(小分け版)
第1話
なぜなら「ゆうじん」という名前なのに自分には「友人」が一人もおらず、名前負けしていたからだ。
オギャアとこの世に生まれ落ちてきてからの十八年間、友仁には恋人はおろか、友達の一人さえ出来ることはなかった。例えば、平気で人を傷つけたり裏切ったりするような人物であれば恋人や友人が出来ないのも不思議な話ではない。しかし、友仁としては、誰かを傷つけたり裏切ったりすることなく、真面目に過ごしてきたつもりだった。
ではなぜ、孤独だったか。たしかに、友仁は悪い人間ではなかったのだが、極めて地味だった。口下手なうえに消極的、趣味も特技もなく、ただひたすらに学校と家を往復するだけの無味乾燥な生活を送っていたので、非常に影が薄かった。はっきり言って面白みが一切無かったのである。それゆえ、誰からも友達になりたいと思えるほどの関心を持ってもらえなかったのだ。先生たちでさえ、友仁のことを忘れがちで、誤って修学旅行の途中に高速道路のサービスエリアで置き去りにされたこともあった。
そんなわけで「友人がいない」ということが、皆川友仁の人生における最大の悩みであった。
無論、友仁とて、ただ手をこまねいていたわけではなく、自分なりに頑張ってはいたのである。
例えば、中学校から高校に進学したときのことだ。自分に友達がいないのはあまりにも地味なせいだ、と考えた友仁は「ヤンキーには友達が多い」という中学時代に見つけた経験上の法則にしたがって、髪を少し脱色する、制服を着崩すなど、いわゆる〈やんちゃ風〉の格好で入学するという大胆な作戦を決行した。
しかし、すぐにクラスのボス的存在である生徒とその取り巻きたちに目を付けられてしまった。友仁は校舎裏に呼び出されて「調子のってんじゃねえぞ。あんまりイキってるとしばきまわすぞ」といった具合に散々脅迫されてしまい、その恐怖から、身なりを整えなおし、残りの高校生活を隠れるようにひっそりと孤独に過ごした。
そして、大学受験の折に「今度こそは灰色の生活から抜け出し、新たな自分に生まれ変わるのだ!」と決意した友仁は、俗に言う「大学デビュー」を目論んだのである。
進学先の大学は〈
学生数は二万人規模、世間では奇妙な大学として知られていた。
理由は二つある。一つは学内にマンション十五階分ほどの高さを誇る巨大な時計塔がそびえ立っていること、もう一つは理系文系間の偏差値の高低差が激しいことである。理工系の学部は非常に偏差値が高いのだが、文系の方はそうでもなく、むしろ低いくらいだった。だから、世間の人々はこの大学について語るとき「若蘭大学は賢いのかアホなのか? Fラン? Sラン? もうわからん」といったダサいラップの歌詞みたいなコメントをしてしまうのである。
言うまでもない、と言ったらと悲しいのだけれど友仁は文系の方で、しかも補欠合格だった。若蘭大学には入試に関わる特別な制度がある。それは学部ごとに入試の成績上位者の二名は学費が全額免除、というものである。友仁も学費免除で行けたらいいな、と頑張ったのだが遥かに学力が及ばなかった。
ともあれ、受験に無事合格した友仁は、大学での新しい生活に思いを馳せてばかりいた。
たくさんの友人たちとの楽しいサークル活動、飲み会、合コン、アルバイト……etc。
新天地でのキラキラした生活を想像するだけで、友仁は楽しみで夜も眠れなかった。
ところが、大学に入った友仁を待ち構えていたのは、残酷な現実であった。
入学式の次の日に〈新入生オリエンテーション〉なるイベントが執り行われた。このイベントは新入生への学校の説明会と歓迎会を兼ねたようなイベントで、プログラムの最後には、おやつやジュースなどが振る舞われる立食パーティーが行われた。このイベントで、友仁は頑張っていろんな人たちに声をかけて友達を作ろうとした。
