『フール・グルーヴ・ハードボイルド』
ナタリー爆川244歳
(一気読み版)
第1話
なぜなら「ゆうじん」という名前なのに自分には「友人」が一人もおらず、名前負けしていたからだ。
オギャアとこの世に生まれ落ちてきてからの十八年間、友仁には恋人はおろか、友達の一人さえ出来ることはなかった。例えば、平気で人を傷つけたり裏切ったりするような人物であれば恋人や友人が出来ないのも不思議な話ではない。しかし、友仁としては、誰かを傷つけたり裏切ったりすることなく、真面目に過ごしてきたつもりだった。
ではなぜ、孤独だったか。たしかに、友仁は悪い人間ではなかったのだが、極めて地味だった。口下手なうえに消極的、趣味も特技もなく、ただひたすらに学校と家を往復するだけの無味乾燥な生活を送っていたので、非常に影が薄かった。はっきり言って面白みが一切無かったのである。それゆえ、誰からも友達になりたいと思えるほどの関心を持ってもらえなかったのだ。先生たちでさえ、友仁のことを忘れがちで、誤って修学旅行の途中に高速道路のサービスエリアで置き去りにされたこともあった。
そんなわけで「友人がいない」ということが、皆川友仁の人生における最大の悩みであった。
無論、友仁とて、ただ手をこまねいていたわけではなく、自分なりに頑張ってはいたのである。
例えば、中学校から高校に進学したときのことだ。自分に友達がいないのはあまりにも地味なせいだ、と考えた友仁は「ヤンキーには友達が多い」という中学時代に見つけた経験上の法則にしたがって、髪を少し脱色する、制服を着崩すなど、いわゆる〈やんちゃ風〉の格好で入学するという大胆な作戦を決行した。
しかし、すぐにクラスのボス的存在である生徒とその取り巻きたちに目を付けられてしまった。友仁は校舎裏に呼び出されて「調子のってんじゃねえぞ。あんまりイキってるとしばきまわすぞ」といった具合に散々脅迫されてしまい、その恐怖から、身なりを整えなおし、残りの高校生活を隠れるようにひっそりと孤独に過ごした。
そして、大学受験の折に「今度こそは灰色の生活から抜け出し、新たな自分に生まれ変わるのだ!」と決意した友仁は、俗に言う「大学デビュー」を目論んだのである。
進学先の大学は〈
学生数は二万人規模、世間では奇妙な大学として知られていた。
理由は二つある。一つは学内にマンション十五階分ほどの高さを誇る巨大な時計塔がそびえ立っていること、もう一つは理系文系間の偏差値の高低差が激しいことである。理工系の学部は非常に偏差値が高いのだが、文系の方はそうでもなく、むしろ低いくらいだった。だから、世間の人々はこの大学について語るとき「若蘭大学は賢いのかアホなのか? Fラン? Sラン? もうわからん」といったダサいラップの歌詞みたいなコメントをしてしまうのである。
言うまでもない、と言ったらと悲しいのだけれど友仁は文系の方で、しかも補欠合格だった。若蘭大学には入試に関わる特別な制度がある。それは学部ごとに入試の成績上位者の二名は学費が全額免除、というものである。友仁も学費免除で行けたらいいな、と頑張ったのだが遥かに学力が及ばなかった。
ともあれ、受験に無事合格した友仁は、大学での新しい生活に思いを馳せてばかりいた。
たくさんの友人たちとの楽しいサークル活動、飲み会、合コン、アルバイト……etc。
新天地でのキラキラした生活を想像するだけで、友仁は楽しみで夜も眠れなかった。
ところが、大学に入った友仁を待ち構えていたのは、残酷な現実であった。
入学式の次の日に〈新入生オリエンテーション〉なるイベントが執り行われた。このイベントは新入生への学校の説明会と歓迎会を兼ねたようなイベントで、プログラムの最後には、おやつやジュースなどが振る舞われる立食パーティーが行われた。このイベントで、友仁は頑張っていろんな人たちに声をかけて友達を作ろうとした。
が、結果は散々に終わった。なぜか同級生たちの間で、友人グループがすでに出来上がっており、そこでの会話に夢中で友仁には取り付く島もなかった。
これは一体どうしたのだと、友仁は同級生たちの会話の内容などから様子を探ってみたところ、あることがわかった。
なんと、周りの同級生たちは入学前からSNSを使って交友関係を持っており、SNS上で形成されたグループに所属していない人間には興味を示さなかったのである。相手は最初から〈見知らぬ人と友達になろう〉とは思っていないのだから、友仁の頑張りが功を奏さなかったのも無理はない。
〈大学に入る前から交友関係を持っていないと大学でも友達が出来ない、とは聞いていない。そんなのってないよ!〉
大学デビューの計画の出鼻をくじかれた友仁は家に帰るなり部屋に籠って、不貞腐れていた。幸いにも家は留守だった。もし両親が家にいたのなら、大学での様子を根掘り葉掘り聞かれて、困ってしまったに違いない。
〈こんなはずじゃなかった〉
理想と現実のギャップに打ちのめされて、友仁の頬に涙が伝う。
死んだように静かだった一人きりの部屋に、携帯電話の着信音が部屋に鳴り響いた。携帯のディスプレイには「
「もしもし、忍叔父さん?」友仁は涙を服の袖で拭いつつ電話に出た。皆川忍は友仁の父の弟、つまり友仁にとっては叔父に当たる人物である。
「久しぶりだな、友仁! 元気してるか?」電話越しに叔父の快活な声が聞こえてきた。
「ま、まあ……」まさか〈大学デビュー初日から大コケして部屋で一人泣いてました〉なんて言えないなと、友仁は曖昧な返事をした。
「どうした? なんか元気がねえみたいだが」
「いや、そんなことは」友仁は叔父に心配をかけまいと、慌ててはぐらかした。
「うーむ、そうか。ところでよ、友仁。オマエ晩飯食ったか?」
「いや、まだだけど」そういえば、何も食べずにふて寝していたな、と友仁は自分の腹をさする。
「じゃあ、今晩用事がないなら飯行こうぜ。奢ってやるぞ!」
「たしかに用事はないけど、奢りなんて悪いからいいよ」
「遠慮すんな! 甥っ子のくせに! じゃあ、場所はメールで送っとくから、後でな!」忍はそれだけ言い残して一方的に電話を切った。
「……まったく、強引なんだから。ていうか甥っ子のくせにって何?」
友仁は携帯を握りしめたまま、文句をたれる。それから、支度をして家を出た。
失意の中にあったにも関わらず、友仁が叔父の誘いに応じたのは、忍を非常に慕っていたからである。家によく遊びに来ていた忍に、友仁は小さい頃から可愛がってもらっていたのだ。
忍は友仁にとって良き相談相手でもあった。父や母には気恥ずかしくて言いだせないことも忍には相談した。忍はどんな内容であっても真剣に聞いてくれて、秘密にしておいてほしいと伝えれば誰にも言わないでくれた。兄弟のいない友仁にとって忍はよい兄貴分でもあったのだ。
そこで、友仁は大学で友達を作るにはどうすれば良いかを忍に相談をしようと思った。もしかすると、叔父さんならいいアイデアをくれるかもしれない、と考えたのである。
友仁は、忍が食事の場所に指定した「リトル・ロマンス」の扉を開けた。バーとレストランを兼ねたような店で、シックな趣味のインテリアで装飾され、静かにジャズが流れている店内は洒落た雰囲気に満ちていた。半地下になっているフロアへ階段を下っていく。
「叔父さん、久しぶり」友仁は忍に呼びかける。
「よう、友仁! デカくなりやがって、この野郎!」カウンター席に腰掛けていた忍は友仁の肩をパシッと叩いた。
「急に呼び出したりしてどうしたのさ?」
「すまんすまん、長い間かかってた仕事が終わったところで、なんだかお前さんに会いたくなってな!」忍は顔をクシャクシャにして笑う。
〈久しぶりに会ったけど、相変わらずカッコいいな、この人は〉叔父を見て、友仁はそう思った。
忍は非常に男前である。背も高いし、体型もスマートで、何を着てもファッション雑誌の写真のように見栄えする。元ホストです、と言っても通用するかもしれない。四十歳だが、とてもそうは見えず、二十代後半と言っても通用しそうなくらい若々しい。
ただ、少し遊び人のような気がある人物で、毎度違う恋人らしき人物を連れて家に遊びにくることもあったのだが、未だに結婚していない。忍が家に遊びに来ると「色男さんよ、結婚はまだなのかい?」と友仁の父が尋ねて「兄貴、いつも言ってるだろう。俺の仕事の都合上、結婚は難しいんだよ」と忍が返すのがお約束になっていた
友仁は〈結婚するのが難しい〉という忍の仕事が何なのか気になって、父に尋ねてみると「さあな、俺も詳しくは知らんが〈ITの仕事〉らしいぞ」と言われた。それ以来、友仁は「〈ITの仕事〉に就くと結婚するのが難しい」と思っている。
食事の後、忍はウイスキーをオン・ザ・ロックで、友仁はウーロン茶を注文し、歓談タイムに突入した。
友仁は早速、大学デビューについての相談を切り出した。忍に自身の大学デビューに対する熱意とオリエンテーションで遭遇した出来事の顛末を話した。自分の名前がコンプレックスになっていることも隠さずに言った。少し考えるような間を開けて、忍が口を開く。
「今の大学生は大変だな。俺のときは友達なんてすぐにできたもんだがな。百人ぐらいは余裕だったぜ」
「それホントの話? さすがに話を盛り過ぎじゃない?」
「いやいや、本当だとも。俺がお前にウソついたことがあるか?」
友仁は〈忍、友仁、ウソをつく〉というワードで自身の記憶に検索をかけたが〈該当件数:おそらくゼロ〉のアイコンが表示され、おそらくってなんだよいい加減だな、と自分で自分の思考にツッコミをいれた。
「友達百人か~。そんな歌があったよね」
「そうだな、もっとも日本一高い山の上でおにぎりを食ったりはしてねえけどな」
「僕もそれぐらい友達欲しいなあ……。 叔父さん、何かいい方法ない?」友仁はため息交じりにこぼす。
「おいおい、友達は人数がいれば良いってもんじゃねえぞ。大事なのはお互いに良き友でいられることだ。俺はたまたま百人ぐらい友達がいたってだけさ。たった一人だとしても、良い友達がいるならそれでいいんだぞ」
「たしかに人数は問題じゃないかもしれない。けど、一人もいないのはさすがにどうかと思うよ」
「とはいえ、友達を作る方法、って言われてもな……」忍を腕を組んで、目を閉じ、必死に知恵を絞りはじめる。
店の入り口のドアに取り付けたベルがカランコロンと音を立て開き、マスターが「いらっしゃいませ」と言った。友仁は入り口に目を向ける。くすんだベージュ色のヨレヨレのトレンチコートを着て、しなびたハットを目深に被っている、まるで映画に出てくる探偵みたいな恰好をしている客が店に入ってきた。
〈探偵〉は階段を一段一段、ゆっくり下ってくる。友仁は怪しい雰囲気を感じ、どうか僕らの隣には来ませんように、と祈ったが願いは叶わず、友仁の隣の席に腰掛ける。
友仁は助けを求めるように忍へ視線を送ったが、忍は友達作りの知恵を出すのに集中し過ぎていてまるで気付いていない。
友仁は自分の勘違いだったらいいのにな、と思いながら、確認するように隣の席をもう一度見る。
友仁は階段の下から見上げていたので気づかなかったのだが〈探偵〉は友仁より頭一つ分ほど背が低かった。友仁も決して身長が高いわけではないが、座っていてもその差は歴然としていた。
ダンディな格好と子供のような背丈とのギャップがシュールだなあ、と友仁は急におかしくなってきて、笑いそうになった。が、探偵の顔にナイフで切られたような大きな傷跡があるのを見つけて血の気が引いた。やっぱり、アウトローな人なのかな、と思って。
「いらっしゃいませ、何にしますか?」バーのマスターが探偵に尋ねた。
「バーボンをくれ」と〈探偵〉は答える。少年のように高いが凛々しい声だった。てっきり、どすの効いた低い声で注文をするだと思っていた友仁は驚く。
「あの、お客さん。恐縮なんですが、身分証をお持ちですかね。当店では警察からの指導で未成年にアルコールを出さない方針になってまして。年齢確認をさせていただけませんか」
「何? 身分証だとぉ?」
ヤバい! 法律だから仕方ないことだけど、子どもに見られているんじゃないかって、この人は気分を害して暴れ出すんじゃないか、と思って友仁は、ヒヤヒヤしてきた。コートの内側に手を入れた〈探偵〉が凶器でも出したらどうしようと、気が気でなかった。
「ほらよ、これでいいかい?」
〈探偵〉は懐から免許証のようなものを取り出してマスターに見せた。
「はい、ご協力ありがとうございます」マスターがそう言ったのを聞いて、友仁は胸をなでおろす。
「おや? お客さん、今日がお誕生日でございますか? おめでとうございます!」
「そうだぜ、ありがとよ」
〈探偵〉は帽子を少し上にずらした。顔があらわになる。右頬と左目の部分に刃物で切られたような大きな傷跡がある。しかし、よく見るとくっきりした二重の瞼、蛾の触覚のような眉、小さくて尖った鼻、薄い唇、シャープな顎と、なかなか端正な顔立ちをしているじゃないか、と友仁は思う。
「こちら、お誕生日の方にプレゼントでございます」と言って、マスターは〈探偵〉に袋に入った焼き菓子を差し出した。パッケージには〈たまごボロロ♪〉と、楽しそうなフォントの文字がおどり、ポップな絵柄でニワトリの絵が描いてある。手に取った〈探偵〉は苦笑いしている。
「なあ、一つ確認したいんだが……ここはバーだよな?」
「ええ、当店はバーでございます。しかしながら、このお菓子については懐かしい、と皆さんにご好評を頂いております」
「そうか……ところでバーボンを注文したいんだが」探偵は少し顔を引きつらせている。
「バーボンは色々置いてますが、どうします?」
「そりゃあ、もう『ジョニーランナー』さ。あれこそはバーボンの中のバーボンだ」探偵は気取った態度で答えた。
「かしこまりました。ところで、お客さんはバーボンをご希望ですよね? 『ジョニーランナー』はバーボンではなく、スコッチなんですが……それでもいいですか?」
「……じゃあ、おすすめのやつにしてくれ。飲み方はロックで頼む」
探偵は恥ずかしそうに、顔を真っ赤にしてふるふるしていた。それから、舌打ちをして、コートのポケットからタバコを取り出し一本咥える。そして、ゴソゴソとポケットを探り、あれ、ライターどこだ? と慌てふためいている。怖いのかおバカなのかわからないが何がしたいのだ、この人は、と友仁はモヤモヤした気分になってきた。
「そういえば、さっきからちょこちょこ視界に入ってるんだが、隣の彼、なんか散々だな。見てられねえよ、友仁、俺のライターを使っていいから、彼に火を貸してやったらどうだ?」と忍が友仁に提案する。
「やだよ。なんか変な人だもん!」
「大丈夫だって。見てくれは〈アレ〉だが悪い奴じゃなさそうだし、お前も友達欲しいって言ってただろう」
でもさ、と友仁は忍の提案を渋って受けようとしない。
「ケチケチ言わずに助けてやれよ。彼はバーで渋くキメようとしてんのに、ファンシーなおやつをプレゼントされ、年齢確認をされ、酒の種類を間違え、今度はライターを無くす。これはピンチそのものだ。しかぁーし、隣の席には友達が欲しくて仕方ない奴が座っていて、ライターも持っている。これは運命の出会いだぞ。やったな、今日は友達記念日だ!」
