港町へ

 出発の日の朝。

 アイリが目を覚ますと、部屋は薄暗く、今日は天気が悪いのかと思った。ぼんやりとした頭がはっきりしてくると、そうではなく、窓が白く曇り、外の光が入ってこないせいだと気が付いた。

 今日もまた昔の夢を見ていたような気がする…。上着の袖をまくり手のひらでガラスを拭き外を見ると、地面はうっすらと白く、枯れた草は水玉が覆い、朝日できらきらと輝いていた。秋が深まるごとに冬の気配が忍び寄り、一気に冷え込んだようだ。どうりで寒くて夜中に何度も目が覚めたわけだ。

 しかし眠りが浅かったのは、寒さのせいだけではなかった。今日は王都を目指して出発する日。さすがにいつもと違う日だと思うと神経がたかぶり、緊張でよく寝付けなかった。

 はぁーと息を吐くと、窓は再び白く曇った。


 壁にはレイトスより渡された剣が掛かっている。アイリのために倉庫から引っ張り出し手入れし直してくれたものだ。持ち手である柄はかなり使い込まれ年季の入ったものだった。そして今は鞘に収まっているが、細身で両刃の刀身は、傷や曇りひとつなく、アイリはひと目見ただけでその美しさに魅了された。

 この剣を渡されてから、いつもの棒を使った訓練に、剣の扱い方のメニューが加わった。それは単に棒を振り回していたときとはかなり違うものだった。しかし実戦を行うわけにはいかないので、剣の持ち方や切り方などを見よう見まねで教わり、模擬的な実戦訓練のときには棒を使った。それでも、拾ってきた木の枝などを切る程度のことはした。

 アイリはこの剣の扱い方も、乾いた地面が水を吸い込むように、次から次へと難なく吸収していった。

 剣を使ったあとは毎回、教わったように手入れをし、仕上げに布で磨くように丁寧に拭いた。そうすると、それに応えてくれるかのように、なめらかな金属の表面は、アイリの切れ長の美しい目元と輝く金髪を写し出した。


 棒を使った訓練にはペレスも加わったが、力任せに振り回すだけで、どうにもセンスがなく、自分の子供ながらレイトスもお手上げだった。ただ、逃げ足だけはあきれるほど速かった。


 そうしてあっという間に3ヵ月が過ぎ、出発の日を迎えた。

 朝食後、アイリは部屋の鏡の前に立ち、身支度を整えた。ひとつに編んだ金髪、肌着の上に生成りの長袖シャツ、そして手編みの薄いセーター。白いだぶだぶのスボンに明るい茶色の革のブーツを履き、最後に草色に染めた上着をすっぽりとかぶった。あんまりかわいくはないけど、体を動かすにはこの格好がいい。

 床に置いたザックには食料や簡単な調理道具、そして身の回りのものなどがぎっしりと詰め込まれ、背中にかつぐとずっしりと重かった。革の巾着袋には旅に必要なお金と父親の勲章を入れ懐にしまいこんだ。形見となった短剣は腰に結え付けた。

 外に出ると、玄関の脇にレイトスが待っていた。

「準備はいいか?」

「はい」

 レイトスはあらためてアイリの顔を見た。

 とてもいい表情をしていた。いつの間にかずいぶんとたくましくなったものだ。

 竜から逃げてきた時はどこにでもいる普通の女の子だと思っていたが、今思い起こしてみれば、あの状況でも泣きわめくわけでもなく、正気を保っていられたんだから、その頃から芯はしっかりとしていたんだろう。さすがヨシュアとイリスの娘というべきか。このごろは顔から幼さも消え、ふたりの面影を感じることもある。

