第15話 良き夫
田上を追って甲板に出ると、海と空の青さが眩しいほど美しく僕の視界を埋め尽くした。思わず深呼吸をした。吸い込んだ潮風が夏の始まりを僕の全身に告げていた。
するとさっきまでの頭痛が嘘のように晴れていき、僕が昨夜見た光景は、僕の悪夢で、僕の勘違いで、僕の思い込みだと感じた。途端に空腹にたえられなくなった。考えてみたら昨日の昼から何も食べていなかった。
さっき田上に渡された袋を開け僕は貪るようにパンにかじりついた。こんなに食べ物を美味しく感じたことはなかった。美味かった。ジュースを飲んだ。思わずため息が出るほど、美味かった。身体に染み渡っていく。一気に平らげて大きく息をついた。また、潮風が強張った身体をほぐしてくれた。
ふと目をあげると反対側のデッキで田上がまだ電話を続けていた。僕は、朝食のお礼を言おうと思い近づいた。たとえ相手が僕の家族をぶち壊す敵だとしても、お礼を言いたくなるほど、美味い朝食だった。そして、なぜだかわからないけれどこいつにお礼を言ったら、昨日見たことが、本当にただの悪夢になってくれるような気がした。
電話が終わるのを待っていた僕の耳に聞こえてきたのは、意外な内容だった。
「そうなんだよ。バイクでと思ってたのにこっち雨予報出ててさ。楽しめなくなると思って車で出たよ。うん、大丈夫、車も楽しいよ。ありがとね、理沙子、仕事大変なのに俺だけ遊びきちゃってごめんね。うん。うん、大丈夫だよー。心配しないで。お土産何がいい?あー!いいね!この前一緒に行った店のでしょ?うん、わかった。待っててね。また電話するね。はい、はーい」
電話を切ると田上が振り返って僕を見た。僕は聞こえてきた内容と、甘く優しい声と、そしてそれらと全くそぐわない目の前の田上の風貌に混乱した。何より、昨夜見た、あの光景が、嘘に思えた。やっぱり昨日見たのはただの悪夢だったんだ。
「あれ?直人くん、どした?」
「あ、、、あの、パン、ありがとう」
「おー!食べたの?よかったよかった。じゃ俺戻ってるね。そろそろ下船だから支度してな」
田上には、妻がいる。
理沙子という人。
母には父さんがいる。
そうか!やっぱり、やっぱり、昨日見たと思ってた光景は、悪夢だったんだ。田上と母は、ただの友達同士なんだ。じゃなきゃ僕を連れて旅行なんて、できるわけないじゃないか。
目の前の真っ青な夏の海と同じように、僕の頭痛は嘘のように収まり、晴れやかな気分に包まれた。せっかくの僕の夏休みだ。せっかくの九州旅行だ。楽しまなくちゃ!僕は部屋に向かって走りながら、なんていやらしい悪夢を見ちゃったんだろう、と、笑ってしまった。
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