海の竜、そして…

「オレもこの船に乗るんだ。よろしくな」

 アイリとペレスは顔を見合わせ、お互いうなずき、そのまま何事もなかったかのように船の方へと向かおうとした。

「おいおい、何か言ったらどうだ」

「何よ。あなたが船に乗ったって乗らなくったって、わたしたちには関係ないじゃない」

「だよな」

「そんなつれない事いうなよ。旅は道連れっていうじゃないか」

「酔っ払いと道連れなんてごめんだわ。行きましょ」


「…酔っ払いねぇ。ま、心当たりがないわけじゃないが」

 ふたりの後ろ姿を見ながら、ひとり残された男は自嘲気味に笑った。


「乗船する方はこちらに集まってくださーい!」

 近くまで来てみると、船は意外と大きかった。舳先には金色に光る竜の頭が付いている。チケットを見せ、ひとりずつタラップを上がっていく。

「はい、おふたりですね。荷物はその背負ってるかばんだけですか? ちょっと大きいけど…まあいいでしょう。部屋まで持っていって邪魔にならない所に置いておいてください。あと、剣なんかはかばんにしまっておいてください。お次の方どうぞ…」

 タラップを上がった先のデッキは、とてもしっかりとした造りで、地面に立っているのとなんら変わりなかった。ここから町を眺めると、目線が少し高くなっただけなのに、昔からこの町を知っているような、ずいぶん違った印象になった。

 船員に誘導され、階段を下り狭くて薄暗い通路を大部屋へと向かった。そこにはすでに多くの乗客が荷物を広げていたが、思いのほか広々としているので、まだまだ余裕はあった。ふたりは部屋のいちばん奥に荷物を置いた。

「朝食は07時、昼食は12時、夕食は18時になります。食堂には軽食と飲み物がありますから、お好きな時にどうぞ。あと、夜は危険なのでできるだけ外には出ないようにしてください。何かわからないことがあればお尋ねください。それではよい旅を」


 船の旅はまさに順風満帆。冬の入口だというのにまだ暖かく、アイリは日がな一日海を眺めたり、飛んでいる鳥の群れを見たりして、のんびりと過ごしていた。一方、ペレスは部屋で寝てばっかりだった。

 アイリは他の乗客とも親しくなり、他愛のない会話を交わしていたが、気が付くといつも話の輪の中心にいた。特によくしゃべるわけではなく、またこれまで人と接する機会もあまりなかったので話し上手というわけでもないが、持って生まれた性格のゆえか、人の心をつかむのがうまいようだった。

 しかしそれにしても気になるのはあの酔っ払いの男。デッキの上で見かける時はいつも、昼間から酒瓶を片手に寝そべっていた。


 そうして船の旅も後半に入った、四日目の夜となった。


『…アイリ! 早く逃げろ! アイリ!!』

 誰かに呼ばれた気がして、はっと目が覚めた。またあの時の夢を見ていた。心臓の鼓動は早く、額には汗をかいていた。

 船はゆっくりと大きく左右に揺れ、そのたびに、みし、みし、みしと小さな音を立てていた。アイリの他に起きている人はいないようだった。

「ペレス、ねぇペレス…」

 隣で眠るペレスに小声で声をかけてみるが、返ってくるのはいびきだけだった。

 物音を立てないように、乗客が眠る大部屋をそっと抜け出した。食堂へと通じる狭い通路を抜け、慣れない船の揺れに足を取られ左右の壁に手を突きながら歩いていく。船内は暗く静かだった。

