一部 三章 人形じゃない
1
通常であれば敵の射撃音というものは、自分の味方になってくれる。
サウンド・パッシブセンサーにより敵位置を割り出し、周囲の環境と照らし合わせ敵の遷移位置を予測する事が可能になるからだ。しかし、音響弾の併用や同時飽和攻撃時などの大音響、また断続的に音が重奏する空間だった場合は予測精度が極端に低下することもしばしばあった。
瀑音の絶えない広大な地下空間での戦闘は、まさにその典型と言えた。
湿度が高く薄暗く、そして天井が低い。
口端に流れ落ちた汗を舐め取る、その塩気で舌の味覚がまだ生きていたことを実感する。
敵の居場所は把握済みだったが、自分の居場所が良くなかった。遮蔽物が断続的な射撃でじわじわと削り取られる。背中に伝わる振動が明らかにさっきよりも強い。マップに表示される別の遮蔽物は絶妙に遠い位置にあり、下手に飛び出せば予測射撃の餌食となるだろう。
ひとつだけ策はあった、賭けに近いものだけれど。
ライフルの弾倉を交換し、機を窺う。やらなければやられるだけ、手段があるなら縋りつくしかない。
不意に射撃が止む。
誘いなのか単純に弾倉交換なのか、いやどうだっていい。とにかく敵の思考を許す先に遮蔽物から飛び出す。次の遷移位置なら有利を取れる。
コンクリートの床を踏み切る瞬間、外骨格の筋力アシストが働く。猛烈な加速に頬が引き攣る。一気に十五メートルは跳んだだろうか、人体の筋肉だけでは不可能な飛距離だ。しぶきを上げて着地、勢いを活かしたまま再び跳躍。
滞空の一瞬、さらに脚部に内蔵されたスラスターを噴射し滑空する。一拍置いてわたしの軌道を敵の射撃が後追いする。
スラスターの出力を上げて強引に加速する。射線を二次元機動だけで躱さなければならない、本当にこのフィールドは厭らしい。
加えてスラスターの噴射と着地、発砲による薬莢の落下。そのたびに足元で派手に水飛沫が舞う。床面には数センチほど水が張られていた。
「最悪…」
視界の端、天井にある導水管からこの地下演習場に滝のように水が注がれている。これが床面の惨状の理由であった。
閉暗所というのが今回の訓練想定ではあるが、水没していくことは事前に知らされていなかった。意図的に伏せていたのだろう、本当に厭らしい。
それでも死なない為の訓練だ、ここで手を抜いても実戦で死ぬだけと解っているから誰も文句はなかった。
まあわたしとしては別に死んだってかまわないのだけれど。
訓練用の強化装甲服は、本来であれば派手なオレンジ色をしていた。わたしも相手もそれは同じだった。しかし、網膜投影の上ではI.P.E制式仕様であるところの濃色として映っていた。視認性はぐんと下がる。それでも横目で彼女を捉える、銃口は軌道では無くわたしでもなく、その先を指向している。
「喰いつかれたッ」
逡巡の余地すらなかった。策は使ってこそ、その真価を発揮すると信じるしかない。
左腕外装に装着されたワイヤー・アンカー、それを数メートル先の天井に向けて射出する。そのまま着地。弾ける水飛沫に紛れる様にスラスター噴射をし、再び跳ぶ。そしてその一瞬後、ワイヤーを巻き上げる。空中に浮いた身体が、文字通り釣られるように上方へと引っ張られる。
直後、音が遠くなる。遮音機能が働いたのだ。同時に足元の空間を弾丸が埋め尽くした。強引ながらあの瞬間に軌道を変えていなければどうなっていたか、考えるまでもない。そのままワイヤーを限界まで巻き上げる。
アンカーをロックすると射出機である左腕を支点にして、天井に足裏を付けて起立する。反転した世界の中で右手に持ったライフルを照準する。
そして発砲。片手撃ちで暴れる照準を外骨格のアシストで抑え込みながら引き金を引き続ける。相手は急激に軌道を変えたこちらに追従しきれず、それが隙となっていた。薬莢が真上に落ちてゆく感覚は不気味だった。相手の装甲服が被弾する鈍い音をセンサーが拾う、だが撃破判定には至らない。