「それは運命じゃなくてこじつけっていうんじゃないの? それに酒を頼めるってことは僕より年上じゃないか。僕は同年代の友人が欲しいんだよ」
「あーもう! グダグダ言ってねえで行って来い! 困ったときはなんとかしてやるから!」
忍の激しいプッシュに根負けして、友仁は恐る恐る隣の探偵に声をかける。
「あの、すみません。火、お貸ししましょうか?」
「おや、どうも」
探偵が快諾したので、友仁は探偵のタバコに火をつけてあげようとしたのだが、火がつけられなかった。なにせライターを触るのは初めてであり、火打ち石の部分を回そうとしても指がツルツル滑ってしまうのである。
「貸してみな」と探偵が手を差し出す。すみません、と友仁はライターを探偵に手渡しながら、火をつけるのは意外と難しいんだなと知った。
探偵の指はフランクフルトのように太く、友仁よりも遥かにたくましい。その指を使って、ライターに火を一発で灯した。
「やっぱタバコは美味……ゲヘッ、ゴホッ、オホン!」
探偵はタバコに火をつけるや否や、急にむせた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、これはだな……ガハッ!」
探偵は、まだつけたばかりのタバコを灰皿でもみ消した。目には涙がにじんでいる。せき込むくらいならタバコ吸わなきゃいいのに、と友仁は思う。
「まあ、タバコはあとだ。火ぃありがとな。それより、お返しといっちゃあなんだが、今度は俺が火をつけさせてもらう。タバコ出しなよ」探偵は友仁にライターを差し出す。
「いや、僕は大丈夫です」
「遠慮すんなって。もし切らしてるなら一本やるぜ」
「未成年なんですよ」
「そうか、ならしゃあねえ……あれ? じゃあなんでライター持ってんだ? アンタ、タバコ吸わねえんだろ?」
「これは、隣に座ってる僕の叔父さんのライターです」
「なるほど、そういうことか。しかし、よく見知らぬやつに火を貸そうと思ったな」
「あなたが困ってたみたいなんで」友仁が照れながら答える。探偵はそんな友仁の顔をまじまじ見てからこう言った。
「あんた、いい奴だな。名前は?」
「み、皆川友仁です」「友仁、か。いい名前じゃないか」
その瞬間、友仁の胸中に灰色の日々が蘇った。蚊帳の外から眺めていた同級生たちのじゃれ合い、一人きりの帰り道、修学旅行の班分けにあぶれた者の配分を決めるジャンケン、真っ白な卒業アルバムの寄せ書き欄、といったものが胸を渦巻いて友仁の心をズタズタにした。
「やめてくださいよ! 僕は自分の名前が嫌いなんです!」しまった、と友仁は自分の行いを悔いたが吐いた言葉はもとに戻せない。マスターが心配そうに友仁を見つめる。
「どうしてだよ。いい名前じゃねえか」
探偵は困ったような表情になって理由を問うが、友仁は何も答えない。二人の間に気まずい空気が漂い出す。
「ちょっと、失礼するぜ」と、忍が探偵の横に移動してきて、友仁と忍で探偵の両側を挟むような席順になった。
「うちの甥っ子がすまないことをした。今、なんかムスッとしてるけど気にしないでくれ。友仁のやつに火を貸すように言ったのは俺なんだ」と忍が探偵に謝罪した。
「それなら全然構わねえっすよ。ただ、友仁って名前、俺はいいと思ったんで」と、探偵は慌てながら言った。
「俺もいい名前だと思ってんだが、本人はどうもね……。迷惑かけたお詫びに一杯おごるよ。俺は皆川忍ってんだが、あなたのお名前は?」
「
昴の注文した酒が到着してから、三人で乾杯をしてポツポツと会話が始まる。
「ところで、友仁って言ったな。お前さん、なんで自分の名前が嫌いなんだ?」昴が尋ねる。
友仁は答えたくなったが、忍に場を執り成してもらった手前、言わないわけにはいかないと思って渋々と口を開く。
「それは……。なんていうか、その。僕には友達がいないから、名前負けしてるみたいでそれがすごく嫌で……」とごにょごにょと答える。
「ところで、昴くん。なかなか渋い恰好してるじゃないか」友仁の様子を見かねた忍が素早く話題を変えた。
「あ、わかります? いいでしょ、これ。なんつうか〈ハードボイルド〉みてえなのに憧れてまして」昴は嬉しそうに答えた。
「ハードボイルドって?」友仁は昴に尋ねる。
「そうだな、人生の渋みというか、強さを持った姿というか……」
上手く説明できない昴に変わって、忍が答える。
「ざっくり説明してやろう。もともとはドライな態度で物事を描こうとする文学の傾向を表すのに使う言葉だったらしいが、世間ではクールで渋い雰囲気を指して使われることもあるみたいだな、彼が目指してるのは後者のほうだろ。ちなみに直訳すると〈固茹で〉という意味合いになる。卵の茹で加減のことな」
「へえ、はじめて聞いた。叔父さん詳しいね」
「昔、どっかで聞いただけさ」忍はそっけなく言った。
「俺もきっかけは小説なんすよ。〈
「おわっ!」忍がグラスを倒して、卓上にウイスキーが広がっていく。
「おじさん、大丈夫? すみません店員さん、雑巾ください」と、友仁が頼むとマスターが素早く布巾を持ってくる。
「すまん。テーブル以外は大丈夫だ。俺、だいぶ酔ってるな」忍は笑いながらテーブルを拭きつつ「で、何の話だっけ?」と続きを促した。
「ジャック・ジョーンズですよ。昔、友達にもらって読んだんですけど、あの本すげえ好きなんですよ。主人公のジャックがめちゃくちゃ渋くてカッコいいんですよ。酒とタバコと危険が似合う男、って感じで」
「俺もあの本はなかなか気にいってたんだ。でも、あんまり売れてなかったらしいな」
「ヒデエ話っすね、俺にとってはバイブルなのに! こうしてバーで酒を飲んでるのも、主人公のジャックに憧れてるからなんですよ! でも、可愛い菓子を出されるわ、バーボンのかわりに間違ってスコッチ頼んじまうわで、ちっともジャックみたいになれねえ……この世の中は狂ってやがる!」
昴はヤケを起こしたようにグラスを一気に開け、おかわりを注文した。
友仁は〈別に世の中は関係ないのでは?〉と思ったが、口に出すのはマズイと思って言葉を飲み込んだ。
昴が席を立ち「ちょっと、手洗いだあ」と言ってフラフラと席を立ち、トイレに入っていった。すると、キャーッ、と悲鳴が店内に響いた。友仁は何事かとトイレの方面を見る。
「おわっ! 違う、待て! 誤解だって!」昴の慌てた声が聞こえてくる。
「昴くーん、女子トイレ入ったの~?。酔ってるからって間違ったらダメじゃないか~。ハハハ!」忍が大きな声で笑いながら言うのを聞きながら友仁は、今夜はホントに散々だな、と昴を少し哀れに思った。
そんなこんなで夜は更け、時刻は深夜二時をまわり、一行は店を出た。
昴と忍は泥酔しており、もう一軒行っときますか! と、はしゃいでいるが友仁は次の日に授業があったため、二人と別れて先に変えることにした。
静かな夜道を歩きながら友仁は「やっぱり僕には友達なんかできやしないんだろうな」と思った。今夜だって、結局のところ忍と昴の二人は盛り上がっていたが、自分はちっとも気分が乗らなかったのだ。忍のいう〈喫煙所やバーで友達を作る〉というのは社交的な人間だからできるのであって、自分のような、初対面の人に怒鳴ったりしてしまう〈コミュニケーション能力ゼロ〉の人間には到底できる気がしない。そう思うと、気持ちが夜の闇の中でどんどんと沈んでいく。
僕なんか、どうせ。
と、思ったとき友仁の頭にあるアイデアが閃いた。
友仁は完全に寝不足であった。バーからの帰り道にひらめいたことを形にするべく悪戦苦闘していると、いつの間にか徹夜をしてしまっていたからである。重い体を引きずりながら、遅刻寸前で教室に入り、席につく。友仁が初めて大学で受ける授業は〈入門ゼミ〉という、専攻する学問の概要について学ぶ授業だった。大学の数ある授業のなかで唯一の、固定制かつ少人数で受講する特殊なスタイルの授業である。会場に使う教室は二十人くらいでいっぱいになるような小さい部屋だった。すでに後ろの席がほとんど埋まっており、友仁は必然的に空いていた前の席に座ることになった。
始業のベルが鳴るのと同時に入ってきたのは、穏やかそうな白髪の老教授だった。
先生はご入学おめでとうございます、と業務的に言ったあと、出席の確認も兼ねて、自己紹介をしてほしいと言った。それから、最初は誰にしましょうかねえ、とスーパーで買う商品を選ぶような調子で言いながら教室内を見回した。そして、友仁と先生の目が合った。
「では、君からお願いします」
はい! と友仁は元気よく返事をして、立ち上がる。
「皆さん、はじめまして。皆川友仁です。趣味は読書です。読む本は特にビジネス関係ですね。海外移住とか投資とか経営とかマネジメントとかめっちゃ興味あります。好きな言葉は〈一度きりの人生、自分らしく生きる〉です。ネットマーケティングの研究のために各種SNSやってます。以上です。ご静聴ありがとうございました」
友仁は席に付きながら、心の中でガッツポーズをした。
〈よし、原稿どおり言えた! 徹夜で考えた甲斐があったよ!〉
バーからの帰り道、友仁は思った。友達を作るにはすごいやつのふりをすればよいのだ、と。昴に名前のことを尋ねられただけで怒りだしてしまったのは、自分に自信がなく不安だったからである。言い方を変えると「友仁って名前の癖に友仁がいないのかよ」と言われてしまったときに、何も言い返せなくて悲しい思いをするのが嫌だったのである。この「自信のなさ」こそが灰色の日々の根幹である、と思った友仁は、家に帰るなり、徹夜で〈自分をすごい奴だと周囲に思わせるためのウソ〉の作成と暗記をして朝を迎えたのである。
先生や他の生徒たちの反応は薄かったのだが、友仁はそれにすら気づかないくらい悦に入っていて、表情は〈満足げ〉を通り越して〈ドヤ顔〉と化していた。
教室のドアが開かれて、誰かが入ってきた。
「遅れてすみません……受講生の藤枝昴です」
友仁は席から転げ落ちそうになった。あまりにも想定外な人物の登場に、パニックを起こしそうになる。
〈なんで昴がここに!?〉
友仁考案の〈ウソをつく作戦〉は周囲にいるのが自分を知らない人間だけのときに成立するものであり、自分の真実を知っている昴がいるのはかなりの不都合だった。授業が終わってからキツく口止めをせねばなるまいと思いながら、現状は昴が余計なことを口にしないよう祈るしかできず、胃が溶けそうになりながら授業の終わりを待った。先ほどまでの〈ドヤ顔〉はすっかり〈デスマスク〉に変貌していた。
終業のチャイムが鳴るとともに、友仁は即座に席を立ち、昴の首根っこを捕まえて教室の外へ連れ出す。そして、大きな校舎の影で薄暗く、うらぶれた雰囲気が漂っている場所までやってきた。
「なあ? なあ? 何も言ってないよな? 頼む、〈言ってない〉って言ってくれよ! お願いだから!」
友仁は顔を真っ青にして、昴の肩を揺さぶりながら問い詰める。
「何の話だよ。そもそも質問してんのかお願いしてんのかどっちなんだ。つーか、揺さぶるのやめてくれ……」昴が真っ青な顔で懇願する。
「吐け! いいから、吐けよ!」
昴はオロロロロロロ、と吐いた。
「汚っえ! 何吐いてんだこの人!」友仁はすんでのところで吐瀉物をかわしたあたりには異臭が漂っている。
「お前が吐け、つったんだろうが! 俺は揺さぶるのやめろって言ったろ、こちとら二日酔いでまだ気持ち悪いんだよ!」昴が口の端を汚したまま怒る。
「吐くものが違う!」
「そもそもだ……お前誰だよ?」 昴が口元をポケットから出したティッシュで拭いながら言う。
「昨日会ったところでしょ! もう忘れたんですか!」
「あ~。そういやなんか会ったような……。」
〈普通、昨日の出来事を忘れるか?〉
友仁はイライラしてきた。
「思い出したぞ! そうだ、皆川友仁だ! 〈友人のいないユージン〉じゃねえか!」
「嫌な覚え方しないでください! それなら忘れられたほうがマシです!」
「それより、一体どうしたんだ、さっきの自己紹介は? 経営だかビジネス書だか何だか知らねえけどよ、お前にそんな趣味あったのか?」
バッチリ聞かれてしまってるじゃん! 強行突破するかと思い、友仁は平静を装ってこう言った。
「そうです、ありますよ。言ってなかったですけどね」
「ほう、そうかい。じゃあ、みんなに言いふらして回るか。無理やりゲロ吐かされたしな」
「すみませんでした! 勘弁してください! お願いします! 何でもするんで!」友仁は土下座してまで懇願した。
「バラすの早えな! ったく、冗談だっつーのに……あ、じゃあ、言わない代わりに地面の掃除頼むわ」
「ありがとうございまーす!」友仁は掃除道具を借りに走った。そして、生涯のうちで他人の吐瀉物の掃除を引き受けて、相手に礼をいうことなんて何回あるだろうか、と思った。できればこれっきりにしてほしい、とも。
「ここタバコ吸っていいんですか?」
借りてきた道具で地面を掃除しながら、友仁はベンチに腰掛けてタバコを吸っている昴に問う。
「喫煙所って書いてあるぞ。あと、敬語はいらん。俺のほうが歳上だけど、学年は一緒だしな」昴が、火のついたタバコで指し示した先には〈喫煙所〉と書いたボロボロの看板が立っている。
「……じゃあ、敬語使うのやめるよ。ところで、君は大学生だったのか?」
「なんだよ、文句あんのかよ」
「いや、そうじゃなくって。なんていうのか……意外だったんだよ。君はハードボイルドが好きで、そうなりたいんだよね? ハードボイルドと大学生ってなんか全く方向性が違う気がするんだけど、どんな理由で大学に入ったのさ?」友仁は先日、バーで交わした話を思い出しながら言った。
「ジャックは言ったぜ〈目に見えるものだけに騙されてると痛い目にあう〉ってな。俺にも色々事情があんだよ。ハードボイルドが好きだったら大学に入っちゃダメなのか?」
キザなうえに、質問に対してまともに答えない昴を友仁は腹立たしく思う。
「そうとは言ってないよ。あ、もしかして、就職とか、将来を考えて? 真面目なんだね」二日酔いでも授業に出るのだから、昴という男は外見や嗜好に反して、根は真面目なのかもしれないと、友仁は推測する。
「就職とか、そんなんじゃねえよ。大体、就職のこと気にしてこの大学の文系に入る奴なんているのか? 頭悪いので有名のなのによ……」
じゃあ何さ、と友仁が訪ねようとしたときだった。背後からおーい、と誰かが呼びかけてくるのが聞こえた。振り返ると、誰かが手を振りながら近づいてくる。
「よかったー、こんなところにいたんだ。探したよー。君たちってさっきの入門ゼミにいた人たちだよねー?」
やってきたのはロングの茶髪、紺色のパーカーに、黒いスキニージーンズ姿の女子だった。
「そうだけど、あなたは誰?」友仁が答える。
「
語尾を所々で伸ばす癖のある彼女のことを友仁は全く覚えていなかった。先ほどは昴の件で精一杯であり、それどころではなかったのだ。昴も身に覚えがないようで、首を横に振っている。
