ある晴れた日

『アイリ、早く逃げろ!』

『しっかり生きていくのよ!』

『そんな、やだよ! だれか、パパとママを助けて!!』

 アイリは、燃えさかり踊り狂う炎の渦に飲み込まれる両親を前になすすべもなく、しかしせめて近くにいようとその元へ近づこうとするが、足は鉛のように重く、少しも前に進めない。そればかりか、ふたりの姿はどんどん遠くへ離れ、小さくなっていく。どんなに精一杯走っているつもりでも、その距離は離れていくばかりだった。

 ふいに手首に圧力を感じ後ろを振り返ると、手を強く握る男の姿があった。

『離して!! 離してよ!』

『そっちへ行っちゃだめだ!』

 男の顔は炎に紅く照らされ、表情まではっきりと見えた。伸びた無精髭、厚い唇、ワシ鼻、浅黒い皮膚と顔中に深く刻まれたしわ、頬の傷、獲物を射るタカのような鋭い目。しかしそんな風貌に似つかわしくないほどに、瞳の奥に宿る優しいまなざしを知っている。

 男は泣いていた。こぼれ落ちた涙が、頬の傷を癒やすように流れていた。

 次の瞬間、大きな爆発音がしたかと思うと、炎の壁が視界を遮り、何もかもが赤とオレンジに染まった。

『あ゛ぁー! パパ、ママー!!』

 気がつくと、遠くから一面の火の海を眺めていた。その表面はさざ波立ち、いくつもの火柱が生まれた。そしてそれらはひとところに集まり、大きな紅蓮の炎となって渦を描きながらすべてを焼き尽くした。

 やがて黒い煙を巻き込み赤黒い炎の竜巻となって天に向かい昇っていった。

 その様はまるで青い空がまっぷたつに切り裂かれ、強引に破かれた傷口から血が吹き出しているようだった。


 ……悪い夢を見ていた。

 けっして忘れることのできない光景。

 額から首にかけてじっとりと汗をかいているのを感じた。

 心臓の鼓動は早く、血液が送り出されるたびに、その拍動を全身で感じた。

「また、あの夢…」

 ゆっくりまぶたを開けると、太陽の強い光が窓の隙間から差し込み、顔をじりじりと灼いていた。

「あっつ…」

 ベッドの上で身体を起こし、壁に背中をあずけ憂い顔でしばらく物思いにふけっていた。

 絹のような金色の髪の毛が顔にかかるのをそのままに、何の気もなく左腕に手をやると、手首に負ったやけどのあとがずきりと痛んだ。

 そして、思い出したくない記憶に蓋をするように、そっと目を閉じた。


 * * *


 あれは5年ほど前のことだった。


 村は突然、竜に襲われた。


 収穫の季節だった。今年も小麦の実りは十分、しばらく天気が安定すると思われた日、朝早くから村の男たちを中心に参加できる者みんなで作業を行っていた。

 肉体的にはつらかったが、そんな中でも誰かが冗談を言っては笑いさざめき、いつまでもこんな日常が続くことを疑うものはいなかった。


「ヨシュアなら、ほら、あそこよ」

「ああ、ヨシュアそこにいたか。やっと見つけた。イリスからここにいると教えてもらったんだが、ものに隠れて見えなかったんだな」

「よう、レイ。こんな時に来るなんて珍しいじゃないか。どうしたんだ」

「忙しそうだから単刀直入に聞くが、最近森の様子がおかしいんだ。うわさ話でも何でもいい、何か知ってることはないか?」

「森の様子が? うーん、とくにそんな話は聞いたことないぞ」

「そうか、ならいいんだが…」

「何だ、煮えきらないな。何がおかしいっていうんだ?」

「その、なんて言ったらいいか。…森がざわめくんだ」

「ざわめく?」

「あぁ。森の木々が風で揺れてると言ってしまえばそれまでなんだが、そんな風は吹いていないはずだし、うまく言えないが、森全体の様子もおかしい。あと、声が聞こえるんだ」

「声? あの森から誰の声が聞こえるって?」

「いや、声といっても人じゃなく、動物の声のようなんだが、今までに聞いたことのないやつで、しかもまるで何頭かで話をしているように思えて仕方ないんだ」

「動物だってお互いに鳴き声で会話したりするっていうじゃないか。聞いたことのない声っていうのが気にかかるけど、オレたちの知らない動物がいたとしても、そうやってコミュニケーションをとっているのは別におかしくないんじゃないか?」

「それはそうなんだが…」

「もう少しで仕事も一段落するから、それまで家で休んでいてくれ」

 ヨシュアがそう言い終わるか否かのうち、突如、ヒューっという聞き慣れない音がどこからともなく響いてきた。

「なんだこの音は?」

 作業をしていた誰もが手を止め、あたりを見回している。

 風の音でもなく、何だかよくわからないものの、気のせいだろうとみんなが作業に戻ろうとしたとき、黒い影が畑に落ち、それに気付いたひとりが空を見上げた。

「上だ!」

 みんなが空を見上げる。

「なんだあれは」

「鳥か?」

「…竜だ!」

「竜?!」

「そんなわけないだろ」

「いや、あれは竜だ」

「なんで竜なんかがいるの…?」

 村人たちは驚きと戸惑いを隠せず、呆然ぼうぜんとその場に立ち尽くしていた。

 頭上高くにあった影は次第に大きくなり、シルエットがはっきりと見えてきた。誰も生きた竜の姿を見たことはなかったが、長い首と先端が尖った尻尾、そして悪魔を思わせる鋭角的な両翼とカギ爪の両足、その姿形は話や絵で伝わっている竜そのものだった。

「みんな、考えるのはあとだ! とにかく逃げろ!」

 その言葉を合図にするように、村人たちは持っていた道具を放り捨て、声を上げながら一斉に走り出した。

「これはまずいな…」

「ヨシュア、オレは向こうのみんなに知らせてくる。お前はそっちを頼む。おい、聞こえてるか」

「…うん? あぁ、わかった。レイ、気をつけてな」

「あとで落ち合おう」

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