アイリの決心

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

「アイリ、もう日も傾いてきたし、今日はこれくらいにするか」

「いえ、まだ、いけます…。あと、1回、だけ…、はぁ、はぁ、くっ……」

 上半身を折り曲げ膝に手を付きながら顔を上げるアイリ。その気持ちとは裏腹に、なかなか呼吸が落ち着かない。頭の後ろにまとめていた長い金髪はざんばらに、そして白く整った顔は、今は汗と土ぼこりにまみれ見る影もない。


『まだまだこんなものじゃ足りない。とてもじゃないけど、この程度じゃ竜なんて倒せるわけがない』


 竜。

 ……そう。アイリは決心していた。

 両親と村の人々のかたきをとることを。

 それはつまり、あの日見た金色の竜に復讐することに他ならなかったのだが…。


 その思いを打ち明けたときのことを今でもはっきりと憶えている。レイトスの家で暮らしはじめて半年ほど経ったころ。日差しの暖かい穏やかな日だった。いつものようにレイトスのひとり息子のペレスと3人で夕食をとっていた。

「レイおじさん、わたし、パパとママと、それから村の人たちのかたきをとりたい」

「!?」

 ふたりは驚いてスープを飲む手を止め、アイリの顔を見た。

「あの金色の竜を倒さないと、同じ目にあってる人たちが他にもたくさんいるかもしれない…」

 すぐに口を挟んできたのはペレスだった。

「何言ってるんだよ。竜なんて倒せっこないし、それに竜の大岩の伝説を知ってるだろ? 金色の竜を倒すなんて、ひょっとしたらぼくたちが神様と呼んでる竜を相手にするかもしれないんだぞ」

「それはわかってるけど、じゃあどこかで人が襲われていても、見て見ぬふりをしろっていうの?」

「そうじゃないけど、伝説の竜だったら勝てるわけないし、逃げるしかないじゃないか」

「それじゃなんの解決にもならない」

「たしかにペレスの言うように、村を襲った金色の竜の正体はまだわからないが、あんな竜はこれまで見たことがないから、ひょっとしたらあの伝説の竜と何か関係があるのかもしれない。そうだとするとかなりやっかいな話だ。それにアイリ、どうやって竜を倒すっていうんだ? 竜を倒すにはそれなりの力がないととうてい無理だ」

「じゃあわたしに倒し方を教えてください! レイおじさん強かったんでしょ。ペレスに聞いたわ。竜を何匹も倒したって」

「そんなの無理に決まってる。とうさんとアイリじゃ、体も力も違いすぎる」ペレスがまた口を挟んでくる。

「やってみないとわからないじゃない」

「できるわけないね。それに他に仲間もいないし、ひとりでどうやって倒すっていうんだよ」

「アイリ、ペレスの言うことも間違っちゃいない。しかもあの金色の竜は、そこらにいるのとはわけが違う。そんなこと考えないで…」

「でも、みんなのかたきをとりたいの! 強くなりたいの!」

 アイリの真剣な眼差しを見ていると、レイトスにはかつてともに旅をして闘ったヨシュアの姿が重なった。村が竜に襲われた日、すぐ手の届くところにいながら助けられなかった唯一の親友。そしてその妻のイリス。ふたりの娘だけはなんとしても無事に育て上げたい。竜を倒すなんて話は論外だが、これからも何が起こるかわからないから、自分を守るすべを身につけてもらうのはいいかもしれない。きつい訓練をやっていれば、そのうち竜を倒すなんてことは思わなくなるだろう。そう考えた。

「ほんとに強くなりたいんだな」

 アイリの瞳をじっと見て聞き返した。

「はい」

「……わかった。じゃあとりあえず半年、いやひと月だ。厳しくするけどいいか?」

「もちろんです」

「とうさん、そんなこと言っていいの? もしかあさんが生きてたらなんて言うか…」

「ペレス、かあさんはもういないんだ。だから、もしなんていう話はなしだ。オレたちは仮定ではなく現実の世界を生きていかなければならないんだから。そうだ、ペレスお前も一緒にやるか?」

