果実の所有
みのあおば
果実の所有
椅子に腰かけ、真っ赤な林檎を齧っていく。
「うん、うまい。今季も中々いいものができた。このまま持って散歩に行こう」
木製の椅子から立ち上がり、麻袋に林檎を詰め込んでいく。そのうち一個を齧りながら、扉を開けて部屋を出た。
「やはりうまいな。これは飽きないな」
土の上を裸足で歩いていると、目の前を髪の短い女が通りかかった。ところどころ破れたぼろきれを着ているくせに、胸元にはきれいなネックレスをしている。何だか興味が湧いてきたな。
「あの、ちょっとすみません」
「はい、なんでしょう」
女はゆっくりとこちらを向く。
「この林檎をあげますから、よかったら俺と
「あ、はい。いいですよ」
さっそく林檎を手渡して、近くの草むらまで二人で歩く。土の上では背中が痛くなると思ったので、草の上でやった。俺は下半身にある棒みたいなやつを女の下半身にある穴みたいな所に入れて、抜き出した。
「うおー。何だか楽しかったです。ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。それでは失礼します」
「はい、さようなら」
解散した俺たちは土埃舞う道を各々歩き出した。
「何かうまいものないかな。うまいもの」
歩き続けているとひどく濁った川にたどり着いた。砂利だらけの川原に一人の女が座っている。後ろで束ねられたきれいな黒髪と汚れの目立つぼろぼろの衣服とが対照的だ。
「こんにちは、何をしているんですか」
「こんにちは。私は、苺を食べているんです。汚い川を眺めながら食べる苺は、格段に甘くておいしいんですよ」
「へえ。確かにうまそうですね。俺にも一つ分けてくれませんか」
「いいですよ。一つと言わず、いくらでもどうぞ」
そう言って女は手元の袋をこちらに寄越した。中には大量の苺が入っている。
「これはすごい。それではいただきます」
俺は袋の中に手を突っ込み、三、四個の苺を鷲掴みにして口内へ放り込んでいく。
「うまい。これはうまいですね。川は汚いですが苺はうまいですよ」
女の顔を見てみると、かすかに微笑んでいる。下唇には苺の断片が張り付いており、それを見てふと食べたいと思った。
「気に入ってもらえたようで何よりです。ところで、よかったら私と
「ええ、しましょうか。実は俺もちょうどしたい気分だったんですよ」
砂利の上に手を付いて、顔を近づけ合う。
「んー」
互いの唇が触れ合った。何となく気分が良くなる。
「はー、楽しかったです。ありがとうございました」
「ふふ、私も楽しかったですよ」
「せっかくなので、この林檎全部あげますね。汚い川でも眺めながらゆっくり食べてください」
俺は林檎の入った麻袋を女の隣へ置いた。
「まあ、ありがとうございます」
「ではでは」
俺は立ち上がり、素足のまま川へと踏み出す。水流を横断していると、汚い水の中で何かが足をひっかいたようだ。とても痛い。
痛みに顔をしかめながら、濁った川を眺めてみる。
「まったく川って邪魔だなあ」
半身水浸しになりながらも、何とか川から抜け出した。足の裏を確認すると、所々血が出ている。道理で痛いわけだ。
川原を離れて小高い丘を登り、堤防のような道を歩んでいく。切り傷はひどく痛むが、気にしてもしょうがないのでただ歩き続ける。
「何かおもしろいことないかな。おもしろいこと」
前を見ると、向こうから大柄な男が近づいて来ている。男はその手に何かを持っているようだ。
「あれは、バナナか。うまそうだな」
そう思って歩いていると、すれ違いざまにその男が声をかけて来た。
「こんにちは、もしかしてこれに興味があるんですか。よかったら差し上げますよ」
「いいんですか、ありがとうございます」
受け取ったバナナはもう半分以上食べられていた。残った分を食べる。
「うまいですね。よく熟していて、味が濃いです」