「ごめん、緊張してて覚えてないんだ」友仁は本当とウソの間のような回答をした。
「えー、残念ー。でも私は君のこと覚えてるよ。ビジネスとかに関心あるって言ってた皆川君だよね?」
友仁はギクッとしながら「え? うん!そうだよ!」と答える。昴が視界の端で笑いをこらえているのが見えて、友仁は悔しさでグギギ、と歯噛みする。
「それで何か用か? 菰野さんよ」と昴が言った。
「実は今日のゼミのメンバーで親睦会を開こう、って話になってねー。二人とも、授業が終わってすぐに教室から出て行ってしまったから聞いてなかったでしょー。だから君たちも参加するかどうかを聞こうと思って探してたの」
友仁にとっては願ってもないチャンスだった。友人をつくるチャンスが到来したのだ。
「参加します! 皆川です!」
「オッケー。それから向こうの彼は?」と言って菰野は昴のほうに顔を向けた。
「こんなやつと一緒にってのは、気が乗らねえが、わざわざ探してくれていたからな。参加させてもらうとするよ」
こんな奴、とは失礼な、と友仁は昴をにらみつける。
「ハハハ。面白いね。二人とも。じゃあ、詳細は追って伝えるから連絡先教えてよー」菰野はポケットから携帯を取り出す。そして友仁は菰野の手にボロボロになったミサンガが巻いてあるのを目にした。
「そのミサンガ、大事にしてるんだね」
「そうなの。昔作ったんだー。切れたときに願いが叶うっていうからまだ外してないの」
どれどれ、と昴がミサンガをのぞき込んで、「がっ!」と言ったきり黙り込んだ。
「どうした、昴?」昴のほうを見ると、真っ青な顔で固まっている。
「か、かかかか、カメムシ」
昴の来ているコートの袖に五角形の茶色い虫が止まっている。虫はゆっくりと尻のほうを上げた姿勢をとった。そして、強烈な臭いが立ち込める。
「ぎゃああああああ!」昴は悲鳴をあげて彼方へと逃げ去った。友仁と菰野もドタバタと逃げ出す。
現場から離れた場所に来て「大丈夫ー?」と菰野が心配そうに言った。
「なんとか……。そうだ、昴の連絡先聞いてないよね。飲み会の件は僕から昴に伝えときます」
「ありがと、お願いねー。……それはそうと、あの子は大丈夫かなー?」
「心配ありません。アイツはバカなんで、少なくとも死んだりはしてないと思います」
菰野はそれならいいけど、と釈然としない感じで帰っていった。友仁も徹夜の疲れが一気に回ってきてフラフラしだしたので家に帰ることにした。昴の安否を少しだけ心配しながら。
菰野に会った日から三日後、ゼミの親睦会が行われた。会場は大学の近所の安価がウリの全国チェーンの居酒屋だった。席は座敷で、掘りごたつ式のテーブルがある部屋だった。参加者は友仁と昴と菰野を合わせて十五人だった。ゼミは確か二十人ほどの生徒がいたから、ほとんどのゼミ生が参加していることになる。
菰野は参加者が揃ったのを確認すると、こう言った。
「みんな、今日は集まってくれてありがとー。これから一年間よろしくね。今日はみんなで楽しく騒いで、いい思い出作ろうね! それじゃ、みんな飲み物は持ったー?」
菰野は周囲に呼びかける。飲み物といっても、みんな未成年なのでソフトドリンクである。だが、昴だけはウイスキーの入ったグラスを掲げていた。友仁は「酒は頼むな、空気読めよ!」とたしなめてやろうかと思ったが、くだらない口論をするのは面倒だと思い、やめておいた。
「では、乾杯ー!」菰野の音頭で、親睦会が始まった。
開宴から一時間が経過し、盛り上がりがピークに達したころには友仁はすっかり沈黙していた。
始まってすぐは友仁もインターネットでため込んだ「飲み会でウケる人」の知識を総動員して、みんなの取り皿に料理を配ったり、飲み物の追加を聞いてみたり、などの活動に勤しんだ。狙いは人に話しかけるきっかけを作るためである。おかげで、なんとか同席している人たちに話しかけることはできたのだが、肝心の話がうまくいかなかった。友仁には面白い話の持ちネタなどなかったし、何もないところから話を広げる話術なんて尚更なかった。趣味の話をしようにも、無趣味とくれば話題が底を尽きるのはすぐだった。
友仁がまごまごしているうちに、近くの人たちは友仁以外の人との会話に夢中になった。料理の取り分けや飲み物の注文もおのおのが好きにやるようになり、取り分け係もお役御免になった。
そんなわけで、友仁は孤立、貝のように黙り込むしかなかった。バーで昴に名前のことを尋ねられた時と同じく、忌まわしき灰色の日々が蘇った。暗黒面に飲み込まれないために、みんなの様子を観察することに決めた。
下座のほうでは、菰野が活躍していた。会話の中心になって盛り上げつつも、人に絶妙なタイミングで話を振り、控えめな人もすんなり話の輪に入れて、人同士をつないでいる。しかも、同時に料理の取り分けや飲み物の注文もこなしている。友仁は素直に感心した。自分の理想の人物像を体現していたからである。何とかして、菰野たちの会話に入りたかったが、移動するにしても、今の席からでは少し遠かった。それに、もし、会話に割り入って、場の空気を壊してしまうようなことがあれば菰野さんに迷惑をかけてしまうかもしれないと不安になってなかなか腰があげられなかった。
友仁がそんな算段とも遠慮ともいえないことをしていると、テーブルの向かい側から、ギャハハハ、と笑い声が聞こえた。声の主は昴だった。黒いスーツに黒ネクタイという、喪服のような恰好をしている。昴がトレンチコートを脱いでいるところを見るのは初めてだったが〈どうせあれもジャックとか言う奴の影響だろうな〉と思って、別段に驚きはしなかった。一体、どれだけ酒を飲んだのか知らないが、すっかり顔を赤くして、隣の席の人と会話しながら馬鹿笑いしている。祭りの声に呼び寄せられた
「それでよぉ、どうして俺がウイスキーを愛してるかって? それはジャックが――」
「は、はぁ」
「俺が思うにジャックの魅力は――」
「そうなんですね、へぇ」
なんだ、昴が一方的に絡んでいるだけじゃないか、と友仁はあきれ返った。これなら黙ってるほうがマシだな、と友仁は盗み聞きを中断する。
「おつかれさま、皆川くん。楽しんでるー?」
いつの間にか隣に来ていた菰野が、友仁に声をかける。
「わ、菰野さん、おつかれさま」友仁はびっくりして、そう返事するのが精一杯だった。
「よかった、元気そうで。皆川くん、元気なさそうだから心配だったのー」
「そ、そうかな。そう見える?」友仁は自分の落ち込みが表に出ていたのを恥じると同時に、〈菰野が自分を見てくれていた〉という気持ちがせめぎ合って無性にドキドキしてきた。
「うん。もしかして、人見知りしちゃうタイプだったりするのー?」
「そう。なんか緊張しちゃうんだ」
菰野が何かを探すようにあたりを見回してから「じゃあ、私と話そうよー」と言った。
「菰野さんは幹事だし、迷惑かけちゃマズイよ」
「いいのいいの。みんな楽しそうにしてるから。私が出る幕でもなさそうだしねー」
「じゃあ、お願いしても、いいですか。菰野さん」
「はい。今から、敬語は禁止。私たち同級生じゃん」
そう言って、菰野は微笑みかける。友仁は顔が熱くなって、胸がきゅう、と締まるような感覚がした。苦しいのだけれど、心地良い。この感覚はもしかして。
〈一目ぼれってやつなのか!〉
友仁の普段は冴えない脳みそが、とてつもない速さで回転して言葉を紡がせる。
「菰野さんはすごいよ。向こうの席で、みんなが盛り上がってた。人を喜ばせるのがとても上手なんだね」
「ありがとー。そういってくれると嬉しいよ」
「本当にすごいと思うんだ。――僕には人を喜ばせるなんて、到底できないや」
「皆川くん、そんなことないよ! 大丈夫だって! もっと自分に自信を持たなきゃダメだよー。私も昔は内気でウジウジした感じの子だったんだから」
「そうなの!? とてもそうは見えない!」友仁は少しオーバーに答えた。
「うん。でもある出来事がきっかけで、私、変われたんだ」
何があったの、と僕が聞こうとしたとき、菰野の携帯が、けたたましい着信音をたてた。
「ごめん、電話に出てくるねー」と、言い残して足早に菰野は部屋の外へと出ていった。
せっかく、菰野さんと話すいい機会だったのに! 会話を中断させた電話を友仁は恨めしく思う。
「残念だったねえ、童貞くんよぉ。愛しの幹事ちゃんは出ていっちゃったな」
下卑た笑みを浮かべた昴が、タバコを片手に友仁の隣に座る。
「違う、何言ってるんだお前は!」友仁は童貞であったので、言い返すせずに、ただ唇を噛んだ。
「ほらほら。顔が真っ赤だぜ」昴はニタニタしながら、タバコで友仁を指しつつ、からかってきた。太い指に挟まれたタバコは錯覚で随分と細く見えた。
「僕はいたって平常だ! ていうか、赤いのはお前の顔のほうだろ! 人をとやかく言う前に、自分のツラ見てから言え!」
「わかったよ、童貞様のご用名とあらば仕方ねえな。トイレの鏡で自分のツラを拝んでくるとするか。もし、赤くなかったら、お前には罰ゲームをしてもらうか」
「やるわけないだろ。なんで僕が」
「ノリの悪い奴だな。これだから童貞は……」昴は手で〈やれやれ〉のポーズを取る。
「うるせえ。お前の方こそ、どうなんだよ」
「俺が童貞なわけあるか」と、あっさりと答えた昴は席を立った。
「バカな、証拠を見せい!」と、友仁は、なぜか時代劇の人物のような口調で言ったが、無視された。
それにしても昴の奴め。あんなにハッキリと「童貞じゃない」と言い切るとは、まさか非童貞なのか。本当だったら僕はあいつにマウントを取られ続けるじゃないか。そんなの最悪だ! しかし、あんなやつに恋人がいて、あまつさえ大人な関係になっていたとは思いがたいぞ。なぜだ、なぜなんだ。あ、もしかすると、お酒に酔っていたからかもしれないな。お酒に酔うと記憶が曖昧になったり、気が大きくなる人がいるって保健体育の時間に習ったっけ、多分それだ!
友仁がくだらない物思いに耽っているうちに、昴が部屋に戻ってきた。しかし、表情が暗く、心ここにあらずといった様子だった。
「どうしたの? なんか元気ないけど」
友仁がそう訪ねても、ああ、とか、ふむ、などど曖昧な返事を返すばかりで、いま一つ要領をえない。
だが、突然「友仁、今から俺がやることを許せ。なぜならこれは約束した罰ゲームだからだ。俺の顔は赤くない」と神妙な顔で昴が言う。そして、スクッと立ち上がると、手でメガホンを作って叫ぶ。
「みんな聞けー! コイツ、皆川友仁はおまけに友達がいねえし童貞だー! 友達欲しさに自己紹介でウソをついてだぞー! ビジネスとか全く関心がねえし、SNSとかやってねーぞ! 重要なことだから繰り返す、コイツには友達がいないぞー!」
「狂ってんのかコイツ!」友仁が慌てて静止したが、時すでに遅し。部屋の空気がお通夜と化していた。
「違う、違うんです。コイツ、酔ってて!」部屋中の人間が友仁から目をそらしていて、菰野もいたたまれないような顔をしている。昴だけが一人、やりきった感のあふれる表情でタバコを吸っていた。
そこに、店員がやってきて、座席の時間の終了を告げた。皆、逃げるように店の外へ出ていく。
退出のドタバタのなかで、友仁は石像のように固まっていた。
親睦会が〈色々な意味〉で終わったあと、友仁は昴の肩を担ぎながら夜道をへとへとになって歩いていた。
「本当は他の人にしようと思っていたんだけど、終電などの関係で家が歩いて帰れる距離にある君にしか頼めないの~。よりにもよって、の人選なんだけどお願いしてもいいかな?」
菰野が昴の送迎を友仁に依頼してきたのだ。昴の行動によって面目を丸つぶしにされた友仁としては嫌で仕方なかったが、少しでも菰野にいい印象を与えたいと思って、承諾した。
本当のところを言えば、友仁は怒り心頭で、今すぐに昴をボコボコにして夜道に置き去りにしてやりたいと思っていた。しかし、暴力は犯罪であるし、何より〈惚れてしまった女の子〉からの依頼だったので実行に移しはなかった。
昴は酒臭いうえに喧しく、友仁は非常に難儀していた。住まいはどうやら大学の近所のアパートであり、昴はそこで一人暮らしをしているらしい。たったこれだけの情報を聞き出すのにも随分と苦労した。それも、家はどこだ、という友仁からの質問にも答えず『ジャック・ジョーンズの危険な夜』について熱弁し続けていたからである。
やっとの思いで昴の住むアパートに着いて、昴を背負って階段をへとへと昇り、倒れこむようにして部屋に入った。スイッチを押して、明かりをつけたとき、友仁は、げえっ、と声を上げた。
六畳一間の部屋の中は散らかり放題だった。段ボールがそこら中に山積しており、部屋の真ん中に鎮座するちゃぶ台の上には吸い殻が山盛りになった灰皿、百円ライター、マッチ、ビールの空き缶、コンビニ弁当の空き箱、大学のパンフレット、などが散乱していた。床に敷かれた布団も起きたときのままグシャグシャになっていて、その上にブルーの縞柄の寝間着が乱雑に脱ぎ捨てられていた。
なんて汚い部屋なんだ、と、友仁はぼやきながら、布団の上に昴を寝かせると、すぐに窓を開けてタバコ臭い空気を入れ替え、床に落ちていたコンビニのビニール袋を片手に、空き缶、弁当殻、ティッシュなどの〈完全にゴミ〉と思しきモノを片付けた。
「おい、昴、起きてんのか」
友仁がそう呼びかけると昴は「うーん、フラフラする。水くれ、水」と寝ぼけたような声で言った。
友仁は台所に置いてあったマグカップに水を入れて持ってきた。
昴は布団の上でだるそうに起き上がると、うつろな目で水を飲み、それからまた横になった。
「悪ぃけど、もう寝るわ、俺。送ってくれてありがとよ。やっぱお前、いい奴なんだな」
「勘違いすんな馬鹿野郎! 全ては菰野さんのためであって、お前なんか知らん! 僕はもう帰るからな。あと、部屋はちゃんと片づけとけ」
「うるへー」と、呂律の回らない口調でそう言うと、昴は寝息をたてはじめた。
さあ帰ろう、と友仁が玄関に向かったとき、靴箱の上に写真が置いてあることに気が付いた。寄り添い合った二人の人物の笑顔がアップで写されている写真だった。
片方は顔の傷から昴だとわかる。少し昔の写真のようで、このころの昴は髪を肩くらいまで伸ばしていたらしい。男のくせに髪なんか伸ばしてチャラチャラしやがってこのヤロウが、と、友仁は昔気質な怒りを覚えていたが、おそらく短髪でも難癖をつけていただろう。もう片方の太った女の子は知らない子だった。しかし、どこかで見覚えのあるような顔をしていた。友仁は誰かに似てるんだけど、と少し考えたが、関心はすぐに二人の関係へと逸れてしまった。
一緒に写っている女の子と昴はどんな関係なのかを問い質そうとしたが、昴は、グオー、といびきを立てて眠りこけていた。
「まさか、昴のやつ、本当に童貞じゃなかったのか!? 写真の子は恋人で、すでによろしくやっちゃってたのか!?」友仁はショックを受けながら、昴の家を出ていく。
あんな奴に恋人がいるなんて! 世の中の不公平さを呪う友仁の怒りは、春の夜空を焼き尽くさんばかりに燃え上がっていた。
