仁を助けるのは警察に任せようとしてたんだ。素人が半端に手を出すとかえってマズイと思ったんでな。ところが、昴ちゃんが独走して乗り込んじまってよ。それで、俺は急いで警察に連絡したってわけだ。あの橋本のおっさんを経由してな」
「あの橋本って刑事さんはおじさんの知り合いなの? なんかとても訳ありな感じだったけど……」
「そうとも! 俺が大学のころからの知り合いでな。なんで関係があるのかは長い話になるから省くが……。ともかく、友達さ。ともかく橋本のおっさん経由ならば話が早いだろうと連絡をとったわけだ」
友仁は自分の叔父の知らない側面を知って、さらに混乱した。脳みそが爆発しそうになったので、忍の過去についてはまた今度聞くことにしようと決めた。とりあえず、自分の叔父で探偵だ、という事実だけで充分にビックリしていたのである。
「そうだ。昴。君にも聞きたいことが山ほどある」
「何だよ、いきなり」突然、話を振られた昴は体をビクリとさせた。
「さっき、僕を助けようとしたときカメムシをばら撒いたけど、なんでカメムシなのさ? しかもあんなに大量のカメムシどこから連れてきたんだよ?」
「ああ、あれか。お前を助けだそうと車で駆けつけたのはいいんだけど護身用の武器とか全く持ってない、って気づいたんだよ。それでペンションに向かう途中、古い材木置き場を見つけてよ。角材だの置いてあったら、手頃なやつを拝借しようと思って、探してるときにデカい板の裏側にびっしりカメムシがついてやがんの。気絶しそうだったぜ」
ちょっとしたホラーだな、と場面を想像した友仁は身ぶるいした。
「ただ、これをぶち撒けたら角材より強いんじゃねえかと思ってよ。車の中にあったコンビニのビニール袋に詰め込んで、持っていったってわけだ。詰め込むのは大変だったぜ。何匹か暴発したしな。ありゃあ地獄だ、二度とやりたくねえ」
どうりで昴から若干の異臭がするんだな、と友仁は納得した。
「カメムシ嫌いなんじゃなかったっけ?」
「思い出しただけで震えがくるが、四の五の言ってる場合じゃなかったからよ」照れくさそうに昴がいう。
友仁は思い出していた。かつてカメムシが服について彼方に逃走していった昴の姿を。あれほど嫌がっていたものに頓着しないほど昴は必死だったのだと思うと、友仁はなぜだかとても胸が熱くなった。
昴がタバコに火をつけるのをみて、友仁はもう一つ聞きたいことを思い出した。
「なんで、デコピンなんだよ。泉さんを倒すの」
「俺がうら若き十代のころ、一人ぼっちで時間を持て余してたんだよ。それで消しゴムをはじいて過ごしてたんだが、いつの間にやら指が鍛えられてすげえ逞しくなってよ。見てみろよ」
昴が差し出したフランクフルトのように太い指を見て、そんなのってアリかよ! と仰天する。カメムシの一件での感動が妙な驚きで消し飛んだ。
〈つーか、うら若き十代って!〉
頃合いを見計らっていたのか、忍がさて、と言って話を切り出す。
「昴ちゃん、今回は君のおかげで友仁は無事だった。本当にありがとう。礼を言わせてもらうよ。でも、もう二度と、一人で危ない奴らのところに乗り込むなんてもうやっちゃいけないぞ。女の子なんだから尚更だ」
待て。今、叔父さんは何て言った? 友人は自分の耳を疑う。
「ちょっと待って、昴! お前、女だったのか?」
「今さら気づいてんじゃねえよ!」
こんな場末の探偵、あるいは殺しのプロフェッショナルみたいな格好をした女性がいるとは友仁には想像もつかなかった。だが思い返してみれば、昴が女性であるのが窺えるような出来事もあった。まず、最初に会ったときバーで女子トイレに入ったことだ。あれは昴の間違いではなく、ごく自然な行動であったのだが、たまたま先に入っていた人が昴のことを男だと勘違いしてしまったのだ。探昴が〈誤解だ!〉と言っていたのは、全くもってその通りなのである。
