一部 幕間 発熱

 錆びついた柵に背を預け、紫煙を吐き出す。

仰ぎ見た上空、その雲の動きは流水のように速い。

それだけ風が強い。吐いた煙はあっという間に持ち去られ、フィルターから口を離してなお、二つの指で挟んだWinston CABIN 8ミリの穂先は赤く燈った。

暴れる前髪をひと撫でし、サングラスを直して今度は深く肺に煙を迎え入れる。

ここは指定されたとあるビル屋上、と言っても『I.P.E.』所有と考えて間違いない。そんな場所に、個人の特別回線で彼を呼んだのはあの男だった。

「すまない、【RAY.D.FUSE】。待たせた」

鋼鉄の屋上扉が閉まる音と共に背後で声がした。


―音紋照合、ファイル検索…


スーツの下に着込んだ軽量強化装甲服、その管制ユニットが自動で検索を行う。そっと上着の裾に隠れた腰に左手を遣る。

「いえ、お気になさらず。私も今来たところです」


―該当数2件。肉声録音1、特別回線通話録音1…


そこまでで充分と、管制の自動音声をキャンセルする。

固い握把の感触を離しはしないが、少し力抜いた。

「その割に煙草は減っているみたいだぜ?」

指先のウィンストンは、既にフィルターの根本あたりまで灰になっていた。

つかつかと男は歩み寄る。

自分と同様、あの時と違ってスーツ姿。素顔を見せない為に、数条のスリットが走るマットブラックのフルフェイス型カバーを頭に装着していた。しかしその独特の風貌から「匂う」雰囲気は、相まみえた時のそれと全く変わらない。これは管制判断の如何ではない、ヒューズの本能がそう告げていた。

うねる大蛇の表面を見るような曇天の、その僅かな隙間から陽が一筋差し込む。未だ汚染が解消されない大気を経て、その色は赤く燃えていた。一瞬その輝きを振り仰ぐ。

短くなった細筒を足元に放って、革靴の底で磨り潰す。

男…、本社襲撃時に遭遇した『法務部』一課のエース。

「今日は風が強い。そのせいですよ、【ブラスト】」



「『変革の時が来た』…奴はそう語り、消えた」

安物。世代としては数世代前に当たる、画面表示のみ行うタブレット端末。それをブラストに返す。

物自体は新品である。しかし記述された資料に寄るなら彼が接続した事で、恐らくこれも『汚染』された事だろう。

ネゴシエーションの場面、それも信頼性の薄い相手との場合に使い捨てても惜しくない機材を用いる事はしばしば行われる。しかし今回のような事態を前にしたとき、そんな基本中の基本と言える対処が何より効果的らしい。

「変革、か」

柵の向こう、セヴェル地区リージョン中層工業街区。

スモッグに煤けた工業施設の屋根のシルエットを、なぞるようにヒューズは見渡す。傾いた陽によって伸びる自身と【ブラスト】の濃い影。

大気が滞留する下層にはこの陽の光は届かず、スモッグの有害成分が混じった黒雨が降りしきっている事だろう。

大戦の惨禍から確かに『國』は経済力と技術革新によって立ち直った、国土全体の回復と格差を踏みつけて。

それはまさにこの塔そのもの。

自らの為だけに発展する企業群と『國』、そんな姿勢の縮図がリージョナルタワーという都市構造を成している。

「何を以て変革なのか、時が来たとはどんなタイミングなのか。全く分からない」

世界はこの塔と外の世界のようにきっぱり別れてはいない。

曖昧かつ混沌、混ぜ合わせた絵の具が意図しない色に成るように予測不能。

変革はそんな世界の色彩を塗り潰すものなのか、或いはすべて消し去る事なのか。

少なくとも、この塔をへし折る程に衝撃的な含みを湛えている事には間違いない。

視線を彼に向けた。無機質なそのフルフェイスの、きっとその奥にある瞳に。

「【ブラスト】、私は貴方たちの状況を知り、また貴方自身の事も幾分か理解しました。何より私と貴方には恐らく同一の目的がある、しかし同時に立場として少なくない干渉がある。」

「理解してくれて助かる」

彼のその声を聴き、そこで初めてヒューズは腰の握把から手を離した。

噛み潰すようなブラストの声色は、皮肉にも彼の誠実さから滲み出たものであった。

「今日あなたがこうやって一対一の場を設けたのは、その依頼理由について社としては承認し辛かった事の裏返しでしょう」

「………。」

彼は沈黙したままだが、その答えだけで充分だった。そこをあえて深堀りするつもりも無かった。フリーになった両の掌を開いて茶化すように振って見せた。

「少なくとも現状において本社はともかく、あなた個人を信用しましょう。」

個人。それは所属と立場を無視し、人間性のみで相手を判断したという意味だ。

詭弁だと内心で理解している。所属と立場の二つが今の自分、引いては人間性の形成に深く食い込んでいることも厳然たる事実だからだ。

因縁も過去も、そして目の前の男と巡り合った理由も、それら抜きに語ることなんてできやしないのだ。

「矛盾しているな」

彼が言った。それはまるで己に言い聞かせている様な口ぶりだった。

「しかし、悪くないでしょう…?」

「ああそうだな、悪くない」

ブラストは一歩こちらに近づく。

「こちらの事情はさっき示した通りだ。本題を言わせてもらいたい」

「ええ、どうぞ」

強く風が、二人の間をすり抜けていった。

「バード商会所属【RAY.D.FUSE】、今回の件への対処協力を任務としてアンタ個人に依頼したい」

「それは【イヅナ】として?」

陽が、墜ちた。

「違う、これはイズナに所属する俺【ブラスト】個人の依頼だ」

風が、止んだ。

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