「それはよかった。ところで、よかったら接合しませんか」
「え、あなた男でしょう。俺も男ですよ」
「まあ、何とかなるものです。とりあえず移動しましょう」
「はあ」
俺たちはしばらく歩き、町の方へやって来た。町と言っても個人の配給小屋がたくさん集まっているだけで、土埃の舞う汚い雰囲気は他とまったく変わらない。
「では、ここらへんで」
小屋と小屋のあいだの狭い路地。土の上には藁が敷かれており、寝心地は良さそうだ。
男は俺の下半身にある棒みたいなやつを手に取って口元へと運ぶ。食べるでもなく噛むでもなく、ただ吸うような動きを繰り返し、頭を上下させている。
「う~ん、何だか気持ちのいいものですね」
「そうでしょう。喜んでもらえたようで何よりです」
「また機会があればお願いします。それではさようなら」
俺は不要になったバナナの皮を男に返し、その場を後にした。
日照りの中、裸足で町を歩き続ける。
「せっかく町に来たんだから、映画でも観たいな。おもしろそうなやつ」
辺りを見渡していると、近くの
「やあ、ささみ」
「あれ、ケンちゃんじゃない」
無造作に広がる長髪をぼさぼさと掻きながら、ささみは声を上気させてこちらへと駆け寄る。
「久しぶりだな。元気にしてたか」
「元気、元気。ケンちゃん、こんな所でどうしたの」
「ああ、映画でも観に行こうと思ってな」
「いいわね。私も一緒に行っていい?」
「もちろん。でも、隣の男はどうするんだ」
ささみに連れ添っている髭を蓄えた男は、無言で葡萄を食べ続けている。
「この人はいいのよ。それじゃあ、ありがとうございました」
「はい、こちらこそありがとうございました」
そう言って立ち去る男を目で追いながら、思わず吐き捨てる。
「なんだよ、あの男は」
「どうかしたの。嫌な男だった?」
「いや、そういうわけじゃない。何でもないんだ」
「ふーん」
「それより映画だ。早く観に行こう」
「そうね。上映館も近くにあることだし、行きましょ」
ささみは俺に寄り添い、その手を絡めて来た。
「いいでしょ? 手くらい繋いでも」
「そりゃあもちろん。おもしろい映画、あるといいな」
そのまま二人で上映館へと向かった。
◇
「ねえ、ねえ。ケンちゃん、終わったわよ」
「ん? もう終わったのか。上映中なのに寝ちゃってたな」
頭が重い。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「じゃあ私、先に出るわね」
「ああ、またな」
確か映画はおもしろかったと思うのだが、なにぶん昨日は夜通し月を眺めていたせいで睡眠時間が乏しいのだ。
「よし、俺も帰るか」
寝起きの身体を起こしていると、上映館の係員から声をかけられた。しわのない制服と短く切り揃えられた髪が印象的な女性の係員だ。
「またお会いしましたね。あの、これどうぞ」
そう言って手渡されたのは、月の形を模した銀色のペンダントだった。またお会いしましたねと言われたが、知らない女だ。以前ここに来た時に会話でもしたのだろうか。そんな記憶はないが……。
誰だったか思い出そうとしていると、ふいに女は自分の襟元を
「そのペンダント、私のものとお揃いなんですよ」
あらわになった女の胸元には、渡されたのと同じ月型のペンダントがあった。
「わざわざそんなものを、ありがとうございます」
「いえいえ。あの私、
「名前ですか。俺の名前は、ケンと言います。そのままケンとでも呼んでください」
「はい。ケンさん、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
結局誰だったかは思い出せなかったが、改めて名乗り合ったのでおよそ問題ないだろう。
そろそろこの場を立ち去ろうと踏み出すと、まだ用があるみたいで女は引き留めて来た。
「あ、ちょっと待ってください」
「何でしょう」