以前の飲み会で〈童貞じゃない〉とはっきり言い切ったのも昴が女だからだ。言うまでもないが、女では童貞になりようがない。さらに〈友達を作ってやる〉と大学で女子にばかり声をかけて回っていたのも、同性のほうが声を掛けやすかったからなのだろう。
「何がなんだか、もうサッパリだよ・・・。おじさんはなんで昴が女だってわかったのさ」
「連絡用に俺の名刺を渡したとき、昴ちゃんが言ったんだよ。忍って名前、女子にも使える名前だから、学生時代からかわれませんでしたか、ってな。で、俺も聞き返したわけだ。君はどうだったってな。昴って名前も男女兼用の名前だしな」
忍はタバコを咥えて、火をつけた。
「で、昴ちゃんは答えたわけだ。『俺もよく男みたいだってからかわれてました』ってな」
「なるほどね、しかし、緊急時にするような話じゃないね」
「あん時は頭がこんがらがって、トンチンカンな事しか言えなかったんだよ」
「トンチンカンな事しか言えないのは、いつものことだろ」
僕がそう言い終わるや否や、昴はうるせえ、と言いながら僕の肩にパンチしてきた。全然痛くないパンチだった。しかし、そのあとに間伐をいれずに叩き込まれたデコピンは涙が出るほど痛かった。なるほど、これならパンチよりこっちを選ぶな、と額を押さえながら妙に納得した。
「痛たたた……ん? あれは菰野さんだ!」
友仁は車窓から菰野が警官に付き添われて歩いているのを見つけて、昴とともに菰野のもとへ駆け寄る。
「こらこら、邪魔するんじゃない! これから署まで行くんだから」
橋本が二人をたしなめる。
「いいじゃねえか、おっさん。五分だけ時間くれよ」
「誰がおっさんだ! 全く最近の若いのは……!」
いつの間にかついてきていた忍がまあまあ、と橋本をなだめる。
菰野は覇気がなくなっていて、背筋を丸めて、虚ろな雰囲気を漂わせていた。
「……ごめんね、二人とも」
泣くのをこらえているような、弱々しい菰野の声を聴いて友仁はかける言葉を失った。
「なんてツラしてやがる、みっともねえ。どうだい、見下してた奴と同じところまで落ちてきた気分はよ?」
悪態をついてはいたが、昴の表情は怒ってはおらず、むしろ悲しそうでさえあった。
菰野は自分の手を掲げた。手首のミサンガが顔と同じ高さまで来た。
「このミサンガに〈藤枝さんと対等でいられる自分になれますように〉って願いをこめてた。これがちぎれるとき願いが叶うんだって聞いて、それまでは外さないと決めていたの。何をしてでも自分の願いを叶えようと誓った。誰かを蹴落としてでもね。でも、今から考えるとバカみたいだわ。そんな調子じゃ、あなたに追いつけるはずもないのにね」
「じゃあ、その願いを今夜叶えてやるよ」
昴は菰野のミサンガを両手で握ると、勢いよく引きちぎった。
「ようこそ、バカの世界へ。どうだい、夢がかなった気分は?」
昴が菰野に笑いかける。菰野はただ驚いたような顔をして、何も言わず昴を見ている。そこに昴に対する敵意は無かった。そして、三人は顔を見合わせてから大笑いした。疲れ切っているはずなのに、なぜか笑いが止まらなかった。
「なんだ、アイツら? 気味悪いったらありゃしねえ」
橋本は冷ややかに三人を見つめていた。
「もう行かなくちゃ。二人とも、本当にごめんなさい。それから、ありがとう」
「おうおう、済々するぜ。とっとと消え失せろ。どことなりと行っちまえ」
「お前は憎まれ口ばかり叩いて! ……本当は寂しいくせに」
黙っとれ、と昴は友仁の額に強烈なデコピンを食らわせた。額を抑えて友仁はうずくまる。