が、結果は散々に終わった。なぜか同級生たちの間で、友人グループがすでに出来上がっており、そこでの会話に夢中で友仁には取り付く島もなかった。
これは一体どうしたのだと、友仁は同級生たちの会話の内容などから様子を探ってみたところ、あることがわかった。
なんと、周りの同級生たちは入学前からSNSを使って交友関係を持っており、SNS上で形成されたグループに所属していない人間には興味を示さなかったのである。相手は最初から〈見知らぬ人と友達になろう〉とは思っていないのだから、友仁の頑張りが功を奏さなかったのも無理はない。
〈大学に入る前から交友関係を持っていないと大学でも友達が出来ない、とは聞いていない。そんなのってないよ!〉
大学デビューの計画の出鼻をくじかれた友仁は家に帰るなり部屋に籠って、不貞腐れていた。幸いにも家は留守だった。もし両親が家にいたのなら、大学での様子を根掘り葉掘り聞かれて、困ってしまったに違いない。
〈こんなはずじゃなかった〉
理想と現実のギャップに打ちのめされて、友仁の頬に涙が伝う。
死んだように静かだった一人きりの部屋に、携帯電話の着信音が部屋に鳴り響いた。携帯のディスプレイには「
「もしもし、忍叔父さん?」友仁は涙を服の袖で拭いつつ電話に出た。皆川忍は友仁の父の弟、つまり友仁にとっては叔父に当たる人物である。
「久しぶりだな、友仁! 元気してるか?」電話越しに叔父の快活な声が聞こえてきた。
「ま、まあ……」まさか〈大学デビュー初日から大コケして部屋で一人泣いてました〉なんて言えないなと、友仁は曖昧な返事をした。
「どうした? なんか元気がねえみたいだが」
「いや、そんなことは」友仁は叔父に心配をかけまいと、慌ててはぐらかした。
「うーむ、そうか。ところでよ、友仁。オマエ晩飯食ったか?」
「いや、まだだけど」そういえば、何も食べずにふて寝していたな、と友仁は自分の腹をさする。
「じゃあ、今晩用事がないなら飯行こうぜ。奢ってやるぞ!」
「たしかに用事はないけど、奢りなんて悪いからいいよ」
「遠慮すんな! 甥っ子のくせに! じゃあ、場所はメールで送っとくから、後でな!」忍はそれだけ言い残して一方的に電話を切った。
「……まったく、強引なんだから。ていうか甥っ子のくせにって何?」
友仁は携帯を握りしめたまま、文句をたれる。それから、支度をして家を出た。
失意の中にあったにも関わらず、友仁が叔父の誘いに応じたのは、忍を非常に慕っていたからである。家によく遊びに来ていた忍に、友仁は小さい頃から可愛がってもらっていたのだ。
忍は友仁にとって良き相談相手でもあった。父や母には気恥ずかしくて言いだせないことも忍には相談した。忍はどんな内容であっても真剣に聞いてくれて、秘密にしておいてほしいと伝えれば誰にも言わないでくれた。兄弟のいない友仁にとって忍はよい兄貴分でもあったのだ。
そこで、友仁は大学で友達を作るにはどうすれば良いかを忍に相談をしようと思った。もしかすると、叔父さんならいいアイデアをくれるかもしれない、と考えたのである。
友仁は、忍が食事の場所に指定した「リトル・ロマンス」の扉を開けた。バーとレストランを兼ねたような店で、シックな趣味のインテリアで装飾され、静かにジャズが流れている店内は洒落た雰囲気に満ちていた。半地下になっているフロアへ階段を下っていく。
「叔父さん、久しぶり」友仁は忍に呼びかける。
「よう、友仁! デカくなりやがって、この野郎!」カウンター席に腰掛けていた忍は友仁の肩をパシッと叩いた。
「急に呼び出したりしてどうしたのさ?」
「すまんすまん、長い間かかってた仕事が終わったところで、なんだかお前さんに会いたくなってな!」忍は顔をクシャクシャにして笑う。
