一部 二章 私の好きな人

1


 その日の最後の授業というものは、全く気力が湧かないものだ。

ボードに書かれている事は理解できるが、理解する意欲が湧かない。周りの生徒たちはやっぱり「施設」に居た時と変わらず無表情で、淡々と戦術論の説明を黙って聞いていた。

次第にわたしの意識は、講師の言葉すら投げ捨てて、何かを探るように潜ってゆく。微かに外から聞こえるサイレンが思考を加速させる。

いつからわたしは、わたしになったのだろう…


 スクール。

戦災とその後の情勢不安によって孤児となった児童に対し、安全の確保と学習機会の提供する教育施設である、表向きはという枕詞が付くが。つまるところI.P.E.本社の社会貢献活動、その広告塔なのだ。しかし、その教育課程は考えれば考えるほどに妙なのだ。行われる授業の大半が戦闘技能の錬成を占めており、座学の授業も目の前で行われている通り、閉所集団戦闘における戦術論といった内容なのだ。

わたしたちのような「施設」で保護された子供がこのスクールに入り、様々な保障と機会を得られるようになったのは一つ事実である。孤児であるわたしが上層で暮らせているという時点で驚愕に値する。しかし「施設」からスクールへの進学し、I.P.E.からの恩恵を授かることと引き換えに、こちらからひとつ差し出したものがある。そう、自分だ。

自分、と言っても具体的に言えばその性質は二つに分けられる。

第一に脳内へのナノマシン注入、及び頸椎と腰椎の一部をインプラントに置き換え生身でネットにアクセスできるようになったこと。そして次に、有事の際は本社の防衛任務に従事すること、この二点だ。生身でのネット接続は身体の管理を本社に紐付けを意味し、防衛義務は社の存続と自分の存続が鎖で結ばれた事を示している。戦闘参加による被害や怪我の補償はあるが、命の保障はない。

簡潔に言おう。わたしを含むスクールの生徒は、自分の存在価値と運命を社に明け渡しているのである。

うなじの辺りにゆっくりと指先を這わせる。温い肌に半ば埋め込まれた金属の固い感触が触れる。これをお守りと捉えるか枷と捉えるか。一カ月前の自分は前者と答えただろうが今は違う、これは枷だ。

このように考えだしたのは一カ月ほど前からだった。それまでは、こんな状況が当たり前だと思っていたし、その部分に疑問を抱くことさえなかった。

けれど、一度手のひらを撫ぜた「違和感」は、自分の中に異物の感覚として残り続ける。たとえ見えなくても、形に残らなくても。


 机に突っ伏したわたしに、教壇に立つ講師が気付いない筈は無い。けれど特に何か言われたりすることはなかった。有り体に言って無視、わたしにリソースを割くのが勿体ないのだ。

やっぱりここの人間に暇人は居ないらしい。

逸脱する人間が居ても、それが周囲に害を与えない限り触れてくることは無い。

成績が悪ければ殺処分が下るだけの事だ。けれど、それでも別に良いような気がした。

嫌気が差して、安っぽいパイプ椅子から立ち上がる。引きずる音が存外に大きく響いた。席が教室のほぼど真ん中に位置しているので、周囲の生徒がこちらを見遣る。けれどもすぐに興味を失って視線を前方に戻す。講師も気に留めていない素振りだ、内心「「またお前か…」」位には思っているだろうけど。

いや、一人だけこちらを見続ける生徒がいた。つとめてそちらに意識を向けないようにする。


2


 足の裏で下層の振動を感じる。『國』の基幹を為す技術力の根源、リージョン中層の工業街区は、鋼鉄の薄皮を隔てた足元にあった。実際、隙間からは下にある建物の屋根が小さく霞んで見えた。

リージョンの各層には層を別つ為の隔壁が存在する。それはわたしが普段暮らす上層と、その下に存在する中層工業街区との間にも存在する。隔壁は言葉の上では壁と表記されるが、実際は単なる一枚壁では無い。実際の地面が地層を為すのと同様に、この隔壁も数層で構成された複層構造を取っている。上層を支える地盤構造としての側面は当然として、更に人間が文明的な生活を送る上で必要な各種エネルギーライン、通信網といったライフラインが埋設され、そして神経と血管の如く走っている。さながらリージョンという巨人の身体を支える骨格である。