「もう、会うことはないかもしれないけど、今度こそは本当に立派な人間になって見せるわ。真っ当なやり方でね!」
もう時間だぞ、と橋本が菰野を連れていき、パトカーに乗せる。
お元気で! と友仁が大きく手をふり、昴はタバコに火をつける。
徐々に遠くなっていくパトカーの後ろ姿を、二人は見えなくなるまで見送った。
事件から一週間が経過した日、友仁は〈リトル・ロマンス〉にやってきた。
「こっちだ」
昴が友仁に向かって手を振る。
「遅れてごめん」待ち合わせに遅れたのを詫びた友仁は昴の隣の席に腰掛ける。
「別に構わねえよ。それより、火、貸してくれ」
「いいよ。またライター無くしたの?」
「いや、今度はガス切れだ」
友仁はマスターに頼んでライターをもらうと、昴が咥えているタバコに火をつけてあげた。合宿の一件で服に火をつけたときから、ライターの扱いにこなれて、軽々と火をつけられるようになったのである。
「あの一件からもう一週間か、早いもんだな」
「そうだね」と友仁はつぶやく。
事件から一週間は事情聴取やらなにやらであっという間に過ぎていった。
泉と暴行を働いていた団員たちは暴行等の容疑によって逮捕され、ピースマイルも解散した。
友仁は橋本や忍に次のような話を聞いた。
泉はかねてより暴力・詐欺などの犯罪を重ねていた悪党であり、合宿の最初の映像で語られていた泉の経歴はウソであること。例の合宿は泉の最たる悪行であり、参加者を過酷なプログラムの履行によって洗脳し、高額の商品を売りつけ、意を唱える者や脱走者に対しては薬物の使用も辞さない凶悪な手口で多くの被害者を出していたこと。ピースマイルは泉が合宿やセミナーに人を集めるための組織であったこと、などである。ピースマイルの団員は泉の素性を知らず、活動に参加していた者は多く、岩瀬などはまさにそうだったとのことであった。友仁はいかに自分が危険なことに巻き込まれていたのかを改めて実感し、話を聞くだけで卒倒しそうになっていた。
「菰野さん、元気にしてるかな?」
友仁が菰野を見たのはあの事件の日が最後で、それきり連絡がつかず、どうやら学校も辞めたらしい。
〈菰野さんは確かに僕を騙そうとした。それはいけないことだ。しかし、もし僕が彼女と同じ立場だったなら、同じ道を辿っていたかもしれない。それに菰野さんは僕の初恋の人なのだ。こんな結末になってしまったけど、それでも初恋の人であるのに変わりはない〉
そう考えると友仁は菰野を強く責めることはできなかった。
「あの事件はショックだったよ。わかってるんだ、当然の結末だって。それでも、なんだかね」
「そうだろうな」昴はそれ以上何も言わず、タバコを吸い続けている。
「菰野さん、今頃どうしてるんだろうね」
「知らねえよ。ただ一つだけ言えるのは」
次の言葉を催促するように友仁は昴を見つめる。
「あいつがこれくらいで折れるタマじゃねえってことだ。そこだけはアイツを信じてるさ。それにもうアイツは自由だ。ミサンガも切れたしな」
「寂しくないの? 友達だったんでしょ?」
「あいつは菰野利紗であって、高岡利紗じゃないからな」そう答えた昴の目は、どこか遠くを見ているようだった。
「改めてお礼を言わせてもらうよ。昴、本当にありがとう」
「俺は自分のやりてえようにやっただけだ。礼を言われる筋合いはねえよ」
昴はタバコを灰皿でもみ消すと「さて、あとはアレを出したら終わりだな」とつぶやく。
アレって何さ、と友仁が尋ねると、昴の手は〈退学届〉と書かれた用紙を突き出した。
「まさか、おまえも大学辞める気かよ!」
「もう、あそこに用はねえからな」
「そんな、僕はこれからどうしたらいいんだよ!」
