2 夏の門、くぐった先に遊園地

「昇太ぁ! グローブ持った? パパに買ってもらったバットは?」

「持ったよ。つか姉ちゃんがなんでついてくんのさ」

「だって心配だもん」

 あれから一週間後の日曜日。快晴午後二時。約束どおり夏京くんはせんしきで昇太に野球を教えてくれることになっている。

 運動神経はある程度きたえられる、スポーツテストの結果から見るにポテンシャルはある、生活を見直せと昇太はしつげきれいされ、その気になっていた。ちなみにわたしは、〝昇太筋トレメニュー〟なるメモを学校で夏京くんからわたされ、こまごまとやり方の指導も受け、完全に昇太との橋渡し役として使われている。

 夏京くんはわたしのクラスを、自分のクラスのテニス部の女の子に聞いたらしく、いつしゆんさわぎになったらしい。夏京くんのファンっぽい子もいてめんどうだから、弟の野球のコーチになったことはだまっていた。

 そしてわたしの持ち帰った〝昇太筋トレメニュー〟にそって昇太は毎日、筋トレをがんばっていた。

「あー、陸哉兄ちゃんいたいたー」

 どうせあせをかくからか、部活のジャージのままの夏京くんを見つけると昇太は走り出した。短期間でよくここまでなついちゃうもんだな、と感心する。夏京くんのキャラのせいか、〝自分の危機を救ってくれた師〟ってふんじゃなく、近所の仲良し兄ちゃん、まさしく〝陸哉兄ちゃん〟と昇太はしたっている。

「昇太、ちゃんと俺の指示通り筋トレやったかー?」

「やったよー。でもまだできないのもある」

きずに毎日やれよ? 身体能力はいつちよういつせきにはあがんないからな!」

「はーい」

 めっちゃ手なずけている、と感心しながらわたしはていぼうとして河川敷より小高くなっている遊歩道の、ちょっと手前にこしを下ろした。シロツメクサがいっぱいにいている緑のじゆうたんだった。

 空には入道雲。はるか下の河川敷で、弟と夏京くんがキャッチボールをやっている。のどかだなあ。

 家族の前で、心配をかけまいとがおの仮面をり付けていた少し前までの昇太を思うと、今はとても幸せで、夏京くんに感謝してもしたりない。

 昇太は以前のグループからはなれて、今は北村くんとつるんでいることが多いと聞いた。北村くんといつしよに地元野球チームに入ることも決定した。

 北村くんはクラスの中で、だれとでも仲良くするけど、どこともがっつりつるまないいつぴきおおかみみたいな子らしい。クラスを仕切る大きなグループに思うところがあって、あえてそうしているようなことを昇太が言っていた。

 ある意味そういう子が精神的に一番強いと思う。そういう子が昇太と仲良くしてくれるのはうれしい。

 昇太のクラスで、一番権力を持っている男子グループは人数も多い。昇太がけたことで、ほかの子が同じき目にあっていると昇太からちらっと聞いた。びっくりしてそのことを夏京くんに言ったら、男子は厳しい時はガチで厳しいし、えげつないぞ、と言われた。昇太には、今自分にできることをやってほしい、とも告げられた。

 つうであることが幸せ。あたりまえの日常こそが幸せなんだと気づけてよかった。

 せまい教室で生きていかなければならない十数年は、誰にとっても等しく厳しい。今いるグループから離れたほうが楽ならば、離れる勇気を持ってほしいと思う。

 わたしは幸いなことに今の女子グループにめぐまれている。でもクラスえだってあるし、これから先、今回の昇太のような事態におちいる可能性がないわけじゃない。その時は、昇太と、それから夏京くんに教えられた勇気をきしめていたい。

 そういえば、昇太のお金は簡単にもどってきた。夏京くんがついていてくれたこともあるだろうけど、昇太が報復をおそれずに警察に届ける判断をしてくれたからだ。昇太の大きな成長のあかしのようでとても嬉しい。

 わたしの眼下の河川敷には、いくつも野球場やバスケコート、サッカーコートが作られている。

 夏京くんが選んだのは一番ぼろっちくて狭い古い野球場だ。ここで試合が行われることはまずない。

 キャッチボールの終わった二人はそこでノックの練習をしている。

「なんでもできちゃうんだなあ」

 まずグローブでボールをキャッチすることを覚えさせたいのか、昇太の取りやすいところばかりをねらって、片手で上げたボールをバットでたたく。ちゃんと夏京くんが読んだどうの通りボールは飛んでいるような気がする。