飲み会の翌日だった。友仁は例のうらぶれた喫煙所に昴を呼び出した。
「昴くん、昨晩は本当にありがとう! 僕は童貞で友人がいないということがみんなによく伝わったね! ウソは見事にバレました! ヤッター! そして僕の友達作りは無事失敗して〈華の大学生ライフ〉も閉幕ですね! こうして僕は、一生お友達ができないまま孤独のうちに一生を終えるのでした。めでたしめでたし……じゃねーよ! ふざけやがって、この野郎! どうしてあんなことを! 一体何のために!」
友仁は非常に早口で、かつ大声でまくし立てた。二人きりの喫煙所に友仁の声が響き渡る。
「早口過ぎて聞き取れねーよ、頭痛えから勘弁してくれ」
昴が耳をほじりながら、だるそうに言った。またしても二日酔い状態である。
「頭痛だと? 知るか! お前はあの冷ややかな飲み会の空気に気が付かなかったのか? おかげで僕の大学生活はもう終わりだ! 残りの四年間〈嘘つき童貞野郎〉のレッテルを貼られて、どこに行っても冷ややかな周囲の視線を向けられて、ずっとみじめに過ごすんだ……なにより、あれから菰野さんに連絡しても返事がかえってこないんだぞ! どうしてくれるんだ!」
友仁は烈火のごとく怒っていたが、途中からは涙声になっていた。最終的には、わーん、と声を上げて泣いてしまった。
「大の男がピーピー泣くな!」昴が一喝する。
「男だって泣きたいときはあるさ!」友仁の涙は止まらない。
〈僕ってやつは、本当に不幸だ。大学に入ってまで、自分のやることなすこと、全部を邪魔される。僕はタニシにでもなったほうがいいんだ。押し黙って、田んぼでのんびり、スローライフ。あれ、でも、タニシって寄生虫に取り憑かれるんじゃなかったか。それは嫌だなあ……〉
友仁が号泣しながら貝類への転生を思案していると、その様子を見かねたように昴が言った。
「――わかった、わかった! 俺が悪かったよ! お詫びと言っちゃなんだが、お前さんの『友達作り』に協力してやるよ」
「余計なお世話だ! 何もしなくていいから、金輪際、僕に関わるな!」
「関わるなって言うならそうするけどよ……ほんとにいいのか? 俺の見てる限りじゃ、お前に友達ができるのなんていつになるやらわからんぞ」
友仁は言い返す事ができなかった。たしかに今後の作戦もアテも全く無いままであり、極めて勝率は低い。昴の言うことは的を射ていたのだ。
「昨日のことは謝る。本当にすまんかった。だから、モノは試しだと思って、俺に任せてくれ。お前に友達を作ってやる」
昴は真剣な表情で僕にそう言った。
「ホントに大丈夫なんだろうな?」
「心配すんな!『友達作りの昴さん』と言えば俺のことよ!」
じゃあ、昨日の飲み会で友達を作ってくれれば良かったじゃないか、と、友仁は腹立たしく思いつつも、昴のお詫びに乗っかろうと決めた。
友仁は昴に連れられて大学の中庭にやってきた。時計塔の前にあるこの場所は学内で一番人通りが多く、賑やかな場所であった。
「お、あの女子に声かけてみるか」
「適当に決めてるんじゃないだろうな」と友仁が口を挟むと、「いいから見とけって」と、昴は自信満々の様子で答えた。その自信はどこから湧いてくるのだ、と友仁は昴の態度を疑問に思う。
昴は大きく息を吸うと、通りすがりの女子生徒に呼び掛けた。
〈ヘイ! そこのキミ! 俺とお茶しない?〉
声を掛けられた女子生徒は慌てて立ち去っていった。次はあの娘にしよう、と昴は間伐入れずに、別の女子に呼びかける。
〈ヤッホー! キミかわいいね! どこからきたの?〉
この女子もあわてて逃げだした。
「もうやめろ!」友仁が怒鳴った。
「なんだよ、これからって時に」昴は頭を掻きながら迷惑そうに友仁を見た。
「僕は友達が欲しいとは言ったがナンパをしろとはいってない! お前に頼んだ僕がバカだった! 僕に許してもらうためにデマカセをいってたんだな! このウソつき!」
「ちがう! 今日はたまたまだ!」
「こんなやり方で友達ができるわけないだろ!」と、友仁は昴に突っかかる。
「うるせえ! 一人じゃマトモに声もかけられねえくせに! 大体、ウソついたり、細けえことでグチグチ言ってるから友達ができねえし童貞なんじゃねえのか? 俺のせいにしてんじゃねえ!」
「とんでもない奴だ! 謝罪するといっておいて、僕に逆ギレするなんて! どうしてお前みたいなやつに彼女がいるのか、僕には全くもって理解できないね!」
「彼女だと? 一体、何の話だよ!」
「今度はしらばっくれるつもりか! もういいよ! 金輪際、僕に関わるな! あと、童貞なのは関係ないだろ!」
友仁はそう言い残して、昴を置き去り、中庭を立ち去った。
「はっはっは! 傑作だなそりゃ」友仁の話を聞いた忍の笑い声が店内に響く。
近況報告が聞きたい、と忍に誘われて、友仁は因縁の始まりの店である「リトル・ロマンス」にやってきていた。万が一にでも昴に会いたくないからと、違う店にしようと提案したのだが、めぼしい店が他に無く、結局この店に落ち着いたのである。
「笑い事じゃないよ。ひどい目にあったんだから」友仁は先日の飲み会で昴が行った愚行を思い出して怒りに震えていた。
「落ち着けよ、友仁。大学なんて人が腐るほどいるんだ。少々ウソついたり、童貞だったりするやつなんてゴロゴロいるぜ。別に誰が傷ついたわけでもないんだから、気にすんなって」
「僕が言いたいのは、昴みたいなバカがいるのが問題だってことだよ!」
「俺は、昴ちゃんを面白い奴だと思うがな。さすが、俺の見込んだ奴だ」忍はタバコを咥えたまま腕を組んで誇らしげにしている。
「その〈見込んだ奴〉に、大事な甥っ子はえらい目に合わされてるの! あと、昴ちゃんって何さ?」
「最初にあった夜、二軒目のバーで俺は彼を昴ちゃん、と呼ぶことに決めたんだ。すっかり仲良くなったからな。連絡先も交換してちょいちょいやりとりしてんだよ」
「叔父さんは気楽でいいよ。巻き込まれる側は……」友仁は、はあー、と長いため息をつく。
「たしかにな。だが、たったそれだけの理由で昴ちゃんを悪い奴だと決めつけるのはどうかと思うぜ。何か事情があったのかしれないじゃないか」
「事情ねえ。一体どんな事情があればあんなことをするんだか。ていうか、叔父さん、やけに昴の肩を持ちすぎじゃない?」友仁は忍を恨めしそうににらみつける。
「そんな怖い顔すんなって。広い心をもつことが良い友達を持つための秘訣だぜ。それにな、自分とは合わないだろうと思ってた奴が案外いい友達になったりするんだよな。俺にもそんな経験がある」
「その話、本当なの?」友仁は忍に疑わし気な視線を送った
「だから前にも言っただろ。俺がお前に嘘ついたことがあるかってな」
そう言われると、友仁としても無いですとしか答えようがない。忍はグラスに入ったウイスキーを一口飲んでテーブルの上に置く。中の氷がカラン、と綺麗な音を立てる。
何気なく、友仁が携帯を見ると、菰野からメールが入っていた。
〈友仁くん! 連絡遅くなっちゃってごめんね―。この間は飲み会に来てくれてありがとう。話もできて楽しかったね~。 最後のほうで、酔った藤枝くんが何か言ってみたいだけど、私は全く気にしてないよ。だから気にしちゃだめだぞー! P.S.良かったら、明日一緒に昼ご飯どうかな?〉
「やっっっっったあああああ!」友仁は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「おわっ! どうした? 急にデカい声を出すな!」忍がビクっと体を震わせる。
「ごめんごめん。これ見てよ、おじさん! このあいだ行った親睦会の幹事の子から! すごく可愛い子でさ!」
友仁は興奮しながら忍に携帯の画面を見せる。
「うおおお! やったじゃねえか友仁! 行け行け! お近づきになれってんだ、この野郎!」
忍が友仁にヘッドロックをかけてじゃれつく。その光景を見ていた「リトル・ロマンス」のマスターは二人の席にそっと〈たまごボロロ♪〉を置いた。
「ねえ、皆川くんはサークルとかに入るつもりはあるのー?」
友仁と菰野の二人は学校のカフェテリアで一緒に昼食をとっていた。食事のあとに他愛もない話をしているときに、ふいに尋ねられたのである。
「興味はあるんだけど、どんなサークルがいいのか全然わからなくて。大学に入ったんだし、何かをやろうとは思うんだけど、何をしていいのか、何がしたいのかよくわからないままなんだ。もう知ってると思うけど、僕、本当はビジネスとか詳しくないんだ。キャラづくりのためについついやってしまったけど……」友仁は惨めな気分になりながら質問に答える。
「この間の飲み会のことは気にしてないよ。真面目だなあ~。そうだ! 良かったら、私が入ってるサークルがあるんだけど、見にこない?」
「もうサークル入ってたんだ。どんなサークルなの?」
「うーん、一言でいうのは難しいけど、いいところなのは保証するからさー。今から部室に行くんだけど一緒にくる?」
「え、いいの?」「もちろん!」
友仁は菰野に連れられて、友仁はサークルの部室へとやってきた。部室は入学式で渡された学内地図によれば「クラブハウス」と呼ばれる 建物の中にあった。外観は周囲の校舎に比べて、随分キレイだった。菰野の話によれば半年前に建てかえがあったらしい。
ノックをして、菰野と友仁は部屋の中に入る。
部屋の中には、男が一人いてパソコンで何かの作業をしていた。
「おはようございます。
「ああ、菰野か。おはよ。 そっちの子は?」岩瀬とよばれた男は友仁を見ながら訪ねた。
「はっ、はじめまして! 僕は皆川友仁です! 菰野さんの友達です!」と友仁は気合十分で答えた。
「元気のある子だね! 僕は岩瀬だ」と言いながら名刺を差し出した。名刺には「ライフスタイルコーディネートサークル〈ピースマイル〉」という肩書と名前、あとは電話番号やメールアドレス等の情報が記載されていた。
「うちのサークルに興味あるのかい?」と岩瀬は友仁に尋ねる。
「はい、一応。菰野さんからこのサークルのことを聞いて。具体的にどんなところなんですか?」
「そうだね、我らがサークル『ピースマイル』の目的を簡単に説明するなら、活動を通じて人生と社会を豊かにすることといえる」
「人生と社会を豊かに?」友仁が聞き返す。
「そうだな、例えばの話なんだけど、最近、学生の就職難にまつわるニュースが多いのは君も知っているだろう」
「テレビとかでやってますよね。若者の就職難とか、やむを得ずブラック企業に入ってしまう問題とか」
「そうそう。ズバリ聞こう、皆川くん。なぜそのような問題が起こっていると思う?」
「そうですね……景気が悪いからとか?」友仁は何か答えないとカッコ悪いような気がしたのでを無い知恵を絞って答えた。岩瀬はそれを聞いて少し笑う。
「そのとおり。理由はたくさんあるけど、景気が悪いのも大きな一因だ。しかしながら、多くの学生達が苦しんでいる中でも着実に成功している人たちもいるよね。それはどうしてだかわかるかい?」
友仁は必死になって考えたが、〈大学デビュー〉の一件で頭がいっぱいの友仁には答えが出せようはずもなかった。
「それはね、意識の高さとスタートダッシュの速さ、何より行動しているかどうかの違いさ。海外じゃ学生時代から就職に向けて活動するのは当たり前の話なんだけど、日本の大学生の大半は貴重な学生時代を遊んで暮らして、就職活動の段になって後悔するんだ。だから、僕たちは、そうならないように今のうちからビジネスの現場に入り込んで勉強して、即戦力となれるように頑張っているんだ」
「そんなことができるんですか?」
「できるさ! 現に僕と菰野、それにピースマイルのメンバーたちはやっているよ。ここだけの話なんだけど、君には教えよう。僕はあるベンチャー企業のCEOとコネクションがあってね。それで、僕たちはその会社のビジネスに参加させてもらってるんだ!」
「ええ! すごいじゃないですか! 学生兼ビジネスマンということですね?」
「その通り! 君は飲み込みがいいね」岩瀬は拍手をした。
「……でも、学生をやりながらビジネスするって大変でしょうね」
「学業との両立も大丈夫さ。それに頑張り次第では最先端のプロジェクトに携われる可能性もある」
「なんだかすごいですね。でも僕みたいな奴がそんな大それたことをできるとは到底思えないです。だって、勉強はからっきし、顔がいいわけでもない。何よりも、僕は友達いないし、キャラづくりのためにウソをついたし……」
自分で言っておきながら、友仁はどんどん卑屈になってきた。自分なんかに生きてる価値はあるのか、ここに拳銃があったら迷いなく頭を打ち抜くだろうな、とまで考えだしたとき、菰野が机を思いっきり叩いた。
「皆川くん、そんなこと言ったらダメだよ! 皆川くんは立派だよ!」
「慰めてくれてありがとう。菰野さんはやさしいね」
「慰めなんかじゃない! 私、知ってるよ。皆川くんが自分を変えようと必死になって努力してるの。君は立派な人だよ、だから自分なんか、なんて言っちゃダメ!」
「でもダメなんだ! いくら努力したって無駄さ、これまでだって精一杯やってきた。でもさ、僕の努力なんて実らない。才能も運も僕にはないんだ」
友仁は不貞腐れて黙りこんだ。今すぐにでも泣き出しそうだったが、菰野の前では泣くまいと唇を噛んで必死に堪えた。
「〈宝くじは買わなきゃ当たらない〉って言葉知ってる?」菰野が言う。
友仁は黙って首を横に振る。
「皆川くんの気持ち、私にはよくわかるよ。前の飲み会のときに少しだけ話しかもしれないけど、昔は私も皆川くんと同じように苦しんでた。自分の内気でウジウジした性格と、太ってたのがコンプレックスで、自分なんかダメだって思ってた。」
菰野は話を続ける。
「高校のとき、すごく仲の良かった友達がいてね。その子がすごい子なの。みんなに虐められてたんだけど、それでも自分の生き方にすごく自信持ってて、その子と一緒にいると自分なんか大したことないなあ、って思わされちゃって。その子みたいになりたくて、色々頑張ったんだけど、何も変わらなくてさ。挫けそうになったとき、このサークルの人たちと知り合って、みんなと一緒に頑張るうちに、私、自分を好きになれた。明るい性格になって、身体もスリムになってさ。そう、自分を変えることができたの!」
菰野が息を整えてから、さらに続ける。
「だから、皆川くんも諦めないで! バッターボックスに立たなきゃホームランは打てないんだよ。例え、千回空振りしても、千一回目はもしかしたら打てるかもしれない。だから、今まで自分が頑張ってきたことを無駄にしちゃダメ! 」
友仁は顔をあげた。菰野が息を弾ませ顔を紅潮させている。
「でも、僕はウソをついた。自分がよく見られたいがためにね。こんなやつ幸せになる権利なんてない」
「それならウソをホントにしちゃえば良いんだよ! そうすれば誰も文句なんて言えない! 私、信じてるから! 皆川くんなら絶対にできるよ!」
友仁は心の底から感動していた。今まで他人にここまで優しい言葉をかけてもらった経験がなかったからだった。応援してくれる人がいるというのはこんなに素晴らしいのか、と思うと心の中に小さな光が差し込んできて、活力が湧いてきた。
