漆黒の竜

「グェー!」というおぞましい鳴き声が森の中に響いたのはその時だった。

 3人はお互い顔を見合わせた。

「あっちだ」

 アレンは小声で言い、道の脇にあった大きな木の陰へと身を隠した。アイリとペレスもそれに続いた。背負っていた荷物を脇に置き、肩を寄せ合い息をひそめた。

 3人はお互いが呼吸する音を近くに聞きながら、森の向こうへと聞き耳を立てていた。

 アイリには緊張で早鐘を打つ心臓の鼓動が聞こえるようだった。

 あの声はやはり竜なのだろう。けれど鳴き声はあのひと声だけで、そのあとには物音もなく、不気味な静寂が広がるだけ。何の気配も感じられない。

 アイリの胸のペンダントは、相変わらず緑色に光っている。光を隠すために胸元を押さえようと腕をわずかに動かした時、腰に差した剣に触れカチャリと音が鳴った。アレンとペレスがこちらをちらりと見る。アイリは一瞬どきりとしたが、森の中は相変わらず静寂が広がっているだけで、何も変化はなかった。


 竜はもうどこかに行ってしまったのではないだろうか、そう思いかけた時。

 突然、頭上から「グェー!」とけたたましくおぞましい鳴き声が降ってきた。

 いっせいに見上げた3人の上に、真っ黒な影が覆いかぶさってきた。そして落ちてくる大量の木の葉や枝。

 アイリはとっさに頭を抱え駆け出し、できるだけ遠くまで、無我夢中で走った。

 逃げている間も耳に聞こえてくるのは、木がめきめきと折れる音に竜の鳴き声の混じった、表現しがたい心底おぞましい音。

 滑り込んだ木の隙間から恐るおそる覗くと、どさりと黒い塊が降りてきた…いや、落ちてきたというのが正しい表現だろう。続けて頭がくらむほどの鼻をつく強烈な臭いが襲ってきた。

『ふたりはどこに行ったんだろう』

 あたりを見回すと、近くの大木の根元にアレンが同じように隠れていた。こっちに気付き手招きをしている。

 アイリは竜が後ろを向いているのを確認して、できるだけ音を立てないようにその大木の元に駆け込んだ。気付けばペレスもそこに座り込み身を潜めていた。

「怪我はないようだな」

「ええ」

「それにしても、やっかいなヤツにあっちまったな」

 木の隙間から見ると、その黒い塊は地面のにおいを嗅ぐような仕草をしながら、確実に3人のいる方へと近寄ってきている。

「見付かるのも時間の問題か…。さて、どうするかな……」

「戦うしかない…」

 アイリは片膝をつき、思いつめた顔で腰に差した剣の柄に手をかけた。

「今やらないと、このままじゃみんなやられちゃう」

「アイリやめろ」

「だめだお嬢ちゃん、無謀すぎる。今のアイツにはかないっこないし、逆に刺激してしまうだけだ」

「じゃあどうすれば…」

「とにかくお前たちは何があっても生きのびることだけを考えるんだ。ここはオレに任せろ」

 アレンは背中に差していた槍を構え、懐から取り出したいくつかの丸い玉を指の間にはめた。

「オレがアイツを引き付ける。その隙にお前たちはあそこに逃げろ。あそこなら頑丈そうだから何とか持ちこたえられるだろう」

 アレンが指差す方には、入口を岩で固められた洞窟のような場所が見えた。

「わかったわ。あなたはどうするの?」

「オレもあとから行く。全速力で行けよ。…準備はいいか? 力を抜くなよ」

「はい」

「ええ」

「じゃあ行くぞ。……さん…」

 アイリは獲物を見付けた鷹のように洞窟に狙いを定める。

「にい…」

 つばを飲み込み、足に力を込め、あとは蹴り出すだけだ。

「いち…」

 緊張は最高潮に達した。

「行け!!」

 3人は弾けるように一斉に飛び出した。

 アレンは竜を挑発するように「うわぁー!」と声を上げながら、アイリたちは洞窟に向かって後ろを振り返ることなく一直線に走った。

 息が切れ、だんだんと足が重くなってくる。後ろの方から爆発音が聞こえ、一瞬視界が白くなったが、構わずに走り続ける。

 そしてこれ以上走るのがつらくなってきた頃、やっと洞窟にたどり着き、狭い入口から中に転がり込んだ。ペレスもすぐに入ってきた。

 暗闇の中、何も考えられず、ただ、ぜぇぜぇと喉を鳴らし、肩で息を続けた。

 暗くて静かな洞窟だった。

 やっと呼吸も落ち着き、気が付くと、外の音はほとんど聞こえず、ぽたり、ぽたりとしずくの落ちる音だけが鳴り響いていた。

 ペレスは入口に座り外の様子を見ていた。

 目がなれてくると、そう広くない洞窟の奥に小さな祠がまつってあり、両脇に竜の石像が安置してあった。竜の大岩にある祠ととてもよく似ていた。

 アイリが胸元からペンダントを取り出すと、緑色の光があふれ、洞窟の中を淡く照らした。竜の石像は光を受けて笑っているようにも見えたが、壁に写し出された大きな影は、牙を剥き出した恐ろしい姿に見えた。


