湖の竜の村

 頬に温かみを感じ重いまぶたを開くと、オレンジ色の炎がパチパチと音を立ててゆらりと揺れ、まるでアイリを誘い込んでいるかのようだった。

 その暖炉の明かりを背にして、椅子に座り本を読んでいるシルエットがあった。一定の間隔で、するり、するりとページをめくる音が聞こえ、それに合わせてシルエットもわずかに動く。

 アイリは柔らかいベッドに寝かされていた。起き上がろうとするが、全身が重くて力が入らず、上半身を動かすのがやっとだった。

 体に掛けられていた布がはらりと落ちる音。人型のシルエットがそれに気付き、椅子から立ち上がってアイリに近付いてきた。

「やっと起きたわね。こんばんは、具合はどう? 悪いところはない?」

 アイリは頭がぼんやりとして、その言葉が理解できるまでに時間がかかった。

「は、はい、大丈夫だと思います。…ここはどこですか?」

「わたしの部屋よ。わたしはセリナ、よろしくね。あ、まだ寝てていいのよ」

「わたしはアイリです。でもわたし、どうしてここに…?」

「憶えてないの?…まぁ無理もないわね。あなたたちが竜に襲われていて、助けに行ったあと気を失ってしまったから」

「………あ」

 アイリはようやく頭がはっきりとしてきて、徐々に記憶が蘇ってきた。

「そうだ、確か黒い竜に襲われて……あっ、ペレスとアレン…他のふたりは無事ですか?」

「ええ、大丈夫だから安心して。けど、怪我をしている方の人は傷が深いから、もうしばらく動くのは無理かもね」

「でも、無事ならよかったです」

「ほんと、よかったわ。あなたたち、けっこう危ないところだったのよ。最近はこれまで見たことのない、気持ち悪い竜が頻繁に現れるようになったのよね」

 セリナは「あぁいやだいやだ」と肩をすくめてみせるが、その実そんなに嫌がっているようには感じられず、むしろ楽しそうだった。

「でも、洞窟に逃げ込んでくれてちょうどよかったわ。あそこは頑丈にできているから時間稼ぎにはなったわよね」

 そう言いつつも、ふと思い出したように少し考え込んでから、

「うーん、でも、あのまま襲われたらさすがにただじゃすまなかったか…」

とひとり言を言った。

「洞窟の中に小さな祠があったんですけど」

「ああ、あそこは竜が子供を生んだと言われている洞窟なのよ。だからかわからないけど、とても頑丈にできているの。ところで、この村には海から来たっておにいちゃんに聞いたけど、途中で湖は見た?」

「はい」

「あの湖にはね、この村の守り神の竜が住んでいるという伝説があるの」

「守り神?」

「そう。湖はとても深くて、誰も確かめたことはないけど、その先は海とつながっているらしいわ。その守り神の竜は湖と海を自由に行き来できるんだって。そしてその竜が子供を生んだのがあの洞窟だっていう逸話があるの。なぜこんな森の中に来て産んだのかはわからないけどね」

「竜も子供を産むんですね」

「そうよ、生きものだからね」

 アイリにはその視点が欠けていた。その寿命や生命力を見れば、竜は人間など遥かに凌駕するが、傷付けば血を流すし、弱り、死んでいく。確かに生きものに違いなかった。

「金色の竜もずいぶん年老いてた…」

 けど神と崇められるほどの伝説の竜を、生きものとして考えていいのだろうか。

 セリナはアイリの考え込むような横顔を見て言った。

「金色の竜? ねえ、アイリ。もしよかったらだけど、なぜ竜に襲われていたのかとか、あなたの知ってる竜の話とか、旅の目的とか、村のみんなに聞かせてもらいたいんだけど…いい?」

「はい。何かのお役に立てるなら」

「ありがと。それじゃみんなを呼んでくるから、ちょっと待っててね」


 アイリはベッドの端に腰掛け直し、足を床に下ろした。絨毯から短くはみ出した毛がちくちくと足の裏を刺激してきた。暖炉の火が暖かかった。


「アイリ大丈夫か?」

 セリナの後ろから割り込むように部屋に入ってきたのはペレスだった。

「うん。もう何ともないわよ」

「よかった。何かあったらひとりで帰らなくちゃいけないところだった…」

「ペレス、あんたひとりで帰るつもりだったの?!」

「いや、そうじゃなくて…」

 続いて10人ほどの男女が入ってきて、暖炉を囲うように床に座った。軽い食事も用意された。

「村の人たちよ、みんないい人だから安心して」

「はじめまして、アイリです。危ないところを助けてもらってありがとうございました」

 それぞれアイリに「無事でよかった」とか「大変だったわね」とかねぎらいの言葉を掛けた。

「そういえば、あなたのペンダント見せてもらったわ。あんなに大きな緑竜石なんてはじめてよ」

 セリナに言われてアイリは胸元のペンダントを取り出した。

 今は暖炉のオレンジ色の光をきらきらと反射しているだけだったが、それを見た人々から「おぉ…」というため息が聞こえてくる。

「緑竜石は持つ人を選ぶのよ。適性がない人が身に着けていると、それだけでひどい厄災にみまわれて、それこそ身を滅ぼしかねないわ。こんなに大きな石ならなおさらよ。あなたは何ともないの?」

