第十七話 お祭り気分 家族愛 変わらぬ愛 勇気 旅立ち
ガーフはゆっくりとベルタに近寄った。
木板がきしみ、ギーギ音が鳴る。けれど、ベルタは背後に人が立っているなど気付いていないかのようにふるまい、夕日をただ見ていた。
「ベルタ様」
ガーフがベルタの背中に呼び掛けた。
けれど反応はない。
乱れることのない同じリズムを刻んでロッキングチェアが、小さく揺れている。
「旦那様が還ってきましたよ」
ロッキングチェアの揺れが止まった。
ベルタがガーフの話に反応を示すのは、はじめてのことだった。
緊張の面持ちで、皆は見守っている。
ダスティーたちにはすでに、すべてを話した。後はベルタに話すだけだった。
「旦那様はベルタ様の下に還ってきたのです。けれど……出会うことは叶いませんでした……」
ガーフの表情は陰になり、悲痛な顔が強調された。
「旅立たれました」
ガーフの沈んだ声が、告げた。
ベルタは反応を示さない。
けれど、話を聞いているということはわかる。
「もう、待たなくてよい、と」
ガーフはベルタのとなりにいき、彼女を俯瞰する。
握りしめていた手をほどき、ガーフのそれを彼女の手に握らせた。しわがれて、ひんやりと冷たい手の平だった。ベルタは夕日を見つめたまま、黄昏るように、夕日を眺める。
けれど確かに伝わっていることはわかった。
彼女は泣いていた。彼女にどのような心境の変化が起きたのかはわからない。彼女がずっと待ち続けた人を想い、泣いていることだけはわかった。
両目から流れ出た涙が頬の皺を伝い、顎に集う。別々の眼から流れ出た涙が、一つになって手のひらに落ちた。金属性の指輪が、涙と夕日によって宝石のような光を発する。
「あの人は――還って――きたのですね――」
確かに彼女が言葉を発した。
ただこのとき、一瞬だけ、すべての記憶を失っていたはずの彼女は記憶を取り戻していた。奇跡が起きた。
「はい。彼もあなたと再び再会することを望んでいました。けれど、その夢は叶いせんでした――」
「そうですか――。彼は還ってきたのですね」
彼から託された言葉を伝える。
「約束を守れなくて、ごめんなさい、と。言っておりました」
ベルタは、「そうですか」と夕日を見つめる。
けれどもう二度と離さないとするように、指輪に手の平を添えていた。
ガーフはペチュニアから話を聞いた。
ベルタが四十年ずっと、彼の還りを待っているのだと。彼が戦争に行ってしまったのは、ペチュニアが産まれて間もない頃だったという。自分が眠っているときに、召集を告げるラッパの音が村に轟いたのだと。
ベルタが唱えていたおまじないは、彼から教えてもらったものだ。それ以来、ベルタは辛いことや悲しいことがあると口ずさんだ。
幸せを呼び、魔を祓うおまじない、を。
彼女は何十年も待ち続けた。
戦争が終わり生還した人たちを見ながら、彼を待ち続けた。
ペチュニアはそんな母の姿を見てきた――。
♠
ランタンが空を舞っている。
戦争で亡くなった者たちの想いを乗せて、ランタンは夜空をどこまでも飛んでいく。淡い橙色の灯が、夜空を幻想的に染め上げた。
「とても綺麗ですね」
魅せられたようにガーフは空を眺めた。
ブルー誇らしそうに、微笑んだ。
「ああ、綺麗だろ」
村の人々は亡くなった者を弔うために、毎年欠かさずランタンを飛ばしていた。丘の上の墓標を通り過ぎ、森を抜け、ランタンの灯が死者の魂を導く。
もう二度と彼のような人が生み出されないように、戦争の悲惨さを忘れないために、人々は灯と共に心に刻む。生者は弔い、死者は逝く。
♠
祭りの興奮が冷めやらぬ、数日後ガーフの旅立ちの日々がやって来た。長い旅の中で、これほどまでによくしてもらったことはない。
旅立ちの日を告げたとき、誰もが心から悲しんでくれた。
このまま、一緒に暮らそう、とブルーが言った。
ガーフはその言葉を噛みしめながら、首をふる。
「ありがとうございます。けれど、これ以上お世話になるわけにはいきません」
「そんなことねえぞ。ガーフさん」