〈久しぶりに会ったけど、相変わらずカッコいいな、この人は〉叔父を見て、友仁はそう思った。
忍は非常に男前である。背も高いし、体型もスマートで、何を着てもファッション雑誌の写真のように見栄えする。元ホストです、と言っても通用するかもしれない。四十歳だが、とてもそうは見えず、二十代後半と言っても通用しそうなくらい若々しい。
ただ、少し遊び人のような気がある人物で、毎度違う恋人らしき人物を連れて家に遊びにくることもあったのだが、未だに結婚していない。忍が家に遊びに来ると「色男さんよ、結婚はまだなのかい?」と友仁の父が尋ねて「兄貴、いつも言ってるだろう。俺の仕事の都合上、結婚は難しいんだよ」と忍が返すのがお約束になっていた
友仁は〈結婚するのが難しい〉という忍の仕事が何なのか気になって、父に尋ねてみると「さあな、俺も詳しくは知らんが〈ITの仕事〉らしいぞ」と言われた。それ以来、友仁は「〈ITの仕事〉に就くと結婚するのが難しい」と思っている。
食事の後、忍はウイスキーをオン・ザ・ロックで、友仁はウーロン茶を注文し、歓談タイムに突入した。
友仁は早速、大学デビューについての相談を切り出した。忍に自身の大学デビューに対する熱意とオリエンテーションで遭遇した出来事の顛末を話した。自分の名前がコンプレックスになっていることも隠さずに言った。少し考えるような間を開けて、忍が口を開く。
「今の大学生は大変だな。俺のときは友達なんてすぐにできたもんだがな。百人ぐらいは余裕だったぜ」
「それホントの話? さすがに話を盛り過ぎじゃない?」
「いやいや、本当だとも。俺がお前にウソついたことがあるか?」
友仁は〈忍、友仁、ウソをつく〉というワードで自身の記憶に検索をかけたが〈該当件数:おそらくゼロ〉のアイコンが表示され、おそらくってなんだよいい加減だな、と自分で自分の思考にツッコミをいれた。
「友達百人か~。そんな歌があったよね」
「そうだな、もっとも日本一高い山の上でおにぎりを食ったりはしてねえけどな」
「僕もそれぐらい友達欲しいなあ……。 叔父さん、何かいい方法ない?」友仁はため息交じりにこぼす。
「おいおい、友達は人数がいれば良いってもんじゃねえぞ。大事なのはお互いに良き友でいられることだ。俺はたまたま百人ぐらい友達がいたってだけさ。たった一人だとしても、良い友達がいるならそれでいいんだぞ」
「たしかに人数は問題じゃないかもしれない。けど、一人もいないのはさすがにどうかと思うよ」
「とはいえ、友達を作る方法、って言われてもな……」忍を腕を組んで、目を閉じ、必死に知恵を絞りはじめる。
店の入り口のドアに取り付けたベルがカランコロンと音を立て開き、マスターが「いらっしゃいませ」と言った。友仁は入り口に目を向ける。くすんだベージュ色のヨレヨレのトレンチコートを着て、しなびたハットを目深に被っている、まるで映画に出てくる探偵みたいな恰好をしている客が店に入ってきた。
〈探偵〉は階段を一段一段、ゆっくり下ってくる。友仁は怪しい雰囲気を感じ、どうか僕らの隣には来ませんように、と祈ったが願いは叶わず、友仁の隣の席に腰掛ける。
友仁は助けを求めるように忍へ視線を送ったが、忍は友達作りの知恵を出すのに集中し過ぎていてまるで気付いていない。
友仁は自分の勘違いだったらいいのにな、と思いながら、確認するように隣の席をもう一度見る。
友仁は階段の下から見上げていたので気づかなかったのだが〈探偵〉は友仁より頭一つ分ほど背が低かった。友仁も決して身長が高いわけではないが、座っていてもその差は歴然としていた。
ダンディな格好と子供のような背丈とのギャップがシュールだなあ、と友仁は急におかしくなってきて、笑いそうになった。が、探偵の顔にナイフで切られたような大きな傷跡があるのを見つけて血の気が引いた。やっぱり、アウトローな人なのかな、と思って。
