2 夏の門、くぐった先に遊園地
「昇太ぁ! グローブ持った? パパに買ってもらったバットは?」
「持ったよ。つか姉ちゃんがなんでついてくんのさ」
「だって心配だもん」
あれから一週間後の日曜日。快晴午後二時。約束どおり夏京くんは
運動神経はある程度
夏京くんはわたしのクラスを、自分のクラスのテニス部の女の子に聞いたらしく、
そしてわたしの持ち帰った〝昇太筋トレメニュー〟にそって昇太は毎日、筋トレをがんばっていた。
「あー、陸哉兄ちゃんいたいたー」
どうせ
「昇太、ちゃんと俺の指示通り筋トレやったかー?」
「やったよー。でもまだできないのもある」
「
「はーい」
めっちゃ手なずけている、と感心しながらわたしは
空には入道雲。はるか下の河川敷で、弟と夏京くんがキャッチボールをやっている。のどかだなあ。
家族の前で、心配をかけまいと
昇太は以前のグループから
北村くんはクラスの中で、
ある意味そういう子が精神的に一番強いと思う。そういう子が昇太と仲良くしてくれるのは
昇太のクラスで、一番権力を持っている男子グループは人数も多い。昇太が
わたしは幸いなことに今の女子グループに
そういえば、昇太のお金は簡単に
わたしの眼下の河川敷には、いくつも野球場やバスケコート、サッカーコートが作られている。
夏京くんが選んだのは一番ぼろっちくて狭い古い野球場だ。ここで試合が行われることはまずない。
キャッチボールの終わった二人はそこでノックの練習をしている。
「なんでもできちゃうんだなあ」
まずグローブでボールをキャッチすることを覚えさせたいのか、昇太の取りやすいところばかりを
わたしのところまで何度も
「昇太、筋がいいよな。初日でここまで上達するとは思わなかったわ」
「陸哉兄ちゃんほんとっ?」
「ほんとほんと」
「昨日、きったーと一緒に初めて由良レッドソックスの練習行った」
「楽しかったか? みんなと仲良くなれそうか?」
「うん。他の小学校の子が多い。でもうちの小学校の同じ学年に、きったーの他に二人いて、その二人とは仲良くなった」
兄弟みたいな会話をしながら歩く夏京くんと昇太を、後ろから
不思議だな。ほんの数日前までは、美月が夏京くんの彼女に立候補しようとしていたのを、論外だと、一日無口になるほど
彼女が十人以上もいたかもしれない、ってただの
うちの
「どうしたの?」
「俺、自転車で河原まで来たんじゃん」
「え! そうなんだ」
「戻って自転車取ってから帰る。そんじゃーな、昇太、来週まで筋トレサボるなよ? サボったらそこで指導打ち切りだからな」
うわー。そんな条件出したら昇太は絶対にサボらない。
「ちゃんとやる!」
そこで夏京くんがわたしたちから身をひるがえそうとした。
「待って! わたしも一緒に行く」
思わず夏京くんに声をかけていた。
「俺も行く」
昇太もわたしに続く。
「俺の自転車ごときでぞろぞろついてくんな。ここまで戻ってくんのが
「陸哉兄ちゃんが勝手に来たんじゃーん」
「荷物重そうだったからな。てかなんで自転車のこと忘れてたんだろ。運ぶのだって楽だったのに。昇太はまだ小学生なんだから帰って宿題やれ、宿題」
「わたしは高校生だから平気」
「だーかーら。心南のことも送るのがめんどいって。もうだんだん暗くなるだろ?」
今の季節は一番日が長い。
わたしは夏京くんと、昇太のいないところで話がしたかった。
そこでわたしと夏京くんがちょっと言い争いっぽくなっていたら、
腰までの高さの小さな門扉をあけ、
同じカジュアルでも、来栖がデートに出かける時の服装はわかってしまうのだ。
一瞬今、来栖と
「心南、行こうぜ」
「はい?」
さっきまでの断固
「ついてきてくれるんだろ?」
「うん……」
お礼をちゃんと言っておきたかった、いろいろ。この一週間、昇太が筋トレをがんばっていたことも、夏京くんのおかげで、たぶん傷が浅いうちに今いるグループを抜けられたことも、報告しておきたかった。
「行こうぜ」
夏京くんがわたしの肩のあたりの服を引っ張った。今出たくないなんて
「心南……」
目の前で来栖が棒立ちになってどんぐり
「同じ学校の夏京陸哉くん。わけあって昇太に野球を教えてくれてるの」
「…………」
「…………」
どっちも口を開かないから
「夏京陸哉でぇす。よろしくね」
不自然に思えるほど長い数秒の後、間の
「あ、ああ……。えーと僕は、心南の同級生で……鈴代来栖」
「昇太に
夏京くんはわたしを連れて来栖の前を歩き出した。
めっちゃ嫌だ、このシチュエーション。そう思ってかすかに振り向いたら、来栖は逆方面に歩き出していた。よかった、と胸をなでおろす。
わたしが来栖をチラ見して前に向きなおったのに、夏京くんはまだ後ろを気にして
「夏京くん」
わたしの呼びかけにこっちを向いた夏京くんは、にやりと笑った。
「心南、今のヤツのこと、好きだろ」
なんでわかるんだよぉー。
「別に」
「たらたらしてねえで、自分から言っちゃえよ」
「そういうんじゃないの! だいたい来栖には……彼女が、できたんだよ、最近」
「マジ?」
「マジマジ」
河川敷の上の土手を並んで歩く。初夏の空に夜の始まりを告げる星、金星が
「夕方のここの景色って天下一品だよね」
「そうだな」
夏京くんの返事が上の空のような気がして、斜め上にあるオレンジの日を受けた横顔を思わず
「どうしたの? あっ。自転車ってあれ?」
「そうだけど……。あいつさぁ、やっぱ心南に気があると思うな」
一瞬