ダスティーの言葉に偽りはない。
「あんたさえよければ、どれだけいてくれても構わない。もし、俺たちの家にいずらいなら、村の奴らに空き家を紹介してもらう。この村にずっといてくれていいんだぜ」
本当に嬉しかった。
今この場で泣いてしまいそうだった。
けれど、泣けば別れが辛くなる。
ガーフは歯を食いしばって、涙をのみ込んだ。
「そのお言葉、私は生涯忘れることはないでしょう。けれど、私は行きます」
ダスティーとペチュニアは顔を見合わせ、お互いにうなずいた。
「ガーフ様、本当にありがとうございました。もし、近くを通りかかったら、いつでも寄ってください」
「ありがとうございます。近くを通りかかったときは、必ず寄らせてもらいます」
ガーフはペチュニアに頭を下げた。
「色々とありがとな。この恩は絶対に忘れない」
「いえ、それはこちらの
ダスティーとペチュニアには、別れを済ませた。
けれど、ブルーは泣きつかんばかりに
「行く当てなんてないんだろ……。だったら、この村で一緒に暮らそうぜ。また、剣を教えてくれよ。まだ全然教えてもらってないよ……」
「ブルー、それ以上ガーフさんを困らせるな」
ダスティーはブルーの眼をしっかりと見て、言い聞かせるようにいった。
「おまえも、男だろ。相手の気持ちもわかってやらなきゃならねえぞ。もう、二度と会えないわけじゃないんだ。気持ちよく送り出してやらねえと、ガーフさんが辛いだろ」
ブルーと同じ目線になって、ダスティーはいった。
ブルーは溢れ出る感情を飲み込むように、口をふくれっ面に閉ざして、うなずいた。
「それでこそ、男だ」
ダスティーに頭を乱暴になでられ、ブルーは首をふる。
「ガーフ……」
「はい」
恥ずかしそうにもぞもぞして、ブルーは頬を染めている。
意を決して、ブルーはいった。
「ガーフ――ありがとう。また、近くを通ったときは、立ち寄ってよ。そのときには、もっと強くなってるから。もう、魔物なんかに負けないくらい強くなってるから。だから、そのときはまた手合わせしてくれよ」
ガーフは微笑み、ブルーの柔らかい麦色の頭をなでた。
ダスティーに乱された髪をとかすように、やさしく。
「はい。そのときが楽しみですね。私も負けないように、日々稽古しなければいけません」
そういったとき、ブルーは聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でいった。他の誰にも聞こえなかっただろうが、ガーフには聞こえた。
「約束だからな――」
その言葉を聞いて、ガーフは微笑んだ。
「はい」
ベルタはいつものように、ロッキングチェアに座り外を眺めている。
「ベルタ様」
あの日、一時的にせよ記憶を取り戻した。
「今までお世話になりました。しばしのお別れです」
彼から託された想いは伝えた。
彼女はきっと、理解した。
これでもう、待たなくていい。彼はちゃんと還ってきたのだから。彼女の心の中に、ちゃんと還ってきたのだから。返事は帰って来ないと思っていた。けれど、ベルタはいった。
「還ってきてくださいね」
その言葉を聞いて、今までこらえていた涙が一筋ガーフの頬を流れる。
「はい。また必ず、還ってきます」
自分にも還る場所ができたのだ。
魔物の子供ということで忌み嫌われ、知らない土地を放浪してきた。母はそんな生活に疲れ果て、旅の途中で力尽き、父は兵士に殺された。
母が生きていれば、どれほど喜んだだろう。
父が生きていたら、このようにやさしい人たちもいるのだと、世界に絶望せずにすんだろう。
皆に見送られ、ガーフは再び旅に出た。
けれど、今回の旅はいつもと違う。
あてのない放浪の旅ではない。
意味のある、還る場所のある、旅だった。
パセリ、セージ、ローズマリーとタイム。
旅立つ人がいる。
還りを待つ人がいる。
それは何と心強く、幸せなことだろう――。
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