しかし今わたしが居るのはそんな浅い層にではない。更にもっともっと、奥深い場所である。それこそ中層の振動が足裏に感じられる程に。

『アメノイワト』

緊急時における工業街区の防護を目的とした障壁。上に住む者にとっては床下、工業街区に住む者にとっては天井裏と言ったところか。

そこに存在するメンテナンス用通路にわたしは居た。

時折吹き上げる風に暴れる髪とスカートを押さえ、非常灯のぼんやりとした赤い色だけを頼りに時を待つ。

工場から立ち上る排気の熱と滞留する微粉塵で空気環境はすこぶる悪い。ここに降りる際に拝借した防毒マスクが無ければ、今頃喉と肺に重い障害を負っていた事だろう。

といってもマスクを被っていると、熱気は籠るし汗は噴き出す。はやく上がらないと脱水症状で倒れるかもしれない。

目を瞑ると赤い非常灯の色が残像になって嫌になる。

ああ、早く帰ってメアリに会いたい。

暑さに唇を噛みながら耐える。

目を開ける。

眼前の消火スプリンクラーの制御コンソールに接続した「鍵」を見つめる。

インジケートランプがちかちかと不規則な明滅を繰り返している。

メアリとの日常を続けるには、今行っているこの行為が不可欠だった。

朝、家を出るときに行った「鍵」による施錠。これは毎日定期的に行わなければならないが、同時に都市そのものに対しても「鍵」を掛ける必要があった。

頻度としては可能なら毎日、だが実際はそうも行かない。週に一度程度が限界である。

わたしのような脳にナノマシンを注入され、生身でネットワークに接続できる人間は常にハッキングないし、身体情報のスキャニング、行動や浅層記憶の抜き出しというリスクに晒されている。常に何かしらの監視の目があるのだ。

それらからメアリの存在を外部に悟られないようにするのが、わたしの義務なのだ。

部屋に掛ける「鍵」と街に掛ける「鍵」は考え方としては同質のもので、予め指定したエリアの監視、測定機材の記憶領域に欺瞞情報を注入し、計測情報を判断するサーバーを欺くというものである。

普段なら廃ビルや監視の行届かない中層にまで降りて行うが、今日はこの隔壁からの接続を試みていた。隔壁からのアクセスは中層に直接降りるよりも短時間で済む上に、サーバーの経由が中層での接続同様に多いため、接続場所の特定を困難にできた。

「といっても…ここじゃあ中層と殆ど変わらないな」

くぐもった呟きは風に流された。所要時間のトータルでは中層に降りるより短く済むものの、快適さで言ったら今までのやり方が遥かにマシだ。

知らずに下に落ちていた顔を上げる、「鍵」を差したコンソール、そのインジケートランプの点滅は止んでおり。グリーンに燈っていた。

施錠完了だ。


 階段を登りながら制服の汚れを払い落す、防毒マスク脱ぐと投げ捨てた。闇慣れた目に明りはむしろ邪魔だった。

上層某所の廃ビル、地下二階。隔壁に食い込むように地下階が設定されたビルは、そのまま隔壁内部に潜るのに絶好だった。

ビルのメインシャフト非常階段を転がり落ちるマスク、その間抜けな音が耳障りだった。額を流れ落ちる汗を雑に拭う。

ビルの裏口から外に出ると、空はもう夜の色に染まっていた。

ざあ、と襟から滑り込む風が心地よかった。額の汗が急速に引き乾いていくのを感じる。

「さっさと帰ろう…」

メアリに会いたいから。

施錠は常に緊張が伴う。それが終った後に訪れる安堵はそのまま彼女と触れ合いたい欲求へと転換する。強烈で急き立てられるような感情が身を動かす。

隔壁を上り下りした全身は疲労に侵されているが、それでも駆け出した。

会いたい、会いたい…会いたい!

アスファルトを蹴る脚の回転が速くなる、鼓動が加速する、意識がメアリだけにどんどん絞られていく。

前方の交差点から緊急車両のサイレンが聞こえる。その耳障りな音色で、焦燥がどんどん加速する。交差点の角の建物に、一般車両が数台雪崩れ込むように突き刺さっていた。最近こういう光景をよく見る。

わたしにはどうしようも無いのだけれど。


3


 荒い息のまま寮のゲートをくぐると、さらにそこから無駄に広いエントランスを小走りに過ぎた。そこから角を曲がってエレベーターホールへ向かう。

並んだ三基のエレベーターの乗降口が見えた。

が、妙なことに真ん中の乗降口の前で一人の女が立っていた。いや立っていただけならいい、妙なのはその女が扉では無く廊下側、つまりわたしの方を向いることだ。近づくとその女が誰なのか分かった。

「…ヒナコ」

脚を止めた、中央では無く右手の乗降口を前にして。

思わず彼女の名前を口にしてしまったことを後悔する。

わたしに張り付く険しい視線。施設からの同級生にそんな目を向けられるような覚えはないので無視に限る。

そろりとエレベーターのボタンを人差し指で押し込む。

「無視とはいい度胸ね」

ハスキーな声が、エレベーターホールに響いた。

こちらにつかつかと歩み寄って、目の前に立つ。

「こんばんわ、ヒナコ…」

先ほどまで険しかった目。今はどこか冷たさを湛えた蒼い色を宿している。激しい色彩はどこかへと消えていた。三つ編みに結った、白く長い髪が背中で揺れる。尻尾みたいだなっていつも思う。

