一部 一章 私はあなたに届かない

 1


 ゆるゆると泥沼へと沈んでいく意識を、光眩しい水面に引っ張り上げてくれるのは、いつだって温もりだ。瞼に落とされる柔らかい唇の感触で、意識がわたしという輪郭を取り戻してゆく。

おはよう、と声がした。

日に焼けて色褪せたカーテンは、透ける陽光をオレンジ色に透過する。そのせいで夕暮れ色に染まった室内だが、無情にも壁掛けの時計は午前八時を指していた。

「ふふ、おはよ」

彼女にキスのお返事を。

すると今度は、頬に柔らかい温度が舞い降りた。

一瞬でも時計に視線を横取りされていたのが、どうやら不満だったらしい。少し不機嫌な瞳をしている。それでも、いやだからこそ綺麗だった。

「もう、ほんとヤキモチさんなんだから」

よいしょと半身を起こして、その勢いのままやんわりと彼女を押し倒す。不機嫌だった瞳が困惑に染まる。灰色がかった長い髪がシーツに広がって、覆うものなしに晒された華奢な肩と鎖骨が、浅い呼気で上下していた。

その細い身体に縋りつき首元に顔を埋める。燃え尽きた灰のような白い肌が視界に大写しになる。だが色彩はそれだけではない、首筋に咲く牡丹の赤だ。いっそ毒々しいほどに映える赤の彩は、昨晩わたしが咲かせた色だった。

それが唯一彼女の生を証しているように感じた。

やっぱり残っちゃったか…

込み上げてきた情動を喉元で食い止め、体を起こした。力の抜けた手を取って、その甲に軽く口付けをする。

「おはよう、メアリス」

これが毎朝の儀式だった。


 真白いその髪は、あの時開いた絵本の青い小鳥と同じで、日に褪せた彩度をしていた。その渇いた白さが薄暗い玄関では一層際立って輝いている。少し低い目線を合わせてその髪を撫ぜると、彼女、メアリス…メアリはくすぐったそうに目を細める。また込み上げてきた愛おしさに前髪を分けて額にキスをする。

「そういえば結構長くなったね、前髪」

メアリはきょとんとした表情をしていた、彼女は余り鏡を見たがらないからなあ。彼女に触れているとどうしようもなく頬が緩む、今もそうだ。

それを繕わずに居られて、そんなありのままを受け止めてくれるのが彼女という存在だった。

澄んだ色をした目にかかりそうな前髪、優しく耳に流しかけてやる。帰ったら少し整えてあげよう、鋏はその辺にあったはずだ。

使い込んだローファーに足を通す。次に薄っぺらな鞄を手繰り寄せて立ち上がりドアを前にする、すぐには部屋を出ない。

そうしたら、メアリとの生活が終ってしまうから。


 ドアの横にあるコンソール、自室の電子機器を制御するための操作端末に右手を伸ばす。

コンソールは壁に据え付けられたタッチパネル式だ。指先が画面に触れた事によって表示がはじまる、薄暗いこの部屋には少々眩しい。

そのまま指先をパネルの外側に滑らせる。本来触れるべきはパネル部分のみだが、このコンソールは他の部屋のそれと違った。外枠部分、本来ならそこに文字通りの外枠として、内部を保護するプラスティックカバーが存在する。が、しかしこの部屋にはそれが無かった。メンテナンス以外で日の目を見る筈がない配線が剥き出しになっていた。理由は単純で、一カ月ほど前に自分で剥ぎ取ったのである。

故に指先は、葉脈の様に張り巡らされた配線のドライな感触を受け取る。

ローファーの底で破片を踏み抜くと、パキリと乾いた音がした。

一カ月前に強引に毟ったカバーは、その過程で薄氷のように割れてしまった。今踏み抜いたのはその破片である。さらに言えば、あの時は鋭く割れた破面で、左の人差し指の先を深く切ってしまった。それを思い出し指先見る、とまだ痕が残っていた。