アンカーを解く、これ以上天井に張り付いているメリットが無い。ふらりと浮いた体がそのまま重力に絡め捕られるも、その際にスラスターを噴射する。視界が半回転して元に戻る。敵のシルエットがマズルフラッシュで輝く。一瞬前まで居た天井が弾痕に抉られた。
頭上から降り注ぐ天井の破片を払いつつ、遮蔽物であるコンクリート塊の裏に着地する。
ここからは軌道予測も先読みも意味を為さない、ただの力技。
筋力アシストのリミットを解除、軛を解かれた人工筋肉の発熱量が上昇する。インナースーツ越しの太腿が高まる熱を受け取る。
―稼働時間低下、ただちにリミッターを…
視界内に表示されたコーションサインを消去する。
「推進剤の残量は六三%、イケるかな」
アシストのリミッター解除で残余稼働時間はおよそ数分、これにアフターバーナーの併用を加味すれば保って三分弱。
「継戦という点で考えれば今回は赤点取っちゃいそう…だけど」
大腿部と腰背部のスラスターを展開し、更に増槽を強制イジェクトする。そして水位を増した足元に浮かぶタンクの一つを手に取る。
サイズは飲料用ボトルより一回り大きく、高効率推進剤が中に詰まっている。増槽は本来、イジェクトした時点でそのエネルギー量を封殺するために中和剤が添加される。しかし強制イジェクトの場合は別だ。装備からの速やかな投棄を最優先とするため、中和処理が行われないのだ。しかし今はそれを使う。
2
コンクリート塊には相変わらず着弾する嫌な音が響く。
タンクは一本で充分、それ以上はこの演習場を破壊しかねない。
膝下ほどまで溜まっている水が足に絡まる。リミッターを解除しても物理的な制約はどうしようもなかった。タンクを握った手を、グレネードを投げ込む要領で振りかぶり、天井めがけて投擲する。中和処理が施されていないとはいえ、タンクの耐衝撃構造はそこそこの高度からの自由落下に耐えるものとなっている。だが制限を解除されたアシストを用いて、全力で天井に投げつける場合では話が違った。
廃棄物処理場で潰される車両のようにタンクが天井で潰れる。強い衝撃を受けた燃料が次の瞬間、一気に燃焼の閃光を放つ。それは瞬時に猛烈な爆発現象となりとなって、頭上から降り注いだ。
音が遠くなったのは先ほどと同じ理由で遮音機能が働いた為だ。また更に遮光機能も展開し視界が暗転した。五感の内、音と視界が大幅に減されたのだ。しかしこれは相手も同じだろう。
視界は全くゼロというわけではなかった。目の前のコンクリート塊程度なら見通せた。
「アシスト、全開ッ!」
人工筋肉の発熱が更に増大する。アーマー表面からの放熱が触れた水を沸騰させ、足元の水面が激しく粟立つ。
ぐっと腰を下ろし構える。
相対するのは眼前のコンクリート塊、いやその向こうの相手だ。ボイスコントロールを受けた管制が蹴りに最適化した重心移動を促し、それに従う。
「…ッ、はっ!」
アシストとスラスター推力、全身をばねにした渾身の蹴りをコンクリートにぶつける。
猛烈な一撃。
それを受け止めた塊は、その躯体にヒビを奔らせながらも吹き飛ぶ。視界と音感を失った相手の方へ。無論その一撃だけで殺せるとは思っていない。
アンカーを足元に発射し固定。そのまま全身のスラスターを最大出力で点火する。
ピンと張り切ったワイヤーがぎちぎちと軋む。投げ捨てたライフルがしぶきを上げて沈んでいく。代わって胸元のナイフを抜き放つ。コンクリートが向こうの壁面へ叩き付けられる轟音を合図に、アンカーを解放した。
ワイヤーの負荷限界まで推力を溜めたこの身が、押しつぶされて身動きが取れないであろう相手へと、駆ける。
コンクリート片が下半身を覆っているために、彼女は動けなかった。わたしが首元を掴んでいなければ、水位の上がるこの演習場で水没していたことだろう。彼女の蒼い瞳に突きつけたナイフの、その切っ先は寸前で止めていた。爆発の衝撃で切れた髪留めが傍らに浮かんでいて、いつも三つ編みに結わえられている薄色の髪が暗い演習場の中で輝いて見えた。顎を伝って落ちる汗が彼女の胸元に落ちて弾ける。その雨だれのような光景だけがわたし
