十一月第一週
四畳半の、俗にいう事故物件のボロアパート。ここが俺の帰る場所だ。寝るときは机を壁際に寄せ、空いたスペースに横になって寝る。手狭だから物は増やせないが、そんな物を買う余裕もなかったので丁度いいと言ってしまえばそれで済む。
畳に頬を押し付け全身を預け、その目を追っていたが。のろのろと天井を見上げる。部屋の真ん中でぶら下がっていたてるてる坊主は、確かに雨を降り止ませたのかもしれない。窓に打ち付けていた雨音は、目を覚ました時には止んでいた。
げほ、と。俺の喉が空気を吐き出す。濡れた制服が重いし、何より冷たい。畳が腐るかもしれない、あの大家は気にもしなさそうだ。……ああだめだ。今は一層、考えがまとまらない。そういえば鍵は閉めたか。視線をドアへ向けようとしたが、今の位置からじゃあ眼球運動の範囲外だった。
仕方がないから、俺は腕をついて重たい体を持ち上げてやる。顔に張り付く髪を首を振って払った後にドアを見れば、鍵は開きっぱなしだった。盗まれるような金目のものは殆どないが、それでも不用心と言われればそれまでだ。
空き巣、強盗、殺人と。そんな言葉が頭をよぎる。それならさっさと、この狭い部屋を守るというには頼りないが、鍵を閉めなければならない。
立ち上がりドアへと向かう。鍵に手をかけたところで、外からの音が耳に入る。……足音だ。あの錆びた階段を乱暴に踏みつけて上がってくる足音。
ぎり、と心臓が握られた。指先は氷につけたみたいに固まる。ほら見ろ、だから不用心にしてると、
「よお。なんだこんな時間まで起きてんのかぁ? ガキは寝てる時間だろ」
……こうやって悪夢が入ってくる。
*
金はないのか。酒は。
俺の手から離され玄関で横たわっていた鞄が掴み上げられ財布と。それからあの女のために買ってきた薬が見つかれば、どうやら機嫌を損ねたらしい。
あんな死にぞこないの女のためにこんな物買ってきやがって。金が勿体ないだろうが。
腹への衝撃。吐くものが残ってなくてよかったなんて思っていれば次は顔面。その力に耐えられずに玄関に転がれば胸倉を掴まれる。だめだ、こうなったらもう止めるなんてことは通用しない。曰く、俺を不愉快にさせるお前らが悪い、と。
でも確かに、今回ばかりは薬は無駄になった。飲む女がいなくなったんだから。
何を言っているのかさっぱり分からない悪夢の言葉を、膜を一枚隔てた感覚で聞きながらだらりと首を後ろに倒せば。
吊るされた女と目が合ったような気がした。
*
「……くそ、ふざけやがって」
悪夢は消えた。口から落ちた言葉が部屋に響けば、その静けさにようやく俺一人になったことを自覚する。吊るされた女はどこにもいない。
左目が腫れて開かない。指でつつけば触るな、とでもいうような痛みが返される。触れた指先を見れば血がついていて、どうやら切れたらしい。
母親という女が病と酒に侵されていたのなら、父親というあの悪夢は金と酒に侵されている。借金を作って、それでも酒はやめない働かない。女は病気でまともに動けない、酒と薬がなければ金切り声を上げる。……ああでも、女の方は無くなったのか。
……思考が嫌な方へ傾いた。面倒ごとがひとつ無くなった、と言うような自分の考えに。あの女の子供であるなら、少しは悲しんでおいた方がいいだろう。
腕をついてまた体を起こしてやる。飛んだ俺の鼻血が染みを作っているのを見れば、倒れたのが玄関でよかったと思う。啜り上げれば喉に血の味が張り付いて咳き込んだ。
今度こそ鍵を閉めておかないと。膝をつきドアへ腕を伸ばせば、鍵をつまもうとした手が空ぶる。……距離感を誤ったかと思ったけど、そうじゃない。ドアが開いたせいで、掴むはずだったそれが俺から離れたんだ。
外からの僅かな光が作った影が俺に被る。何だ、と見上げれば、そこには人がいた。
……白い。
「……こんばんは」
白い男だ、と。思った。
白か銀か分からない髪をした男が、隈を作った寝不足な目で俺を見下ろしていた。左目から蔦が這うように首へ降りる刺青が、その白い男にはよく目立って見える。
「ひどい物音がしましたが、大丈夫ですか」
大丈夫に見えるならお前は病院にでも行った方がいい、等と言いそうになるのは堪えた。……それにしても先程の悪夢の声を聞いた後では、この白い男の声は随分抑揚が無いように感じた。静かな雨のような、壁の向こうから聞こえたシャワーの様な音のようだ。
「……病院」
俺が白い男の言葉に応えないでいると、そう呟いたのが聞こえた。俺は殆ど反射的に、携帯を取り出した白い男の手首を掴んだ。