 カバーの破片はあれから変わらずコンソール直下に散らばったままだ。そして点々と残る、床のふたつ黒いシミは、あの時墜ちたわたしの血。

鼓動がどくんと跳ねた。

「いい加減片付けしないとね、メアリの前髪を整えたら掃除かな」

あえて声に出す。

指先の傷跡を、視界から消すようにスカートのポケットへ手を入れる。

そして「鍵」を取り出す。

指先でなぞっていた配線の内、一本を緩く摘まんでその先端を辿る。

辿り着いた先端。あるのは汎用規格のコネクトポートだ。支給品の携帯端末を分解してとりだしたそれを、この配線へ無理やり取り付けたものである。

 そこに「鍵」を挿し、掛ける。

これはいわゆる物理的な鍵ではなかった。

見た目はごく一般的な記録媒体、使い方もそれに倣っている。要するに電子キーという訳である。見た目はそこらの店で吊るし売られているような、低グレードの記録媒体と同じだ。しかしその見た目に反してこの「鍵」は、メアリとの関係を続けていく上で必要不可欠なアイテムだった。

わたしが住むこの部屋には、居住者を厳重に監視するためのあらゆるセンサーやカメラが施されている。他の部屋も同様だろう。

「鍵」とはそれら監視機器類に対し欺瞞情報を流して無効化する、ダミープログラムそのものを指す。

無論、監視側のプログラムも定期的にパターンが自動更新されるため、一度掛けただけでは意味が無い。こちらも定期的に「鍵」を掛け直さなくてはいけない。今は部屋を出る時と戻った時の日に二度掛けている。

そうして、この誰の目にも届かないクリアな空間が維持されている。本来であれば、わたし一人だけにしか許容されていない部屋に、彼女を居させてあげられるのだ。故に、わたしたちにとって「鍵」は不可欠なのだ。


「それじゃあ、行ってくるね」

金属のドアノブに手を掛ける。ひや、と冷たい感触が掌に伝わる。

寮の自室、こんな場所にしか居させてやれない自分が情けない。


……もっとキミが安全に過ごせる場所を用意するから、もうちょっと我慢してね


振り返って、メアリを見る。

毎朝、彼女は不安げに微笑んで見送ってくれる。



2


 わたしが生まれる前に起こった第三次大戦は、わたしが生まれる前に終結した。だからそれ以前の世界がどんなだったかなんて知らない。

今にして思えば知る気すらなかったとも言える。

しかしそんなことは状況が許さなかった。

物心ついた時には『施設』に居て、今の生活もその延長上にある。その過程で学習の機会があったから、わたしがわたしであると自覚した時、既に知識という積み重ねが出来上がってしまっていた。

この蓄積された知識は、常に自分の中にそびえ立つタワーとなる。そしてありとあらゆる場面において思考と行動、何より生き方の目印となる。いや、ならざるを得なくなる。

厄介なのはこの知識タワーの建設に私の意志が介在していない事だ。

取捨選択が私に委ねられていたのであれば、きっと知識を得たいと願う事は無かっただろう。少なくともそう考えてしまう程には、この植え付けられた過去の知識の蓄積を嫌悪していた。

知識はその伝達に於いて言語というメディアを用いる。しかしその時点で「色」が付いてしまう。知識を記す者の主観、価値観、そうあって欲しいという願望などから滲む他者の感情、それが色である。


 下層や中層、工業街区などとは違って上層の比較的整備されたエリアは平和だった。寮から僅かに離れた目的地まで、気を抜いて徒歩で向かえるくらいには。

リージョン、引いては『國』を支える企業が軒を連ねるここ上層の高層ビル群。

昨晩の雨でできた水溜まりは、ビルに囲まれ細く切り取られたこの街道の上空を灰色に反射していた、そして覗き込む私の姿もまた。

可愛げのない視線、今日は雑に括った黒髪。指定のチェックのスカートには皺が寄っている。ワイシャツもアイロンを掛けていないからか、これまた幾何学模様の様に皺が出来ていた。