お互いのケモノのような粗い息遣いだけが世界を包んでいる、そんな気がした。
演習場の照明が次々に燈り、いつの間にか天井から注水される瀑音は止んでいた。
≪―演習終了。 梨々井ヒナコを保護した後に装備解除し、六〇分後に教室へ集合せよ≫
3
自分が自分として物理的に生じるために、親なる存在が必要と知ったのは知識というタワーを得てからだった。
わたし含め「施設」の子供たちは一様に無表情、今思うにあらゆる感情の授受を拒否していたに違いない。
施設に大人の姿は無く、あったのはそんな影だけ。
下半身が自走可能な台車、上半身にはアームと顔面に相当する部分に大型のタブレット端末。それが影ことわたし達の飼い主ドローン。外部と連絡はすべてこのタブレットを介したもの、それも毎朝の点呼と緊急連絡のみ。日課の指示なんかは画面表示と合成音声で伝えられる。
存在は匂うものの、実体が目の前に出てこない大人たち。故に影なのだ。
「施設」外へは基本的には出られず、また出ようと画策しようものなら即座に制裁が加えられる。けれど誰も不満は言わなかった。今思うと軟禁生活も同然だが、一人で生活するよりは遥かにマシであることを理解していたから。
けれどわたしたちは残念ながら、どうしたって人間だった。三大欲求も怒りも苦しみも恐怖も、受け入れを拒否したところで湧出することそれ自体は止められない。日々の食事に混ぜられた抑制剤の効果も、耐性が出来たのか年々効果が薄くなっている実感もある。
何よりスクールの生徒管理規約、それが身に迫る恐怖となって常に傍らに立っている。それが生む強烈なストレスは、感情の抑制と狂歪を並立させて時折爆発した。
4
広いロッカールームの片隅は、押し込めるような、内へ内へとへと向かう熱気に満ちていた。囁きに近い、しかし力の籠った声は悪意の語彙で彩られていて、内心またかと毒づく。
べつにこれは初めてじゃない。それどころかよくある事、慣れた事だった。
ロッカーに何かが叩き付けられる、その後に鈍い音がして、生理反射的に漏れ出る呻きが更に続く。ここからは見えないけれど、固く握られた拳が、膝が、罵声が、わたしに負けた彼女へと向けられているのだ。
今回の演習は、クラスの生徒を四つに分けてチームとした対抗演習という体で行われていた。結局わたしとヒナコの対戦は、結果の通り彼女の一方的な敗北として判定された。こちらにもペナルティが生じるつもりではいたが、存外にもそんなことは無かった。逆にヒナコのチームは彼女の敗北が決定打となって四チーム中の最下位を喫する結果となった。
わたしたち訓練生が抱えるストレスは、時折こうして爆発する。といっても、全員を巻き込む形でこのような私刑は行われない。あくまで直接的にかかわりがあった人間だけで行う、それが暗黙の了解だった。
それからしばらくして音が止んだ。
事が終ったらしく、あちらのチームのメンバーが角を曲がった先、袋小路になっている突き当りの方から出てくる。袋小路の奥にあるロッカーに着替えを置いていたわたしにとっては、あの中に混じる訳にもいかないのでとんだとばっちりだった。
「はあ、やっと着替えられる」
ヒナコ同じチームの同級生が、憎々しげにこちらを睨みながら去っていく。
だがその目線を真正面から受け止めてやる義理は無い。
負けは負け、敗因は技量の足りないそちらのせいであって、こちらは何一つ悪くない。それでも肌にしつこく粘つく視線は不快だった。
過ぎ去った彼らを見遣る事も無く、真逆の方向へ歩き出す。
すると今度は羽織ったジャケットのポケットで携帯端末が震えて、再び脚を止める。そのままポケットに手を差し伸べたが、まあいいかと引き抜くことなく、止めた足を踏み出す。
曲がり角の向こうで微かに、だがまだ音は続いていた。全員が出て行ったわけでは無かったらしい。