「こんなに遅くまでどこへ行っていたの?」

「別にどこでもないよ、学校に居た。ちょっと呼び出されてさ」

冷たい色をした目が今度は細まった。不満を抱いた時、彼女はこんな表情をする。昔から変わらない。

「嘘ね。アンタは居なかったわ。」

どうやら確信があるらしい。

「だとしてさ、わたしがヒナコにどこへ行ったか話す必要、別にあるとは思わないんだけど?」

エレベーターの階数表示が徐々に1へと降りて行く。

「あるわよ、ええ…あるんだから!」

押し込めた感情を発散できず、白い三つ編みだけが背中で踊る。

要領を得ないその言葉は、わたしの胸を刺そうとして叶わず足元に墜落した。

微かな振動とブザー音、彼女の肩越しに扉が開くのが見える。

蒼い色をした瞳が、石を投じた水面のように揺らぐ。彼女の手が音もなく伸びる。


それが、わたしの頬に触れる。


 生暖かい、生きた温度を感じた。ずっとずっと知っていた感触だった。

それもそうだ、施設からずっと一緒だった幼馴染。肌を触れ合ったのは一度や二度ではない。けれどその感触は、否応なく脳裏にメアリの影を思い起こさせた。

決してそれは快い感触ではない。

二人が、わたしの感覚の中で同期していくような気がしたのだ。じんわりと包み込むような、メアリだけが持つ温かさが、何故か他の何かと接続されて行ってしまう。

それがとてつもなく嫌だった。

ヒナコはメアリじゃない、そうメアリじゃない。

「やめて」

小綺麗さが嘘臭いエレベーターホール、枯れ葉が砕ける音が響く。

ヒナコの手を払った一瞬、彼女の瞳に映った自分の表情は苦しげだった。

そのまま彼女を避けてエレベーターに乗り込む。震える背中、力なく垂れさがった腕。そんな幼馴染を見続けるのがなんだか癪だった。

悪いのはそっちなのに。

自室のある階を指定する。閉じる扉の動きがいやに遅くて腹が立った。

「ねえ…」

その声にさっきまでの勢いはなかった。でもそれに応える必要は無い。

「前みたいに返事してよ…ユリカっ!」

重量のある金属同士がぶつかる低い音が眼前で弾ける。ヒナコが振り向くより一瞬早く、エレベーターの扉は閉じ切ってくれた。

ユリカ。

そう、わたしの名前は葵ユリカ。そしてそんなわたしの唯一はメアリス、ただ貴女だけ。

じくじくと膿むように痛む胸を押さえる。照明の乾いた明るさが目に刺さる。

梨々井ヒナコ、貴女じゃ無いんだってば。

………………

………


4


「ただいま」

思っていたよりも数段冷たいトーンの声は、闇に落ちた部屋に響かず消えた。一番奥にある窓のカーテン越しに、街灯の色が微かに差し込む。

遠くで鳴り響くサイレンがやけに間延びして聞こえる。

部屋は今朝出た時のまま。しかしこの背筋を嘗め回す居心地の悪さ。収まりの悪い椅子に座った時のような、少しだけ丈が大きい衣服を纏った時のようなそんな感じ。これは一体何なのだ。

思案するとき、奥歯をぐっと噛み締めるのがわたしの癖だった。ヒナコにそう教えてもらったのはいつだったか。

「…ッ」

乾いた音が耳朶を打つ。同時に靴裏で何かが弾ける感触。おそるおそる足を退ける。

「なんだ…」

何て事は無い、コンソールカバーの破片を踏み抜いたのだ。いや、破片と言うには細かすぎる、粉と表現する方が適切だろう。

そこで気付く、全身の感覚が妙に敏感だと。普段であればこんな些事にいちいち感情を揺らし動かしたりしない。おかしいのはこの部屋ではなく自分自身らしい。

廊下からの光に、影が二筋伸びていた。

真暗い部屋は、朝を隠す夜の嵐の闇に似ていた。

一瞬だけ振り返る。やはりそこにはヒナコが居た。

ここで取るべきわたしの行動はきっと、「扉を閉める」が最善だっただろう。

けれどそうはしなかった。理由は分からない。

でも、彼女の事について、ヒナコになら知られても構わない。そんな気持ちが前からあったのは真実だった。そして心の奥底で眠っていたその気持ちが、この瞬間に目を覚ましたのなら、中々に良いタイミングだと思う。

壁に手を伸ばし、室内灯のスイッチに触れる。立ち込めていた暗闇が一気に霧散する。瞬前まで感じていたおぞましさは、質量を失って背中から消えていた。

「ただいま、メアリス」

踏み出した一歩の足裏で、破片がまた弾ける。

わたしの目の前、今朝部屋を出た時と同じように、メアリスはそこに立っていた。

こちらだけを見つめるメアリを抱きしめる。

頬にほんの僅かな風の揺らぎを感じた。振り返るまでも無い、幼馴染は立ち去った。


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