「はい。たまに夢を見るくらいです。夢というか、金色の竜の記憶が頭に入り込んできて、一体になるような感覚」

「ふーん、さっきも金色の竜って言ってたわね。その竜の話とか、よかったら教えてくれない?」

「はい。何から話せばいいでしょうか」

「そうねぇ。じゃあ、その緑竜石は誰にもらったの?」

「ペレスのお母さんにもらいました」

「ペレスって…」

「ぼくの母さんです」

「わたしが赤ん坊のときにもらったんです。でもどうやって手に入れたのかはわかりません」

「ぼくにも父さんにも教えてくれなかった」

「どうして教えてくれなかったの?」

「わからない。父さんはたぶん竜の大岩のあたりで見つけたんじゃないかって言ってるけど、母さんはぼくが子供の頃に死んでしまったから、実際のところはもう誰にもわからない」

「そう、悪いこと聞いちゃったわね…。ところで竜の大岩って?」

 それからアイリを中心に、村が竜に襲われたこと、竜の大岩、村に伝わる金色の竜の伝説や、不思議な体験、自分たちの旅の目的、そしてここにたどり着くまでの話をした。

「…そんなことがあったのね。なかなかつらい話ね。それで王都に行こうっていうわけね。それにしてもヨシュア、レイトスといえば、とても有名な英雄だから、このあたりでは知らない人はいないわ。あなたたちがその子供だなんて」

「わたしはレイおじさんが話をしてくれるまで、パパがそんな人だったなんて全然知りませんでした」

「ぼくもほとんど知らなかった」

「ふたりの英雄の娘さんと息子さんが、こうして旅をしているなんて、何かの運命かもね。けど、船が沈んでしまうなんて災難だったわね。よく無事だったわね」

「あのアレンという人がいなかったら、たぶん助かってなかったと思います」

「命の恩人というわけね」

「あんまり認めたくないんですけど…」

「だよな…」

「ふふっ、ちょっとくせのある人みたいだったしね。アレン、アレン…どこかで聞いたことがあるような気がするのよね……まあいいわ、あなたたちの他にも海岸までたどり着いている人たちがいるかもしれないから、朝にでもさっそく人を行かせるわ。教えてくれてありがと」

「いえ、よろしくお願いします」

 アイリは深々と頭を下げた。


 ひと通りアイリたちの話が終わったところで、今度はセリナが簡単にこの村、ツシマ村の話をした。幸いなことに、ここから王都まではそれほど遠く離れていなかった。


「それじゃ、あなたたちは2、3日ここでゆっくりして、それから王都に向かうといいわ。ちょうど村からも馬車を出す予定だったから、一緒に乗っていくといいわ」

「ほんとですか? ありがとうございます!」

「それじゃ、今日はお開きにしましょ。みんな今日はご苦労さま。はい、男ども早く帰った帰った」


 ふたりきりになった部屋で、セリナはアイリの隣に並んで座り、暖炉の火を見つめながら話しかけた。

「そういうことだから、少し村で休んでいってね」

「ありがとうございます」

「旅人はもてなすのが礼儀だ、っていうのが、この村の人たちの心意気なのよ。受け入れてもらえたらこっちもうれしいわ。それはそうと、変なことを聞くけど、あなた、最近笑ったことある?」

「笑ったこと…」

 村が竜に襲われたあの日以来、アイリは必死に生きてきた。ただ強くなり、竜へ復讐することだけを考えて。

 笑うなんて考えたこともなかったし、世の中に笑えるようなものはなにひとつなかった。笑うとはどういう感情だったのか、そんなものすら、もう過去に置き忘れていた。

「その様子じゃ、どう笑っていいか忘れてしまったようね」

「強くなるのに、そんなことが必要でしょうか」

「必要かどうかといわれると、必要ないかもしれない。とてもつらい経験をして、そんな気持ちになれないこともよくわかるわ。でもほんとうに強くなりたいなら、絶体絶命で、もうどうしようもないっていうときでも、笑えるくらいの心の余裕を残しておくのも大事よ。……あなたのお父さんはそういうことを教えてくれたわ」

「え? パパを知ってるの?」

「ええ。命の恩人を忘れることがあるかしら」

「ほんと?! 聞かせてください、パパのこと!」

「いいわよ。そうね、わたしがまだあなたくらいの歳の頃だったかしら」

 セリナはアイリを優しいまなざしで見つめ、次に壁に掛けられた1枚の絵に視線を移して話しはじめた。それはどこにでもあるような田園風景の絵だった。

 暖炉の中ではパチパチと薪のはぜる音が大きくなった。

「隣町で頼まれものの用事を済ませた帰り道、突然、竜に襲われたのよ。このあたりは昔から竜が出るから気を付けてはいたんだけど、気が緩んでいたのかしらね。それはまだ子供の竜だったから、今思うとただ遊ぼうとしていただけなのかもしれない。けれどそんなのに甘噛みされたってひとたまりもないし、ひとりでどうにかできるわけなかった」