「いらっしゃいませ、何にしますか?」バーのマスターが探偵に尋ねた。
「バーボンをくれ」と〈探偵〉は答える。少年のように高いが凛々しい声だった。てっきり、どすの効いた低い声で注文をするだと思っていた友仁は驚く。
「あの、お客さん。恐縮なんですが、身分証をお持ちですかね。当店では警察からの指導で未成年にアルコールを出さない方針になってまして。年齢確認をさせていただけませんか」
「何? 身分証だとぉ?」
ヤバい! 法律だから仕方ないことだけど、子どもに見られているんじゃないかって、この人は気分を害して暴れ出すんじゃないか、と思って友仁は、ヒヤヒヤしてきた。コートの内側に手を入れた〈探偵〉が凶器でも出したらどうしようと、気が気でなかった。
「ほらよ、これでいいかい?」
〈探偵〉は懐から免許証のようなものを取り出してマスターに見せた。
「はい、ご協力ありがとうございます」マスターがそう言ったのを聞いて、友仁は胸をなでおろす。
「おや? お客さん、今日がお誕生日でございますか? おめでとうございます!」
「そうだぜ、ありがとよ」
〈探偵〉は帽子を少し上にずらした。顔があらわになる。右頬と左目の部分に刃物で切られたような大きな傷跡がある。しかし、よく見るとくっきりした二重の瞼、蛾の触覚のような眉、小さくて尖った鼻、薄い唇、シャープな顎と、なかなか端正な顔立ちをしているじゃないか、と友仁は思う。
「こちら、お誕生日の方にプレゼントでございます」と言って、マスターは〈探偵〉に袋に入った焼き菓子を差し出した。パッケージには〈たまごボロロ♪〉と、楽しそうなフォントの文字がおどり、ポップな絵柄でニワトリの絵が描いてある。手に取った〈探偵〉は苦笑いしている。
「なあ、一つ確認したいんだが……ここはバーだよな?」
「ええ、当店はバーでございます。しかしながら、このお菓子については懐かしい、と皆さんにご好評を頂いております」
「そうか……ところでバーボンを注文したいんだが」探偵は少し顔を引きつらせている。
「バーボンは色々置いてますが、どうします?」
「そりゃあ、もう『ジョニーランナー』さ。あれこそはバーボンの中のバーボンだ」探偵は気取った態度で答えた。
「かしこまりました。ところで、お客さんはバーボンをご希望ですよね? 『ジョニーランナー』はバーボンではなく、スコッチなんですが……それでもいいですか?」
「……じゃあ、おすすめのやつにしてくれ。飲み方はロックで頼む」
探偵は恥ずかしそうに、顔を真っ赤にしてふるふるしていた。それから、舌打ちをして、コートのポケットからタバコを取り出し一本咥える。そして、ゴソゴソとポケットを探り、あれ、ライターどこだ? と慌てふためいている。怖いのかおバカなのかわからないが何がしたいのだ、この人は、と友仁はモヤモヤした気分になってきた。
「そういえば、さっきからちょこちょこ視界に入ってるんだが、隣の彼、なんか散々だな。見てられねえよ、友仁、俺のライターを使っていいから、彼に火を貸してやったらどうだ?」と忍が友仁に提案する。
「やだよ。なんか変な人だもん!」
「大丈夫だって。見てくれは〈アレ〉だが悪い奴じゃなさそうだし、お前も友達欲しいって言ってただろう」
でもさ、と友仁は忍の提案を渋って受けようとしない。
「ケチケチ言わずに助けてやれよ。彼はバーで渋くキメようとしてんのに、ファンシーなおやつをプレゼントされ、年齢確認をされ、酒の種類を間違え、今度はライターを無くす。これはピンチそのものだ。しかぁーし、隣の席には友達が欲しくて仕方ない奴が座っていて、ライターも持っている。これは運命の出会いだぞ。やったな、今日は友達記念日だ!」