金属製のロッカーが軋む、獣のような荒い息遣いが後を追って耳に障る。
沸き上がった苛立ちに奥歯を噛んだ。無理矢理に口を塞がれて、尚も漏れる呻きは弱々しい、数匹の獣の唸りはそれに呼応していた。
呻きはヒナコの喉が発したものだった。聞いただけですぐに分かる。
無意識に早まる歩調のまま角を曲がる、そうして現れた眼前の光景は予想通りだった。
「あのさ、それまだ終わらないわけ?」
人数は二人、女子と男子が一人ずつ。それぞれ羽交い絞めにして口元を塞ぎ、無防備な身体を殴り蹴っている。不快な臭気が鼻を突く。
無言で振り返った男子の眼差しの、その鋭さが喉元に迫るよう。けれど完全にそれは逆恨みというかなんというか、わたしには関係ない。
「悪いわね、もう少しかかりそう」
興を削がれたとでも言いたげに、女子は更にヒナコを締め上げる。彼女の方が体格では勝っていて、どうにも逃げようがない。
「あんたたちの後ろのロッカーにさ、着替えが入ってるんだよね。 できればあと一発くらいで終わって欲しいんだけど」
自身の吐瀉物で胸元を汚した幼馴染の、酷い臭いと呻きだけが空間を支配していた。
「足りない、三発だ」
押し込めた苛立ちが彼の声音に宿っていた。
「なんでもいいから早く済ませてよ、そんなんだから負けるんでしょ」
怒れ怒れ、歪め歪め。そちらは敗者でわたしは勝者、さっきのが実戦だったら負けは死。眼前の死か遠く先の死か、ただそれだけの事なのに。
「クソが」
私のもたらした苛立ちが、拘束された彼女へと炸裂する。型も何もあったものじゃない、ただの暴力としての足蹴りだ。ぐにゃり、とでも形容すべきか。男子のブーツの底がヒナコの柔らかくて細いお腹にめり込む。
がくんと反射的にその身がくの字に曲がりそうになり、再び背後から締め上げれる。口を抑え付ける女子の指の隙間から吐瀉物が噴き出した。ばちゃばちゃと足元に広がる汚物が上書きされた。
彼はそのまま腹を踏み抜くと軸足で一回転、勢いをつけて今度は脇腹に回し膝蹴り。仕上げとばかりにぐっと身体を寄せ、鳩尾に拳を叩き込んだ。鈍く質量を伴う打撃音が弾ける。彼の肩越しに、痛みで見開かれた瞳が見えた。
「どう、終わった?」
その背中に語り掛けるが、しかし答えはない。
ヒナコの荒い息だけが耳に届く、それから数瞬の後に男子は離れた。
「これで終わり、着替えてもいいよ。ごゆっくり」
ぱっと羽交い絞めを解くと、朗らかに女子は言った。対してバッテリーが切れたドローンのように体重と重力に引かれるまま、幼馴染は自分が作った汚物の海に倒れ込む。
酷い臭いだった。
積み重なった痛みに背中を丸めるヒナコ。その丁度肩甲骨の辺りに、二人はブーツの裏の汚れを擦りつける。つん、と殴られ続けた横腹をブーツの先で弄ばれて、その体がバネ仕掛けのように跳ねた。
それで本当に仕舞いらしく、出口であるこちらにつかつかと歩み始める。
「そういえばアンタって、梨々井ヒナコの幼馴染なんだっけ」
去り際、目の前で立ち止まった女子がふいに呟く。
「まあそうだけど、何?」
「ウチもずっと同じ施設に居たんだけどさ、名前を言える?」
そういってこちらを見下ろす視線は冷たくも熱くもあった、けれどわたしは
「知らない」
実際そうなのだから、そう言うしかなかった。
「…そう」
彼女は一瞬だけ口元を固く結ぶと、にやりと微笑んだ。その厭らしい笑みでうっすらと思い出した。わたしはコイツが好きじゃ無かった。
そんな彼女の掌がすっと延びる、それはヒナコの吐瀉物に汚れた掌だ。
それが頬を撫でまわす。横髪を撫ぜて、顎のラインを尖った爪で甘く掻くようになぞる。散々に、執拗に、気の済むまでそうする。
抵抗はしなかった。する気も起きなかった。何の感慨も無かった。
そのうちに彼女は去っていった。
酷い臭いだった。
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