「あのですね、これから映画を観る際は、他の女性の方を連れて来るのはやめていただけませんか」
「え、どうしてですか。まあ別に構いませんけど」
「これからは、私が隣に座りますからね」
「はあ、分かりました。それでは失礼します」
「待ってください。もう一つあります」
「何でしょうか」
「そのペンダント、今つけてもらってもいいですか」
「ああ、いいですよ。せっかくですし」
首の後ろに手を回して月のアクセサリーを身につける。
「まあ、素敵ですよ。これからはそのペンダントを毎日身につけてくださいね。そして他の女性からもらったものは全て捨ててください」
「はあ、全て捨てるのですか」
「……いえ、それは言い過ぎましたね。では、他の女性からもらったものを身につけて外出するのは控えることにしてください。これからは私がいろいろなものを贈りますから、それだけを身につけてくだされば結構です」
「なかなか珍しいことを頼んで来ますね。いいですよ、分かりました」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
「さようなら」
そう言って俺は上映館を後にした。入れ違いで黒づくめの恰好をした怪しげな人たちが五、六人、入っていったが気にしないことにした。
上映館を後にして、俺は町の中心部にある広場へと向かった。そろそろ水と芋の配給が始まる時刻だ。
「はーい、押さないでください。たくさんありますから、急がなくても大丈夫ですよ」
広場中央に設置されたテントでは、ぼろきれを着た男女十名ほどがたくさんの水と芋を配っている。その周りには人だかりができていた。その中に、見覚えのある人影が一つ。ぼさぼさの長髪とスレンダーな体躯はすぐ目につく。
「おーい、ささみ」
「あらケンちゃん、また会ったわね」
ささみはまたも隣に男を連れ、肘を絡め合って立っている。今度はどんな男なんだ。
「ケンちゃん、私たちの後ろに並んだらどう? もうすぐ順番回って来るわよ」
「そうさせてもらおうかな」
俺はささみと男の後ろに並んだ。男の後頭部を
「あれ、ケンじゃないか」
「ん? おう、コウジ」
誰かと思ったら、兄だった。父親は一緒だが、母親が異なる腹違いの子。年齢に差はないが、コウジの方が二週間早く生まれたという理由で俺が弟ということになっている。
コウジは愉快そうに言う。
「ささみだけじゃなくケンにも会うとはな」
「コウジこそ、ささみと一緒だなんて珍しいじゃないか」
「そうだな。ちょっと腕を組みたい気分だったから、近くにいたささみを誘ってみたんだ」
「私は早く水が飲みたくて仕方ないわ。もう喉が渇き切ってるもの」
そう言ってささみは口から舌を出してみせる。
「へえ、じゃあケンの
「何でだよ。まあ、俺は別にいいけど」
「えー、このまま並んでたらすぐに水もらえるのよ。そんな必要ないじゃない。あと、あれ飲むの全然好きじゃないのよね」
「ささみ、あれ嫌いだったのか。知らなかったぞ。俺たちは好きなんだけどな。な、ケン」
「やめろって、あの時の話はよ」
はっはっはと笑い合う。コウジは同じ年齢だが頼りになる男で、話も合うし一緒にいて楽しいやつなのだ。
水と芋の配給を受けた後、俺たちは各々の宿舎へと戻って行った。
農園のはずれに建てられた宿舎の二階に俺の部屋はある。林檎の置かれた机を前にして、椅子に座ってくつろぐ。
俺の班では林檎をつくっているが、これが近年中々の出来になってきた。
「うまいな。やはり俺の林檎はうまい。
この林檎、思わず唸ってしまうほどのうまさだ。
日中上映館で眠ってしまったため、夜が更けてもあまり眠くならない。そこで仕方なく林檎を齧って過ごしているのだ。
その時、玄関の扉を叩く音が聞こえた。
「すみませんー。入ります」
「はい、どうぞー」
入って来たのはぼろきれを
「あの、先ほど上映館でお会いした月子です。夜分遅くに失礼します」