「え? あいつって、来栖のこと?」
「そうそう。そんなスカした名前だった。だけどイケメンで似合ってんじゃねーの? そういう名前。今どきその程度じゃキラキラネームとは呼ばねえもんな」
「はあ」
なぜ今また来栖の話をぶり返す。
「俺たちがこっち来たらわざわざ反対方向に歩いていくしよ」
「単に反対方向に用事があったんでしょ?」
「ちがうだろー。でも、ま。彼女ができたってことは心南のことも好きだったけど、そっちのほうがよくなっちゃったのかなー」
「いや……。来栖ってそんな軽い性格じゃないよ。今の彼女のことは……きっとずっと心に引っかかってたんだよ」
来栖が今、つき合っている子の話をすることが、めちゃくちゃ複雑だった。
「じゃ、うーん。引っかかる程度だったその子から告白されたんじゃね? かわいいって思ってる子から告白されたら、そりゃぐらっときてつき合うことになるよなあ」
「だから! 来栖はかわいいって思ってる程度の子から告白されたって簡単につき合うほどチャラくはないって」
「え! それチャラくないでしょ? かわいいって思ってる
「えっ?」
「えっ? って、えっ?」
「どゆこと……」
男子ってそんなに簡単? いやいやいや。少なくとも来栖はそんなにチョロい男子ではない。それは小学六年でここに
「いや、男なんてそんなもんだろ。てか女子だってそんなもんだろ? ファンです、とか
「そ……そうなの?」
「そうだよ。
「なんだそれ!」
夏京くんが、この
「そんなもんだろ」
「そんなもんじゃないよ!」
最初はどんなチャラ男だよ、と敬遠しまくりだったけど、素の夏京くんはぜんぜんそんな子じゃなかったのだ。それはわたしと昇太を中学生から助けてくれただけじゃなく、その後のフォローまで申し出てくれていることからもはっきりわかる。
でも、なんだか今の話で少しだけ腑に落ちるところがあった。
夏京くんにとっての好きって感情は、アイドルに向ける「かわいい」とさして
小学校低学年男子の「かわいいから好き」は、実のところ「好きだからかわいい」も含んでいるんだと、自分で気づいていない部分があるんじゃないかと推測しちゃうのだ。もちろんそこから年齢が上がるにしたがって「好き」は性格面
〝女子だってそんなもん〟と、夏京くんの口からあっけらかんと悪気なく放たれたその言葉に、なんとも言えないやるせない感情が
夏京くんは全国レベルのサッカー部に中等部からいて、たぶんその前だってめちゃくちゃ注目される選手だったのだ。異性に対して同性とは違う感情を持つ年齢になった
試合を遠巻きにしか見ていないのに、夏京くんを知ったつもりになって告白までしてくる子が多かった。夏京くんはそういうものを
「夏京くん……」
「なに?」
「い、一度つき合うと……どのくらい続く?」
「んー、三か月がいいとこじゃね?」
「わか、別れる時って、どういうふうに別れるの?」
どうしてわたし、こんなに言葉が出にくいんだろう。夏京くんの恋愛の感覚について考えはじめてから、心の温度がありえないほど下がってしまい、うまく言葉が
「だいたい俺が
「じゃ、別れて、去って行かれて……
「ねえよ、そんなの。
「一度もそういう感覚になったことはない?」
「おう」
「…………」
「どうした、心南」
「…………」
わたしは土手で完全に足を止めていた。先を歩いていく夏京くんとの間に
「えっ?」
わたしの表情を見て疑問の声をあげる夏京くんの顔が、オレンジ色に染まってとてもきれいだ。
「えっ? ってなに?」
「なんで泣いてんの、心南」
そう夏京くんが聞いてきた時に、たまたま
「えっ?」
なに? 今の……。わたしはあわてて自分の左右の
そうか。わたしは、こんなにいい人なのに、小さい頃から
「なんだよ心南、どうしたんだよ」
夏京くんはわたしのところまで
「夏京くん、それは恋愛じゃないよ。去って行かれてもなんにも感じないなんて、そんなの恋愛じゃない」
「え、心南それで泣いたの? 俺の今までのつき合いが恋愛じゃないと思って」
「わかんない。泣いてたなんて気がつかなかった」
「それはそんな、泣かれるほどのことなん?」
夏京くんはわたしの話をたいしたことのない内容だと判断したのか、また歩き始めた。わたしもその後ろ姿を見ながらとぼとぼと歩を進める。
「だってもったいないよ。夏京くん、こんなに
「……でも楽しいし」
「女の子といるのが? 彼女といるのが?」
「いや、男同士で群れてんのが! それだって人生に一回しかない高校時代だし立派な青春だろ? 今はサッカーが一番大事だしその仲間といるのが楽しいの!
「そ……そうか」
夏京くんが本当の恋愛を知らなくてかわいそうだなんて、わたしの勝手な
わたしだってそんなにすごい恋愛をしたわけじゃない。でも、
こんなにかっこよくていい人なのに、恋愛を知らないまま、高校時代だけじゃなくこれから先の人生も過ごしていくんだろうか?
「もういいよ、この話は。心南に泣かれると、……なんかこのへんが変にざわざわしてくる」
夏京くんは自分の胸あたりのシャツを片手で触った。
気がつくと夏京くんの自転車はもう目の前にあった。
夏京くんが自転車をひき、わたしはその
水面のオレンジはすっかり
夏の香り、夏京くんの香りだった。
夏恋シンフォニー こじらせヒーローと恋のはじめかた くらゆいあゆ/角川ビーンズ文庫 @beans
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