「うおおおお!」
と、叫んで友仁は椅子から跳ね起きると「ありがとう、菰野さん。僕やってみるよ! もう諦めたりなんかしない!」と言った。
菰野は口を押さえて、涙を流している。
「そうだよ!君なら絶対できるさ!」岩瀬は友仁の手をとって嬉しそうに言った。
「そこでだ、皆川君、耳よりな情報があるんだ。今度、我々のプロジェクトの一貫として五月の連休に、一週間のビジネス研修合宿があるからおいでよ!」
「うわあ! それは参加したい、です……けどお金はかかるんですよね?」
「たしかに参加費はかかる。本当は五万円ね。でも友仁くん、君のように立ち上がり、運命を変えようとする人物を放っておくわけにはいかない、だから特別に安く行けるように計らうよ!」
「ええっ、いいんですか?」
「もちろんさ! この合宿にはさっき話した企業のトップの方がいらっしゃって、直々に特別セミナーをして下さるんだ! こんな話、なかなかないよ。君にやっと訪れたビッグチャンスさ! 君のようにこれから何かを始めようとする、いわば同志たちが集まるんだ。きっと友達もできると思うよ! こんな話、なかなかないよ。君にやっと訪れたビッグチャンスさ!」
「ぜひ、参加させてください!」
「そうこなくっちゃ。じゃあ、連絡先、教えてよ。詳細はまた連絡するから」
「よろしくお願いします! がんばります!」
「うん! そうそう、この話は他の人には内緒だよ。皆川くんだからこそ、この話を持ちかけたけど、こんな美味しい話を聞いたらみんな飛びついてくるからね」
「もちろん内緒にします! 不束者の僕ですが、よろしくお願いします!」友仁は一も二もなく即答した。
「歓迎するよ! これからはいつでも僕たちの部室に遊びに来たまえ!」
それからというもの、友仁は毎日、ピースマイルに入り浸って、菰野や岩瀬をはじめとしたメンバーたちと交流を深めていた。
話を聞けば、ピースマイルのメンバーたちは友仁と同じく、友達に恵まれなかった人達が多いようだった。共通の体験、とりわけ同じ苦難を味わった者同士がお互いに仲良くなるのは時間がかからなかった。
友仁が話せば仲間が笑い、仲間が話せば友仁が笑う。友仁の心は喜びに満ちていた。ついに僕にも人生の転機がやってきたのだ。今までの灰色の生活は、これから迎える輝かしい未来のための試練であったのかもしれない。そんな風にさえ思えた。
ビジネス合宿が翌日に迫った日のことだった。友仁がピースマイルの活動の帰りに学内を歩いていると、急に後ろから腰を強く蹴っ飛ばされた。あべえ、と声をあげて転ぶ。振り向くと、そこには険しい顔をした昴が立っていた。
「ちょっと話がある、喫煙所までついて来やがれ」
抵抗むなしく、腕をつかまれた友仁は、強引に喫煙所へ引っ張られていく。
相変わらず、喫煙所は日当たりが悪く、うらぶれた雰囲気が漂っていて、ピースマイルの部室を天国とするなら、ここは地獄のようだと友仁は思った。
「話って何だよ、僕は忙しいんだ」合宿が楽しみで気分がウキウキしていたところに水を差された友仁は、腹立たし気に昴に尋ねる。
「お前さん、近頃、菰野たちと随分仲がいいみてえじゃねえか」昴はコートのポケットからタバコを取り出して火をつける。
「少なくとも君よりはね」
「てめえがどうなろうが知ったこっちゃねえが、一応言っとく。菰野に関わるのはよせ」
「なんでだよ。あ、もしかして寂しいから妬いてるのか? なんだよ、仲良くしたいなら、正直にいえばいいのに」
「んな訳ねえだろ、頭がパーなのかテメエは。いいか、菰野のやつは怪しいんだよ」
昴が火のついたタバコで友仁を指す。
「怪しいだって? それを言うなら君のほうがよっぽど怪しいぞ」
「失敬な。この俺のどこが怪しいんだよ」
サークルの勧誘をしてくる女の子より、仮想パーティーでもないのに探偵みたいな恰好をしてる奴のほうを怪しいと感じるのは自然な感覚ではないだろうか、と友仁は思う。昴の怪しい部分を挙げ連ねてやろうかと思ったが、あまりに数が多くあきらめた。
「じゃあ聞くけど、菰野さんのどこが怪しいのさ」
「この間の飲み会の時だ。俺は菰野が店の廊下で電話しているのを偶然に立ち聞きしたんだ。その内容が胡散臭えったらありゃしねえ。やれ、準備ができただの、幹部がどうのってな。あいつ、やべえ奴らとつるんでるんじゃねえのか」
「それで、トイレから帰ってきたとき君の様子が変だったのか」
「それもそうだが、あの時は飲みすぎて、気持ち悪くなっちまって、ゲr……」
「わかったから言わんでよろしい。ていうか、懲りろよ。飲みすぎんな」汚い話をしやがって、と友仁は不快に思う。
「多分、その電話の内容だけど、菰野さんの入ってるサークルの話だよ。準備っていうのはサークルのイベントか何かの準備のことで、幹部っていうのはサークルの幹部のことでしょ。残念だけど、君が想像してるようなことじゃない」
「てめえは呑気だな。自分に危機が迫ってるってのによ」昴は灰皿でタバコを乱雑にもみ消す。
「だって、僕の話の辻褄が合うんだからしょうがないじゃん」友仁はわざとヘラヘラ笑いながら答えた。
「笑い事じゃねえよ。ともかく、菰野と関わるのはよせ!」昴が食って掛かる。
「君が菰野さんを疑ってるからそう思うんだろ。あんまり人を悪くいうなよ」友仁の一言に昴が黙り込んだ。その様を見て友仁はざまあみろ、言い負かしてやったぞ、と内心でガッツポーズをとる。
すると、昴が両手を挙げて、降参のようなポーズをとってからこう言った。
「そうだな、友仁。すまんかった。人を悪く言うのはよくないな。だって菰野はお前の好きな人だもんな」
友仁は思い寄らぬコメントに、ウッ、みたいな変な声が出た。
「前の飲み会の時から怪しいとは思ってたんだが、その通りか。菰野を視姦しまくってやがったもんな。話してるときの顔なんて、まるでエロビデオを選んでるおっさんの顔みてえにやらしかったぜ」昴が友仁のほうを見てニヤニヤしている。
「断じて違う! それに視姦とか言うなよ、人聞きの悪い!」友仁は思わず、声を荒げた。
「ムキになるとは〈その通りです〉と言ってるようなもんだろ」
昴は笑いながら、新たにタバコを取り出して、火をつけた。
友仁は言いくるめたはずの相手に、反撃を食らったのが悔しくて仕方なかった。
「いいか。僕の決心は固いぞ。お前に何を言われても、僕は菰野さんのサークルに入る。だから、邪魔しないでくれ!」
「頑固な奴だな。いいさ、勝手にしろよ。その代わり、どうなっても知らねえぞ。 てめえの泣きっ面を一服キメながら拝むとさせてもらおう」
「もういい! お前みたいなニコチン中毒者は肺が真っ黒になってくたばれ!」
全くもって不愉快な奴だ、と友仁はプリプリ怒りながら喫煙所を去った。
家に帰って、翌日のビジネス合宿の準備をしていた友仁のもとに菰野から着信があり、昴との喧嘩のしたことを話したところ「それって、嫉妬してるんだよ。だから話さないほうがいいって言ったのにー」と電話の向こうから菰野の尖った声が聞こえてきた。
「ごめん、君への誤解を解きたかったんだ」
電話で会話しているにもかかわらず、友仁は頭を下げながら謝る。
「まあ、私は気にしてないよ。それより、明日からのビジネス研修の合宿、頑張ってね~」
「もちろんさ! 必ずやり遂げて見せる」
「皆川くんみたいに頑張ってる人、私は好きだよ。それじゃあね~」友仁も菰野に、じゃあね、といって電話を切る。
……たしかに聞いたよな、僕みたいな人が好きだって? よーし、やるぞ! 頑張るぞ! 菰野さんのためにも!
友仁のテンションは絶頂に達して、無意味にベッドに飛び込んだりしているうちに、朝日が登りだしていた。
ピースマイルの「ビジネス研修合宿」の会場は山奥のペンションだった。道中のことはよく覚えていない。何せ、ちっとも眠っておらず、バスの中では大半眠っていたからである。だが、大勢に影響はない。目を覚ましたところで、山の中を走るバスの車窓から見えるものといえば森か、くたびれた材木置き場ぐらいであったからだ。
「やあ、良く来てくれた」
友仁がバスから降りたところで、会場に先回りした岩瀬と菰野が待っていた。二人が着用しているピースマイルのロゴマークの入ったジャケットを着ていた。尋ねたところによると、スタッフに支給される制服らしかった。
「今日が皆川君の人生の変わる日だよ。頑張ってね」菰野が友仁に微笑みかけて、友仁はデレデレと頭を掻いた。
友仁たち参加者一行は、ペンションの奥にある「メインホール」と呼ばれている部屋に向かった。演説をするような舞台と聴講席が何列も並んでいる部屋で、まるで大学の教室のようだった。すでに大勢の人が座っている。
部屋は独特の緊張感に満たされていた。もしかすると、ここにいる人たちも僕と同じように今の自分を変えたくてここに来たのではないか。だとすれば嬉しい。僕たちはすでに同じ苦しみを持つ仲間なんじゃないか、友仁はそんな風に思った。
友仁が席に着くと、横に座っていた同い年ぐらいの男子が話しかけてきた。自分と同じ参加者らしい。
「ねえ、今から始まる勉強会、楽しみだね。一緒に頑張ろう!」
彼は胸の前でガッツポーズをつくりながらそう言った。
「う、うん! 頑張ろうね!」友仁はぎこちなくガッツポーズを作って返した。
そうこうしているうちに、派手なスーツに、尖った革靴という出で立ちをしたツーブロックヘアの小奇麗な男が入ってきた。
「ようこそ皆さん、はじめまして! 私、この度のセミナーの特別講師を務めさせていただきます、株式会社トップデライトのCEO、
「名刺代わりに、今からこちらの映像をご覧いただきたい!」
泉は岩瀬と菰野に指示を出した。すると、部屋が暗転、スクリーンが降りてきた。
プロジェクターで映し出された画面には、荘厳な音楽とともにきらびやかな映像で社長の半生が映し出された。
高校時代は運動部でレギュラーとして活躍したのち、現役で超難関大学に合格し、卒業後にアメリカで企業、そして挫折、しかし一発逆転の大成長! 現在では名だたる一流企業の重役と親密な関係を築くまでに至った。手掛けるビジネスは現在進行系で拡大の一途をたどり続けている……。
映像の内容をまとめるとそのような内容であった。三時間に渡る長尺の作品であったが、友仁にとってはあっという間の出来事のように感ぜられた。
再び部屋が明るくなって、泉が語りだす。
「ご静聴いただきありがとうございます! それでは、早速、セミナーを始めていこうと思うのですが、最初に皆さんにお聞きしたいことがあります」
それから、泉はたっぷりと間を置いてから言った。
「皆さんに夢はありますか?」
会場が少しざわめく。泉はさらに続ける。
「私には夢があります。どんな夢か。それは、私の夢を実現する活動を通じ、社会に貢献することでした。そして、私はその夢を叶え、今もなお、その夢の果てを目指し、歩み続けているのです! さて、皆さん、世の中には〈じんざい〉という言葉がありますが、それは〈人〉に〈材料〉と書いた〈人材〉です。 しかし、私のいう〈じんざい〉は人という字に〈財産〉と書いて〈人財〉なのです。つまり、社会にとっての財産となるような人を育てるのです。私は会社を興し、そこで多数の優秀な〈人財〉を育てあげました。彼らは世界中でこの瞬間も活躍を続けています。このセミナーが完了する頃には必ずや皆さんも〈人財〉と呼ばれる人間に成長しているでしょう!」
泉が話し終えたとき、参加者とスタッフから再び万雷の拍手が起こった。友仁もただただ、泉の話に感激していた。
「さて、それでは早速、セミナーをはじめます。私が今日、この会場に来たとき非常に残念なことがありました。それは私が挨拶したにもかかわらず、皆さん、誰一人として挨拶を返してくれませんでしたね。そんな体たらくでは何をしても成功はしません。ビジネスパーソンにとって、挨拶はとても重要です。まずは、挨拶の練習からです。皆さん、立ってください」
それから泉はつま先は四十五度、背筋を伸ばし、少しアゴを引けなどと、細かく注文をつけた。
「では、始めましょう。私の後に続いて、復唱するように言ってください。おはようございます!」
「「「おはようございます!」」」
「まだまだ、声が小さいですよ!」
「「「おはようございます!」」」
「もっと声を出せるでしょう!」
「「「おはようございます!」」」
「いい加減にしろ!」
泉がパイプ椅子を蹴っ飛ばした。大きな音を立ててパイプ椅子が床に転がる。
「あなた方からはやる気が微塵も感じられない。だから今までの人生がうまくいかなかったんじゃないのか。本当にそんな体たらくでビジネスの世界を生き残れるとでも思っているのか!」
泉の怒声によって、場の空気が凍りついた。後ろの席のほうから、女性がすすり泣く声まで聞こえてきた。
友仁も泣きそうになっていた。
〈ひええ、想像していた百倍、いや千倍は厳しいぞ……。講師の人、怖すぎるよ、できるなら帰りたい、けど、そうしたら菰野さんに根性無しな奴だと思われるんだろうな、そうだな、もう少し、もう少し我慢するんだ、頑張るんだ、僕!〉
などと、友仁を歯を食いしばりながら自分で自分を励ましていた。その時、またまた後ろのほうの席から、ふざけんなよ! と怒鳴りながら、起立する人があった。
「うぜえ、なんだよ、このセミナー!」そう言い残した男の人は部屋を出ていく。
「私も帰ります」次は、女の子が泣きながら出ていった。彼女が先ほど、後ろのほうの席で泣いていた人かもしれないな、と友仁は推測する。
その後、幾人かが会場を出ていった。泉は険しい表情で退出していく人たちを睨みつけていた。
「もう、他にはいないか? やる気のない人は周囲の足を引っ張るのだから、この場には必要ないです」泉が重々しい口調で言う。
「そうすると、ここにはやる気のある者しかいない、と受け取っていいのですね?」
誰も反応しない。迂闊に「はい」とは言えない空気が漂っている。息苦しい沈黙。これからどうなってしまうのか、友仁には全く予想がつかなかった。
「はい、皆さん、おめでとうございます! あなた方は本当に素晴らしい。社会の『人財』になる資格のある方々です」
泉の表情は先ほどとはうって変わって、満遍の笑みである。声のトーンも穏やかになっていた。先ほどまでの泉が鬼であるとすれば、今の泉は慈愛に満ちた僧侶のようである。
「皆さんには少し怖い思いをさせてしまったかもしれません。先ほどは、皆さんの覚悟を少し試すために、一芝居打たせてもらったのです。私は今まで数々のセミナーを行ってきましたが、あなた方は歴代の参加者たちの中で随一、と言って良いです。途中で退出していった人たちのような、落伍者とは大違いです。彼らのようにすぐ物事から逃げ出してしまう人は、今後も不平不満や貧窮、絶望に満ちた人生を歩んでいくことになるでしょう」
泉の話を聞きながら、友仁は逃げ出さなくて本当に良かったと思っていた。
「では、皆さん。今一度、あいさつをしてみましょう。私の後に続いて復唱してください。おはようございます。」