「ああ、その節はどうも。頂いたペンダントは今もつけさせてもらってますよ」
相手に示すように、首にかかった紐に触れる。
「ありがとうございます。ところで早速本題なんですが、私と『コウサイ』をしてくれませんか」
「何ですって? コウサイ?」
どこかで聞いたことがあるな。何だったか、確か前にコウジが噂で耳にしたとか。
「コウサイっていうのは、愛し合う者同士が結ぶ契約関係で、互いにその相手だけを愛することを誓い合う、新しい人間関係のあり方なんです」
「新しい人間関係のあり方……。あと、契約って言いましたか?」
「そうです。ケンさん、あなたも感じたことはありませんか? 一度親しくした女性が、他の男性と仲良くしているところを見て不愉快な気持ちになるのを。きっとあるはずですよ」
親しくした女性か。確かに、ささみが他の男と居るのは何となくずっと気に食わないと思っていたが、そのことだろうか。
「ええ、ある気がしますよ。それがどうかしましたか」
「それを『シット』というんです。人には自分の気に入ったものを独占したいという欲求があり、それを邪魔する者に対して嫌悪感を抱く傾向にあるんですよ」
そうだったのか。それで配給広場では何とも言えない気持ちになったのか。
「だから、私たちは契約をつくることにしたんです。気に入った相手に対して、いちいち『これをしないで』『これをやって』と伝えることなく、シットを生み出さないような配慮を自明のこととして要求するんです」
「それは、どういうことですか?」
月子さんは長々と説明を始めた。その内容は以下のようなものだ。
コウサイ中の男女は、互いに愛し合い、手を繋いだり映画を観に行ったりする。他の異性とは接吻しないし、接合も行わない。それら行為上の決まり事を、わざわざ言葉を交わして約束し合うこともなく、コウサイの契約が成立した時点で自明のこととしようというのだ。
「どうしてそんなことを」
「それはシットを生じさせないことで、二人の良好な関係を維持していくためですよ」
気に入った相手が他の異性と行為に及んだ場合、とても不愉快になることがある。そのことを未然に防ぎ、互いに精神的な快適さを保つ。その上、『他の異性とのそういった行為は控えてくれ』と直接伝える手間も省けるので効率がいい、とのことだ。
「いや、だからどうしてそんなことをする必要があるんですか。みんな、やりたいときにやりたい人とやればいいじゃないですか」
「違うんですよ。そこがポイントなんです。あのですね、欲求のままにいろいろな人と愛を交わすよりも、ある特定の他者とのみ行為に及ぶ方が、人として優れているんです。その方が、より高位なあり方なんですよ」
「そうなんですか」
「はい。接合や接吻は特定の二者間で行うというのが、本来人として望ましいあり方なんです。ご存じなかったかもしれませんが」
「知りませんでしたね。それは初耳です」
「まあそうでしょう。この町ではそのことに気付いていない人がほとんどですから」
そう言って月子さんは机の上に目をやる。
「……あの、そこの林檎いただいてもいいですか? とてもおいしそうなもので」
「ええ、どうぞ」
俺は机の上にあるいくつかの林檎のうち、一番腐るのが早そうなやつを月子さんに手渡した。
「ありがとうございます。やはりここの林檎はおいしいですね」
「それはどうも。……なるほどですね。コウサイの利点は分かった気がします。でも、コウサイの決まり事を自明のものとするのは、決して簡単なことではないですよね」
「そうなんです。コウサイ成立後、みんなにルールを守ってもらうためには、まずもってこの社会に『コウサイ』の理念を普及させておく必要があるんです」
