竜の大岩

「元気な子どもを有難うございます」


 3年後、アイリは両親に抱かれ、村から遠く離れた大岩のもとに連れてこられた。


 まだ暗い夜明け前、小鳥の声を耳に村を抜け、遠くに見える黒羽山くろはねやまに向かって歩いていく。日が昇り空が一気に明るくなると、道端の草花を縁どるように飾っていた朝露がきらきらと輝きはじめた。

 なだらかな坂道を登りやがて小高い丘の上に至ると、そこは一面草原になっていて、黄色い花が斜面全体を覆い尽くすように咲いていた。

「よいしょっ、と」

 ヨシュアはアイリを肩に乗せ、膝ほどの丈の草をかき分け歩いていく。

「わぁ、ちぃれー」

 アイリはヨシュアの頭の上からまわりを見渡すと、まるで黄色い絨毯の上を歩いているように感じた。初めて見る光景に心が躍り、小さな両手をさかんに動かして喜んでいる。

「おいおい、あぶないよ」

「アイリ、よかったわね。見ているとこっちまで嬉しくなっちゃう」

「そうだな。この子がいるといつも笑ってばっかりだな」

 ヨシュアは後ろを歩くイリスと瞳を交わし、これから3人で育んでいく暮らし、笑顔の絶えない幸せな未来を想像する。

「それにしても、今日はいい天気だ。早く出てきた甲斐がある」

「ほんとね」

 ふたりが見上げた空は青く、大空に輪を描いて舞う鳥の影が見えた。


 ほどなくして大きなブロックをいくつも重ねたような岩が見えてきた。その岩は一歩進むごとに大きくなっていき、今、3人の前に壁のように立ちはだかっている。

 足元は岩に向かって傾斜し、地面からいくつも伸びたツタが、岩を絡め取って土の中へと引きずり込んでいるかのように見える。全体がほとんど苔に覆われているが、一部苔とともに表面が剥がれ落ちて岩肌が見えているところもあり、その風化の様子を見てみても、かなり古くからこの場所にあることを感じさせる。

 そして岩の大きさもさることながら、何よりも目を引くのは、強い日差しを遮り青々と葉を茂らせている、岩の横にそびえ立つ巨木だ。その木の根本は岩の割れ目の奥深くにあり、なおも岩の裂け目を押し広げながら生長しているように見えるが、しかし見方を変えると、岩のほうが木を包み込み締め上げているようで、まるで木が岩から逃れようとしているようにも見える。


 村では子どもが少し大きくなると、竜の世界と人間の世界の境界にあるとされる、この岩に足を運び、お参りをするのが習わしとなっている。


 この岩は〈竜の大岩〉ともよばれ、こんな伝説がある。

 かつてこのあたりも世界の他の場所と同じように、人と竜との争いが絶えなかった。お互い一歩も譲ることなく、多大な犠牲を払いながら、もはやどちらが先に力を使い果たし、自滅するかという持久戦の様相を呈していた。

 そんな時、どこからともなく1匹の金色に輝く大きな竜が、戦いの最前線であったこの場所に飛んできた。そして人と竜の双方ににらみをきかせながら、あるときは言葉で、またあるときは力をもって無益な争いをやめるように諭した。

 ようやく争いが収まると、金色の大きな竜は双方にこの戒めを忘れさせないように、この場所でそのまま岩になったという。

 村人はこの岩になった竜を神として崇め、竜もこの村の人間のことは一目置き、岩を境にしてお互いの領分を侵すことはなくなった。

 それ以来、竜はこの岩を飛び越えて村に入ってくることは決してなかったし、村人も同様に竜の世界に踏み込むものはひとりもいなかった。


 こんな伝説があるせいか、人によっては岩が竜のシルエットに見えるともいうが、全体が苔に覆われているうえに風化が激しく、ヨシュアの目にはただの大きな岩にしか見えない。けれど、これがほんとうに竜なのだとすると、かなりの大きさだったのだろうと想像する。


 岩の隣には小さな苔むしたほこらがある。その両脇には、ひと抱えほどの大きさの、丸みを帯びた竜の石像が一体ずつ安置され、誰の手によるものか、それぞれ新しい花が生けてあった。

 かつてはここにずいぶんと大きな神社が建てられていたという話が伝わっているが、今では建物の柱が乗っていた礎石がいくつか残っているだけで、その姿を見たものはおろか、どんな建造物だったのか、どうしてなくなってしまったのか、自然に朽ちたのか、それとも焼失したのか、不思議なことに記録すら残っていない。


 3人は祠の前に広げた敷物に座り、花束と果物を供えた。アイリを真ん中に座らせ、ヨシュアとイリスは声をそろえて、うやうやしく告げた。

「竜と人とのよきあはひの国に生まれし我らが子、アイリをうつせみのともがらとして迎へ、とこしえに守りたまへ。

 この子が無事に大きくなれますように、末永くよろしくお願いします。どうぞ竜のご加護を」


 大きな金色の竜の伝説からあと、このあたりの竜はすべて村人にとっての守り神のような存在になっていた。

 村に残るいにしえの文書によると、このお参りの風習は、村人が竜を神としてあがめると同時に、子どもを竜にお披露目し、村の一員として認めてもらうことで、たとえ遠く離れた旅先にあっても、その土地の竜に襲われないようにしてもらうという目的があったと伝えられている。

 ただ、今ではこのあたりで竜の姿を見ることはなく、もういなくなってしまったのではないかと噂されることもあり、これらの目的が果たされるのかどうかははなはだ疑問で、ほとんどの村人にとってこの儀式は、単に昔からの言い伝えを守っているだけの形式的なものにすぎなかった。


 岩から少し離れて、竜が住むといわれる深い森が広がるが、その木々が一斉にざわざわと音を立てはじめた。

「みて」

 アイリはその森に向かって手を伸ばし、しきりに何かを言いながら喜んでいる。

 森のざわめきが落ち着いたと思うと、草原の草がふるえ、祠の前に座る3人に向かって風が吹き寄せてきた。

 アイリの金髪は空気をはらんでふわりとふくらみ、首から下げていた緑竜石のペンダントがきらりと光った。

 アイリは立ち上がり森へ向かって歩き出そうとするが、

「そっちに行っちゃだめよ」

 イリスに呼び止められた。

「…さて、そろそろ帰ろうか」

 アイリの行動を気にすることなくヨシュアが言った。

「そうね、早くしないと日が暮れちゃうわね。アイリこっちへおいで」

「うん」

 イリスは娘を両腕で優しく抱き寄せ、供えてあった花束の中から一輪の赤い花を抜き出し、その金色の髪に挿した。

「さ、行きましょ」

「うん」

 先を行くヨシュアのあとを追って、イリスとアイリもそれに続いた。手を引かれながらアイリが振り返って見た森は、もとの静けさを取り戻していた。


 青空を舞う鳥の影が、そんな3人の様子を見下ろしているようだった。

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