「「「おはようございます!」」」
「実に、実に素晴らしい! 見違えるようですよ皆さん! やればできるじゃないですか!」泉は拍手をしながらそう言った。スタッフたちからも大きな拍手が上がった。友仁は込み上げてくる嬉しさのあまり泣いていた。泉がほめてくれたことによって、自分の灰色の過去が報われたような気がしたからだった。
その後、自分たちの夢についての話し合いがあったり、泉直伝の方法論についてのレクチャーがあったりした。友仁はその内容を一言一句書き漏らすものかと必死になって持ってきていたノートに書いた。
中でも友仁の印象に残ったプログラムは自分の夢について、お立ち台の上からスピーチをする、というものであった。友仁は〈友達をたくさん作って、恋人も欲しい〉と発表した。受け入れられなかったらどうしようと心配していたが、参加者たちから大きな拍手とともに〈頑張れ! 君なら行ける!〉〈いい顔してるよ!〉〈君の未来は明るいぞ!〉などの声援をもらえた。嬉しさのあまり、涙が出た。人に受け入れられる経験に乏しい友仁にとっては新鮮で強烈な感動であったのだ。
そして、時間はあっという間に過ぎていき、セミナーの一日目が終了する頃合いになった。
「皆さん、非常に向上心がお強い。そこで、この本をオススメします。読めば、明日からのセミナーの理解が、より深まるでしょう!」
泉が取り出したのは『人生成功のための三十の法則 ~ビジネスの神に愛された男の教え~』と題された本であった。
「この本は私の作り出した、他の本には載っていないような珠玉のノウハウが凝縮された本です。通常の書店では売っていません。一万五千円で販売いたします! 買うか買わないかは自分次第です。少し、お高いですからね。ですが、世の中で成功している方々は皆、自己投資を惜しまないものです。皆さんのような優秀な方々がこのチャンスを見逃すはずがないんですが」と続けた。
すると、買います!と次々に挙手、本は次々と売れていった。友仁は一瞬財布の中を気にしてやめておこうかと思った。しかし、泉社長のような立派な方が、チャンスを逃すなと言っているだから、と思い切って購入を決断した。
友仁はわざと人が引いてから本を買いに行った。自分の熱い思いを泉に直接伝えたかったからだ。緊張で声を震わせながら、友仁は言う。
「泉社長! 僕、感動しました! 最初は怖い人だと思ったんですが、それは情熱の裏返しだったんですね!」
「ありがとう! 君は参加している人の中でも非常に輝いていたから、私の思いがわかってくれると思っていたよ! これからも頑張って!」泉はガッチリと友仁の手を握る。
〈僕の人生はこれから始まるんだ!〉
友仁は天にも登る気分だった。今まで生きてきて、これほどまでに楽しいと思える瞬間はなかったと胸を張って言えるほどだった。
合宿の二日目、参加者一同は朝の五時に起こされた。素早く身支度をさせられ、広場に集められると、何故か工事に使うようなスコップが各自に手配された。
「今日行う研修は、ある一流企業で実際に行われていることです。やることは簡単、皆さんには先ほどお渡ししたスコップを使って地面に穴を掘っていただきます。なぜ、このようなことをするのかを申し上げましょう。それは〈穴を掘る〉という行為によって、逆境を乗り越えるための精神力を身につけられるからです。だから一流企業でも取り入れられている。これは数々の科学的な研究によっても効果が証明されています。また土に触れるのは人間の精神に良い影響を与えます。農家の人たちが元気なのもそれが理由でしょうね。では早速始めてください」
各自が散り散りになって穴を掘り始めた。友仁も例によって、穴を掘る。最初のうちはサクサクと掘り進められていたのだが、そのうち石だらけの硬い地面にぶち当たり、掘るペースが落ちてきた。少し、休憩しようと思い友仁は穴の中で座り込んだとき、泉の声が聞こえてきた。
「そうだ、言い忘れていましたが、研修には点数がつけられています。優秀な人には特別な褒美が用意されています」
話を聞いた友仁は、再びスコップを握った。泥にまみれながら、友仁は一心不乱にスコップを動かして地面を穿つ。額に流れる汗が目に染みて、顔をしかめる。靴の中には土が入り、汗を吸った服が肌に張り付き、爪の隙間も土で真っ黒になっていて、非常に不快な気分になっていた。それでも友仁は必死になって穴を掘り続ける。
もうすでに人ひとり分がすっぽり入るくらいまで穴を掘り続けたあたりで、一度休憩が挟まった。各自にトレーに乗った食事が提供された。友仁は中身を見て気づいたのだが、肉類が一切入っていないのである
「皆さん、食事の中身を見て驚かれたかもしれません。そうです、魚などを含めても肉類が入っていませんよね。これも研修の一環なのです。ある企業では会社で提供される食事から肉類を取り除いたところ、生産性が大幅に向上した事例がありました。この合宿での食事はその事例に則っています。しかし、それだけでは寂しいですよね。そこで、先ほど私が話していた成績に基づき、成績がトップになった人には特別な食事が提供されます」と言いながら、泉は平たくて大きなダンボールの箱を持ってきた。蓋を開けると食欲を刺激する香りが周囲に立ち込める。
「おめでとうございます。こちらはトップになった人のご褒美はピザです! では私の前で食べて感想をお願いします」と泉は促す。
「美味しい! お腹が減っていたのでより美味しいです!」
「でしょう。皆さんも頑張ってくださいね」
周囲から羨望のため息があがった。友仁は心底、羨ましく思っていた。体を動かしたためか食べごたえのある料理を体が欲していたのだが、自分は食べられない。泣く泣く、薄味でパサパサの食事をピザだと自分に言い聞かせて食事を終える。
「では午後からは、掘った穴を埋めていただきます。これは自分の行いを自分で清算する訓練になり、精神的に好ましい効果が……」友仁の腹が、きゅううう、と情けない音を立てた。
一日のプログラムが終了した頃には夜の十一時を回っていた。必死になって頑張ってみたが結局は一番にはなれず、疲れだけがどんどん蓄積していき、もうクタクタになっていた。
宿泊する部屋は個室ではなく、四人の共同部屋だったが、やはりこれも、カリキュラムの一環である。コミュニケーション能力の向上のために共同生活を行うことになっていたのだ。とはいえ、皆が疲労困憊であったので部屋は寝息が立つばかりで静かだった。携帯電話はカリキュラムに集中するため、という理由からスタッフたちに預けるルールになっていたので手元にはない。あっても弄る元気もないのが実情だった。
しかし、そんな状況下でも友仁は努力しようとする意志を捨ててはいなかった。重い体を引きずるようにベッドから身を起こした友仁は、トイレに向かう。そして、手洗い場にある鏡で、自分を見つめながらつぶやく。
「僕は一番になれる僕は一番になれる僕は一番になれる僕は一番になれる僕は一番になれる僕は一番になれる僕は一番になれる僕は一番になれる僕は一番になれる僕は一番になれる僕は一番になれる僕は一番になれる」
座学の時間に聞いた泉の話を、友仁は忠実に実行していた。いわく、鏡に向かって自分の実現したいことをつぶやき続けると自己イメージが高まり、目標に近づくことができるらしかった。
〈僕はまさに今、変わりつつある!〉鏡の中では友仁の目が、飢えた獣のような鋭さを帯びつつあった。
合宿は続いていく。毎日、朝日が昇る前に目覚め、日付が変わる頃に眠る。穴掘りの翌日は集団行動訓練であった。協調性を身につける、という目的のもと参加者全員で集団行進を行うことになった。ただ行進するだけではなく、泉考案の〈夢実現の十カ条〉なる文章を大声で唱和しながらである。泉の許可が出るまで休憩は許されず、終わる頃には声を出せる者はいなくなっていた。
他にも、合格するまで休むことが許されないペーパーテスト、そのまた翌日は山の中での瞑想……といった内容のプログラムが行われていた。
プログラムの途中で泣き出したりする者もいたが、その際にはピースマイルのスタッフが取り囲み、大声で「頑張れ!」「逃げたらそこであなたの人生は終わりだよ!」「辛いのは君だけじゃない!」などと叱咤激励して、動けなくなれば引きずってでもカリキュラムの続行に至らせた。一日の終わりには参加者の間で奇妙な達成感と結束が生まれ、皆で肩を抱き合って自分たちを称え合うなどした。
研修に使用するテキストは全額が自腹購入であり、持ち合わせのない者は代金代わりのセミナーの手伝いの契約を組むことになっていた。友仁は持ち合わせが無かったので契約を組んだ。用紙には大量の免責事項が書かれていたが、細かくて複雑な文章を読んで考えるほどの力を失っていた友仁は言われるがままに署名をした。
合宿も後半に差し掛かろうとする四日目の夜。喉の渇きを覚えて目を覚ました友仁は、水を飲みに行こうとして、他の人を起こさぬよう気をつけながら、共同の寝室を出た。電気の消された暗い館内を歩いていると、エントランスの闇の中でコソコソと動いている四人ほどの人影を見つけた。
友仁は何事かと思い、距離を縮めて様子をうかがった。
「いいか、今から鍵を開けるからここからは何があっても全力で走って逃げるんだぞ」
「わかった、それで街についたら助けを呼ぶんだね」
「そうだ、はっきり言ってこの集団は異常だ。いくら頼んでも帰らせてもらえないんだ」
「もしかして、カルト集団ってやつかな?」
「よし、行くぞ。準備はいいな?」
最初は泥棒などの類かもしれないと思っていた友仁だったが、彼らの会話を聞いて事情を察した。彼らは合宿からの「脱走者」だった。
その時「誰だ!」と声がエントランスに響き渡り、脱走者たちと友仁は懐中電灯のまぶしい光で照らされた。ピースマイルのジャケットを着た男が歩み寄ってくる。見回りをしていたスタッフのようだった。
「何やってるんだ、お前たち」男の顔には怒りの表情が浮かんでいた。
「やばい逃げろ!」脱走者たちが一斉に外へ逃げ出した。友仁はパニックになって、一緒に逃げ出してしまった。
「脱走者が出たぞ! みんな追ってくれ!」背後でスタッフの叫ぶ声が聞こえた。
とんでもないことに巻き込まれてしまった! と友仁は激しく後悔したが、もう取り返しはつかない。
「さっさと来やがれ、この野郎!」
「違うんです、誤解です、僕は」結局、捕まった友仁はスタッフに首根っこをつかまれてペンションに連れ帰られていた。
「言い訳してんじゃねえ、脱走者のくせによ」
ペンションのメインホールに連れてこられた。そこには泉とピースマイルのスタッフが集まっていた。一緒に逃げ出した脱走者たちも連行されて、ロープで体を縛られている。
「これで全部か?」泉が問うと、スタッフは肯定した。友仁は床に放り出される。
「かーっ! まったく、もう。なんで逃げ出すかねえ」椅子にだらしなく腰掛けた泉が不機嫌そうに言った。
「違うんです、僕はただ飲み物を買いに行っていただけで」友仁はおろおろと弁明したが「誰が喋っていいなんて言った!」と泉が友仁のもとへ行き、尖った靴の先で友仁の鳩尾を蹴飛ばした。悶える友仁に顔を近づけて「困るんだよねえ、商売の邪魔されちゃ」と脅すような口調で言った。
「あなたは何者なんですか? どうしてこんなことを?」
「俺? 俺は泉だよ。お前らみたいなアホどもから金を巻き上げてリッチに生きたいと思ってるただの男だよ」泉はうずくまる友仁を鼻で笑って、もう一度蹴りを入れた。
「泉さん、こいつらどうするんですか?」
泉を呼んだのは初日のセミナーを途中でやめて出ていってしまった二人だった。あの怒っていた男と泣いていた女である。どうしてあの二人がここにいるんだ、と友仁の頭は混乱に満ちていく。
「制裁するに決まってんだろ、それくらい理解しろよ! そんなんだからサクラ役ぐらいしかできねえんだよ、このタコ! ボサっとしてねえでさっさと脱走者どもを制裁するんだよ!」
サクラって、あの二人は演技で参加していたのか? 友仁は痛みで声も出せないまま、泉の指示によって団員たちの手で床に押さえつけられた。制裁とはなんだ、一体何をされるのか。想像しただけで友仁の目に涙が浮かんだ。
「皆川くん!」菰野が叫んだ。
「なんだ菰野、お前が連れてきたヤツなのか?」泉は菰野に顔を間近に近づけてにらみつける。菰野は無言でうなづく。
泉は「お前が蒔いた種なんだから自分で責任取らねえといけねえよな?」と言って菰野に何かを手渡した。
必死に暴れる友仁のもとに菰野がやってきた。手には注射器が握られている。
「菰野さん、何が起きてるのさ?」友仁がパニックを起こしながら訪ねる。
「ごめんね、友仁くん。でも言う通りにしないといけないの。泉社長の指示は絶対だから」と、菰野は虚ろに答えた。
「それでも、こんなの間違ってる!」
「何を言っても無駄だぜ。なにせ、菰野のやつはうちの商品の買い過ぎで、俺に借金してやがるからな。おかげですっかり俺の奴隷になったってわけだ!」泉が狂ったように笑いながら言った。
「なんて奴だ! 悩みを抱えた人につけこんで、ひどいヤツめ!」
「ヒドイだって? おいおい、そりゃねえぜ。騙されるやつが悪いんじゃねえか!」泉の声を聴いた友仁は叫びながら暴れたが、押さえつける団員たちを引き剥がせなかった。そして、注射器の針が腕に突き刺さる感覚がする。
〈こんなの嫌だ! 誰か助けて!〉
そのとき、メインホールのドアが勢いよく開かれた。
「よう! いい泣きっ面してやがるじゃねえか、友仁!」入り口のところに立って声を掛けてきたのは昴だった。
泉たちは突然現れた、妙な格好の人物に困惑している。
「誰だ、お前!」団員の一人が叫ぶ。
「藤枝昴ってもんだよ! 人に名を訪ねるときゃあ、自分から名乗りやがれ!」
「昴、お前がどうしてここに?」友仁もどうしてここに昴が現れたのかわからず戸惑う。
どよめく団員たちの中から、菰野が割って出てきた。
「一体、なんの用かしら。皆川くんを連れ戻しにきたっていうなら、そうはいかないわ。皆川くんはもうすでに私たちの仲間なの。彼は自ら望んでここにやってきた。そして、私たちは彼が自分の夢をキャッチできるような人間になるための応援をしているのよ。それを邪魔するっていうの?」
「話は全部聞かせてもらったぜ。変な薬で洗脳することを〈応援〉っていうのか? それは初耳だな」昴は鼻で笑いながら続ける。
「菰野、お前は知らねえだろうが、友仁はお前さんに惚れてたんだぜ。そんなやつを騙してると知って、何とも思わねえのか?」
「知ってるわよ、そんなことぐらい。でも私には関係ないし、何とも思わないわ。皆川くんが勝手に私に惚れただけでしょ。もし、付き合うにしても、こんな童貞くさい男、ゴメンだわ!」
〈童貞くさいやつ!〉
友仁は激しいショックで気を失いそうになる。
「だとよ、友仁。聞いたか」
と、昴が言ったのを、友仁は音としては受けとっていたが、意味が頭の中で正しく理解できていなかった。
「残念だが、俺は友仁の野郎を助けに来たわけじゃねえ。用事があるのは菰野、テメエだ」