それはもっともだ。『コウサイしたら他の異性と手を繋がないこと』という契約内容があったとして、仮にコウサイ相手が他の異性と手を繋いで、それを咎めた時に『え、これが駄目とか聞いてないよ!』と主張されることになってしまっては意味がない。それを防ぐためには、わざわざ説明しなくても始めから相手に契約内容を了解しておいてもらう必要がある。そしてそれは、特定の誰かではなくコミュニティ内のほぼ全員に了解しておいてもらわなければ意味がないことだ。
「だから、私たちは今も必死に活動しています。コウサイの理念とその素晴らしさを、この町中に広めていきたいんです。私にとっては、これから始まるケンさんとのコウサイがその第一歩になります。コウサイは素晴らしいものなんだとみんなに伝えるためにも、一緒にその前例をつくっていきませんか?」
なるほど。コウサイの理念とその利点、更には俺が月子さんとコウサイしていくことの意義も分かった。
しかし、月子さんの主張にはひとつ重要な点が抜けている。
「月子さん、あなたとコウサイすることで俺にとって何かいいことはあるんですか?」
抜け落ちた重要な一点とは、コウサイをすることによって得られる俺の利益についての説明だ。相手にとっての利益を示さずに交渉を進めようというのはあまりに型破りだと思うが、そこのところをちゃんと考えて来ているのだろうか。
「ケンさんにとってのいいこと、ですか? それはもちろん……す、好きな人、いえ、オモイビトと一緒に居られることです」
「オモイビト?」
また新単語が出て来たところだが、ふと目に入った林檎が食べたくなってきた。机の上に手を伸ばし、話を聞きながらも齧りはじめる。
「オモイビトというのはですね、好きな人のことです。でも、一般的な意味での好きな人とは異なります。そう、それはまさに唯一無二でかけがえのない好きな人のこと。気付けばその人のことばかり考えていたり、共に過ごすだけで平素以上の喜びを感じられたりするような他者のことです。これからずっと、その人のそばに居続けたいと思えるような、あなたにとって最上級に大切な人のことですよ」
そんなにすごい人が居るものなのか。俺にはいないな。
「そして、ケンさん。あなたにとってのオモイビトこそが、この私なんですよね」
え、そうは思わないな。
「だからあの時、林檎をくれた。そして接合を要求して来た。それは全て、私のことを密かに慕ってくれていたからではありませんか?」
「ん? 何のことですか」
林檎をあげて接合したって……。
「あ、今朝家を出てすぐの所で会った!」
「そうです! 齧りかけの林檎をもらった上に、接合まで果たしたあの女ですよ。あれが私です。この月子です」
なるほど、言われてみれば朝のあの人は何かキラキラしたものを首に吊り下げていた気がする。
でも、だからって俺のオモイビトということにはならないだろうに。
「果実をよこした上に行為にまで及んだのですから、私に好意を向けていないということはないでしょう。さあ、コウサイを始めましょう」
「いや、必要ないですよ。俺は月子さんにそのシットとやらをすることもありませんし、他に求めることも特にありません。俺にとってコウサイは不要ですし、新しい人間関係のあり方を広めていくつもりもありませんので。お断りします」
ぐしゃりと林檎を齧り取る。果汁がぼたぼたとこぼれ落ち、擦りむいた足が甘い液でべとべとになっていく。
「林檎、うまいなあ」
「確かに、この林檎はとてもおいしいです。でも、どうしてですか! コウサイはこんなにも素晴らしいのに。仮にシット云々を除いて考えても、コウサイというものは、人生のパートナーとなるような誰かと良好な関係を維持していくにあたって、相当の利点があるんですよ。もっと広まるべきなんです」
「そう言われましても。人生のパートナーなんて――」
誰かに依存し、依存されながらこの先何十年も生きていくというのか。それも、他の人との自由な行為を制限されながら。どこの世界にそんなもの好きがいるのだろう。
「考えられませんね」
