第十六話 ローズマリーの花言葉
ブルーはダスティーのゴツゴツした手をつかんだまま、家路を歩いた。
チラチラとダスティーを見ながら、ブルーは訊く。
どうして峠なんて通ったりしたんだ、と。魔物が出ることはダスティーも知っていたはずなのだ。
「話し込んじまっててな、このままじゃ家に着くのが遅れてしまう、と思ったんだ……。だから、峠を通った」
面目なさそうにダスティーは、開いている方の手で頭を掻く。
「峠の降りに差し掛かったときに、どこからともなくラッパの音が聴こえてきたんだ」
やはりダスティーも召集のラッパの音を聴いていたのだ。
「この音はいったいなんだ? と思って辺りを見回してみると、黒いローブを着た人が、イチョウの樹の陰に立っていた。そのときはまだそれが魔物だとは思っていなかった。
魔物って言うのはもっと毛むくじゃらで、怪物的な奴だと想像してたからな」
そう、魔物が怪物的な奴とは限らない、とガーフは心の中で相づちを打つ。
「んで、俺はあんたがラッパを吹いていたのか? って訊いた。すると魔物は訳のわからないことを言いながら、俺に近づいて来た。ゆっくり、空中を浮遊するように滑らかな動きだった。フードの陰で顔は見えなかった。そのときになってやっと、村で騒がれてる魔物だってわかったんだ」
ごくりと固唾を飲み込む音がブルーの喉から漏れ聞こえた。
「それから先の記憶はないんだ。だけど、悪夢を見たときのようなかったるさと、訳のわからない恐怖だけが今もここんところに重い腰を下している――」
ダスティーは自分の左胸を、こぶしで軽く叩いた。
魔物に連れ攫われた人々がどこにいたのかは、ガーフにもわからない。けれど、この世ではない苦しみと、憎しみ、悲しみが渦巻く世界にいたことはダスティーの証言から間違いないと思った。
「ところで」
ブルーは首だけを斜め後ろに回し、影のように斜め後ろを歩くガーフに話を振る。
「はい。何でしょう?」
「その、話を伝えなきゃいけない人って、誰なの?」
ガーフはいたずらっぽく、意味ありげに微笑んだ。
「彼が使っていた剣に見覚えがありませんか」
「彼? 魔物が使っていた剣のこと? あのときは必死で、そんなところにまで観察する余裕なかったよ」
「そうですか。でも、すぐにわかりますよ。帰ってからのお楽しみです」
微笑むガーフに対し、ブルーはほっぺたを膨らませ、いじけるような顔をした。
突然帰ってきた、人々に村の者たちはまず不信感を抱いた。
魔物が化けているのではないかと、心配しているのだ。
けれど、それも一瞬のことで家族たちや友人たちは、数年前に突如消えてしまった仲間たちの帰還を涙しながら喜び合った。
家族や友人たちは、今までどこにいたんだ、と質問をぶつけるがダスティーと同じように誰一人として、自分たちがどこにいたのかを覚えている者はいなかった。
ただ数人はかすかに憶えている者もいた。その人たちが証言するには、たくさんの剣がひび割れた大地に突き刺さる、悲しい世界を彷徨っていたような記憶があると。
ガーフは思った。
きっとその世界は、彼らが体験した戦場なのだろう、と。戦死した兵士たちを弔うかのように、突き刺された剣は墓標の代わりなのだ。そして魔物は戦争がいまだに続いていると思い込み、仲間を集めている。
「オレらも還ろ。早く還って、母ちゃんを喜ばせてあげようよ。きっと、オレが勝手にいなくなっちゃったから、心配しているだろうから……」
ガーフはちょっと意地悪してやりたい気持ちになった。
母親を悲しませた罰を、与えないといけないな、と。
「ペチュニア様はとても怒っておられましたよ。もし、帰ってきたらお尻をぺんぺんすると言っておられました」
ブルーの顔色が瞬く間に蒼くなる。
ゆっくりと方向転換して、駆けだす。
けれど、ダスティーにつかまれていた手を振り切ることができず、ピンっと体が引っ張れた。
「おいおい、母さんを心配させたんだから、当然だろ」
ダスティーは踏ん張るブルーを引き寄せた。
ブルー涙目でダスティーの手から逃れようと、あらがう。
「だ、だったら、父ちゃんの方が尻をぶたれるべきだろっ! オレより父ちゃんの方が、母ちゃんを心配させたじゃないかっ!」
ダスティーの顔色も変わった。
どうやら二人は本当に信じているようだ。
「冗談ですよ。ペチュニア様はお二人の帰りを、待ちわびています」
「冗談……? お尻ぺんぺんするって言うのは、本当に冗談なんだよな……?」
ブルーは間の抜けた顔をしていた。
ダスティーもブルーと同じような表情をする。
やっぱり、親子なんだな、とガーフは思った。
「はい。ブルーくんを懲らしめてやるつもりで言ったのですが、ダスティー様までもが本気にされるとは思いませんでした」
ダスティーは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ははは、ガーフさんは知らないだろうけど、母さんはああ見えて怖いんだぜ」
言い訳をするようにダスティーはいった。
三人はペチュニアの反応を想像しながら、ミラー家に続く道を歩いた。
ペチュニアは外に出て、三人を視界にとらえた。
その手にはハンカチが握られていて、溢れ出る涙をぬぐっている。
ガーフがいなくなってから、ずっと泣いていたのだろうことは容易に想像できた。その証拠に何度も何度も、涙を流し拭いたせいで、顔中が赤く染まっていた。
けれど涙は枯れることなく、ブルーとダスティーの無事を確かめると、喜びとなって溢れ出る。ペチュニアは駆け出し、ダスティーに抱きついた。
ダスティーはふらつきながらも、ペチュニアをその分厚い胸板で受け止めた。
ダスティーの胸に顔をうずめて、ひとしきり泣いた後、ブルーに向き直りペチュニアはその胸に抱きしめた。
「ばか……本当にあなたは……」
ブルーはペチュニアの背中に手を回し、「ごめんよ……」とつぶやく。その声は震えていた。着丈にふるまっていたブルーも、母の胸に抱かれて泣いた。
ガーフは微笑ましくその光景を眺めていたが、まだもう一人、何十年も愛しき人の帰りを待っている人物がいることを忘れてはいない。ガーフは握りしめていた、指輪を見た。
彼は消えた。
四十年以上も彷徨い歩き、愛する人に最期まで逢うことはできなかった。けれど、彼の意志は自分が受け継いだ。彼を本当の意味で解放してやることはできなかったが、彼女ならこの呪縛から救うことができる。
すべてを伝えなければ。
四十年の時を超え、彼から受け継いだ想いを今伝える時が来た――。
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