「ぼくは忙しいから遠慮しとく」

「ああ、そうだったな。お前はいつも忙しいんだったな」

 レイトスは苦笑しながらアイリを見る。

「さっそく明日から始めるから、今日は早く寝るんだ。片付けはペレスに任せとけばいい」

「わかりました」

「ちぇっ」

「レイおじさん」

「ん? なんだ?」

「有難うございます」

「強くなりたいって言ったのを後悔するかもしれないからその覚悟でな」

 アイリのまっすぐな瞳を見ながら、レイトスは自分の判断は間違っていないはずだと言い聞かせた。


『……こんなんじゃ竜を倒せない…』


 アイリの額からは玉のような汗が滴り落ち、地面に丸い染みを作るが、すぐに土の中に吸い込まれていく。やっと呼吸を整えると、顔に落ちてきた髪を、頭の後ろで束にしてひもで縛り直した。

「アイリ、休むのも訓練のうちだ。おれも今日は疲れた。ほら、飯にするからこれ片付けといてくれ」

「…わかりました」

 先ほどまで宙を舞い飛び交うようだった2本の木の棒。火花こそ出ないものの、ところどころ黒く焦げているのが、そのぶつかり合いの激しさを感じさせる。レイトスがひょいと投げて寄越したそれをアイリは片手で軽々と受け取る。そして家の壁の前に座り背をもたれかけさせ、もう片方の手にしていた自分の棒とともに泥を落とし動物の革で磨いていると、初めてこれを手にした日のことを思い出す。

 レイトスに頼み込んで始めた強くなる訓練だったが、最初はこの棒が重くて持ち上げることすらかなわなかった。持つたびに左手首のやけどのあとが痛んだ。なんのへんてつもない、丸太から削り出しただけの棒は、太く持ちにくく、そして見た目以上にかなり重く、まともに振り下ろせるようになるまで1年はかかった。

 その間、料理、洗濯、掃除、薪割り、水汲み、畑仕事、遠くの村までの買い出しなど、生活に必要なことすべてを分担してこなしたうえでの稽古だった。1日はあっという間に過ぎ、そのまま1週間が経ち、気がつくと区切りのひと月、1年はすぐそこにあった。レイトスもペレスも、そしてアイリ自身でさえも、ここまでやるとは想像だにしていなかった。

 それから約3年、アイリの上達ぶりには目を見張るものがあった。初めは体を守るすべを身に着ける訓練がほとんどだったが、いつしかレイトスの指導にも熱が入り剣術の稽古へと発展していった。レイトスと実戦形式で棒を合わせるごとに、それは削れやせ細り、ある時はまっぷたつに折れ、新しいものを作らなくてはいけないが、その間隔が月を経るごとに短くなっていった。今では自分で削り出したばかりの重い棒を片手に持ち、竜を何匹も倒してきたレイトスの渾身のひと振りすら真正面で受け、横へ流せるほどになった。彼に言わせればこれはたいしたことだそうだが、しかしアイリの心の中では逆に焦燥感がつのるばかりだった。


『こうしてる間にも、どこかの村が襲われ、人々が死んでいるかもしれない…』


 すぐに昔のことを思い出して考えてしまう。アイリの悪いくせだった。これではだめだとばかりに冷たい井戸の水をすくいぱしゃりと顔にかけると、いい知れぬ焦燥感や先ほどまでの疲れが一瞬で飛んでいくようだった。ひと通り顔の汚れを落とすと、今度は、ひとくち、こくりと飲んだ。

「ふぅ…」

 森の木々が風でそよぎ、空を見上げると何か視界を横切ったような気がしたが、そんな些細なことは、家に入ろうとしたとき鉢合わせになったペレスとの会話で、すぐに忘れてしまった。

「ペレス、あんたもちゃんと訓練しなさいよ」

「なんだよいきなり。なんのためにそんなことするのさ。竜を倒すなんて興味ないし、竜が襲ってきたらどうしようもないだろ」

「まだそんなこと言ってるのよ。じゃあ黙って殺されるのを待つって言うの?」

「そんなこと言ってないだろ」

「言ってるのと同じじゃない。いつも部屋でこそこそしてばっかりで何してるのよ」

「そんなのおれの勝手だろ。それに今は関係ないだろ」

「ほんっとに男らしくない」

「じゃあお前は女らしいって言うのかよ」

「あんたね、ちょっともう一回言ってみなさいよ」

「おーい、だれかー! 早くこっちに来て手伝ってくれないか!」

 台所からはスープのにおいが漂い、そして包丁がまな板を叩く音が聞こえていた。

「今行きます!」

「今行く!」

 ふたりの声が揃った。

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