◇
林檎を食べ終えてしまったので、二個目を食べようと机の上に手を伸ばした、その時だった。玄関の扉が勢いよく開かれ、部屋の中に誰かが入って来る。
「ついに見つけたぞ、お前がツキコだな!」
「おう、コウジ。どうしてここに」
「誰ですか、この人は。大きな声を出して」
血気盛んなコウジは月子さんに睨みを利かせている。
「ケン、この女はな。自分たちにとって都合のいい社会秩序を創り上げようと
「な、なんだって。月子さんが、まさかあの
「違いますよ。私はまだ入会していません!」
「入会はまだだったか。だがやはり関わりを持っているようじゃないか。ふん、俺の目に狂いはなかったな」
「ちょっと月子さん。どういうことなんですか」
「それは、その」
月子は食べかけの林檎を握り締め、ことのいきさつを語り始める。
「私だって、初めは普通の人でしたよ。やりたいときにやりたいことをやれたならそれが一番だと思っていました。でも彼らが、
「聞いたか、ケン。これがあいつらのやり方なんだよ。現代社会では実現できそうもない欲望につけ込み、新社会秩序への幻想を抱かせるんだ」
そうなのか。
「私は、いろんな人とやるんじゃなくて、気に入った人とだけずっと一緒に過ごしたいんです。もちろんそれが相手の自由を制限することに繋がるのは免れないでしょう。これは今の世の中ではタブー。でも、彼らの目指すコウサイが普及した社会では、パートナーへの束縛がさも当然のことかのように
「誰かとずっと一緒に過ごすだなんて……想像もできません。月子さん、俺には無理ですよ」
「今の社会ではそういう風に考える人が多いでしょうね。でも、いずれはあなたたちの方が少数派になる社会が訪れることでしょう。男女は互いに依存し合うのが普通であり、男女で一緒に長期間過ごすことのできない人の方がむしろ人格的に欠陥があるんだと扱われるような社会を私たちはきっと実現して見せます! 現代社会では、コウサイの理念を掲げる私たちの方がおかしいみたいに扱われますが、そんな時代も終わりです。コウサイをしたがっている私たちこそが『普通』と判定されるような新社会秩序を、今こそ構築するのです!」
月子さんは力いっぱい林檎を握りしめている。
コウジは呆れた目で月子さんを眺める。
「やれやれ、まさかここまで洗脳されているとは」
「月子さん、言いたいことはわかりますが…。やっぱり、特定の男女がずっと寄り添って暮らすなんて全く想像できません。本当にそんな社会がありえるんでしょうか」
「ありえますよ。今は遅れた秩序の中に生きているんですから、新しい秩序の浸透した社会を想像できないのは当然です。でも、一度コウサイが社会通念となってしまえば、それはなかなか崩れ去ることはないでしょう。きっとケンさんも、その新たな社会の中では違うことを思うようになっているはずですよ」
「ケン、耳を貸すな。無茶苦茶な理論だ」
月子さんは多少熱くなっていたようだが、気持ちを落ち着かせるように林檎をごくんと飲み込んでいった。
「どうして分かってもらえないのでしょう。大好きなあの人が、他の異性と手を繋ぐこともなければ映画を観に行くこともない。接吻も接合もあなたとだけ行われるんですよ? 更に言えば、相手にわざわざ『こういうことをやりたい』と伝えなくても、さっき挙げたようなことを期待しているんだと、コウサイ成立時点で相手に了解してもらえるんです。これなら、現在の個人主義社会における弱者のような人々、つまり自己主張をあまりしない人たちでも望みの行為を実現できる可能性が高まります。素晴らしいことじゃありませんか」
「月子さん……、早く現実に戻って来た方がいいと思いますよ。自分とだけ接吻して欲しいだなんて、そんなことを人に求めるのはあまりに非常識でしょう」
「だから、現在の常識とは違う常識が浸透した社会を作るべきだし、それはできると言っているんです……!」