 デッキへ向かう狭くて急な階段を上がっていくと、見上げた視線の先、扉が船の揺れに合わせて少し開き、その隙間から星の光が差し込んできた。

 扉を開いて外に出ると、冷たい風がアイリの頬を引き締めた。

 船べりから下を見ると、さーっと波しぶきが上がり、船は黒い海の上を滑るように進んでいた。

 手すりにつかまり、ぎし、ぎし、と木の床を踏みしめながら歩いていくと、月明かりに照らされて、舳先に立つ人影がみえた。

「あ…」

 アイリが言葉を漏らすと、その影が振り向いた。

「どうしたお嬢ちゃん。眠れないのか?」

 あの男だった。

「…夜の海が見たくなっただけです」

「そうか。夜もいいもんだろ」

 アイリは答えずに暗い海を見ていた。髪は後ろに束ねているが、おくれ毛がはらはらと風に舞っていた。

 船は黒い海を左右に切り分けるようにして進んでいく。月明かりが海面にできたさざ波と泡の軌跡を白く照らしていた。

「今晩はいい風が吹いてるから、本当は動力なんて止めてもらいたいが、さすがにこんな船だと風だけで動かすのはたいへんだからな」

 男は誰に聞かせるでもなくひとりごとのように言った。

「何してるんですか?」

 アイリは黙って立ち去ろうとしたが、湧いてくる好奇心に勝てず聞いてみた。

「何って、見てわからないか? 見張りだ」

「見張り? いつもお酒を飲んで寝てばっかりなのに?」

「おいおいおい、それじゃただの酔っぱらいじゃねぇか」

「だってそうじゃない」

「なかなかひでぇこと言うお嬢さんだなぁ。これでも真面目に仕事をしてるつもりなんだがな。それに、一日中寝ないで仕事しろなんて無理だろ」

「酔っ払ってる暇があったら、それくらいやってもいいんじゃない?」

「あのなぁ、人を何だと……ん?…ちょっと待て。静かに……」

 船がギギギときしる音が聞こえている。

「気のせいか……いや違うな…」

 男が息をのむ音が聞こえてきそうだった。

「………そこだ!」

 男が指さす方をアイリが見ると、船のすぐそば、月明かりに照らされた水面に、船のものとは違う、波を立てて進む大きな黒い影が見えた。

「竜だ! 気をつけろ! 手を離すんじゃないぞ!」

 アイリはとっさに手すりにしがみついた。

「目をつぶれ!」

 男が言うが早いか、船の周りが昼間のようにぱっと明るくなった。

 まぶしくて目が開けられなかったが、明かりが弱まり視界が戻ってくると、船の横をくねるように泳ぐものの姿があった。

「でかいな、こいつ!」

 灰色に赤で縁取りされたヒレのようなものがいくつも水面から飛び出し、水しぶきを上げながら進んでいる。それが船と同じくらいの長さだけ続いていた。

 船は先ほどまでの一定間隔の揺れではなくなり、不規則なリズムを刻んでいる。

「いい子だから、これで逃げてくれよ!」

 男が竜の進む方向に向かって何かを投げつけたかと思うと、爆発音があたりに響き渡った。

 竜はしばらく同じように水しぶきを上げ泳いでいたが、ふいにその姿が海の中に消えて見えなくなった。

「とりあえずはひと安心だな。おい、緊急事態だ! 船員を叩き起こしてきてくれ! 早く!!」

 アイリはあわてて船の中に駆け込むと、入れ替わりに船員が何人か出てくるところだった。

「どうしましたか?!」

「竜です!」

「竜だって!?」

「はい!」

「わかりました。怪我はないですか? ひとまず部屋に戻って出ないようにしてください。おい、お前、このを部屋までご案内して乗客みんなに緊急事態だと説明するんだ。あとはマニュアル通りに」

「はい! 了解しました!」

 若い船員は敬礼すると、アイリの先に立ち急な階段を下り、続いて狭い通路をしっかりとした足取りで足早に進んでいく。

 乗客のいる大部屋はすでに明かりが灯り、多くの人が目を覚ましていた。

「みなさん聞いてください。先ほどこの船の近くに竜が出ました」

 若い船員が部屋の中を見渡して言うと、案の定、人々のざわめきで満たされた。

「現在、船員と兵士とで緊急事態の対応をしていますので、みなさんはしばらくこの部屋にいてください。船の中は安全ですので、どうぞ落ち着いて行動してください」

 まだ乗船して日の浅いこの船員は、自身も初めて経験するこの非常事態に動揺を隠せなかった。しかし乗客にはそれを悟られぬように、できるだけ低いトーンで、そしてゆっくりとした口調で話そうと努めた。