「それは運命じゃなくてこじつけっていうんじゃないの? それに酒を頼めるってことは僕より年上じゃないか。僕は同年代の友人が欲しいんだよ」
「あーもう! グダグダ言ってねえで行って来い! 困ったときはなんとかしてやるから!」
忍の激しいプッシュに根負けして、友仁は恐る恐る隣の探偵に声をかける。
「あの、すみません。火、お貸ししましょうか?」
「おや、どうも」
探偵が快諾したので、友仁は探偵のタバコに火をつけてあげようとしたのだが、火がつけられなかった。なにせライターを触るのは初めてであり、火打ち石の部分を回そうとしても指がツルツル滑ってしまうのである。
「貸してみな」と探偵が手を差し出す。すみません、と友仁はライターを探偵に手渡しながら、火をつけるのは意外と難しいんだなと知った。
探偵の指はフランクフルトのように太く、友仁よりも遥かにたくましい。その指を使って、ライターに火を一発で灯した。
「やっぱタバコは美味……ゲヘッ、ゴホッ、オホン!」
探偵はタバコに火をつけるや否や、急にむせた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、これはだな……ガハッ!」
探偵は、まだつけたばかりのタバコを灰皿でもみ消した。目には涙がにじんでいる。せき込むくらいならタバコ吸わなきゃいいのに、と友仁は思う。
「まあ、タバコはあとだ。火ぃありがとな。それより、お返しといっちゃあなんだが、今度は俺が火をつけさせてもらう。タバコ出しなよ」探偵は友仁にライターを差し出す。
「いや、僕は大丈夫です」
「遠慮すんなって。もし切らしてるなら一本やるぜ」
「未成年なんですよ」
「そうか、ならしゃあねえ……あれ? じゃあなんでライター持ってんだ? アンタ、タバコ吸わねえんだろ?」
「これは、隣に座ってる僕の叔父さんのライターです」
「なるほど、そういうことか。しかし、よく見知らぬやつに火を貸そうと思ったな」
「あなたが困ってたみたいなんで」友仁が照れながら答える。探偵はそんな友仁の顔をまじまじ見てからこう言った。
「あんた、いい奴だな。名前は?」
「み、皆川友仁です」「友仁、か。いい名前じゃないか」
その瞬間、友仁の胸中に灰色の日々が蘇った。蚊帳の外から眺めていた同級生たちのじゃれ合い、一人きりの帰り道、修学旅行の班分けにあぶれた者の配分を決めるジャンケン、真っ白な卒業アルバムの寄せ書き欄、といったものが胸を渦巻いて友仁の心をズタズタにした。
「やめてくださいよ! 僕は自分の名前が嫌いなんです!」しまった、と友仁は自分の行いを悔いたが吐いた言葉はもとに戻せない。マスターが心配そうに友仁を見つめる。
「どうしてだよ。いい名前じゃねえか」
探偵は困ったような表情になって理由を問うが、友仁は何も答えない。二人の間に気まずい空気が漂い出す。
「ちょっと、失礼するぜ」と、忍が探偵の横に移動してきて、友仁と忍で探偵の両側を挟むような席順になった。
「うちの甥っ子がすまないことをした。今、なんかムスッとしてるけど気にしないでくれ。友仁のやつに火を貸すように言ったのは俺なんだ」と忍が探偵に謝罪した。
「それなら全然構わねえっすよ。ただ、友仁って名前、俺はいいと思ったんで」と、探偵は慌てながら言った。
「俺もいい名前だと思ってんだが、本人はどうもね……。迷惑かけたお詫びに一杯おごるよ。俺は皆川忍ってんだが、あなたのお名前は?」
「
昴の注文した酒が到着してから、三人で乾杯をしてポツポツと会話が始まる。
「ところで、友仁って言ったな。お前さん、なんで自分の名前が嫌いなんだ?」昴が尋ねる。
友仁は答えたくなったが、忍に場を執り成してもらった手前、言わないわけにはいかないと思って渋々と口を開く。