「ケン、何を言っても駄目だ。この女はもう完全に洗脳されてやがる」
コウジは月子さんに歩み寄り、手を差し出す。
「ツキコ、その林檎を渡せ。所有することが当然の権利だと思っているかぎり、お前はこの社会に適合できない。まずはその果実を俺に寄越すんだ」
「嫌です。渡したくありません。私はこの林檎が気に入ってるんです」
「月子さん、渡してやってくださいよ。コウジもきっとその林檎を食べたいだけなんです」
「嫌だって言ってるじゃないですか。この林檎は私が最初に食べ始めたものですよ。どう扱うかは私の自由なはずです。所有物の取り扱いは、その所有者に
「ふん、クソが」
コウジは月子さんの右手を蹴り飛ばした。
「あっ林檎が」
月子さんは転がる林檎を追いかけ、慌てて拾い上げる。
「ああ、勿体ない。こんなにおいしい林檎。私だけのもの」
「月子さん。それは落ちてしまいましたから、俺の食べかけでよければ差し上げますよ」
「ありがとうございます。でも、構いませんよ。私はこの林檎を最後まで味わい続けます」
月子さんは俺の林檎を受け取らず、自分で拾った林檎を齧り始める。
そして、コウジは右の拳で月子さんの顔を真正面から殴りつけた。勢いよく倒れた月子さんは頭部を床に強く打ちつけ、気を失った。鼻がひん曲がり、歯が折れて、顔面から血が流れ出している。床に転がった齧りかけの林檎はしっとりと血に染められていった。
コウジは果肉まで真っ赤に染まった林檎を指差して、俺の方を向いた。
「ケン。この林檎もらってもいいか?」
「新しいの用意するから待ってろよ」
「いや、これでいい」
コウジは落ちた林檎を拾い上げ、しゃぐしゃぐと齧った。
「うん、やっぱりうまいな」
のびた月子さんを眺めながら、林檎を咀嚼していく。
「なあ、ケン。俺はケンのこと好きだぜ。だが、ずっと俺のものにしたいとは思わない」
「ああ、俺もささみのことは好きだけど、俺のものにしたいとは思わないな」
「ははっ、そうだよな」
俺とコウジは隣り合って、月子さんを眺めながら林檎を食べた。
そうだ、もうこのペンダントも要らないな。俺は首の後ろに手を回し、月型のペンダントをそっと外す。
「なあコウジ、月子さんたちの望んだ社会って、どんなものだったんだろうな」
コウジは林檎をゆっくりと飲み込んでから言った。
「そうだな。たぶん、限られた異性としか関われなくなるんだろうな。コウサイしたが最後、それからずっとそばにいて他の異性の所へ行かないように監視し続けられるんだ。あとはおそろいの装身具でも身につけて、こいつは自分の所有物だって互いに示しておくんじゃないか。それを外すことも許されないんだろうな、きっと」
「嘘だろ? さすがにそんな身勝手なことが通用する世の中じゃないよな」
「ああ、今の社会じゃ通用しないな。だからこそ、そんな振る舞いがある程度許容されるような風潮を、社会的な後ろ盾を、構築しようとしていたんじゃねえのか。やつらはよ」
それを聞いて、俺は銀のペンダントを月子さんのそばに放り出した。
「『コウサイ』っていうのは、シットを前提とした人間関係のあり方だったってことか。この社会にとんでもないものを持ち込もうとしてたんだな。ありえないよ。シットはクソだぞ」
「ああ、シットはクソだ。そんなもの受け入れられるわけがねえ」
俺は机の上に置いた林檎の山に目をやる。
「何ていうか、みんなで分け合ってこその喜びなんだから、一人で独占しようとしなくてもいいのにな」
「だよな。一人で過ごして、みんなと生きる。それが一番いいバランスなんだよ」
ぐしゃり、ぐしゃり、うまい。今度この林檎を持って、他のいろんな果物と交換して回ることにしよう。
おわり
果実の所有 みのあおば @MinoAoba
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