 アイリは真剣なまなこをして聞いている。

「とりあえず逃げるしかない。そう思って、できるだけ速く走ったの。でもね、そんなの何の意味もなかった。足が動かなくなるほど走ったのに、気が付いたら目の前に竜がいたわ。そしてわたしに向かって牙を剥いたの。これは遊びなんかじゃなく、明らかに敵意が感じられたわ」

 アイリは固唾をのんだ。

「そうしたら…」

「そうしたら?」

「そうしたらね、竜とわたしの間に、ヨシュアとレイトスのふたりが割って入ったの」

「え? どこから現れたの?」

「それがね、笑っちゃうんだけど、あとで聞いたら、ふたりはちょうどそこで寝っ転んで、昼寝をしてたっていうのよ。わたしが竜と遊んでいると思ったんだって」

 アイリは黙って話の続きを促した。

「さすがに様子がおかしいと思って、助けてくれたんだけど、追い払ったあとふと後ろを振り向いたら、今度はわたしたちを大きな竜が見下ろしてたのよ。これはほんとにもうダメだと思った。絶体絶命とはまさにあんな状況のことをいうんだと思うわ。でもね…あなたのお父さんは楽しそうに笑ってたのよ。そして人差し指を上に向けて、上を見ろっていう仕草をしてたのよ。こんな時に笑うだなんて、バカじゃないのかと本気で思ったわ」

「逃げなくて大丈夫だったの?」

「タネ明かしをするとね、とても恥ずかしいから村の人には誰にも言ってないんだけど、そこにいたのは、というより、あったのは、一本の木だったのよ。わたしはよっぽど気が動転していたみたいで、それが竜に見えたのよ。ふたりはこの木陰で昼寝をしてたんだって。それでね、あなたのお父さんはわたしにこう言ったのよ。どんなときでも冷静でいろ、心に余裕を持てってね」

「心に余裕を…」

「わたしのおっちょこちょいと比べると怒られちゃうかもしれないけど、それがきっかけで、考えががらっと変わったわ。いつでも冷静でいようって思えるようになった。あなたはどう? いつでも冷静でいられる?」

「わたしは…」

「うん、答えは出さなくていいわ。お父さんの話をするなんて思いもしなかったけど、久しぶりにあの頃を思い出したわ。懐かしいわね」

「わたしもパパの知らない話を聞けて嬉しいです」

「アイリ、まだ疲れてるでしょ。今日はゆっくりおやすみなさい」

「はい、ありがとうございます」

 暖炉のぬくもりに包まれ、アイリは幸せだったあの頃のように、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。


 翌日の午後、村は急に騒がしくなった。人々は台車を引きスコップなどを手に慌ただしく行き交っている。部屋から外に出たアイリは、近くにいた人に声を掛けた。

「すみません、何があったんですか?」

「ん? ああ、昨日のあんたか。早朝から海岸に様子を見に行ったやつらがさっき帰ってきたんだが、何十人か人が流れ着いていたらしい。おそらく沈んだ船の乗客だと思うが、生きている人はひとりもいないようだ。これから人を増やしてまた海岸へ行くところなんだ。それじゃ」

 そう言って男は歩き去っていった。

「え…?」

 アイリは言葉をなくした。生きている人がいないって…。船の中で他の乗客と話をした情景が思い浮かんできた。そして子供もたくさんいたはず。

「そんな…うそ……みんなちゃんと逃げられたと思ったのに……」

 その時、ちょうどセリナが通りかかった。

「セリナさん、海岸に人が流れ着いたって本当ですか?」

 アイリは間違った情報であってほしいと、心の隅で願いながら聞いた。

「誰に聞いたの?」

「さっきここを通りかかった人から…」

「そう……本当よ。舟の残骸も流れ着いてるみたいだから、ひょっとして逃げてるときにまた竜に襲われたのかもしれない。かなりの人数になるみたい。これからみんなで遺体の埋葬に行くところよ」

「生きている人はいないの?」

 セリナは目を伏せ、黙って首を振るだけだった。

「そんな……わたしも何か手伝います」

「あなたはここにいて。万が一何かあったら、子供たちの逃げる手伝いをしてほしいの」

「でも…」

「お願い。それが今のあなたの仕事よ、頼んだわよ」

 セリナはそう言い残し、足早に歩いて行った。残されたアイリの目に、無邪気に遊ぶ子供たちの姿が飛び込んできた。


 セリナは夜中遅くに帰ってきたが、アイリが声を掛ける暇もなく、またすぐに部屋を出ていってしまった。

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