 それがどれだけ功を奏したのかはわからないが、部屋の中はひとまず静けさを取り戻し、安堵のため息をついた。


 その時だった。


 突然、どすんというくぐもった音がしたかと思うと、船が大きく右に傾いた。

 部屋の中にあった物はすべて右に転がっていき、乗客の叫び声がいっせいに上がってくる。子供の泣き声もひとつやふたつではなかった。

「みなさんどうぞ落ち着いてください!」

 若い船員はそれだけを繰り返すのが精一杯だった。

 続いて今度は船の後方から聞こえる音と衝撃。次は前から、そして左後ろから。それが何度か繰り返され、ようやく船の傾きが収まった時、別の船員が駆け込んできた。

「緊急事態です! みなさん荷物を持って上に集まってください! どうぞ落ち着いて行動してください!」

 乗客は出入り口に殺到し、ざわめきの中に怒声が交じり始めた。船の中は一気にパニック状態に陥った。部屋のいちばん奥にいたアイリとペレスのふたりは、荷物を背負ってはみたものの、出ようにも出られないので何もなすすべはなく、その状況を眺めているしかなかった。


 船員とともにいちばん最後に部屋を出たふたりは、デッキに出て目を疑った。

 船の右側から後方にかけてえぐれてなくなっていたのだった。船がこうして浮いているのがほとんど奇跡だった。

「こっちだ!」

 ふたりが振り向くと、船の脇に吊り下げられた小舟にあの男が立っていた。

「おいお前たち、こっちの舟に乗り移れ! 早くしないとこの船と一緒に海の藻屑もくずだぞ」

 船員に助けられながら、ふたりは考える間もなく小舟に乗り込んだ。その小舟は3人が乗っただけでいっぱいになるほどの小ささだった。

「その荷物…まあいい、この程度の重さなら大丈夫だろう。しっかりつかまってろよ!」

 男は小舟を吊っているロープを操作し海面へと下ろした。着水した瞬間大きな水しぶきが上がり、やることはなかなかに手荒かった。

「できるだけ船から離れるぞ!」

 そう言うと、男はしぶきがかかるのも構わず、力任せにオールを漕ぎ始めた。

 だんだんと離れていく船体。何人もの船員が海に飛び込むのが見えた。

 船の舳先に付けられた金色の竜の頭が月明かりに照らされていた。それが少しずつ空の方を向き、船体はほぼ垂直となった。

 そして黒い海に飲み込まれるように、周囲のものを巻き込みながら、音もなく静かに沈んでいった。

 なんともあっけなかった。

 船の沈んだ跡には、月の光に照らされた海面と、船だったものの瓦礫が漂っているだけだった。

 それを取り囲むように、乗客が乗り移った舟がいくつか見えていたが、その影は徐々に遠くなり、やがて見えなくなった。

「だから竜を刺激するなと言ったのに、あいつら余計なことをしやがって…くそっ!」

 男はオールで水面を叩いた。

「まあ、おかげで竜が逃げていったのだけが不幸中の幸いか…」

 それだけ言って男は黙り込み、船の沈んだ方をじっと見つめていた。

 風もやんだ静寂の暗闇の中、小さな波がたぷんたぷんと小舟を叩いている。

「これからどうするの?」

 アイリが尋ねた。

「ああ、そうだな。今晩は幸い星も見える。あの三つ星、勇者の盾をかたどった三つ星だ。あの星を目指せば、とりあえず陸にはたどり着くはずだ。船はそこまで沖を進んでいたわけじゃないから、そのうち着くだろう」

「そのうちって…ほんとに大丈夫なの?」

「まあオレに任せときな。ただの酔っ払いじゃないとこを、お嬢ちゃんに見せとかないと、な…!」

 男はぐんっと大きくオールを漕いだ。

 そうしてしばらく三つ星に向かって漕ぎ続けていると、水の抵抗がふいに軽くなった。少し風も出てきた。

「お、いいところに流れがあったもんだ。これだと案外早く着くかもしれないぞ」

 小舟はわずかにスピードを上げ、暗い海の上を波間に漂いながら進んでいった。

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