緊急車両が車道を奔り抜けて行く、最近よく見る。事故が多いらしい。


 この世界の情景の言葉にしたとき、皆迷わず「崩壊」言うだろう。

しかしこの情景をそう読ませてしまうのは、いつかの間に誰かによって築かれてしまった知識タワーと、知識を記した過去の誰かの意志だ。

誰かというのはつまり、華やかりし過去を知る記し手である。栄華への回帰願望、かつての繁栄を基準にした価値観を無意識に前面に立てながら記述したのだ。

それは善意だったかもしれないし祈りだったかもしれない。

けれど今それを受け取ったわたしには、その意志や価値観や感情はいっそ「呪い」としか感じられなかった。だから世界が「崩壊」している事を、必死になって教壇で説く講師たちの姿は滑稽で、世界史の授業は毎回笑いを堪えるのに必死になる。

世界は何も壊れていない。

 記憶を遡って己の最古にたどり着いても、世界のこの情景は今まで変化したことは無かった大人たちの言う「崩壊」は実感の湧かない歴史だ。少なくとも、体感できる過去と言う形で手元には存在していない。

勿論、理性としてそれが「崩壊」という体裁を取っている事は解る。人工建造物や社会状況を考えた時、リージョンの外ではそれらの大半が用を為していない。全世界規模でそのような破壊的状況がもたらされており、一部を除いて修復されずにいる。破壊される以前の状況を信奉するなら、これは確かに「崩壊」している。

けれどわたしが目の前の状況を「崩壊」と思えないのは、それ以前を知らないからだ。そして「崩壊」以前へと回帰する願望を持っていないからだ。

だからこそ植え付けられた価値基準、つまり崩壊しているか否かという二択問題で世界を見させてしまう「知識」に、ほとほと嫌気が差すのだ。

今のわたしにとっての世界はメアリだ。

メアリが世界なのだ。

わたしが生きているのは、そんな世界。

もし彼女が居なくなった時、それがきっと本当の「崩壊」なのだろう。


 天候はくもり、気温二十一度、湿度四十パーセント。

視界内に表示される環境データは、週初めに届いた気候予報とおおよそ同じ。

空を振り仰ぎつつゲートを通過する。スクールのゲート脇のディスプレイ視線を向けると、チェック項目は全てブルーカラー。清々しいほどに真っ青、レッドカラーの表示は無い。

ゲートタイプのスキャナーは街のありとあらゆる施設に設置されているが、ここのものは性質上特に高精度な仕様となっている。それでも身体機能、メンタル他諸々、ゲートくぐることでスキャンニングされるあらゆる項目は全てブルーカラーを示している。

自分自身にも「鍵」と同様のプログラムを流しているからだ。故にレッドになる事は万が一にもあり得ない。

そういえばゲート前の警備用ヒューマノイド、今日は珍しく十体も配置されていた。あからさまに警戒レベルが上がっていた。


 『國』は、その政策上、高度な技術開発力を有する五つの企業を優遇している。この五大企業は、大戦後の『國』の骨格であり血流であり、そして心臓である。

リージョナルタワーによる、かつての人類社会と同等の高度社会生活圏の確保。そして更なる発展を秘めた技術開発の土壌という二軸を形成し、今もそれにわたし達は支えられている。しかしこの五大企業同士の関係は複雑怪奇の一言に尽きる。

ただ少なくとも、大小も形態も様々に展開される企業間の技術開発競争は、武力行使さえも含む紛争と言って良いほどに拡大していた。

そしてその紛争に潤う人も居れば死する人も居た。

技術の開発は、生活を発展させ経済を動かす。しかし安定した情勢下による経済発展というものが、いずれ頭打ちになることは歴史が証明していた。

 企業間紛争という現在の状況は、疑似的な戦時下とも言い換えることが可能だ。この状況を形成することで適度な情勢の緊張を維持し、バランスを欠いた経済の急発展と停滞を未然に防いでいた。きっと実際はこれ以上に複雑で、流動的に事象が巻き起こっているのだろう。