「どうかしましたか?」

「あ、いや、なんでもない…。ペレスのやつ遅いな…」

 遅れて大きな荷物を背負ったペレスが出てきた。

「おいおい、なんでもいいけど、ちょっと荷物が大きすぎやしないか」

「予備の道具を入れたらこれくらいになるのは仕方ないよ」

「まぁ、担いで行くのはお前だからな…」

 アイリとペレス、それぞれの手には杖になる棒を持ち、アイリは剣を脇に差していた。

「これが王様に渡す手紙だ。同じものを2つ用意したから、もしも何かあった時のために、それぞれ持っていてくれ」

「はい」

「ふたりとも、じゅうぶん気を付けるんだぞ。あと、王様に話をしたらすぐに帰ってくるんだぞ」

「わかりました。心配しないでください」

「わかってるって」

 ふたりはレイトスに見送られながら、後ろを振り返ることなく歩き始めた。


 歩き始めてすぐ、ペレスの歩くペースが落ちてきた。

「ペレス、あんたやっぱり荷物が重すぎるんじゃない?」

「そんなことない」

 ペレスは額に汗をかきながら、アイリを追い抜き先を行った。

 アイリはあきれ顔で着いて行く。


 途中、アイリの住んでいた村を通る。竜に襲われたあの日からそこに行くのは初めてだった。村は国から派遣された人たちによって再建の計画が進み始めていると聞いていた。

 アイリは村のことをできるだけ考えないようにしていたが、一歩一歩近づくごとにあの時の情景を思い出し、知らないうちに心拍が早くなる。そして気が付くと緊張で手を握りしめ、手のひらにはじっとりと汗をかいていた。

「あっ…!」

 先を歩いていたペレスが林を抜けた途端、声を上げた。続いてアイリもその光景を見て目を疑った。

 ……何もない。

 見渡すかぎり、ただ雑草に覆われた広い土地があるだけだった。

 家があったことを示すものはおろか、人々が住んでいた痕跡は何ひとつなく、畑との境がかろうじてわかる程度で、遠くに見える丘や山の景色に何となく憶えがある程度だった。

 村の再建とは名ばかりで、あれから何年も経っていながら、ただ瓦礫が撤去され、土地が平らにならされたというだけにすぎなかった。何かの道具やロープそして丸太がまとめて置かれていたが、もう冬の入口なので工事は行われていないのか、人の気配はなかった。

 アイリはかつて村があったこのまっさらな土地を見て、まったく何の感情も湧いてこなかった。

 ここに生まれて、両親や友達との幸せな暮らしがあり、そして今でも思い出すあの惨劇…。

 涙のひとつが出てもよさそうだったが、あの時の光景とはあまりにもかけ離れた現実の姿に、心は灰色で何も考えられず、自分の感情がおかしくなってしまったのかと思ったほどだった。

 先を行くペレスの後ろ姿が小さくなり、追いかけるように早足で歩いた。


 村から先へはアイリもペレスもほとんど行ったことがなく、地図を頼りに進んだ。林の中を歩いたり、草原の中を歩いたり、特に代わり映えのしない景色だった。幸い道はしっかりできているので、迷うことはなかった。

 道中、食事を作っているときに、火を起こすのがとてもうまいというペレスの意外な一面を知ることになった。乾燥したものだけを食べるというわけにはいかず、お湯を沸かしたりスープを作るのにこれはとても助かった。

 ふた晩野宿をしたが、どちらの夜もちょうどいいところにあばら家があったので、そこを借りることにした。朝晩は冷え込んだが、ペレスの焚き火のおかげもあって多少の寒さは防げた。

 そして3日目、木々に覆われたなだらかな坂道を歩いて行き、角を曲がったと思ったその時、突然視界が開け、目の前に真っ青な空と海が現れた。

「わぁ、すごい!」

 アイリは思わず口に出していた。あとから来たペレスも感嘆の声を上げた。

 ふたりが海を見たのは初めてだった。

 どこまでも続いているかのような水たまり。

 表面は細かく波が立ち、よく見るとそれらは動いている。

 これがうわさに聞いていた海というものか。

 照り付ける日差しは暖かく、海から心地よい風が吹いてきた。


 緩やかに坂道を下っていくと眼下に町が現れ、その中を忙しなく行き交う人々の姿が目に入り、そして何百人も乗れそうな大きな船が停泊していた。

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