 わたしのところまで何度もきゆうけいしに戻ってきては、水分補給してからまたグラウンドにけていく。あたりが暗くなりはじめ、ようやく二人は野球をおしまいにした。

「昇太、筋がいいよな。初日でここまで上達するとは思わなかったわ」

「陸哉兄ちゃんほんとっ?」

「ほんとほんと」

「昨日、きったーと一緒に初めて由良レッドソックスの練習行った」

「楽しかったか? みんなと仲良くなれそうか?」

「うん。他の小学校の子が多い。でもうちの小学校の同じ学年に、きったーの他に二人いて、その二人とは仲良くなった」

 兄弟みたいな会話をしながら歩く夏京くんと昇太を、後ろからながめていた。自分の練習の後だっていうのに、つかれも見せない夏京くん。

 不思議だな。ほんの数日前までは、美月が夏京くんの彼女に立候補しようとしていたのを、論外だと、一日無口になるほどなやんで止めようとしていたのがうそみたいだ。

 彼女が十人以上もいたかもしれない、ってただのうわさなんじゃないだろうか。そんないい加減な人には見えない。今なら美月が「夏京くん、もしかしてイケるかも、がんばりたい」と言い出したらなおおうえんするよ。

 うちのもんを昇太が開けたところで夏京くんが、あっと声をあげた。

「どうしたの?」

「俺、自転車で河原まで来たんじゃん」

「え! そうなんだ」

「戻って自転車取ってから帰る。そんじゃーな、昇太、来週まで筋トレサボるなよ? サボったらそこで指導打ち切りだからな」

 うわー。そんな条件出したら昇太は絶対にサボらない。

「ちゃんとやる!」

 そこで夏京くんがわたしたちから身をひるがえそうとした。

「待って! わたしも一緒に行く」

 思わず夏京くんに声をかけていた。

「俺も行く」

 昇太もわたしに続く。

「俺の自転車ごときでぞろぞろついてくんな。ここまで戻ってくんのがちようめんどい」

「陸哉兄ちゃんが勝手に来たんじゃーん」

「荷物重そうだったからな。てかなんで自転車のこと忘れてたんだろ。運ぶのだって楽だったのに。昇太はまだ小学生なんだから帰って宿題やれ、宿題」

「わたしは高校生だから平気」

「だーかーら。心南のことも送るのがめんどいって。もうだんだん暗くなるだろ?」

 今の季節は一番日が長い。

 わたしは夏京くんと、昇太のいないところで話がしたかった。

 そこでわたしと夏京くんがちょっと言い争いっぽくなっていたら、ななめ向かいの家のとびらが開いた。それほど大きな音でもなかったのに、長年つちかわれた反射とはこわいもので、わたしの視線はしゆんかんそっちに移動した。身体が固まる。

 しんに感じたらしい夏京くんはかたしにり返った。

 腰までの高さの小さな門扉をあけ、すずしろくるが外に出てきた。ノーブランドのTシャツに短パンという男子としてはラフなスタイルだから、コンビニか友だちの家にでも行くんだろう。

 同じカジュアルでも、来栖がデートに出かける時の服装はわかってしまうのだ。ちがっても今身に着けているような、数年着続けたようなノーブランドのTシャツは選ばない。

 一瞬今、来栖とたいするのはいやだな、と考えてしまった。

「心南、行こうぜ」

「はい?」

 さっきまでの断固きよぜつはなんですか?

「ついてきてくれるんだろ?」

「うん……」

 お礼をちゃんと言っておきたかった、いろいろ。この一週間、昇太が筋トレをがんばっていたことも、夏京くんのおかげで、たぶん傷が浅いうちに今いるグループを抜けられたことも、報告しておきたかった。

「行こうぜ」

 夏京くんがわたしの肩のあたりの服を引っ張った。今出たくないなんてしりみしている場合じゃない。わたしはかくを決めて自宅前の道路に出た。

「心南……」

 目の前で来栖が棒立ちになってどんぐりまなこをわたしたちに向けている。男っ気なんかまったくなかったわたしが、かなりのイケメンと二人。場所は自宅前。つき合っている、と判断するのが普通だろう。