が。直ぐに続けて言おうとした言葉が、血と一緒に喉へへばりつく。
窓にでも触ったかと思う程に冷たい。何時間も外にいた様なその温度は、到底人の温度ではない。
「……痛いですよ」
白い男の落とした声が水面を広げれば我に返り、バッと手を離す。白い男の白い肌には俺が掴んでいた手の跡が赤く残っていた。その手首を摩る音が耳に入る程の沈黙の後、再び相手から口を開く。
「服を着替えたら私の部屋へ来てください。手当と何か、温かいものでも用意しますから。あなたの隣……角部屋が私の部屋です」
そう一方的に告げれば白い男はドアノブから手を離し、ややあってその姿は1枚の板が音を立てて閉まる音で隔てられた。再び仄暗さと静けさが部屋を充たす。
壁の向こうから聞こえたシャワーの音の主は、あの白い男のものだったらしい。通りで、しっくりと来たはずだと思う。霧雨のような、静かな男だった。
ようやく立ち上がれば、ドアの近くに嗅ぎ慣れない匂いが漂っていた。その正体自体は分かる、煙草だ。
悪夢の撒き散らした酒の悪臭の中に、するりと縄のように抜ける煙草の匂い。あの白い男のものだろう。
……それに心地良さを覚えるのは、間違っているだろうか。
「こんばんは」
つい先週までは無人だったはずのドアを叩けば、少し前に聞いた言葉がもう一度耳に入った。俺を迎え入れるためにドアを開け放った男はどうぞ、と言えば同じ間取りの、四畳半の部屋へ戻る。
それに続くように入れば、あの煙草の匂いが俺へ絡みつく。嫌なものではないから、そのままにして白い男の部屋を見る。
深夜、起きているのに天井の電気は付けられていない。代わりに正面の窓辺、その下の畳にテーブルスタンドが鎮座し周りを照らしていた。後はその窓辺に吸殻の入った灰皿と煙草とライターと、白い箱。それから、馬鹿でかいスーツケース。四畳半で目についたのは、その程度だった。生活感が無いとはこの事に近いのかもしれない。
「そこに」
座って、と窓辺を指さす白い男の左手を見れば、小指の第2関節から先が無い事に気づいてしまった。思わずじっと見る俺の視線は分かっているだろうが、気にとめる様子もなくもう一度「座ってください」と促す。
流石に二度も促されれば動かなくてはいけない。畳の上を進み窓に背を向ければ、白い男と向き合う形で座る。
指の欠損した手に、顔の刺青。丁寧な口調のこの白い男はもしや、ヤクザとかそういった類のやばい人間なのではないか、と思っていれば俺の向かい側に腰を下ろした。
畳を擦らせながら白い箱をその手が開ければなるほど、中身は救急セットのようなものだ。
「……病院は嫌いですか」
箱から消毒液やら取り出す手を眺めていれば声をかけられる。顔を見れば、その目線は箱の中で。
「そういう理由じゃねーよ。保険証がない」
ちらり、と白い男が一度こちらを見る。訝しげ、と言うよりは腑に落ちた、という顔だ。
「君のお父さんが持って行ってしまいましたか」
その言葉には答えない。あの悪夢が父親であるそれこそが悪夢だと言うものだ。白い男も、特に言及してくることはなく。やがて準備が整ったのだろう、丁寧にゴム手袋をつけた手が消毒液を染み込ませた綿を準備していた。
「沁みると思いますが思いますが、暴れたりしないでくださいね」
今度は俺の返事を待たなかった。向けられた綿が瞼に当てられれば、大げさかもしれないがそれこそ返しのついた針で刺されたような衝撃だった。治療でなければ殴り飛ばしていたかもしれない。
思わず顔を逸らそうとするが、生憎後ろの壁にそれは阻まれた。最初から行き止まりだったようで、仕方がないから矛先は畳に向けることにした。爪をひっかけた畳の目が悲鳴を上げるが、正直知ったことではない。白い男の表情は、俺が目を瞑っているせいで分からない。ただ、無情にも続けられる処置を痛みで感じ続ければ、どうやらそんなに気にしていないようだ。……ということにしておく。
耳元で歯ぎしりの音が響く。自分の出した音であるとは分かるが、とんでもなく不愉快だ。深く呼吸を繰り返せば窓辺に置かれていた煙草の匂いが、肺を満たしていくような気がして。それは不思議と、不快ではなかった。
それからどれほど経っただろうか。やわらかい布のような、それにしては軽いものが俺の左目にあてがわれ、テープのようなもので張り付けられる。終わったのかと右目を開ければ、頬を消毒液で濡れたそれで拭われ更にテープを張られた。