「それは……。なんていうか、その。僕には友達がいないから、名前負けしてるみたいでそれがすごく嫌で……」とごにょごにょと答える。
「ところで、昴くん。なかなか渋い恰好してるじゃないか」友仁の様子を見かねた忍が素早く話題を変えた。
「あ、わかります? いいでしょ、これ。なんつうか〈ハードボイルド〉みてえなのに憧れてまして」昴は嬉しそうに答えた。
「ハードボイルドって?」友仁は昴に尋ねる。
「そうだな、人生の渋みというか、強さを持った姿というか……」
上手く説明できない昴に変わって、忍が答える。
「ざっくり説明してやろう。もともとはドライな態度で物事を描こうとする文学の傾向を表すのに使う言葉だったらしいが、世間ではクールで渋い雰囲気を指して使われることもあるみたいだな、彼が目指してるのは後者のほうだろ。ちなみに直訳すると〈固茹で〉という意味合いになる。卵の茹で加減のことな」
「へえ、はじめて聞いた。叔父さん詳しいね」
「昔、どっかで聞いただけさ」忍はそっけなく言った。
「俺もきっかけは小説なんすよ。〈
「おわっ!」忍がグラスを倒して、卓上にウイスキーが広がっていく。
「おじさん、大丈夫? すみません店員さん、雑巾ください」と、友仁が頼むとマスターが素早く布巾を持ってくる。
「すまん。テーブル以外は大丈夫だ。俺、だいぶ酔ってるな」忍は笑いながらテーブルを拭きつつ「で、何の話だっけ?」と続きを促した。
「ジャック・ジョーンズですよ。昔、友達にもらって読んだんですけど、あの本すげえ好きなんですよ。主人公のジャックがめちゃくちゃ渋くてカッコいいんですよ。酒とタバコと危険が似合う男、って感じで」
「俺もあの本はなかなか気にいってたんだ。でも、あんまり売れてなかったらしいな」
「ヒデエ話っすね、俺にとってはバイブルなのに! こうしてバーで酒を飲んでるのも、主人公のジャックに憧れてるからなんですよ! でも、可愛い菓子を出されるわ、バーボンのかわりに間違ってスコッチ頼んじまうわで、ちっともジャックみたいになれねえ……この世の中は狂ってやがる!」
昴はヤケを起こしたようにグラスを一気に開け、おかわりを注文した。
友仁は〈別に世の中は関係ないのでは?〉と思ったが、口に出すのはマズイと思って言葉を飲み込んだ。
昴が席を立ち「ちょっと、手洗いだあ」と言ってフラフラと席を立ち、トイレに入っていった。すると、キャーッ、と悲鳴が店内に響いた。友仁は何事かとトイレの方面を見る。
「おわっ! 違う、待て! 誤解だって!」昴の慌てた声が聞こえてくる。
「昴くーん、女子トイレ入ったの~?。酔ってるからって間違ったらダメじゃないか~。ハハハ!」忍が大きな声で笑いながら言うのを聞きながら友仁は、今夜はホントに散々だな、と昴を少し哀れに思った。
そんなこんなで夜は更け、時刻は深夜二時をまわり、一行は店を出た。
昴と忍は泥酔しており、もう一軒行っときますか! と、はしゃいでいるが友仁は次の日に授業があったため、二人と別れて先に変えることにした。
静かな夜道を歩きながら友仁は「やっぱり僕には友達なんかできやしないんだろうな」と思った。今夜だって、結局のところ忍と昴の二人は盛り上がっていたが、自分はちっとも気分が乗らなかったのだ。忍のいう〈喫煙所やバーで友達を作る〉というのは社交的な人間だからできるのであって、自分のような、初対面の人に怒鳴ったりしてしまう〈コミュニケーション能力ゼロ〉の人間には到底できる気がしない。そう思うと、気持ちが夜の闇の中でどんどんと沈んでいく。
僕なんか、どうせ。
と、思ったとき友仁の頭にあるアイデアが閃いた。(続く)
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