「同じ学校の夏京陸哉くん。わけあって昇太に野球を教えてくれてるの」

「…………」

「…………」

 どっちも口を開かないからみようふんが三人の間に満ちる。

「夏京陸哉でぇす。よろしくね」

 不自然に思えるほど長い数秒の後、間のけたしようかいの言葉を口にしたのは夏京くんが先だった。

「あ、ああ……。えーと僕は、心南の同級生で……鈴代来栖」

「昇太にせんしきで野球教えてて忘れ物しちゃったんだよね。そんじゃね来栖くん」

 夏京くんはわたしを連れて来栖の前を歩き出した。

 めっちゃ嫌だ、このシチュエーション。そう思ってかすかに振り向いたら、来栖は逆方面に歩き出していた。よかった、と胸をなでおろす。

 わたしが来栖をチラ見して前に向きなおったのに、夏京くんはまだ後ろを気にして身体からだが斜めにかたむいているような状態だった。

「夏京くん」

 わたしの呼びかけにこっちを向いた夏京くんは、にやりと笑った。

「心南、今のヤツのこと、好きだろ」

 なんでわかるんだよぉー。

「別に」

「たらたらしてねえで、自分から言っちゃえよ」

「そういうんじゃないの! だいたい来栖には……彼女が、できたんだよ、最近」

「マジ?」

「マジマジ」

 おどろいた後、どこかに落ちない表情になっていた夏京くんだけど、すぐにそのことも忘れたらしく、話題は最近のサッカー部での話に移っていった。

 河川敷の上の土手を並んで歩く。初夏の空に夜の始まりを告げる星、金星がまたたきはじめていた。川面かわもが落ちていく日を受け、オレンジ色にきらめいている。さざ波によってきらきらと姿を変える川面はきよだいな宝石箱だ。

「夕方のここの景色って天下一品だよね」

「そうだな」

 夏京くんの返事が上の空のような気がして、斜め上にあるオレンジの日を受けた横顔を思わずのぞき込んだ。

「どうしたの? あっ。自転車ってあれ?」

「そうだけど……。あいつさぁ、やっぱ心南に気があると思うな」

 一瞬だれのことだかわからなかった。

「え? あいつって、来栖のこと?」

「そうそう。そんなスカした名前だった。だけどイケメンで似合ってんじゃねーの? そういう名前。今どきその程度じゃキラキラネームとは呼ばねえもんな」

「はあ」

 なぜ今また来栖の話をぶり返す。

「俺たちがこっち来たらわざわざ反対方向に歩いていくしよ」

「単に反対方向に用事があったんでしょ?」

「ちがうだろー。でも、ま。彼女ができたってことは心南のことも好きだったけど、そっちのほうがよくなっちゃったのかなー」

「いや……。来栖ってそんな軽い性格じゃないよ。今の彼女のことは……きっとずっと心に引っかかってたんだよ」

 来栖が今、つき合っている子の話をすることが、めちゃくちゃ複雑だった。

「じゃ、うーん。引っかかる程度だったその子から告白されたんじゃね? かわいいって思ってる子から告白されたら、そりゃぐらっときてつき合うことになるよなあ」

「だから! 来栖はかわいいって思ってる程度の子から告白されたって簡単につき合うほどチャラくはないって」

「え! それチャラくないでしょ? かわいいって思ってるイコール好きってことなんじゃないの?」

「えっ?」

「えっ? って、えっ?」

「どゆこと……」

 男子ってそんなに簡単? いやいやいや。少なくとも来栖はそんなにチョロい男子ではない。それは小学六年でここにしてきた時からのつき合いのわたしがよく知っている。

「いや、男なんてそんなもんだろ。てか女子だってそんなもんだろ? ファンです、とかうわづかいで近づいてくる、の俺のことなんかぜんぜん知らねえやつが、がんがんアピールしてくっからな」

「そ……そうなの?」

「そうだよ。もうれつにアピールしてきて、こっちもわりとタイプだなー、とか思ってつき合うとすぐきられちゃったり。あっ、こんなのもあったぞ。俺がレギュラーの座から落ちて友だちが上がると、そっちとつき合い始めたやつもいた」

「なんだそれ!」

 夏京くんが、このねんれいにして、十人以上の女の子とつき合ってきたことがのうをよぎった。

「そんなもんだろ」

「そんなもんじゃないよ!」

 最初はどんなチャラ男だよ、と敬遠しまくりだったけど、素の夏京くんはぜんぜんそんな子じゃなかったのだ。それはわたしと昇太を中学生から助けてくれただけじゃなく、その後のフォローまで申し出てくれていることからもはっきりわかる。

 でも、なんだか今の話で少しだけ腑に落ちるところがあった。

 夏京くんにとっての好きって感情は、アイドルに向ける「かわいい」とさしてちがいはない。いや、男子が女の子のことをかわいいと思う時に「好き」の感情が多分にふくまれていることはなんとなくわかる。

 小学校低学年男子の「かわいいから好き」は、実のところ「好きだからかわいい」も含んでいるんだと、自分で気づいていない部分があるんじゃないかと推測しちゃうのだ。もちろんそこから年齢が上がるにしたがって「好き」は性格面もろもろからみ、複雑化していく。

〝女子だってそんなもん〟と、夏京くんの口からあっけらかんと悪気なく放たれたその言葉に、なんとも言えないやるせない感情がうずく。

 夏京くんは全国レベルのサッカー部に中等部からいて、たぶんその前だってめちゃくちゃ注目される選手だったのだ。異性に対して同性とは違う感情を持つ年齢になったころには、夏京くんのまわりをサッカーファンが取り巻いていた。

 試合を遠巻きにしか見ていないのに、夏京くんを知ったつもりになって告白までしてくる子が多かった。夏京くんはそういうものをれんあいだとかんちがいしたまま、この年齢まできてしまった? 小学校低学年の「かわいいから好き」で止まっている?