そして、この状況に対する『國』の介入は皆無の一言に尽きた。

開発競争を背景に持つこの企業間紛争は、傭兵業を筆頭としたさまざまな非開発系の産業が大きく関わっている。疑似とは言え実質的な戦時状況、需要は決して少なくなかった。

この状況下において、当然ながら大企業は外部や他企業、敵対組織からの攻撃のリスクを常に抱えていた。従ってその対処にも常時追われていた。つい先月も大規模な傭兵部隊を投入した本社襲撃があり、わたしもその際に本社の防衛予備戦力として戦線に投入されたばかりだった。

ヒューマノイドの増備は、本社のあらゆるネットワークが感知した情報を元に下されたものであり、端的に言うと襲撃の兆候であった。



3


 ゲートから昇降口へ向かう一本道に人気は無かった。

当然だ。始業時間から既に一時間が経過している、遅刻も良いところである。

昇降口に入る。ここもやはり一本道に生徒が居ないのと同様の理由で人気はない。

講師が一人通りすがったが一瞥をくれただけで何も言わない、ここに暇人は存在しない。しかしその視線は針の様に鋭く殺気立っている、表のヒューマノイドと同じ所以だろう。

教室に行くのも億劫だから柱にもたれる。

ああは言ったが「本社」は、管轄のエリアをある種暴力的に束ねている側面もある。喧嘩を仕掛けられるのは『國』の政策の他にも、そうされるだけの理由が存在するのだ。


「あーあ、全部ぶっ壊してくれないかなぁ…」


吐いた言葉が浮かんで淀み、消えた。どちらかと言うと今のは本心に近い。

肩に掛けた鞄に手を差し滑らせる。中から取り出すのはオレンジ色の小箱とくすんだ鈍色のオイルライター。

小箱から一本抜き取って咥え、火を着ける。

じわじわと穂先が日暮れを迎えて灰になったのを見て、ライターの蓋を閉じる。硬質な金属音がいやに響いた。

口腔を煙で満たして吐き出す、霞がわっと纏わりついて世界を煙に巻く。メアリはこの匂いが嫌いだった。だからこうして出先で喫するしかない。

滞留した紫煙が、吹き付ける空調の気流に呑まれ、周りの空気に希釈されていく。それは寝入る時の意識とよく似ていたが、僅かに茶の匂いが混じる臭気は残る。

もう一口だけ、と煙草を深く吸う。


『I.P.E.』


もたれた壁の右手側にある銘板、見慣れたわが社のロゴがくすんだ輝きを放っていた。そこに幾分短くなった、紫煙の揺蕩う穂先を乱雑に押し付ける。

プレートがキャンバスでインクは煤、押し付けた煙草をそのまま力いっぱい振り下ろす。

黒く掠れた痕が残った。



4


 教室までの道のりも、やはり人気は無い。足音は私一人だけ。二人分だったらいいのにな、と取り留めも無く思考を転がした。そしてふと、歩きながら脳裏を過ったのは見慣れた幼馴染の顔。そして記憶の最果てを辿っても両親が出てこないと言う事実だった。

 わたしという人間を構成する背景要素に、両親という存在は無かった。いや、わたしという人間が産み落とされたのだから、存在はしていたのだろう。しかしその一点以外で関りはなかった。当然産まれた瞬間の記憶なんてものは無いので彼らの顔も名前も知らない。

記憶のある限りを遡っても覚えているのは、狭い「施設」の部屋と自分と同じくらいの年齢の子供の顔。そして隣に居た彼女の手の温もり、ただそれだけ。

けれどそれはわたしだけじゃない、あの場所に居た皆がそう。

自分の教室の前に着く。扉の前のスキャナに手をかざし、認証、扉が開く。

教室の視線が一気にこちらを向くが、直ぐに離れた。

いや、一人だけはこちらを向き続けていた。

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