友仁は昴のほうを向いたまま固まった。
「友仁、お前、やっぱりいい名前してるぜ。だから、胸張って生きろよ。お前なら大丈夫さ」
昴は大きなため息をついてから、のっそり席を立ち、マスターに勘定を頼む。
「……用ならまだ終わってないさ」友仁が呟く。
「何の話だよ?」
「僕の友達作りがまだだろ。だから、勝手に辞めるなよ」
「懲りねえやつだな、お前も」
「そこでさ、あの、えっと。昴――」
ひと呼吸の間を置いてから。
「僕の友達になってくれ!」
「はぁ!?」昴が素っ頓狂な声を上げる。
「そんなセリフ、よく堂々と言えるな。聞いてるこっちが恥ずかしいぜ」昴は片手で顔を覆いながら言う。
「僕もすごく恥ずかしい。けど、これはウソじゃない。本当の気持ちなんだ」そう言いながら、友仁は自分の顔が熱くなっているのを感じていた。
「まったく、どいつもこいつも」昴は大きなため息をついてから、席に戻ると「マスター、勘定はなしだ。かわりにバーボンを。銘柄はそうだな……〈ジェントル・ターキー〉を」と追加の注文をする。
「あれはスコッチですが、よろしいですか?」マスターが確認をとる。
「もはや、何でもいいさ」昴が力なく笑いながら答える。
〈ジェントル・ターキー〉が到着するなり、昴がグラスを友仁に向かって掲げる。
「もしかして乾杯しようとしてるの? でも一体何に対してさ?」
「友仁って名前だよ。今のお前さんにゃピッタリな名前じゃねえか」
グラス同士がぶつかりあって、小さく澄んだ音を立てる。
マスターが無言で二人の前に〈たまごボロロ♪〉を置く。
パッケージの絵の中、ニワトリの後ろで、ヒヨコが卵の割れ目から顔を覗かせていた。
事実は小説よりも奇なり、ね。
探偵事務所の椅子に腰かけ、デスクの上に置かれた「ジャック・ジョーンズの危険な夜」の表紙を撫でる。忍はこれまでの人生について、ぼんやり考えていた。
忍は器用で、何でもそつなくこなしてきた。友人もたくさんいたし、かなりモテた。
しかし、これといって打ち込める何かを持っておらず、物事に対する執着がなかった。だからなのか、たくさんの友人はできても深い仲にはほとんどならず、恋人もすぐにできるのだが、長くは続かなった。何かが欠けたような気持ちを持て余したまま漠然と生きてきた。
ところが、ある日、どうしても小説を書かなくてはいけないという思いに取り憑かれ、駆り立てられるように仕事を辞し、小説書きになった。自分の名前をアナグラムにしたペンネーム〈志波若信〉を名乗り、減り続ける貯金に頭を抱えながらも必死になって書いた。貯金が底を尽きて進退極まった頃、やっと賞をとった。だが、作品の売れ行きは芳しくなく、ファンレターなど一通も届かなかった。
ある日、ゴミ捨て場に自分の本が捨てられていたのを見かけ、あまりのショックに筆を折った。その後は生活のために探偵の仕事をはじめた。大学時代に探偵まがいの商売をしていた経験が影響していた。持ち前の器用さを活かして淡々と仕事をこなす日々は悪くはなかったが、大切な何かを失ったような気がしてならなかった。
しかし、〈リトル・ロマンス〉で昴に出会い、自分の書いた本を〈人生のバイブル〉とまで言ってくれる人がいたこと。それがウイスキー入りのグラスを落とすほどに嬉しかった。おまけに、その人は自分の大切な甥っ子の恩人になったのだ。
また、書いてみるか。
椅子からゆっくりと立ち上がった忍は、万年筆と辞書を探して戸棚を漁り始める。(了)
『フール・グルーヴ・ハードボイルド』 ナタリー爆川244歳 @amano_mitsuru
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