「お疲れ様でした。何度か取り換えなければいけないので一日一回……夜にでも私のところへ来てください」
処置を終えた白い男は、淡々と。出したものを箱へ戻し。俺の血が付いた綿やガーゼを握れば、ゴム手袋を裏返しに外し部屋の隅へ放った。
「……こんな時間ですか。温かいものでも用意しますので、飲んだら今日は寝たらいいですよ」
ちらりと携帯を見る白い男の手元を見れば、深夜の二時を過ぎていた。もしかしたら、あの騒ぎでこの白い男を起こしてしまったのかもしれない。
白い男は立ち上がればコンロと水道があるような、心ばかり「台所」と呼べる場所へ向かい、カップを一つ手に取った。
……どうせできるまで少しの時間くらいあるだろう。俺も立ち上がれば、洗面所へと向かう。間取りは同じなので、そこがどういう構造かも知っている。洗面所とトイレと、風呂場が一つに押し込められた狭い空間だ。鏡の前に立てば、ガーゼで左目を覆われた自分の姿があった。まだ少し血でも出ているのか、僅かに赤くなっている。心臓が動くたびにズキズキと痛む瞼に軽く手を当てるが、ガーゼが覆っているせいか先ほどよりも痛みはなかった。
どうなっていたのか気になってここに来ただけだったから戻ろうと踵を返した時、ふと浴槽を見る。
撥水のこのカーテンを引いて風呂に入らなければ、ここは一気に水浸しになるわけだが。何で今ここにカーテンが引かれているのだろう。
シャワーから落ちたのだろう水滴が、水面を広げる音が聞こえた。
何の気もない。俺はそのカーテンを掴み
「何をしているんですか?」
引く前に、白い男の声がこの空間に反射する。
見れば相変わらずの寝不足な目で、俺をじっと見据えている。……その手元から漂うのはあの煙草の匂いではなく、甘い匂い。チョコのような、それに近いような匂い。
「ココアができましたよ」
布巾で包むように持たれたマグカップを見せれば、四畳半の部屋に姿を消す。ちらり、とカーテンへ目を戻すが、手を放し俺はその後を追う。
畳の上に置かれたマグカップは、先程までここになかったのを思うと異質なもののように見える。それを持って一口飲めば、安っぽいココアの味がした。決して美味いとは言えないが、悪いものでもなかった。
俺がココアを飲むのを見れば「少し失礼しますよ」と断り、白い男は窓を薄く開ける。それから煙草を取り出せば火を灯し、一口吸った煙を外へ吐き出した。雨上がりのひんやりとした風が部屋の中に入り込む。さすがに冬に入る時期の、しかもこの時間の外の風はよく冷えている。
改めてこの白い男を見れば、隈を作っている割には眠たそうな様子は見れない。外の少しの明かりで見えるその姿はやはり白く、亡霊や幽霊なんかの類を思い出させる。もしかして俺は夢でも見ているんじゃないか。そんな気持ちになるが、煙草を挟む手元を見ていれば俺が掴んだ掌の跡が、くっきりとその手首に残っていた。まるで火傷でもしたようだ。
ココアを啜りながら見ていれば、ふと視線が合った。白い男は手首を見れば「ああ」と声を落とす。
「私、低体温でしてね。人肌でもこんな風になってしまうんですよ」
軽く笑みを見せながら煙をくゆらせるその姿は、暗闇の中で浮いて見えた。かといって、多分これは日が似合うわけでもないだろう。どちらにも合わないその姿は、それでもそこにいてうるさいものではない。
浴槽からまた水面の広がるような音が聞こえたと思えば、ココアはもう飲み干していて。飲み切れず底に残った茶色い液体が、疲弊した俺の顔を歪に映していた。
*
おやすみなさい、よい夢を。
なんて言葉をかけられたのは初めてかもしれない。
同じ間取りだが、ここは間違いなく俺の帰る四畳半だ。吊るされた女はいない。それがいいことか、悪いことかは分からない。
布団を敷くのはだるいから。毛布だけ引きずり出せば、それにくるまり横になる。こんな深夜では聞こえる物音も少ない。目を伏せれば、思ったよりもすぐに微睡が俺を飲んできた。
それに飲み込まれる前、少しだけ隣人へ耳を傾ければ水音が聞こえた。……ちょうどあの壁の向こう側は水回りの狭いあの空間だ。風呂でも作っているのか、それとも入っているのか。ざぶ、と水が一気に落ちる音が聞こえて。俺の意識もそれに飲まれるように落ちる。
てるてる坊主をしまうには少し早かったんじゃないだろうか。雨の音が聞こえた気がした。
未亡人と不良少年 変事ノ元 @nommmmmoto
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