「私に何の用があるっていうのよ」
「俺が誰だか忘れたのか、菰野利紗、いや、
「その名前で私を呼ぶな! そんな人間はもういない!」
「そうだな、俺の親友だった奴はもうここにはいない。ただの哀れな小娘が喚いてるだけだ」
昴がタバコを取り出し、しかめっ面で火をつけた。
「恩人だって? 昴、お前、菰野さんとどういう関係なんだ?」
「友仁よぉ、以前、俺に尋ねたよな、どうして大学に入ったんだってな。それはコイツに会うためだ」
顔の傷をさすりながら昴はつづける。
「なんでかは知らねえが、高校のとき俺はクラスの連中にこっぴどくやられてね。モノを壊されたり、妙な噂を流されたり、挙句の果てには暴力まで振るわれた。異端者を見つけたら、害がなくても排除したがるってのは人間の悪いところだ。だが同じクラスに一人だけ妙なやつがいてな、こんな俺にずっとかまってくるんだ。高岡利紗って奴だ。巻き込まれるから俺に関わるなって言っても、聞きやしねえ」
罵声が響いていたメインホールはいつしか静まり返っていた。
「いつしか、俺は高岡利紗とつるむようになった。他愛もないことばかりしてたが、俺はそれで幸せだった。地獄のような日々から救われたような気分だった。優しくて良い奴だったんだ。でも、そいつは自分の内気でウジウジした性格と、太ってる体形をすごく気にしてた。ある日突然に、そいつは俺の前から姿を消した。家庭の事情だったらしいとは後から聞いた。何度も連絡したが、随分と長い間、連絡もつかないままだった。ある日、若蘭大学にそいつがいるという噂を聞きつけた俺はもう一度会えるかもしれないと、一縷の望みを託して入学した。金がねえからそうせざるを得なかったんだが、特待生になるためにバカみてえに勉強までしたんだぜ」
昴が特待生! 友仁は意外な昴の賢さを知りあっけにとられるばかりであった。
「だが、久しぶりに会ったそいつは俺の知ってる人間じゃなくなってた。苗字や見てくれだけじゃねえ、人を危険に誘い込むような奴に変わっちまってたんだ」
昴は悲しげな顔で菰野を見ていた。
「どうして……どうして! どうしてそこまでして私に会おうとしたのよ! バカじゃないの?」菰野が叫んだ。
「ああ、とんでもねえバカさ。俺はただ見て欲しかったんだよ。いつかお前がくれた本の主人公みたいに強く生きる俺の姿を」
「ジャック・ジョーンズ?」
友仁は不意に言葉にしていた。昴がバイブルとまで呼ぶ本。昴が異常なほどにこだわりを見せる理由を友仁は悟った。
「何それ? ジャック・ジョーンズ? くくっ、あんたって本当にバカなのね、藤枝さん。イタズラで古品回収のゴミから拝借してきた本を後生大事にして、ヘンテコな格好までして私に会いに来るなんて!」
昴がピクリと反応する。菰野は続けて言った。
「知ってた? 悪い噂を流したり、濡れ衣を被せたりして、あんたがいじめられるように仕向けてたのは私よ。最高だったわ、散々ボロボロにされてから、お情けをかけるフリして一緒にいてあげたときのアンタのバカみたいな顔!」
「……どうしてそんなことを?」昴が菰野に問う。
「どうしてって? 気に食わなかったのよ、傷面のくせにスカした態度とってるアンタが! 周りの人たちに顔の傷をバカにされても、アナタは表情ひとつ変えなかったじゃない! なんで自分のコンプレックスを気にせずに生きていけるのよ! 私はいつも親に体形のことをからかわれてたから、自分を好きになるなんてできなかったのに……」
「もうやめろ、利紗。こんなことしてて何になる!」
「うるさい、指図するな! 私を下に見てるからそんなこと言うんでしょ! 何様のつもり? アンタなんか大嫌いよ!」
「じゃあ、なんで腕のミサンガを外さないんだ!」昴が一喝した。
「昔、俺と一緒に作ったやつだろ、覚えてるさ。そんなヨレヨレになるまでつけてる理由はなんだ? 俺が嫌いならとっとと捨てちまえばいいのによ」昴は腕にはめたミサンガを菰野に見せつける。
菰野は黙り込んでうつむくと、肩を小さく震わせ始めた。頬から流れた雫がいくつも床に落ちる。
「……わかってるわ、こんなことしても何にもならないって。でも、こうしてないとちっぽけさで自分が壊れそうなのよ。それにもう手遅れよ。沢山の人を巻き込んできたもの」友仁にとってはなんでもそつなくこなす完璧人間に思えた菰野が、子どものように泣きじゃくりながら話している。その姿を見て、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「おい、クソガキィ! 黙って聞いてりゃ好き放題しやがって!」泉が怒鳴り、菰野をはたき飛ばした。菰野は短い悲鳴をあげて床に転がる。
「利紗!」
昴は菰野のもとに駆け寄ろうとしたが、泉が立ちふさがる。
「話はあとだな。まずはこのオッサンを黙らせねえと」
「なんだと、もういっぺん言ってみろ、この野郎!」泉が怒り狂って拳を振り上げる。
「おっと。俺を殴るとコイツをバラまくぞ!」
昴はそう叫んで、泉と団員たちを牽制した。泉は拳をピタリ、と止めた。
高く掲げられた手には白いビニール袋が下げられていた。どうやら、中に何かが入っているようだ。
「何するつもりだ、お前!」と、団員の一人が叫んだ。
「この袋の中身はヤバいものが入ってる。開けたが最後、ここにいる奴らはタダではすまねえぜ」昴は悪い笑みを浮かべながら言った。
「やれるもんならやってみろ!」
「バカ、待て!」泉の制止も聞かずに団員たちが襲いかかる。
「やってやろうじゃねえか!」
昴は持っていた袋を激しくシェイクしてから放り投げた。中から大量の、小石くらいの物体が飛び出して散らばる。それらはなぜか床の上でモゾモゾと蠢いている。正体は大量のカメムシだった。空調を効かせていたために部屋が密閉状態だったのが災いして、部屋中に悪臭が充満した。逃げようとして転ぶ者、悲鳴をあげる者、中には嘔吐する者まで現れて、会場内はパニックに陥った。取り押さえていた者たちがパニックになって離れたおかげで友仁は自由になった。
「臭っさ!」友仁は鼻を抑える。
「今のうちだ! お前も行くぞ!」昴が友仁と菰野の手を掴んで、部屋の外へ連れ出す。
「どこへ!?」
「話はあとだ! 外に車が止めてある、ここから逃げるぞ!」
「待ちやがれ、このクソガキ!」
泉は鬼のような形相を浮かべて昴をつかむと、頬を殴り飛ばした。さらに、床に倒れた昴の胸ぐらを掴んで、無理やり立ち上がらせる。
「昴!」と、友仁は叫んで、昴を助け出そうとしたが、再び取り抑えられて地面に這いつくばった。
「てめえのせいで商売あがったりだ!」
泉が泡を飛ばしながら怒鳴った。昴は口の周りに血を滲ませている。それでも、不敵な笑みを浮かべるのをやめない。
「ここに来る前に色々調べさせてもらったが、とんだビジネスをやってやがんだな。表向きは自己啓発や健康食品の販売、しかし裏では洗脳セミナー、それに違法薬物の販売。犯罪の見本市かよテメーは……ガッ!」泉が再び、昴を殴りつける。
「ガキが調子こきやがって! 俺は仕事の邪魔されんのが大嫌いなんだよ!」
「……菰野と友仁を放し……やがれ!」昴はよろけながらも泉をにらみ続ける。
「うるせえ! あの女も、あの男のガキも返してやらねえよ! 俺の大事な大事な金ヅルちゃんだからなあ!」
一言話すたびに、泉は昴を殴りつけた。顔が血にまみれていく。執拗に昴を殴りつける泉に、友仁は命の危険を感じた。
「もうやめて! 私がここに残りますから! だから二人を放して!」
菰野が泣きながら叫ぶ。
何とかして昴と菰野さんを助けなければ。そう思ったが、やはり身動きはとれない。
万事休す、かと思った矢先、指先に固い感触があった。昴のポケットから転げ落ちたライターだった。ポケットに入れていたのが転がり落ちたのだ。
これしかない、と友仁は必死でライターに手を伸ばす。この瞬間にも昴は殴られていて、床には血しぶきがどんどん増えていく。
〈バッターボックスに立たなきゃホームランは打てないんだよ!〉
友仁の頭に言葉がよぎる。
〈例え、千回空振りしても、千一回目はもしかしたら打てるかもしれない。だから、今まで自分が頑張ってきたことを無駄にしちゃダメ!〉
届かない、手がちぎれそうなほどに伸ばす。それでもまだ届かない。まるで空の月をつかもうと手を伸ばしているようだった。
〈私、信じてるから! 皆川くんなら絶対にできるよ!〉
伸ばした手が確かにライターをつかんだ。そして、何度も指を滑らせながらも、押さえつけている団員の服に火をつける。
「熱っ! ってうわあああ!」
友仁を押さえつけていた団員たちを振りほどいた友仁は、うおおおおお、と叫び声をあげながら泉にめがけてタックルを仕掛ける。泉は姿勢をくずして昴を離した。
「菰野さん、君がいるべきはここじゃない! きっと他にも方法がある。君が教えてくれたんだろ、あきらめるなって!
「ナイスだ友仁!」
「させるか!」泉が立ち上がって殴りかかろうとする。
「おっさん、よくもやってくれたな。こいつは俺からのお返しだぜ!」
昴は右手をゆっくり前に出す。それから、フランクフルトのごとく逞しい太い指を極限までたわませて泉の鼻に強烈なデコピン、いや〈鼻ピン〉を食らわせた。ベチイ! と鈍い音が響く。
「はがが! はがのほげが!」泉は床を転げ回りながら喚いていた。骨が折れたのか、鼻からは大量の血が垂れている。
「ツリはいらねえよ、とっときな」「カッコよくキメてる場合か、逃げるぞ!」「ち、ちょっと!」
友仁と昴、そして菰野はメインホールを脱出する。
ペンションの外に出た三人は、ペンションの駐車場までやってきた。
「俺の車はあそこだ。まあ、俺の車っていってもレンタカーだが……」
昴が指差した先には四角いバンが止まっていた。
「なんでもいいよ! とりあえず、ここから離れよう!」
背後から団員たちが追いかけて来ていた。
「しつこい奴らだな!」
三人は車に飛び乗ると、すぐに鍵を閉めた。運転席の昴はエンジンをかけようとするが、かからない。
「くそ、こんな時に限って!」昴はイラつきながら、エンジンをかけようとする。
クソ! と昴はハンドルを拳で叩きつける。
まるで、映画のワンシーンみたいだ。友仁は余計なことを考えてる場合じゃないとは重々承知していながらも、ついつい考えてしまった。そして、パニックになっても僕の下らない想像は止まらないものなのか、と呆れた。
団員たちは車を囲んで、出てこい!逃げるな! などと喚きながら窓ガラスを叩いて、車を揺らす。まるで、ゾンビの群れだった。
「バカ野郎ども! コイツは借りもんなんだぞ、乱暴に扱うな!」昴が窓の外に向かって叫ぶ。
「まだエンジンかからないの?」菰野は昴に催促するように問うた。
「今やってるよ!」
が、昴は何度かキーを回してから、急にエンジンをかけるのをやめて、こともあろうにタバコを吸いはじめた。煙を吸って噎せる。車内の空気が曇っていく。
「こんなときに何やってんだ! どうしたんだよ!」
「やめたやめた、ここまでだ。俺たちにはもうなす術はねえ」
「ウソでしょ!? 何やってんのよ!」
自分の人生はこんなところで終わってしまうのか、このあと連れ去られて見るも無残に――友仁は恐怖のあまり、パニックを起こしていた。
そのとき、遠くのほうでサイレンのような音が聞こえた。パニックからくる耳鳴りかそれとも幻聴か。友仁は自分がおかしくなってしまったのだ、と絶望した。音はどんどん大きくなる。
「俺たちにできることはもうない」
昴は二人に目も合わせないまま、つぶやいた。
「でも、俺たち以外にはやれることが山ほどある」
甲高いサイレンとともに、遠くからやってきたのは大量のパトカーだった。
「遅えじゃねえか」
昴はタバコを燻らせながら、不敵な笑みを浮かべる。
バンを囲んでいた団員たちは、警官たちに引っ張られていく。
友仁と昴、そして菰野は保護され、パトカーの後部座席に並んで座っていたが、菰野だけはピースマイル側の人間として、事情聴取のため警官に連れていかれた。
「なあ、どうして僕たちを助けに来てくれたんだ?」
友仁がそう尋ねると、昴は目も合わせずに答えた。
「お前を助けに来たんじゃねえよ。俺は俺の用を片付けに来ただけだ」
「なんだよそれ」
「お子様にゃわからねえよ」
すっかり疲れ果てていた友仁には、おかげでたかだか一歳年上の人間にお子様呼ばわりされたくない、と反論する元気もなかった。
「火、貸してくれたからな」
と、昴が突然に呟いた。
何だって? と友仁が聞き返す。
「初めて会ったとき、わざわざ自分から申し出て、俺に火を貸してくれたよな。その借りを返しただけだ」
「そんな些細なことのお礼のために? 」
「ああ。だが、簡単なことじゃねえ。そうだろ? お人好しさんよ」
「どっちがお人好しなんだか」
「無事か! 友仁! 昴ちゃん!」勢いよく開かれた車のドアの外には血相を変えた忍の姿があった。
「おじさん! 何でここに?」
「なんでって、俺は叔父さんだからここにいるんだ」
「説明になってないよ!」
「じゃあこれならどうだ? 俺の仕事だからだ!」
「ITの仕事と僕がこうなってるのと、どういう関係があるのさ」
「ああ、話せば長くなるんだが……」
どこから話したもんか、と忍は頭を抱えて、話をはじめた。
「まず、俺の仕事について教えてやる」
忍がそう言うと、「聞かなくても知ってるよ。 ITの仕事でしょ」友仁が素早く答えた。
「そう。確かに ITの仕事だ。ここでお前に質問だ。 ITって何だと思う?」
「 ITって何と言われても。なんか、パソコンとかいじってるイメージがあるけど」
「そう、それも ITの仕事だな。だが、俺がやっている仕事はそうじゃない」
「じゃあ、なんなの?」
「危険を求めて、夜の街を駆け巡る……」
「そんなのはいいから!」
「わかったよ、急かすなって……探偵だよ。秘密なのが大事な職業だったからな。今まで言えなくてすまんかった」
「ええ! おじさんが探偵? 何言ってんの、冗談でしょ?」
「いや、ほんとの話だ。信じられんかもしれんがな」
「じゃあ、おじさんは僕にウソをついてたんだ。〈俺はお前に嘘をついたことはない〉って言ってたのに。もう、誰を信じたらいいんだ。人間不信になるよ」
「待て、俺はウソを言ってたわけじゃない」
「これがウソじゃないなら、なんなのさ!」
「たしかに、俺がただの探偵なら、ウソになる。でも、俺はただの探偵じゃなくて〈いい探偵〉だからな」
「いい探偵だから何だって言うのさ」
「いい探偵だからITの仕事なんじゃねえか。いい探偵、 Ii Tanteiの頭文字をとって、〈IT〉だ!」
この期に及んで、と、友仁はなんだか腹が立ってきた。
「おじさん、一つ言わせてもらうよ」
「どうした?」
「わかりにくいし、面白くない」
皆川友仁、十八歳。叔父に対する、初の反抗だった。
「こらぁ! このクサレ探偵、お前は何やっとんじゃ!」
忍を呼ぶのは、刑事と思しき壮年の男だった。グレーの着古されたコートを着ていて、髪には白髪が目立つ。顔には深い皺が寄っていて梅干やら干し柿を思わせる。
「おお!
