未亡人と不良少年

変事ノ元

十月第三週

 雨が降っていた。

 剥がれかけた持ち手のビニールを指先で引っ掻けば、それはあっという間に地面に叩きつけられる雨の濁流に飲み込まれていった。激しく打ち付ける粒は俺の周りと、傘の上で弾け続ける。日の沈んですっかり暗くなったこの道で、それは街灯の光を乱雑に反射して先の道への視界を乱す。ぐちゃり、と靴の中が湿れば次はため息が出た。それが白く見えた気がしたから、ここは思ったよりも冷えているのかもしれない。

 顔を上げ、近くの家を見れば窓にてるてる坊主が吊るされているのが見えた。てるてる坊主というのは、雨が止んでほしいい時に吊るすものだったか。そういえば逆さに吊るせば雨を降らせるなんて話も聞いたような気がした。

 視線を前へ戻し、もう暫く足を進めれば見えてくるボロアパート。俺の帰る場所だ。どの部屋に誰が住んでいるんだか定かではないが、一階の角部屋には歳を取った大家が住んでいることは知っている。屋根の下へ潜り込めば傘を閉じ、雨粒を適当に払う。雨は一層激しくなってきていて、白く霞む景色が自分には関係ないと思えば外の世界に背を向けた。靴底の水と錆びた階段が擦れ合う音は雨音に紛れることはなく、耳にすとんと届く。最後の一段を上がれば奥へ進み、一番端から二番目のドアの前に立つ。木の模様をしたボロいそのドアの鍵穴に十円玉を噛ませれば、かちりと容易に鍵が外れる音。こんな小銭一枚でどこの部屋も入れてしまうことを知ったら、泥棒なんかは大喜びするんだろうな。などと思いながらその部屋の中へ体を滑り込ませた。

 ばたん、と後ろでドアが閉まれば雨音は遠くなる。しん、と静まり返った部屋に俺は安堵の息を吐いた。

「……帰ったぞ、ババア」

 声をかけても返事はない。寝ているのか、それならそれでいい。手荷物になっている傘を傘立てに放れば、がらん、と思ったより大きな音が四畳半の部屋に響く。それでもあの金切り声が上がらないのは、本当にぐっすり眠っているのだろうか。

 病気に侵され酒に溺れる俺の母親というやつは、この部屋のカーテンを年中引いているから。電気をつけなければ中の様子なんてそう見えない。だから俺は、あの母親は部屋の隅でまた毛布にくるまって寝ているんだろうと決めつければ、壁に手を這わせ電気のスイッチを探す。

「薬買ってきたぞ。今度は強めの」

 パチリ。

 押し込まれる音と、今にも潰えそうな音を立てて部屋を照らす電球。

 ……俺は何でこの異臭に気が付かなかったのか。


     てるてる坊主だ、と。


 部屋の真ん中でゆっくりと揺れるそれを見て、思った。


*


 息を飲む音と、喉を焼かれる熱さに五感と意識が戻る。全身に浴びる雨音、濡れている、片腕をベンチに乗せ体重を預ければ激しく咳き込んだことで吐いたのだとようやく理解した。傘は、ない。俺はこの土砂降りの中、傘も持たず。鞄もどこかに捨ててきてしまったらしい。

 場所は……そんなに離れていない、一番近い公園のようだ。当たり前だが誰もいない。人の声もしない、風の音と雨の音が俺の息の音を殺している。

 聞こえない、俺の音が消されている。漠然とした不安が背中からもたれかかり、それを振り払いたくて叫ぼうと、大口を開けたところで背後から肩を叩かれた。

 驚き振り返れば、傘を持った警察が口を動かしている。何かを言っているんだろうとは、分かるが。

 ――――、――

「大丈夫か!?」

 ようやく聞こえた声に曇っていた感覚が覚める。少し前まで聞いていた、傘に雨が弾ける音がゆっくりと俺を引き戻していく。その間も警察は「こんな時間にどうしたんだ」と。「なんで傘もさしていなんだ」と。色々と尋ねてくる。その全てに答えるなんてそんな無茶なことはできないから、俺は一言だけ言った。


「母さんが、」


*


 部屋の真ん中で俺は立ち尽くした。タオルで体も拭いていないので畳が濡れていくのは分かったが、今はそれをどうこうする気持ちにはならなかった。

 

 ……なかった。

 俺が見たてるてる坊主は、なくなっていた。あの糞尿の異臭ですら、まるで悪い夢だったとでもいうように。あの女が住んでいた跡は残っている。姿だけが、消えていた。

 いつの間にか警察は引き返していたことに気付いたが、今更そんなものはどうでもよかった。

 ただ、俺の母親であった女は。俺が帰ってきたときには……首を吊っていて。戻っ時には消えていた。そんなことが起きた。

 ……わからない。俺は思考を放棄し、その場に体を倒した。

 今日はいつも以上に疲れた。だから次に起きたとき、考えよう。


 隣の部屋のシャワーの音が今日はやけにはっきりと聞こえるな、と。壁にかかる静かで遠い音をただ聞いていれば、今日二度目になるか。しかし今度はもっと深くまで、意識を手放すことにした。

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