 そうこうしているうちに洞窟の外からザザザという音が近付いてきたと思ったら、アレンが転がり込んできて地面に倒れた。

「くっ…」

「あっ、ひどい傷…」

 よくは見えないが、体中が血で黒く汚れているのはわかる。

「何とかヤツをまけたと思うんだが…」

「そんな体で、今は動かない方がいい」

 体を起こそうとするアレンを止めた。

「竜の姿もないし大丈夫そうだ」

 外の様子を見ていたペレスが言った。

「……いや、やっぱりダメだ。見付かったかもしれない…」

 アイリが外を見ると、真っ黒な塊が頭を左右に振りながら、こちらに向かって一歩、また一歩と近づいてきていた。

 吐き気をもよおすひどい臭いが、洞窟の中にまで届いてきた。

『やっぱりわたしがやるしかない…』

 アイリは剣の柄に手をかけ立ち上がった。入口から射し込んできた光に照らされ、全身がシルエットとして浮かび上がり、髪の輪郭が金色に光っていた。

「やめろ…」

 アレンの細い声が聞こえた。

 無謀なのはわかっている。けれど、どうせここにいてもやられてしまうだけだろう。だったら、これまで金色の竜への復讐のために鍛えてきた自分と、そしてこの剣を信じて立ち向かえば、ひょっとしたら何か道が開けるかもしれない。

 それにこのペンダント。胸元で緑色に輝きを放ち続けているこの石。何か不思議な力を与えてくれるかもしれない。そう思った時、いつか幻に見た金色の竜の記憶がフラッシュバックした。

 あの時感じた、“ワタシ”という存在と一体になる感覚。

 竜を前にした恐れはなくなり、なんとも言いがたい自信に満ち溢れ、力が湧いてくるようだった。

『わたしなら、できる…』

 そう言いかせ剣を引き抜いた。

 ここまで来てはもう後には引けない。入口にいたペレスの手も払いのけ、洞窟から一歩踏み出した。

 すぐ正面にいる漆黒の闇のような竜。見るのも汚らわしいその竜が、おぞましい声でひと声鳴いた。耳がつぶれそうだった。

『わたしならできる!』

 剣を構えたその時。

 ドーン!!という大音響とともに、竜の姿が一瞬にして視界から消えた。そしてひと呼吸おいて聞こえてきた爆発音。

 アイリは何が起こったかわからず、あっけにとられたが、音のした方に顔を向けると、大木の根本に黒い物体が転がり、煙を上げている。

 ペレスが洞窟から出てきた。

「アイリ、今のはなんだ?!」

「わからない…」

 すぐにふたりの目の前を防具で身を固めた10人ほどが横切り、竜の方へと走っていった。剣を手にした人、ロープを体に巻きつけた人たち。

 また別の方から数人、アイリたちの元に駆け寄ってきた。

 その中のひとり、腰まで届く真っ黒な髪を揺らしながら、背の高い女が話しかけてきた。

「あなたたち大丈夫? 竜の声が聞こえて来てみたら、人が逃げるのが見えたのよ。これはまずいと思って少し手荒なことをしてしまったのだけれど、怪我はない?」

「はい。わたしたちは大丈夫ですけど、この中にいる人がひどい怪我をしてしまって…」

「わかったわ。ねえ、この中に怪我人がいるそうよ。村に戻って手当てしてあげて」

 彼女は背後に控えていた若者に声をかけると、背の低いひとりが「了解しました」と返事を返し、その若者はさらに数人を呼び寄せ洞窟へと入っていった。

「とりあえず、わたしたちと一緒に村まで行きましょ。それから、剣はもうしまっても大丈夫よ」

「え? あ、はい…」

 言われるまで気が付かなかったが、アイリは剣を構えた格好のまま立っていたのだった。

 しかし剣を下ろそうとするが、体がこわばってなかなか自由に動いてくれない。なんとか腕は下ろせたものの、今度は手がふるえていた。鞘に納めようとするが、剣先がカチカチと音をさせるだけでなかなかしまえない。

「もういいのよ」

 彼女はそう言うと、アイリの手を優しく包んだ。

 その手に触れられた瞬間、不思議とふるえはおさまり剣は鞘に吸い込まれたが、今度は強い脱力感に襲われ目の前が真っ白になった。

「大丈夫?!」

 彼女の耳元で緑色の石のはまったイヤリングが揺れるのを見たのが最後、アイリは意識を失ってしまった。

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