「バッカもん! お前に呼ばれてやって来とるんだろうが!」
「まあまあ、落ち着いて……。それはさておき、今回は本当に助かった。本当にありがとうな。おかげで、甥っ子たちもこの通り無事だったよ」忍は橋本と呼ばれた、刑事らしき人物に頭を下げた。
「フン。そりゃあ良かったな。――全く、お前は昔からいらん事ばかりしてワシに手を焼かせとったが、その甥っ子にまで迷惑かけられるとは思いもせなんだわ」
「失礼します! 警部補どの、事情聴取の準備ができました!」警官が橋本に報告にやって来た。
「わかった、じゃあ後であんたらにも事情聴取するから、それまでおとなしくしとくんだぞ」
そう言い残して、橋本は友仁たちのもとを離れた。
友仁は何がなんだかさっぱりな状況になっていた。聞きたいことが山ほどありすぎて何から聞いていいものか頭を悩ませていた。
「おじさんが探偵なのはわかったけど」
「違うぞ、俺は〈いい〉探偵だ! 大事なところを省くんじゃない!」と、忍が妙なこだわりを見せる。
友仁はわかったよ、とおじさんをなだめてから、ため息をつく。
「おじさんが〈いい〉探偵なのはわかったけど、ここに来たのはどうしてさ」
「昴ちゃんが〈いい探偵〉である俺に依頼を申し込んできたんだよ。友仁が合宿に参加する前の晩のことだ。俺たちは一緒に飲みに行ってたんだが、そこで依頼を受けた。最初聞いたときはびっくりしたぜ、本職の俺より探偵みたいな格好したやつから依頼を受けるなんてな。もっとも、本当の探偵は〈探偵みたい〉な格好はしないが……それはさておき、依頼内容も〈俺の友人たちを助けてくれ。やべえ奴らに捕まった〉なんて言っててよ。そのうえ、仲間ってのが友仁だと知ったときには腰を抜かしかけたぜ。俺はテレビドラマの世界の中に自分が入っちまったのかと思ったよ」
叔父さんはあきれた様子で笑っている。
「昴。なんで、直に警察に頼まなかったんだよ」
「そのときはまだ事件が起こってなかったからな。それで、探偵に頼んだってわけだ」
「なるほど。でも、おじさん。よくこの場所がわかったね」
「そりゃ探偵だからな。しかし一人でやったわけじゃない。手伝ってもらったんだ」
「誰に」
「誰って? そりゃもちろん百人の友達だよ。みんなから情報をかき集めてこの場所を突き止めた」
叔父さんは探偵業をやっているかなり豊富な人脈を持っていたらしい。そして、その人たちに協力してもらっていたわけだ。その人たちを「友達」と呼んでいたらしい。
「あれ、本当の話だったんだ」
「だから言っただろ? 俺が嘘をついたことがあるかってな。肝心なことを言わないだけだ」
友仁の頭はますます混乱してきた。自分の叔父が探偵で、自分を助けようとした昴が仕事を依頼した探偵が忍で、百人の友達を使って自分を探してくれて……。
「で、友仁を助けるのは警察に任せようとしてたんだ。素人が半端に手を出すとかえってマズイと思ったんでな。ところが、昴ちゃんが独走して乗り込んじまってよ。それで、俺は急いで警察に連絡したってわけだ。あの橋本のおっさんを経由してな」
「あの橋本って刑事さんはおじさんの知り合いなの? なんかとても訳ありな感じだったけど……」
「そうとも! 俺が大学のころからの知り合いでな。なんで関係があるのかは長い話になるから省くが……。ともかく、友達さ。ともかく橋本のおっさん経由ならば話が早いだろうと連絡をとったわけだ」
友仁は自分の叔父の知らない側面を知って、さらに混乱した。脳みそが爆発しそうになったので、忍の過去についてはまた今度聞くことにしようと決めた。とりあえず、自分の叔父で探偵だ、という事実だけで充分にビックリしていたのである。
「そうだ。昴。君にも聞きたいことが山ほどある」
「何だよ、いきなり」突然、話を振られた昴は体をビクリとさせた。
「さっき、僕を助けようとしたときカメムシをばら撒いたけど、なんでカメムシなのさ? しかもあんなに大量のカメムシどこから連れてきたんだよ?」
「ああ、あれか。お前を助けだそうと車で駆けつけたのはいいんだけど護身用の武器とか全く持ってない、って気づいたんだよ。それでペンションに向かう途中、古い材木置き場を見つけてよ。角材だの置いてあったら、手頃なやつを拝借しようと思って、探してるときにデカい板の裏側にびっしりカメムシがついてやがんの。気絶しそうだったぜ」
ちょっとしたホラーだな、と場面を想像した友仁は身ぶるいした。
「ただ、これをぶち撒けたら角材より強いんじゃねえかと思ってよ。車の中にあったコンビニのビニール袋に詰め込んで、持っていったってわけだ。詰め込むのは大変だったぜ。何匹か暴発したしな。ありゃあ地獄だ、二度とやりたくねえ」
どうりで昴から若干の異臭がするんだな、と友仁は納得した。
「カメムシ嫌いなんじゃなかったっけ?」
「思い出しただけで震えがくるが、四の五の言ってる場合じゃなかったからよ」照れくさそうに昴がいう。
友仁は思い出していた。かつてカメムシが服について彼方に逃走していった昴の姿を。あれほど嫌がっていたものに頓着しないほど昴は必死だったのだと思うと、友仁はなぜだかとても胸が熱くなった。
昴がタバコに火をつけるのをみて、友仁はもう一つ聞きたいことを思い出した。
「なんで、デコピンなんだよ。泉さんを倒すの」
「俺がうら若き十代のころ、一人ぼっちで時間を持て余してたんだよ。それで消しゴムをはじいて過ごしてたんだが、いつの間にやら指が鍛えられてすげえ逞しくなってよ。見てみろよ」
昴が差し出したフランクフルトのように太い指を見て、そんなのってアリかよ! と仰天する。カメムシの一件での感動が妙な驚きで消し飛んだ。
〈つーか、うら若き十代って!〉
頃合いを見計らっていたのか、忍がさて、と言って話を切り出す。
「昴ちゃん、今回は君のおかげで友仁は無事だった。本当にありがとう。礼を言わせてもらうよ。でも、もう二度と、一人で危ない奴らのところに乗り込むなんてもうやっちゃいけないぞ。女の子なんだから尚更だ」
待て。今、叔父さんは何て言った? 友人は自分の耳を疑う。
「ちょっと待って、昴! お前、女だったのか?」
「今さら気づいてんじゃねえよ!」
こんな場末の探偵、あるいは殺しのプロフェッショナルみたいな格好をした女性がいるとは友仁には想像もつかなかった。だが思い返してみれば、昴が女性であるのが窺えるような出来事もあった。まず、最初に会ったときバーで女子トイレに入ったことだ。あれは昴の間違いではなく、ごく自然な行動であったのだが、たまたま先に入っていた人が昴のことを男だと勘違いしてしまったのだ。探昴が〈誤解だ!〉と言っていたのは、全くもってその通りなのである。
以前の飲み会で〈童貞じゃない〉とはっきり言い切ったのも昴が女だからだ。言うまでもないが、女では童貞になりようがない。さらに〈友達を作ってやる〉と大学で女子にばかり声をかけて回っていたのも、同性のほうが声を掛けやすかったからなのだろう。
「何がなんだか、もうサッパリだよ・・・。おじさんはなんで昴が女だってわかったのさ」
「連絡用に俺の名刺を渡したとき、昴ちゃんが言ったんだよ。忍って名前、女子にも使える名前だから、学生時代からかわれませんでしたか、ってな。で、俺も聞き返したわけだ。君はどうだったってな。昴って名前も男女兼用の名前だしな」
忍はタバコを咥えて、火をつけた。
「で、昴ちゃんは答えたわけだ。『俺もよく男みたいだってからかわれてました』ってな」
「なるほどね、しかし、緊急時にするような話じゃないね」
「あん時は頭がこんがらがって、トンチンカンな事しか言えなかったんだよ」
「トンチンカンな事しか言えないのは、いつものことだろ」
僕がそう言い終わるや否や、昴はうるせえ、と言いながら僕の肩にパンチしてきた。全然痛くないパンチだった。しかし、そのあとに間伐をいれずに叩き込まれたデコピンは涙が出るほど痛かった。なるほど、これならパンチよりこっちを選ぶな、と額を押さえながら妙に納得した。
「痛たたた……ん? あれは菰野さんだ!」
友仁は車窓から菰野が警官に付き添われて歩いているのを見つけて、昴とともに菰野のもとへ駆け寄る。
「こらこら、邪魔するんじゃない! これから署まで行くんだから」
橋本が二人をたしなめる。
「いいじゃねえか、おっさん。五分だけ時間くれよ」
「誰がおっさんだ! 全く最近の若いのは……!」
いつの間にかついてきていた忍がまあまあ、と橋本をなだめる。
菰野は覇気がなくなっていて、背筋を丸めて、虚ろな雰囲気を漂わせていた。
「……ごめんね、二人とも」
泣くのをこらえているような、弱々しい菰野の声を聴いて友仁はかける言葉を失った。
「なんてツラしてやがる、みっともねえ。どうだい、見下してた奴と同じところまで落ちてきた気分はよ?」
悪態をついてはいたが、昴の表情は怒ってはおらず、むしろ悲しそうでさえあった。
菰野は自分の手を掲げた。手首のミサンガが顔と同じ高さまで来た。
「このミサンガに〈藤枝さんと対等でいられる自分になれますように〉って願いをこめてた。これがちぎれるとき願いが叶うんだって聞いて、それまでは外さないと決めていたの。何をしてでも自分の願いを叶えようと誓った。誰かを蹴落としてでもね。でも、今から考えるとバカみたいだわ。そんな調子じゃ、あなたに追いつけるはずもないのにね」
「じゃあ、その願いを今夜叶えてやるよ」
昴は菰野のミサンガを両手で握ると、勢いよく引きちぎった。
「ようこそ、バカの世界へ。どうだい、夢がかなった気分は?」
昴が菰野に笑いかける。菰野はただ驚いたような顔をして、何も言わず昴を見ている。そこに昴に対する敵意は無かった。そして、三人は顔を見合わせてから大笑いした。疲れ切っているはずなのに、なぜか笑いが止まらなかった。
「なんだ、アイツら? 気味悪いったらありゃしねえ」
橋本は冷ややかに三人を見つめていた。
「もう行かなくちゃ。二人とも、本当にごめんなさい。それから、ありがとう」
「おうおう、済々するぜ。とっとと消え失せろ。どことなりと行っちまえ」
「お前は憎まれ口ばかり叩いて! ……本当は寂しいくせに」
黙っとれ、と昴は友仁の額に強烈なデコピンを食らわせた。額を抑えて友仁はうずくまる。
「もう、会うことはないかもしれないけど、今度こそは本当に立派な人間になって見せるわ。真っ当なやり方でね!」
もう時間だぞ、と橋本が菰野を連れていき、パトカーに乗せる。
お元気で! と友仁が大きく手をふり、昴はタバコに火をつける。
徐々に遠くなっていくパトカーの後ろ姿を、二人は見えなくなるまで見送った。
事件から一週間が経過した日、友仁は〈リトル・ロマンス〉にやってきた。
「こっちだ」
昴が友仁に向かって手を振る。
「遅れてごめん」待ち合わせに遅れたのを詫びた友仁は昴の隣の席に腰掛ける。
「別に構わねえよ。それより、火、貸してくれ」
「いいよ。またライター無くしたの?」
「いや、今度はガス切れだ」
友仁はマスターに頼んでライターをもらうと、昴が咥えているタバコに火をつけてあげた。合宿の一件で服に火をつけたときから、ライターの扱いにこなれて、軽々と火をつけられるようになったのである。
「あの一件からもう一週間か、早いもんだな」
「そうだね」と友仁はつぶやく。
事件から一週間は事情聴取やらなにやらであっという間に過ぎていった。
泉と暴行を働いていた団員たちは暴行等の容疑によって逮捕され、ピースマイルも解散した。
友仁は橋本や忍に次のような話を聞いた。
泉はかねてより暴力・詐欺などの犯罪を重ねていた悪党であり、合宿の最初の映像で語られていた泉の経歴はウソであること。例の合宿は泉の最たる悪行であり、参加者を過酷なプログラムの履行によって洗脳し、高額の商品を売りつけ、意を唱える者や脱走者に対しては薬物の使用も辞さない凶悪な手口で多くの被害者を出していたこと。ピースマイルは泉が合宿やセミナーに人を集めるための組織であったこと、などである。ピースマイルの団員は泉の素性を知らず、活動に参加していた者は多く、岩瀬などはまさにそうだったとのことであった。友仁はいかに自分が危険なことに巻き込まれていたのかを改めて実感し、話を聞くだけで卒倒しそうになっていた。
「菰野さん、元気にしてるかな?」
友仁が菰野を見たのはあの事件の日が最後で、それきり連絡がつかず、どうやら学校も辞めたらしい。
〈菰野さんは確かに僕を騙そうとした。それはいけないことだ。しかし、もし僕が彼女と同じ立場だったなら、同じ道を辿っていたかもしれない。それに菰野さんは僕の初恋の人なのだ。こんな結末になってしまったけど、それでも初恋の人であるのに変わりはない〉
そう考えると友仁は菰野を強く責めることはできなかった。
「あの事件はショックだったよ。わかってるんだ、当然の結末だって。それでも、なんだかね」
「そうだろうな」昴はそれ以上何も言わず、タバコを吸い続けている。
「菰野さん、今頃どうしてるんだろうね」
「知らねえよ。ただ一つだけ言えるのは」
次の言葉を催促するように友仁は昴を見つめる。
「あいつがこれくらいで折れるタマじゃねえってことだ。そこだけはアイツを信じてるさ。それにもうアイツは自由だ。ミサンガも切れたしな」
「寂しくないの? 友達だったんでしょ?」
「あいつは菰野利紗であって、高岡利紗じゃないからな」そう答えた昴の目は、どこか遠くを見ているようだった。
「改めてお礼を言わせてもらうよ。昴、本当にありがとう」
「俺は自分のやりてえようにやっただけだ。礼を言われる筋合いはねえよ」
昴はタバコを灰皿でもみ消すと「さて、あとはアレを出したら終わりだな」とつぶやく。
アレって何さ、と友仁が尋ねると、昴の手は〈退学届〉と書かれた用紙を突き出した。
「まさか、おまえも大学辞める気かよ!」
「もう、あそこに用はねえからな」
「そんな、僕はこれからどうしたらいいんだよ!」
友仁は昴のほうを向いたまま固まった。
「友仁、お前、やっぱりいい名前してるぜ。だから、胸張って生きろよ。お前なら大丈夫さ」
昴は大きなため息をついてから、のっそり席を立ち、マスターに勘定を頼む。
「……用ならまだ終わってないさ」友仁が呟く。
「何の話だよ?」
「僕の友達作りがまだだろ。だから、勝手に辞めるなよ」
「懲りねえやつだな、お前も」
「そこでさ、あの、えっと。昴――」
ひと呼吸の間を置いてから。
「僕の友達になってくれ!」
「はぁ!?」昴が素っ頓狂な声を上げる。
「そんなセリフ、よく堂々と言えるな。聞いてるこっちが恥ずかしいぜ」昴は片手で顔を覆いながら言う。
「僕もすごく恥ずかしい。けど、これはウソじゃない。本当の気持ちなんだ」そう言いながら、友仁は自分の顔が熱くなっているのを感じていた。
「まったく、どいつもこいつも」昴は大きなため息をついてから、席に戻ると「マスター、勘定はなしだ。かわりにバーボンを。銘柄はそうだな……〈ジェントル・ターキー〉を」と追加の注文をする。
「あれはスコッチですが、よろしいですか?」マスターが確認をとる。
「もはや、何でもいいさ」昴が力なく笑いながら答える。
〈ジェントル・ターキー〉が到着するなり、昴がグラスを友仁に向かって掲げる。
「もしかして乾杯しようとしてるの? でも一体何に対してさ?」
「友仁って名前だよ。今のお前さんにゃピッタリな名前じゃねえか」
グラス同士がぶつかりあって、小さく澄んだ音を立てる。
マスターが無言で二人の前に〈たまごボロロ♪〉を置く。
パッケージの絵の中、ニワトリの後ろで、ヒヨコが卵の割れ目から顔を覗かせていた。
事実は小説よりも奇なり、ね。
探偵事務所の椅子に腰かけ、デスクの上に置かれた「ジャック・ジョーンズの危険な夜」の表紙を撫でる。忍はこれまでの人生について、ぼんやり考えていた。
忍は器用で、何でもそつなくこなしてきた。友人もたくさんいたし、かなりモテた。
しかし、これといって打ち込める何かを持っておらず、物事に対する執着がなかった。だからなのか、たくさんの友人はできても深い仲にはほとんどならず、恋人もすぐにできるのだが、長くは続かなった。何かが欠けたような気持ちを持て余したまま漠然と生きてきた。
ところが、ある日、どうしても小説を書かなくてはいけないという思いに取り憑かれ、駆り立てられるように仕事を辞し、小説書きになった。自分の名前をアナグラムにしたペンネーム〈志波若信〉を名乗り、減り続ける貯金に頭を抱えながらも必死になって書いた。貯金が底を尽きて進退極まった頃、やっと賞をとった。だが、作品の売れ行きは芳しくなく、ファンレターなど一通も届かなかった。
ある日、ゴミ捨て場に自分の本が捨てられていたのを見かけ、あまりのショックに筆を折った。その後は生活のために探偵の仕事をはじめた。大学時代に探偵まがいの商売をしていた経験が影響していた。持ち前の器用さを活かして淡々と仕事をこなす日々は悪くはなかったが、大切な何かを失ったような気がしてならなかった。
しかし、〈リトル・ロマンス〉で昴に出会い、自分の書いた本を〈人生のバイブル〉とまで言ってくれる人がいたこと。それがウイスキー入りのグラスを落とすほどに嬉しかった。おまけに、その人は自分の大切な甥っ子の恩人になったのだ。
また、書いてみるか。
椅子からゆっくりと立ち上がった忍は、万年筆と辞書を探して戸棚を漁り始める。(了)
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