「夏京くん……」

「なに?」

「い、一度つき合うと……どのくらい続く?」

「んー、三か月がいいとこじゃね?」

「わか、別れる時って、どういうふうに別れるの?」

 どうしてわたし、こんなに言葉が出にくいんだろう。夏京くんの恋愛の感覚について考えはじめてから、心の温度がありえないほど下がってしまい、うまく言葉がつむげない。こんなことは初めてだ。

「だいたい俺がられるな。サッカーばっかやってるからおもしろくないみたいでさ。あと俺自身も、たまの休みってなると、彼女といるよりろう同士でつるんでるほうが楽しくって、ついそっちを優先しちゃったりするしな」

「じゃ、別れて、去って行かれて……さびしいとか、悲しいとかは……」

「ねえよ、そんなの。いそがしくってそれどころじゃない」

「一度もそういう感覚になったことはない?」

「おう」

「…………」

「どうした、心南」

「…………」

 わたしは土手で完全に足を止めていた。先を歩いていく夏京くんとの間にきよが空き、それに気づいた彼が振り向き、思わず声を出す。

「えっ?」

 わたしの表情を見て疑問の声をあげる夏京くんの顔が、オレンジ色に染まってとてもきれいだ。

「えっ? ってなに?」

 おどろく夏京くんにわたしが驚く。どうしてわたしの顔を見てそんなにびっくりしているの?

「なんで泣いてんの、心南」

 そう夏京くんが聞いてきた時に、たまたまとつぷういた。わたしの視界の先を、とうめいつぶがいくつも風にって流れていく。

「えっ?」

 なに? 今の……。わたしはあわてて自分の左右のほおを手でこうさわり、確かめた。れていた。どしゃぶりの雨でも降ったあとのように、両方の頬がびしょびしょだった。

 そうか。わたしは、こんなにいい人なのに、小さい頃からさわがれ過ぎたせいか、つうとは言いがたい恋愛観が構築されてしまった夏京くんが、悲しいのだ。

「なんだよ心南、どうしたんだよ」

 夏京くんはわたしのところまでもどってきた。ほら、君はこんなにやさしいのに。

「夏京くん、それは恋愛じゃないよ。去って行かれてもなんにも感じないなんて、そんなの恋愛じゃない」

「え、心南それで泣いたの? 俺の今までのつき合いが恋愛じゃないと思って」

「わかんない。泣いてたなんて気がつかなかった」

「それはそんな、泣かれるほどのことなん?」

 夏京くんはわたしの話をたいしたことのない内容だと判断したのか、また歩き始めた。わたしもその後ろ姿を見ながらとぼとぼと歩を進める。

「だってもったいないよ。夏京くん、こんなにてきな人なのに。人生に一回しかない高校時代なのに、ほんとの恋愛を知らないままその時間が過ぎていっちゃうなんて」

「……でも楽しいし」

「女の子といるのが? 彼女といるのが?」

「いや、男同士で群れてんのが! それだって人生に一回しかない高校時代だし立派な青春だろ? 今はサッカーが一番大事だしその仲間といるのが楽しいの! じゆうじつしてんの!」

「そ……そうか」

 夏京くんが本当の恋愛を知らなくてかわいそうだなんて、わたしの勝手なへんけんなのかもしれない。

 わたしだってそんなにすごい恋愛をしたわけじゃない。でも、だれかをおもう気持ちで毎日がかがやくことを知っている。

 こんなにかっこよくていい人なのに、恋愛を知らないまま、高校時代だけじゃなくこれから先の人生も過ごしていくんだろうか?

「もういいよ、この話は。心南に泣かれると、……なんかこのへんが変にざわざわしてくる」

 夏京くんは自分の胸あたりのシャツを片手で触った。

 気がつくと夏京くんの自転車はもう目の前にあった。

 夏京くんが自転車をひき、わたしはそのとなりを歩く。

 水面のオレンジはすっかりかげをひそめ、夜のとばりが下りている。川面かわもからの風が吹きわたり、いつしゆん、熱帯雨林を思わせるい緑のかおりがこうをくすぐる。

 夏の香り、夏京くんの香りだった。

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夏恋シンフォニー こじらせヒーローと恋のはじめかた くらゆいあゆ/角川ビーンズ文庫 @beans

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